祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第8回(いよいよゲーリック号乗船)

2011-10-29 08:12:49 | 日記
7.乗船して渡米の途につく


 待ちに待った乗船の日は来た。明治三十七年(1904)四月十六日であった。私たちを乗せて、広漠たる太平洋を横断する貨客船ゲーリック号は横浜の沖合いに黒い巨体を横たえていた。
 今日から見れば四千トン級の遠洋航路線の船などは全く姿を消して、五,六万トンの客船が堂々と四海を威圧しているが、当時は大西洋航路は別として、太平洋航路ではゲーリックは東洋汽船の日本丸(四千五百トン級)と供に優秀船の一つであった。私たちは、本船まで艀(launch)で乗りつけて船から卸したギャグウェー(gangway昇降階段)で乗り込まねばならなかった。まだ横浜でも巨船を横付けできるような桟橋の設備がなかった。
 私は三等船客だから、船の左舷の三等室に入れられた。船底の船倉を利用したような広い室で、中にバンク(bunk 寝柵)と呼ばれる寝柵があって、上に麻布が一枚吊るしてあるばかりだった。掛布団やブランケットなどはないので、船客は着の身着のままのゴロ寝で、全くみじめな船旅だった。
 この室の乗客は全部日本人で、約三十名位いた。
 最初に出た夕食は魚と野菜煮に米飯付きだったが、大きな金盥に入れたものを、支那人のボーイが運んできて、テンデに金の食器に盛って食べるのだった。勿論食堂はなく室内にあった粗末なテーブルがこの用を足していた。
 時々支那人のボーイが寿司を一本十銭で売りに来たが、これは待っていたとばかりに、飛ぶように売れた。
 詳三郎は再渡航者で、船内のことも精通しているのでボーイ長を呼んで特別サービスを依頼した。ハワイまで邦貨十円払えば、朝昼晩の三食を洋食で賄ってくれるというので私も頼んだ。ハワイ―桑港間は五円だった。
これで日本食は食わずにズッと洋食ですました。洋食といっても、一等船客の料理の残物を一皿コッソリ暗で持ってきて、鼓腹を肥やすやりかたで、支那人は中々抜け目のないことをやっていた。外国船だから大目に見ていたのであろう。
 後年私が東洋汽船に就職した初期には、三等船客のボーイも会社の米で寿司を作って売るようなものがいたので、米は自費で買い入れて作らせるようになった。
 船室は船底で薄暗く、換気も悪く、空気の通るのは甲板に上がる階段口と、幾らかの小さな丸窓があるばかりで、こんな不潔な室に多数の人が押し込められているので、一度船酔いでもすると、看病もできず、全く気の毒だ、甲板にある便所にも行けない有様だった。
幸い私は乗船後多少の船酔いはあったが、翌日からは元気を取り戻した。終日ブラブラ、バンクに横になっているより方法もなく、本など読む気はモートー出ないじまいだった。
 毎日午後になると、支那人のボーイが来て、大声に「タップサイド、タップサイド(Top side)」と呼んで、船客を全部甲板に出るようにした。私は天気の良い日は、努めて甲板に出て、海を眺めて楽しんだ。波間に飛ぶ飛魚の群れや、一面鏡のような静かな海、海中に群がるウニの美しさなどは旅の徒然を慰めてくれた。
 私等の出るデッキは一ヶ所に限られていた。他の場所には厳重なoff limitがあった。上級のデッキはおろか、キャビンの船客をも訪問することを禁ぜられていた。
 今日でも船の旅行には、この習慣が大なり小なり残っていて、等級によって待遇が全く違い、不平等な取り扱いを公然とやっている船会社が多い。
 こういう厭々した船旅ではあったが、陽春の太平洋は波静かで、雨もなく、日一日とハワイに近づくようになると、気温も上昇して汗ばむようになった。
 いよいよハワイに近づく一日位前に日付変更線(百八十度の経線)を通過することになる。同じ日がダブツイて一日多くなる反対に、サンフランシスコを出て帰航する場合はハワイを出て翌日になれば一日が飛ばされて早くなるのである。
 この百八十度の経線を通過すれば、やがてハワイの領海に入るので、どこから飛んで来たのか、カモメの群れが船のマスとをめがけて飛び交うようになった。
 横浜を出てから見るものはただ茫々たる海洋のみで、島影もなく、船にも会わず、全く無量を託っていたが、このカモメの訪れを見て喜んだ。ホノルルへの入港も近いのだ。



桑港=サンフランシスコ

銭 - 1円の100分の1(1円=100銭)
厘 - 1円の1000分の1、1銭の10分の1(1円=1000厘、1銭=10厘)