あなたと夜と音楽と

まあ、せっかくですから、お座りください。真夜中のつれづれにでも。
( by 後藤 純一/めるがっぱ )

須田ノート:「男の首」

2013年04月30日 10時51分01秒 | Weblog
 銀座の白銅てい画廊が須田国太郎の「男の首」を
展示している。
汚れがひどく廃棄されかけていたものを引き取り、
修復したのだとか。
ほとんど知られていなかったこの絵が
復活?したのを喜びたい。
この絵は京都新聞社の画集にもなく、
須田の日記にも出てこない。
しかし、薄い光のなかからぼんやりと存在感が
浮かび上がってくる画風に須田のオリジナルな
個性を感じさせる1点である。
推測だが、おそらく欧州から帰国後、一人で
研鑽を積んでいたころの作ではあるまいか。
「人体習作」(1925:上原美術館蔵)と、その
薄暗がりを基調とした作風に共通したものを
感じさせる。

世の中にはまだまだ知らない須田の絵が
ある気がする。

 

 

須田ノート:瀧口修造の「犬」評

2013年04月18日 10時02分55秒 | Weblog
 評論家の瀧口修造が「犬」について短い文章を残している。

「 何だか薄気味のわるい絵である。古い壁か屏風に
 うつったしん気ろうのようだ。この人の絵には
 能を見ているときに感じる亡霊の忍び気配がある。
 湿度を帯びた鈍い光。この屋並のような陰気な
 家を見たことがない。してみると絵というものは
 ずいぶん美化しているのだなと思う。しかし
 ここには明治時代の日本のにおいがしてたまらぬ。
 あゝニッポン!」

 評者の強い個性が短い文章に色濃く浮かび、まるで
「犬」に海のなかから屈折した強いライトがあてられた
ようだ。
「犬」は須田の絵の中で「書斎」と並んで人気の高い
作であり評者も多いが、瀧口の評は絵を見るとは
自分の個性を通してみることだとあらためて感じさせる。
そういう評だけが読むに値するのかなとさえ思わせる
文章である。

 瀧口の文章は「美術手帖」(1950年12月号)に
掲載されたもので、「独立展」という題名で
林武など独立の作家4人について1点づつ短評を
加えたもの。この年の10月に開かれた
第18回の独立展を見た評であろう。
他の画家については冷静な評なのに、
須田にだけは気持ちの昂りを抑えられない
ように、前のめりになった瀧口の表情が
浮かんでくる(失礼ながら、道端の犬が
見知らぬ犬に吠えついているような
印象がある)。

 瀧口は1903年生まれだから1891年生まれの須田の
ひと回り下の同時代人と言っていいが、二人に接点が
あったとは思いにくい。
瀧口はシュールリアリズムの作家として知られる。
「超現実主義の史的意義」(1937)などの文章から
須田がシュールリアリズムに強い関心をもっていた
ことが分かる(ブルトンの著書などを原書で持っていた)が、
須田文庫目録に瀧口の著作は数点含まれるだけ。
知る限り、須田の文章で瀧口に触れたものは
なく、公開された日記にも瀧口の名前は出てこない。