祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第5回(渡米に要するパッスポートの出願)

2011-10-26 10:29:43 | 日記
4.渡米に要するパッスポートの出願 


 前述したように、当時はアメリカが日本人移民労働者の入国を制限していなかったので、渡航を希望するものの資格と条件が整っておれば、免許状を下付してくれたのである。 
 いよいよアメリカに入国できるパッスポートの書類を取り寄せて、出願の手続きを兄に頼んだ。私は学問の勉強に行くのが目的だから、「法律」の勉強と記入してくれたが、留学となると、在米中学資として毎月何々円を給付するという項目があるので、一時ためらったが、何円と記入してくれた。これは単なる手続き上の問題で、私はもとより自活して勉強する覚悟だったから、全然そんな金は当てにしないし、また送金してくれることなどあり得ないからだ。
 また、保証人が一名必要と書いてあるので、これは誰にしようかと母にも相談した所、保証人の資格として、財産、税額何々円以上を要求してあるので、母の実家である千代村のT栄蔵に依頼したらということになった。  
 私は飯田から三里もあるT家へ行って叔父に保証人になってくれるよう頼んだが、中々承知してくれず、アメリカへ行くことを極力反対して、「何を好んでアメリカなどへ行くのか、若い者が異国で言葉も十分解らないようなお前が、働いて学校へ行くなどとの考えは全く無暴なやり方だ。それだけの覚悟があれば日本でも成功できる。兄は厄介者が一人減る位にしか思っていない。わしが飯田へ行ってよく相談してやる。もう一度考え直せ」と言って、中々承知してくれなかったが、遂に私の決意の強さに負けたか、書類に署名して捺印してくれた。これで書類の記載事項は全部整ったので安心した。同夜お前がアメリカに行ってしまえば、何時又合えるかも分からないからと、「五平餅」を作って歓待してくれた。 
 このように書類ができあがったので、二月の下旬外務省へ出願した。
 詳三郎はもう既に上京して、私のパッスポートの下りるのを待っていた。彼は下り次第渡米したいと、私のところへ手紙をよこして、「先ず三月一日に上京せよ、そして渡米の準備をしなければならないから」と督促してきた。


第4回(渡米の機会が到来)

2011-10-25 18:33:22 | 日記
3.渡米の機会が到来 

 
 明治三十七年二月、日露戦争が始まって間もなく、私の父の生家K家も当主一郎の永年の放蕩と、家業を疎んじたためと、親類たちの借金の受判などで、「座して食えば山をも尽きる」諺の如く、遂に倒産してしまった。  
 私の父が存命中は度々一郎を諌めて家業に精励するよう勧めたが、全く馬耳東風で、三人の弟の内詳三郎は中学卒業後単身渡米してしまった。四男の謹四郎は中学にも学ばず、私の所へ店員として住み込んで、鹿爪らしく勤めていたが、或日集金した何百円かの大金を持ち逃げして姿をくらましてしまった。父は驚いたが別に追手も差し向けずそのままにしてしまった。彼はこの金で渡米してしまった。五男の康五郎はこれまた飯田の店の小僧奉公をしていたが、後上京して消息不通になっていた。
 私が渡米の準備のため上京して、麹町の下宿屋にいた時突然康五郎の訪問をうけて吃驚した。聞くところによると、今本郷で人力車夫をしているとの話で気毒になり、金五円を恵んでやったら喜んで帰っていった。
 嘗ては飯田の名家として繁えたK家も家産は傾き、兄弟は離散して、全く見る影もない状態となってしまった。私はこれは人ごとではなく、私の家でも十分に注意して、他人の借金の受判など引受けると、これは大変なことになって、K家の徹を踏むことになりかねないと心配した。
 二月の中旬になって、K家は家財を競売することになった。私は兄に伴われて競売品の整理を手伝ったりした。家の座敷に所狭く積み重ねられた色々の道具類や調度品などを見て驚いた。昔は今と違って冠婚葬祭などの儀式は、皆自分の家でやったので、こんなに沢山の道具類が必要だったのであろう。私の家の土蔵の中にもこういう品物が沢山入れてあったが、さすがは白木屋だと感心した。
 兄は競売の席に立会ったが、売り手の方に廻っていたので落札はしなかったようであった。この競売の中心はなんといっても家宝の巻軸であった。円山応挙のものや谷文晁や今尾景年などの沢山の名画の巻物が、次々と安く競られて買主に落札されて行くのを見て、破産の末路は憐れなものだとしみじみ痛感した。
 この競売が終わって数日後に一郎の弟でアメリカに行っていたK詳三郎がひょっこり帰朝して、実家に戻ってきた。彼は渡米後スクールボーイやクックなどをして、自活しながら勉強をしてハイスクールまで進学したが中途退学して、今は学資を作るためにサンフランシスコの法律家の家で家内労働をしているとのことであった。彼が突如帰国したのは、兄が零落して破産してしまったという悲報を聞いて急遽戻ったのであったが、今はどうすることもできなかった。
 詳三郎が帰ったというので、私は非常に喜んだ。その晩兄が帰国の喜びを述べるため、K家に挨拶に行ったが、その席上、色々珍しいアメリカの話を聞いて来て、母にも話して興じ合っていた。 
 翌晩私は彼を訪れたが、見るからに立派な紳士となって、若いハイカラのアメリカ風のゼントルマンとなっていた。
私がアメリカに渡航して、向こうで勉強したいというと、彼は大いに賛成してくれて、英語まじりで「That is very good idea(それはまことに良い思いつきだ)」などと言って私を励ましてくれたりした。
 私は自分の境遇などを話して、再度渡米するときには一緒に連れて行ってくれと懇願した。彼は若し兄が快く君の願いを許すならば、「Very well.(よろしい) I shall go with you.(君と一緒に行きましょう)」と承諾してくれたので、彼の親切な厚意を謝して、始めてシェークハンド(shake hand)を交わして辞去した。
 彼から聞いたアメリカでの学僕生活や語学の勉強方法などは、やろうと思えば自分でもできないことはなかろうと勇気が百倍した。 
 翌日詳三郎は私の家に来てくれ、兄に私が渡米して、あちらで勉強したい希望があるから、一つ思いきってやって見る気はないですかと相談してくれた。
いつものように兄は目は閉じてじっと考え込んでいたが、「渡米費は幾ら位かかるのですか」と心配そうに聞いた。詳三郎は「幾らといっても限りはないが、先ずは三百円位は用意しなければならないでしょう。洋服や見回り品の買入、渡航の際の“見せ金”米価最低四十ドル(邦貨で八十円)、その他船賃三等で七十円位で合計約二百五十円は是非とも出してもらわねばならないでしょう。」と頼んでくれた。
 今時二百五十円だというと、洋食一皿の値段だが、当時としては実に大金で、相当の資産家でなければ到底調達できない金額だった。なにせ、大学でのサラリーマンの初任給が二十四円位だったから。
 兄は一時ためらったが、「貴方が一緒に連れて行って下さるなら、思い切って出しましょう」と承諾してくれた。母も非常に喜んで、「三郎はミヤマシイ(飯田の方言でよく働く人)から安心してやれる、きっとやってくるだろう」と励ましてくれた。
 斯くして、私の積年の希望がかなったのである。すると、詳三郎は一週間で上京するが、この間でも英語の勉強に来たら良いと勧めてくれたので行くことにした。 
 私はスタンレーのアフリカ探検記(Stanlay’s African Expedition)を教わったが、流石はアメリカの本場で勉強しただけあって、流暢な英語で発音やイントネーション(intonation音の抑揚)もすばらしく、自分も早くアメリカに行って勉強して見たいと思った。彼はフレンチ.レボルーション(French Revolution‐作家は忘れた)の本を見せて、今読んでいるといっていた。 
 彼は上京する前に、兄に早速旅行のパッスポート(passport)の出願をするように頼んでくれた。


円山応挙とは、江戸中期の画家。近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色である。

谷文晁とは、江戸時代後期の日本画家。その画業は上方の円山応挙、狩野探幽とともに「徳川時代の三大家」に数えられる。

今尾景年とは、明治大正期の日本画家。



 

第3回(渡米を促進した家庭の事情)

2011-10-24 08:30:07 | 日記
2.渡米を促進した家庭の事情 


 私は長野県下伊那郡の飯田町の伝馬町(今の飯田市)で生まれた。父は同じ町内に住んでいたK家の四男で秀四郎といった。K家は飯田の名家で庄家を勤めていたが、父の兄の純一郎の時代には白木屋という家号で、足袋の卸小売商を営んでいたが、町きっての資産家であった(純一郎は県会議員にもなった)。
 私の母は同郡千代村のT十郎の二女で、沢山の子供を養育したが、私は三男として生まれた(二男は早死に)。 
 父は勤勉力行の人で、商才に長け、商機を逸せざるの才知もあり、豪胆にして、しかも寛大、従って金儲けも上手で、手広く綿糸太物商の卸小売業を営んで巨万の富を作った人であった。 
 それであるから父の存命中は何一つ不自由な生活を送ったことがなく、楽しく中学校の生活を楽しむことができた。私の兄は全国でも有名だった小林有也校長のいた松本中学校に遊学していた。
 ところが、父は私が中学三年の頃、呼吸器病に罹って病床につくようになった。家内の伝染を恐れて、飯田金光教会の境内に療養所を建てて移住することになり、忙しい商売は母と三人の番頭たちが担当して経営していたので、私も学校の放課後は出荷の荷物を作ったり、店頭に出て客の応対もしていた。
 父は長い療養の末明治三十五年の六月に死去した。兄は丁度中学校を卒業して帰宅しており、父の遺産を継いで日夜家業に努めたが、なにせ商家に生まれたといっても、実際に商売をした経験も少なく、父の手広くやった商売は反って彼には重荷となって、漸次衰退の一途を辿るようになった。これは彼にとっては無理からぬことであった。
 一方家には弟が二名(内匡四男はT家へ養子)妹が二名いて、弟たちの教育の問題も目前に迫っているし、妹たちの将来の結婚のことなどを考えると兄も大変憂慮したことであったろう。幸い父の遺産は大きく、祖先伝来の黒田にあった田地は三町歩以上もあって、下作人に作らせていたが、毎年沢山の小作米が家の蔵に納められていた。また町内にあった宅地の貸地や畑などを合わすと、何千坪を数えていたので、一生暮らすには差し支えない財産が残っていた。
 しかし弟たちに高等教育を施そうとする考えは、もうとうなく、店に働かせることばかり考えていたようであった。
 私は思い切ってアメリカに行ったから良かったが、弟の雅は私が渡米後二年位して中学を出たが、家で店員代わりに働かされて、店の店卸しの品物を担いで四、五里もある遠山という山村へ行商に行って兄を助けたとの涙ぐましい話を帰朝後母より聞かされて、お前はアメリカへ行って良かったと喜んでくれたことを、今尚記憶に残っている。
 親類が見かねて、兄に注意したこともあったが、それでも雅は厳寒の候でも田舎へ行商の出かけたことである。雅はその後兄の許しを得て上京して、千葉県の市川の歯科医の書生となって労働の傍ら、医師の厚意で、高山歯科専門学校に通学したが、卒業の時を待たずして、肺病におかされて、帰宅して遂に死亡した。雅の家での療養中の看病は冷淡であったと母が叙懐してくれた時は、私もある種の憤りを禁じ得なかった。
 若し私がアメリカに行かずに家にいたら、私もまた雅の二の舞になったことだろうと思うと戦慄を感ずる次第である。
 私は前述したような次第で、進学は愚か、飯田にいては将来の希望も無く、兄の許しを得て、是が否でもアメリカに渡って、自分の力を試してみたいと覚悟した。
 人間到る所青山あり、お天とう様とご飯はいつもついて廻る。その青山と太陽の国はアメリカあるのみだと、その時期の早からん事を期待していた。待てば甘露の日和ありというが、その機会は遂にやって来た。


小林有也とは(東京大学仏語物理学科第3期卒業し、農商務省工務局に勤め、東京物理学講習所(東京理科大)の創立者の一人となり、同講習所の物理学教授となる。長野県中学校を長野に創り、学校長と教諭を兼務。)

 

第2回(新天地での先駆者になるべく)

2011-10-23 09:00:19 | 日記
1.渡米の動機

思い起こせば明治三十七年二月、西暦千九百四年に日露戦争(Russo Japanese War)が突如勃発した。日本は世界最大強国であったロシヤを向こうに廻して挙国一致、国運を賭しての大戦争に突入した春のことである。
私は将に中学校を卒業しようとしていたが、当時の青年の間には、新天地であるアメリカに渡航して、自分の力を試して、一かバチか、生命を賭してまで日本移民のパイオニアー(先駆者pioneer)になって、自己の運命を開拓してみようとする若者の意気が漲っていた。  
 それはアメリカの新開州であった太平洋沿岸の諸州、特にカリフォルニアに於いては、農業開発のために多数の労働者を必要としていたが、シナ人の移民の入国は法律によって禁止せられていたので、勢いその労働力を日本人移民の手に委ねざるを得ない状態であった。
 狭小な島国、日本に生を受けて、将来の希望も少なく、運命を開拓するチャンスに恵まれない青年に対しては、アメリカは彼等の求めていた新天地であったのである。それに当時はアメリカ側が日本人移民を歓迎していたので渡航も容易であった。
 また、一方学業を志す青年学徒の状態は、どうであったかというと、今日の如く各地方至るところに中等教育を授ける機関は無く、僅かに大都市若しくは一郡に一,二の中学校が存在している状態であった。況や高等教育を授ける各種高等専門学校や大学などは、今日に比して、その数が誠に少なく、従ってその入学も容易なことではなかった。
 私の故郷の飯田地方では一郡にただ一校の中学校があったのみだったから、郡下の学生は皆学校の寄宿舎に泊まって学業に励んだのである。それであるから私のいた飯田中学の寮生は殆ど各村出身地の素封家の子弟であった。更に進学して高等専門学校に入るには、皆遠く故郷を離れて、東京等に遊学せねばならなかった。況や大学の進学をやだ。  
 従って、たとえ学力が優秀な学生でも学資などの関係で遊学はなかなか容易なことではなかったのである。私は郷里の学生で、東京に出て、赤貧と戦って、政治家の書生となったり、時には新聞や牛乳の配達をしたりして、大学を卒業した立志伝中の人の話しを聞いて感心したことがあったが、これは凡人のよくするところではなく、自分には到底できないことだと諦めていた。
 このように、たとえ私が青雲の志を懐いても、それは砂上の楼閣に過ぎず、如何にしてバベルの塔(Babel)を築かんものと日夜考慮していた、おりも折り、東京では、かの片山潜が「渡米案内社」という会を作って、アメリカの現状を紹介して、アメリカは青年の活躍し得る別天地であり、農民の楽天地でもあり、青年学徒の遊学地であって、自活して学問の修行をなし得る、世界ただ一つの登竜門が開けていると、渡米の効果を説明して渡米するよう鼓吹していた。   
 私は早速同社の渡米案内書を購入して多大の興味をもって耽読した。  
 信州のような山深い田舎町に一生を送るより、寧ろ一かバチか渡米して、アメリカという新天地で、自分の運命を賭して見よう、自分の努力次第では運命の女神は私にその恵の手をさしのべて呉れるであろうと決心した。



飯田地方(長野県)


片山潜とは、(かたやま せん 1859年~1933年 日本の労働運動家・社会主義者・マルクス主義者・思想家・社会事業家。明治14(1881)年サンフランシスコに渡り1896年まで在米。苦学してグリンネル大学 エール大学を卒業。留学中にキリスト教に入信)


バベルの塔とは(《Babelは聖書の地名シナルの古都》旧約聖書の創世記にある伝説上の塔。ノアの大洪水ののち、人類がバビロンに天に達するほどの高塔を建てようとしたのを神が怒り、それまで一つであった人間の言葉を混乱させて互いに通じないようにした。そのため人々は工事を中止し、各地に散ったという。転じて、傲慢に対する戒めや、実現不可能な計画の意にも用いられる。)

第一回(光陰矢の如く 歳月人を待たず)

2011-10-22 10:37:53 | 日記
序文(Preface)

Time flies like an arrow. Time and tide wait for no man.

 光陰矢の如く歳月人を待たずで、私が渡米して異郷に私の足跡を印してから既に63年、大学を卒業してから指折り数えて52年の歳月は流れ去った。
 さうであろう、私はもう81歳の高齢を迎えようとしているが、幸い今日までどこといって別に悪い所もなく日常健康に恵まれて、日一日と楽しい余生を過ごしていることは、これに勝る幸福はないであろうとただただ感謝の外はない。それかといって長い一日を無為に過ごすのは、誠に遺憾なことで、老人なればこそ、一層時間の貴重なることを痛切に感じさせるものがある。よって、この際若者の元気をだして、私の記憶力が喪失しないうちに「私の在米における学校生活の思い出」(The Reminiscence of My School Days in America )を執筆して子孫のために、尚また世の人のために、何かの縁になりうるならば私の幸甚とするところである。  
 時たまたま、伊丹老人クラブ連合会の主催による老人大学が伊丹市中央公民館で開催され、私も八十の手習いで受講生の独りとして出席しているが、老人は老人としてなすべき仕事があり、嘗てルソーが言った
「生きることは、呼吸することにあらず、何事かを為すことなり」
の言葉を思い出して、老人の「若返り」(Juvenescence)の一案として若き日の在米生活を追想して、茲にその思い出を綴りつつ過去のわが身を回顧して見たいと決心した。
 私のアメリカに於ける学生生活は、一般の日本に於ける学生生活とは、似ても似つかぬ雲泥の相違があったのである。それは私がアメリカに着くと同時に茨の道を歩まねばならなかったからである。如何にして一日の糧を求め得られるかが先ず先決の問題であり、これがためにはアメリカ人の家庭を頼って学僕(School boy)の生活を甘んじ、学資の一端を補わんためには、暑中休暇を利用しては、農園の労働者となって血の出るような労働にも堪えた。また時には邦人在留者の家庭教師(tutor)ともなり、または日本人小学校の教員ともなった。
 実に大学を卒業するまでの十数年に亘る波瀾屈折の生涯は今過去を追想してはたまた感慨無量のものがあるからだ。
 更に第二の難関は語学のマスターにあった。日本で中等程度の英語を学んだ位の学力では、日常の会話は愚か、英字新聞すら読めない語学の修得に日夜専念して、ようやくハイスクール(High School)に入学し得るまでには三年もかかった。
 スクールボーイとなって米人の家庭に入り寝食を共にした結果、「習うより慣れよ」の譬のように、耳から入る言葉で口が開け、自然と眼が開いて、漸くにして「新米」(green boy)の域を脱することができたのは一年後のことであった。今考えると、よくも、こういう私を使ってくれたものだと感謝の念で一杯である。
 それに加えて、更に為になったのは、朝夕家事の働きをして炊事の手伝いをしたので、知らず知らずのうちに、一般家庭料理の調理法を会得することができて、これが引いては、クック(cook)として学資の一端をも補うことができた。後年日本に帰って家庭を持った時大変役だった。
 スクールボーイを長年やった為、米国の家庭にも馴染むことができ、彼等の生活程度(standard of living)や生活の様式(mode of life)や、引いては市民としての社会生活(social life)を熟知することができた。私もこういう環境に努めて順応(assimilate)同化しようとしたので、ハイスクールや大学在学中に起きた日本人移民排斥の最中にも、一度も嫌な思いをせずして、学業を継続することができた。
 私の渡米した第一の目的は学業の貫徹にあったので、この為には先ず英語の智識を増進することが、何よりも肝要であるので、公立高等小学校(Public Grammar School)に入学する決心をした。そして、こういう学校でアメリカの国民教育を受ければ、普通学科の全般に亘って英語の勉強ができるからだ。それにも係らずこの方法を選んだ人は極めて少なかった。
 私は幸いグラマースクールに入学して第八学年を修了してハイスクールに入学し、ハイスクールの四年の課程を卒業して更に大学に入学して、渡米以来実に十二ヵ年の歳月を費やして目出度く卒業の栄冠を勝ち得たのである。
 当時を追想して、よくも、やったなと、吾ながら微笑を禁じえない次第である。  
 以上の如く天涯の孤客として赤手空拳、大袈裟にいえば臥薪嘗胆の末、漸く語学の難関を突破して、素志を完遂したる、この思い出の自叙伝(Autobiography)は自ら体験した数々のエヴェント(event:出来事)を全く自らの記憶のみに辿って、記述したものであるから、その積もりで讀んでもらいたい。
 しかも私は事実を曲げず、赤裸々に披瀝したのと、なにせ半世紀前のアメリカの社会生活と学校生活の思い出であるから、その積もりで私のプロフィール(profile)の一端を知ってもらえば満足である。


伊丹の里にて

our grandfather  識
昭和四十二年十一月三日  文化の日に