序文(Preface)
Time flies like an arrow. Time and tide wait for no man.
光陰矢の如く歳月人を待たずで、私が渡米して異郷に私の足跡を印してから既に63年、大学を卒業してから指折り数えて52年の歳月は流れ去った。
さうであろう、私はもう81歳の高齢を迎えようとしているが、幸い今日までどこといって別に悪い所もなく日常健康に恵まれて、日一日と楽しい余生を過ごしていることは、これに勝る幸福はないであろうとただただ感謝の外はない。それかといって長い一日を無為に過ごすのは、誠に遺憾なことで、老人なればこそ、一層時間の貴重なることを痛切に感じさせるものがある。よって、この際若者の元気をだして、私の記憶力が喪失しないうちに「私の在米における学校生活の思い出」(The Reminiscence of My School Days in America )を執筆して子孫のために、尚また世の人のために、何かの縁になりうるならば私の幸甚とするところである。
時たまたま、伊丹老人クラブ連合会の主催による老人大学が伊丹市中央公民館で開催され、私も八十の手習いで受講生の独りとして出席しているが、老人は老人としてなすべき仕事があり、嘗てルソーが言った
「生きることは、呼吸することにあらず、何事かを為すことなり」
の言葉を思い出して、老人の「若返り」(Juvenescence)の一案として若き日の在米生活を追想して、茲にその思い出を綴りつつ過去のわが身を回顧して見たいと決心した。
私のアメリカに於ける学生生活は、一般の日本に於ける学生生活とは、似ても似つかぬ雲泥の相違があったのである。それは私がアメリカに着くと同時に茨の道を歩まねばならなかったからである。如何にして一日の糧を求め得られるかが先ず先決の問題であり、これがためにはアメリカ人の家庭を頼って学僕(School boy)の生活を甘んじ、学資の一端を補わんためには、暑中休暇を利用しては、農園の労働者となって血の出るような労働にも堪えた。また時には邦人在留者の家庭教師(tutor)ともなり、または日本人小学校の教員ともなった。
実に大学を卒業するまでの十数年に亘る波瀾屈折の生涯は今過去を追想してはたまた感慨無量のものがあるからだ。
更に第二の難関は語学のマスターにあった。日本で中等程度の英語を学んだ位の学力では、日常の会話は愚か、英字新聞すら読めない語学の修得に日夜専念して、ようやくハイスクール(High School)に入学し得るまでには三年もかかった。
スクールボーイとなって米人の家庭に入り寝食を共にした結果、「習うより慣れよ」の譬のように、耳から入る言葉で口が開け、自然と眼が開いて、漸くにして「新米」(green boy)の域を脱することができたのは一年後のことであった。今考えると、よくも、こういう私を使ってくれたものだと感謝の念で一杯である。
それに加えて、更に為になったのは、朝夕家事の働きをして炊事の手伝いをしたので、知らず知らずのうちに、一般家庭料理の調理法を会得することができて、これが引いては、クック(cook)として学資の一端をも補うことができた。後年日本に帰って家庭を持った時大変役だった。
スクールボーイを長年やった為、米国の家庭にも馴染むことができ、彼等の生活程度(standard of living)や生活の様式(mode of life)や、引いては市民としての社会生活(social life)を熟知することができた。私もこういう環境に努めて順応(assimilate)同化しようとしたので、ハイスクールや大学在学中に起きた日本人移民排斥の最中にも、一度も嫌な思いをせずして、学業を継続することができた。
私の渡米した第一の目的は学業の貫徹にあったので、この為には先ず英語の智識を増進することが、何よりも肝要であるので、公立高等小学校(Public Grammar School)に入学する決心をした。そして、こういう学校でアメリカの国民教育を受ければ、普通学科の全般に亘って英語の勉強ができるからだ。それにも係らずこの方法を選んだ人は極めて少なかった。
私は幸いグラマースクールに入学して第八学年を修了してハイスクールに入学し、ハイスクールの四年の課程を卒業して更に大学に入学して、渡米以来実に十二ヵ年の歳月を費やして目出度く卒業の栄冠を勝ち得たのである。
当時を追想して、よくも、やったなと、吾ながら微笑を禁じえない次第である。
以上の如く天涯の孤客として赤手空拳、大袈裟にいえば臥薪嘗胆の末、漸く語学の難関を突破して、素志を完遂したる、この思い出の自叙伝(Autobiography)は自ら体験した数々のエヴェント(event:出来事)を全く自らの記憶のみに辿って、記述したものであるから、その積もりで讀んでもらいたい。
しかも私は事実を曲げず、赤裸々に披瀝したのと、なにせ半世紀前のアメリカの社会生活と学校生活の思い出であるから、その積もりで私のプロフィール(profile)の一端を知ってもらえば満足である。
伊丹の里にて
our grandfather 識
昭和四十二年十一月三日 文化の日に
Time flies like an arrow. Time and tide wait for no man.
光陰矢の如く歳月人を待たずで、私が渡米して異郷に私の足跡を印してから既に63年、大学を卒業してから指折り数えて52年の歳月は流れ去った。
さうであろう、私はもう81歳の高齢を迎えようとしているが、幸い今日までどこといって別に悪い所もなく日常健康に恵まれて、日一日と楽しい余生を過ごしていることは、これに勝る幸福はないであろうとただただ感謝の外はない。それかといって長い一日を無為に過ごすのは、誠に遺憾なことで、老人なればこそ、一層時間の貴重なることを痛切に感じさせるものがある。よって、この際若者の元気をだして、私の記憶力が喪失しないうちに「私の在米における学校生活の思い出」(The Reminiscence of My School Days in America )を執筆して子孫のために、尚また世の人のために、何かの縁になりうるならば私の幸甚とするところである。
時たまたま、伊丹老人クラブ連合会の主催による老人大学が伊丹市中央公民館で開催され、私も八十の手習いで受講生の独りとして出席しているが、老人は老人としてなすべき仕事があり、嘗てルソーが言った
「生きることは、呼吸することにあらず、何事かを為すことなり」
の言葉を思い出して、老人の「若返り」(Juvenescence)の一案として若き日の在米生活を追想して、茲にその思い出を綴りつつ過去のわが身を回顧して見たいと決心した。
私のアメリカに於ける学生生活は、一般の日本に於ける学生生活とは、似ても似つかぬ雲泥の相違があったのである。それは私がアメリカに着くと同時に茨の道を歩まねばならなかったからである。如何にして一日の糧を求め得られるかが先ず先決の問題であり、これがためにはアメリカ人の家庭を頼って学僕(School boy)の生活を甘んじ、学資の一端を補わんためには、暑中休暇を利用しては、農園の労働者となって血の出るような労働にも堪えた。また時には邦人在留者の家庭教師(tutor)ともなり、または日本人小学校の教員ともなった。
実に大学を卒業するまでの十数年に亘る波瀾屈折の生涯は今過去を追想してはたまた感慨無量のものがあるからだ。
更に第二の難関は語学のマスターにあった。日本で中等程度の英語を学んだ位の学力では、日常の会話は愚か、英字新聞すら読めない語学の修得に日夜専念して、ようやくハイスクール(High School)に入学し得るまでには三年もかかった。
スクールボーイとなって米人の家庭に入り寝食を共にした結果、「習うより慣れよ」の譬のように、耳から入る言葉で口が開け、自然と眼が開いて、漸くにして「新米」(green boy)の域を脱することができたのは一年後のことであった。今考えると、よくも、こういう私を使ってくれたものだと感謝の念で一杯である。
それに加えて、更に為になったのは、朝夕家事の働きをして炊事の手伝いをしたので、知らず知らずのうちに、一般家庭料理の調理法を会得することができて、これが引いては、クック(cook)として学資の一端をも補うことができた。後年日本に帰って家庭を持った時大変役だった。
スクールボーイを長年やった為、米国の家庭にも馴染むことができ、彼等の生活程度(standard of living)や生活の様式(mode of life)や、引いては市民としての社会生活(social life)を熟知することができた。私もこういう環境に努めて順応(assimilate)同化しようとしたので、ハイスクールや大学在学中に起きた日本人移民排斥の最中にも、一度も嫌な思いをせずして、学業を継続することができた。
私の渡米した第一の目的は学業の貫徹にあったので、この為には先ず英語の智識を増進することが、何よりも肝要であるので、公立高等小学校(Public Grammar School)に入学する決心をした。そして、こういう学校でアメリカの国民教育を受ければ、普通学科の全般に亘って英語の勉強ができるからだ。それにも係らずこの方法を選んだ人は極めて少なかった。
私は幸いグラマースクールに入学して第八学年を修了してハイスクールに入学し、ハイスクールの四年の課程を卒業して更に大学に入学して、渡米以来実に十二ヵ年の歳月を費やして目出度く卒業の栄冠を勝ち得たのである。
当時を追想して、よくも、やったなと、吾ながら微笑を禁じえない次第である。
以上の如く天涯の孤客として赤手空拳、大袈裟にいえば臥薪嘗胆の末、漸く語学の難関を突破して、素志を完遂したる、この思い出の自叙伝(Autobiography)は自ら体験した数々のエヴェント(event:出来事)を全く自らの記憶のみに辿って、記述したものであるから、その積もりで讀んでもらいたい。
しかも私は事実を曲げず、赤裸々に披瀝したのと、なにせ半世紀前のアメリカの社会生活と学校生活の思い出であるから、その積もりで私のプロフィール(profile)の一端を知ってもらえば満足である。
伊丹の里にて
our grandfather 識
昭和四十二年十一月三日 文化の日に