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専門知識と総合知

2021年02月03日 | 研究
マクルーハンはあらゆる知識を一人の人間の中で統合することを理想としたが、ドラッカーは、それぞれの専門知識を組織の中で統合することの必要性を説いた。ドラッカーの方が現実的、実践的なのは間違いない。マクルーハンには組織のマネジメントの発想はなかった。
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方法(メソッド)

2021年02月01日 | 研究
環境の理解においては、思考と知覚の「方法」が実際の思想の内容よりもはるかに重要である。『メディアの理解』は、まさに分析と知覚のための一揃いのツールである。それは発見の仕事に取りかかるためのものである。それは完結した仕事ではなく、実践利用を意図したものである。
                                  (『The Book of Probes』412)
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形相因(フォーマル・コーズ)

2021年02月01日 | 研究
二人(ドラッカーとマクルーハン)はともに、それまで誰も注意を払わなかった歴史を動かした”真の原因”があることに気づき、それを見ようとしていました。それはアリストテレスが定義した存在の四原因(資料因、形相因、作用因、目的因)で云えば、「形相因(フォーマル・コーズ)」です。その事物・事象がそもそも何であるか、その本質を規定するものです。二人の思想は西洋の人文学的教養に裏打ちされていました。
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『マクルーハン・プレイ』の構成

2021年02月01日 | 研究
第一章 「着想(ひらめき) ― 新しい組み合わせを探す」では、マクルーハンが子供のように「発見」に夢中になっていたこと、その発見の方法が「新しい組み合わせ楽しむ」遊び心にあったことをジェームス・W・ヤングの名著『アイデアのつくり方』と比較しながら考察しました。

第二章 「逆説 ― クールな言葉が想像力をかき立てる」では、マクルーハンの矛盾に満ちた逆説的な言葉や駄洒落(ことば遊び)が、読者の想像力を働かせ、行動に駆り立てていること解説しました。

第三章 「類推(アナロジー) ― 非なるものの中に似(に)を探す」では、彼の独創性は、一見似ていないものの中に類似(アナロジー)を見つけていく詩的な認知方法にあったことを解説しました。

第四章 「譬え話 ― 人を征服しないで納得させる」では、古代ギリシアにおいて「論理」と並んでもう一つの思考法であった「レトリック」は、比喩(譬え)を用いて思考の跳躍を生む創造的な言語技術であることを解説しました。

第五章 「創造 ― 比喩が現実を創る」では、「現実」は隠喩(メタファー)によって創られていること、世界を比喩的に見ていくことが直感のカギであることを解説しました。

第六章 「展開 ― 全体を一挙につかみ形にする」では、問題を部分に分けて分析するのではなく、マクルーハンの残した思考の道具「テトラッド」を使って、全体を一挙に把握すれば、事態の変化を見誤ることなく適切に対処できることを解説しました。特に、企業経営者が陥り易い「マーケティング・マイオピア(近視眼)」から逃れるためのツールとして「テトラッド」が有効に活用できることを事例を交えて紹介しました。


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マクルーハンの「いま」へのこだわり

2021年01月29日 | 研究
マクルーハンの常套句、「自分は未来を予言しているのではない、現在(いま)を観察しているだけだ」や「未来の未来は現在(いま)である」などの言葉、あるいは経営コンサルタントのバリトン・ネヴィットとの共著のタイトル『Take Today – the executive as dropout(今日(いま)をつかめ-- 落伍者としての経営幹部)』(一九七二年)からも、彼の「いま」へのこだわりが分かります。マクルーハンは、ドラッカー同様、「いま」に「すでに起こった未来」を見ようとしていました。

                                   『マクルーハン・プレイ』
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ロジックとレトリックとメディア論

2021年01月29日 | 研究
三木清が言うように、ロジックとレトリックが一体であった時代に、すなわち知識と知恵が一体であった時代に戻らなければならない、というのがマクルーハンの「メディア論」の根幹にありました。

                                    『マクルーハン・プレイ』
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レトリック思考

2021年01月29日 | 研究
レトリックは言語に関する学であるが、言語と思考とが一つのもの或いは不可分のものである限り、レトリックもまた思考の学の一種と見られてよい筈である。

                                   三木清『哲学ノート』
                                                                                                                                       




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フォーダム大学

2021年01月29日 | 研究
一九九八年には、マクルーハンが六十年代末に客員教授を務めたニューヨークのフォーダム大学で、欧米から集まったマクルーハン研究者が一人十五分で二日間にわたってマクルーハンについてスピーチするという慌ただしいシンポジウムが開かれたこともありました。まるでアップルの新製品発表会のような熱気にあふれたシンポジウムでした。
   
                                   『マクルーハン・プレイ』
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地球村

2021年01月29日 | 研究
部族的な地球村(グローバル・ヴィレッジ)は、どんなナショナリズムがかつてあったよりも、根本において、はるかに多様で争いに満ちている。"ヴィレッジ"は「分裂(フィッション)」であって「融合(フュージョン)」ではない。                                                                                                                                                                                                                                      マクルーハン "hot&cool"
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ドラッカーとマクルーハンの出会い

2021年01月28日 | 研究
彼(マクルーハン)は、いつも自分の考えていることだけに夢中になっていたものの、楽しい客だった。しかし、二十年以上に及ぶ付き合いの中で、一度たりとも、私が何をしているのかを尋ねたこともなければ、私の説明を聞いたこともなかったと思う。彼もまた、彼自身のことについては一度も話したことはなかった。いつも、彼は考えていることについて話した。いつも、妙なことばかり考えていた。彼は実によくわが家に立ち寄った。ほとんどあるいはまったく予告なしに、訪ねてきた。そして、ある夏の嵐と雷の真夜中の一時、彼はニュージャージーの私たちの家の呼び鈴を鳴らした。びしょ濡れの彼がにこにこ立っていた。

『傍観者の時代』には、ドラッカーとマクルーハンの出会いとその後の交際の様子がドラッカー独特の筆致で描かれています。
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電気のソフトウェア

2019年10月07日 | 研究
プラトンが攻撃した古い権威は、前文字文化のソフトウェアであった。それは口誦的で共同体的な、ほとんどショービジネスであった。ローマと中世の教育はもっとハードウェア、すなわち書記と紙とパーチメントに依存していた。それはまた、人の移動とこれらの素材の輸送にも頼っていた。プラトンとアリストテレスは、彼らの大学を固定して動かない都市国家の観念の上に発展させた。ローマ及び中世の理想はもっと移動的で連邦的だった。今日、新しい電気的ソフトウェアの到来にともない、時間と空間は情報へのアクセスに関する限り消滅した。我々は世界中のいつの時代のことであれ、どこの場所のことであれ学ぶことができる。さらに、ソフトウェアはポスト識字の傾向がある。電気的映像(エレクトリック・イメージ)は、印刷されたハードウェアに簡単に取って代わる。こうした映像の即時的な性格は、教育における目標志向を破壊する。個人的キャリアのための専門主義と個人的な方向付けは、即座にその妥当性を失い、現行の教育及び商業機構に参加している全ての人の理想と活力を混乱させる。 

(トロント大学マクルーハン・アーカイブ資料から) 
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インゲニウム

2019年10月07日 | 研究
スティーブ・ジョブスは、「アップルはいつも、テクノロジーとリベラルアーツの交差点に立とうとしていた」、「創造性とは、いろいろものをつなぐ力だ」と言ったが、これはヴィーコがインゲニウムと呼んだ「異種のものを関連づける知性の能力」である。
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専門家(スペシャリスト)

2019年10月07日 | 研究
マクルーハンは、「専門家(スペシャリスト)というものは、小さな誤りは決して犯さないが、すごい誤りに向かって進んでいくものである」と皮肉った。P.ドラッカーも、「専門化は、今後ますます知識を獲得するうえでかえって障害となっていく。知識を有益なものとするうえでは、さらに大きな障害になっていく」と言った。学校のカリキュラムに馴染めず大学を二度も退学したバックミンスター・フラーは、「専門分化とは、聡明な若者に生涯続く奴隷状態を受け入れさせるために考案されたものである」とまで言っている。晩年、経済史から文明史に転じたH.A.イニスも、学習における専門化、細分化に一貫して反対していた。
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感覚間の比率均衡

2019年10月06日 | 研究
少なくとも〔将来の〕非文字型時代においては、すべての感覚の間に比率均衡が保たれることになろう。

『グーテンベルクの銀河系』
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トピカ

2019年10月06日 | 研究
ヴィーコもまた、若者を豊かな叡智へと導くためには、トピカ(論点の発見)の教育が論理学的クリティカ(批判的判断)に先立たねばならないと主張したが、トピカとは常識(コモン・センス)を基盤としたレトリックの知であった。
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