50.California vs.Stanfordフットボール ゲーム
大学の体育部の活動は当時でも非常に盛んで、設備も立派なものがあった。
男女学生には夫々独立した体育館(Gymnasium)があって、バスケットボール等の屋内スポーツ(indoor sports)や体操(physical exercise)や器機体操(heavy gymnastics)等はこの雨天体操場で行われた。
テニスコートも数面あったし、ハンドボールコート、プール等もできていた。特に屋外スポーツは(outdoor sports)は最も盛んで、トラック(truck:陸上競技)は立派なフィールド(競技場)があって、スタンド(stand:観覧席)も裕に一万人余も収容できた。
フットボールのスタジアム(stadium:競技場)は約三万人の観覧席が設けられており、野球(base-ball)はこの競技場を用いていた。
私が東洋汽船の桑港支店に勤務していた1918年頃に同窓会が決起して、スタジアムを改築する運動を起こしたので、私の卒業年度の同窓会員(reunion同窓の集い:1915年組)がシスコ市のパレスホテル(Palace Hotel)で開催されることになり、私も初めてこの会に出席した。約百五十人位が集まったが、晩餐の後、競技場の改築基金として一口最低百弗を寄附することが決定されたので、私も一口百弗を出した。新スタジアムは五万人を収容する計画だった。
この寄付金を出したものは、観覧席のどこかに姓名入りの真鍮板を打ちつけられることになっており、この座席で毎年秋行われる加大対スタンフォード大学のフットボール競技を無料観覧出きるわけだ。しかし仕事が忙しいので、一度も見物しなかったから座席番号も忘れてしまった。
アメリカの大学で数あるスポーツの競技の中で最も人気のあるのはアメリカンフットボール(American football)で次はトラック、次がベースボール(ベースボールはプロがあり、大衆化されている)の順となっていた。そのフットボールの競技中で最も学生達の血を沸かす対抗試合は太平洋沿岸中の大学の優として加大のライバルStanfordとの決勝ゲームであった。日本の早稲田対慶應の野球決勝戦に等しいものだ。
加大では春のスポーツはトラックとベースボールで秋はフットボールに絞られて、毎土曜日の午後は必ずどこかの大学チームを迎えて対戦があるので、私はいつも観戦した。学生は無料だった。対校大学のスケジュールが全部終わると最後のゲーム(final game)として十一月中旬にStanfordとの優勝戦が行われた。
いよいよ須大との試合日が定まると、数日前より学生の意気が上がって、学生が教室に入って教授の来室を待つ僅かの時間にも、一同揃って大声でエールを高唱するので、私も彼等と和して、
“For California, for California,
The hills send back the cry,
We're out to do or die,
For California, for California,”
カリフォルニア! カリフォルニア!
丘は吾らの叫びをかえす
吾らは死すともやまじと
カリフォルニア!カリフォルニア!
の応援歌を斉唱して興奮の渦に巻き込まれて、どこの教室でもエールの声が響き渡っていた。
試合の前の晩は学生会館で前夜応援会が挙行されて、気勢を揚げるのであった。
カリフォルニアの学校色は前述したように、”Blue and Gold”で選士のことをバーシテイー(Varsity:学校代表)といって、着ているスウェーターの紺色の背中に大きい黄色の”C“の字が縫い付けてあって、このスウェーターを着るバーシテイーは大学生の花形として校内はもとより女学生の憧れの的となっていた。大文字の”C“はフットボールだけで野球やその他のスウェーターは小文字の”C“だった。なにせ百数十名の部員のいる中から猛訓練を受けた僅か十一人のメンバーが選出されるのだから、その得意さも想像できるし、また彼等は立派な建物のVarsity Clubに宿泊して、別扱いの待遇を受けていた。
加大は数ある太平洋沿岸三州の大学中でも断然頭角を抜き、全米大学選抜優勝大会にも出場して、時の東部の優勝校ダートマウス(Dartmouth)を破って優勝したことが私の在学中にあった。加大はベアー(bear:熊)と呼ばれて、熊がスポーツのマスコットになっていた。
☆Stanford Universityについて
須大はサンフランシスコから南東約60哩のパラアルト(Palo Alto)という町にあって、加州で有名な金山経営で大富豪となったリーランド・スタンフォード(Leland Stanford)の創立した私立大学校である。
スタンフォードは壮年の頃ゴールドラッシュに乗じて加州に来て、金鉱を発掘して巨万の富を造り、晩年は大陸横断鉄道の有力なる建設者となって、遂に加州第一の百万長者となった人である。彼は加州の開発に貢献したのみでなく、上院議員(Senator)として政界にも尽くした有名人である。
またまた彼の一人息子が欧州の大学を遊学中病死したので、子供の追善供養をかねて、教育事業に全財産を投げ出してパラアルトの広大な土地を開放して、ここにスタンフォード大学を創設したのである。
私は須大には親友が二,三名いたので、三,四回大学を訪問したが、校庭の広大なることは全米大学の中でも一、二を争うほどで校門から校舎に至る道路には生徒専用電車が走っており(当時はバス、タクシーもない)数分間かかった。
校舎の建っていた平坦な校庭も広いが、大学の所有だという裏山の大きいのには驚いた。しかしキャンパスの美観という点では加大の方が優れていたように思われた。
この大学の建物は全米大学にもない二階建ての石造りのミッションスタイルで四角形の大建物が二重にできて、廊下で各教室が結ばれ、ここに大学の各分科ができているので、大きな一個の大学校舎といった感じの大学である。見た感じは荘重で廊下に太い石柱が沢山建ってあるのは恰も(あたかも)欧州の中世紀時代のモナステリー(僧院)という荘厳な風格もあった。
この校舎の正門入口に建っている礼拝堂(Chapel)は全米でも有名で内外の金、銀色の美しいモザイク細工の美しさは同校の誇りとしており、チャペルの前に立って外壁のモザイク細工を見ると、しばしウットリする程である。このチャペルにも1906年春の大地震でモザイクの一部が落ちたとのことで、私が最初に行った時は復興の後であった。
スタンフォード夫人は日本人学生を愛して在校生は授業料免除の特典(私学だから、授業料は年三百弗、運営は大学基本会でまかない当時未だ二千万弗あるとの話だった)を与えていたので常に数名の日本人学生がいた。
私の友人、S木富太郎(神戸経済大教授)、K間義雄(慶大教授)君などは同時代の人々で特にO島喜作君(故人)は哲学科において優秀性としてハーバードでScholarship を得た。皆忘れ難き在米中の知友である。
教授には市川先生がおられたが、加大には東洋語科に久N芳三郎助教授がいた。
スタンフォード夫人は私が東洋汽船社員時代に、日本の訪問に出発されたが、ハワイのホノルルのホテルで急死された。
スタンフォード大学の総長ジョーダン博士(President Jordan)は加大に来て講演をされたこともあったので、総長の風貌に接したが実に立派な教育家でこの大学に学ぶ日本人学生は幸福だと思った。
大学の体育部の活動は当時でも非常に盛んで、設備も立派なものがあった。
男女学生には夫々独立した体育館(Gymnasium)があって、バスケットボール等の屋内スポーツ(indoor sports)や体操(physical exercise)や器機体操(heavy gymnastics)等はこの雨天体操場で行われた。
テニスコートも数面あったし、ハンドボールコート、プール等もできていた。特に屋外スポーツは(outdoor sports)は最も盛んで、トラック(truck:陸上競技)は立派なフィールド(競技場)があって、スタンド(stand:観覧席)も裕に一万人余も収容できた。
フットボールのスタジアム(stadium:競技場)は約三万人の観覧席が設けられており、野球(base-ball)はこの競技場を用いていた。
私が東洋汽船の桑港支店に勤務していた1918年頃に同窓会が決起して、スタジアムを改築する運動を起こしたので、私の卒業年度の同窓会員(reunion同窓の集い:1915年組)がシスコ市のパレスホテル(Palace Hotel)で開催されることになり、私も初めてこの会に出席した。約百五十人位が集まったが、晩餐の後、競技場の改築基金として一口最低百弗を寄附することが決定されたので、私も一口百弗を出した。新スタジアムは五万人を収容する計画だった。
この寄付金を出したものは、観覧席のどこかに姓名入りの真鍮板を打ちつけられることになっており、この座席で毎年秋行われる加大対スタンフォード大学のフットボール競技を無料観覧出きるわけだ。しかし仕事が忙しいので、一度も見物しなかったから座席番号も忘れてしまった。
アメリカの大学で数あるスポーツの競技の中で最も人気のあるのはアメリカンフットボール(American football)で次はトラック、次がベースボール(ベースボールはプロがあり、大衆化されている)の順となっていた。そのフットボールの競技中で最も学生達の血を沸かす対抗試合は太平洋沿岸中の大学の優として加大のライバルStanfordとの決勝ゲームであった。日本の早稲田対慶應の野球決勝戦に等しいものだ。
加大では春のスポーツはトラックとベースボールで秋はフットボールに絞られて、毎土曜日の午後は必ずどこかの大学チームを迎えて対戦があるので、私はいつも観戦した。学生は無料だった。対校大学のスケジュールが全部終わると最後のゲーム(final game)として十一月中旬にStanfordとの優勝戦が行われた。
いよいよ須大との試合日が定まると、数日前より学生の意気が上がって、学生が教室に入って教授の来室を待つ僅かの時間にも、一同揃って大声でエールを高唱するので、私も彼等と和して、
“For California, for California,
The hills send back the cry,
We're out to do or die,
For California, for California,”
カリフォルニア! カリフォルニア!
丘は吾らの叫びをかえす
吾らは死すともやまじと
カリフォルニア!カリフォルニア!
の応援歌を斉唱して興奮の渦に巻き込まれて、どこの教室でもエールの声が響き渡っていた。
試合の前の晩は学生会館で前夜応援会が挙行されて、気勢を揚げるのであった。
カリフォルニアの学校色は前述したように、”Blue and Gold”で選士のことをバーシテイー(Varsity:学校代表)といって、着ているスウェーターの紺色の背中に大きい黄色の”C“の字が縫い付けてあって、このスウェーターを着るバーシテイーは大学生の花形として校内はもとより女学生の憧れの的となっていた。大文字の”C“はフットボールだけで野球やその他のスウェーターは小文字の”C“だった。なにせ百数十名の部員のいる中から猛訓練を受けた僅か十一人のメンバーが選出されるのだから、その得意さも想像できるし、また彼等は立派な建物のVarsity Clubに宿泊して、別扱いの待遇を受けていた。
加大は数ある太平洋沿岸三州の大学中でも断然頭角を抜き、全米大学選抜優勝大会にも出場して、時の東部の優勝校ダートマウス(Dartmouth)を破って優勝したことが私の在学中にあった。加大はベアー(bear:熊)と呼ばれて、熊がスポーツのマスコットになっていた。
☆Stanford Universityについて
須大はサンフランシスコから南東約60哩のパラアルト(Palo Alto)という町にあって、加州で有名な金山経営で大富豪となったリーランド・スタンフォード(Leland Stanford)の創立した私立大学校である。
スタンフォードは壮年の頃ゴールドラッシュに乗じて加州に来て、金鉱を発掘して巨万の富を造り、晩年は大陸横断鉄道の有力なる建設者となって、遂に加州第一の百万長者となった人である。彼は加州の開発に貢献したのみでなく、上院議員(Senator)として政界にも尽くした有名人である。
またまた彼の一人息子が欧州の大学を遊学中病死したので、子供の追善供養をかねて、教育事業に全財産を投げ出してパラアルトの広大な土地を開放して、ここにスタンフォード大学を創設したのである。
私は須大には親友が二,三名いたので、三,四回大学を訪問したが、校庭の広大なることは全米大学の中でも一、二を争うほどで校門から校舎に至る道路には生徒専用電車が走っており(当時はバス、タクシーもない)数分間かかった。
校舎の建っていた平坦な校庭も広いが、大学の所有だという裏山の大きいのには驚いた。しかしキャンパスの美観という点では加大の方が優れていたように思われた。
この大学の建物は全米大学にもない二階建ての石造りのミッションスタイルで四角形の大建物が二重にできて、廊下で各教室が結ばれ、ここに大学の各分科ができているので、大きな一個の大学校舎といった感じの大学である。見た感じは荘重で廊下に太い石柱が沢山建ってあるのは恰も(あたかも)欧州の中世紀時代のモナステリー(僧院)という荘厳な風格もあった。
この校舎の正門入口に建っている礼拝堂(Chapel)は全米でも有名で内外の金、銀色の美しいモザイク細工の美しさは同校の誇りとしており、チャペルの前に立って外壁のモザイク細工を見ると、しばしウットリする程である。このチャペルにも1906年春の大地震でモザイクの一部が落ちたとのことで、私が最初に行った時は復興の後であった。
スタンフォード夫人は日本人学生を愛して在校生は授業料免除の特典(私学だから、授業料は年三百弗、運営は大学基本会でまかない当時未だ二千万弗あるとの話だった)を与えていたので常に数名の日本人学生がいた。
私の友人、S木富太郎(神戸経済大教授)、K間義雄(慶大教授)君などは同時代の人々で特にO島喜作君(故人)は哲学科において優秀性としてハーバードでScholarship を得た。皆忘れ難き在米中の知友である。
教授には市川先生がおられたが、加大には東洋語科に久N芳三郎助教授がいた。
スタンフォード夫人は私が東洋汽船社員時代に、日本の訪問に出発されたが、ハワイのホノルルのホテルで急死された。
スタンフォード大学の総長ジョーダン博士(President Jordan)は加大に来て講演をされたこともあったので、総長の風貌に接したが実に立派な教育家でこの大学に学ぶ日本人学生は幸福だと思った。
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