あなたと夜と音楽と

まあ、せっかくですから、お座りください。真夜中のつれづれにでも。
( by 後藤 純一/めるがっぱ )

須田ノート:島根と山中徳次(補)

2013年03月31日 20時29分40秒 | Weblog
 1957年(昭和32年)に須田国太郎は病に倒れた。
年譜によれば、一時は回復するが、同年12月に再入院し、
以降4年間の入院生活がその死まで続く。

「しかし、病床にあっても制作意欲は一向に
衰えることなく、特製の画架をつくらせてベッドに
伏したまま制作するという痛ましい日々であった。」
(島田康寛「近代の美術57」p73)

図録の年譜などに当時の写真が残っていて、ベッドで横に
なったまま絵に向う様子が映っている。病床でなお絵に
向う須田の姿は画家の執念をおもわせる。


      *


 細かなことだが、この「特製の画架」は、須田が
松江の山中を訪ねたときに見たものがヒントになった
という説がある。
山陰中央新報が1992年に連載した「須田国太郎 その
生涯と藝術」にこんな記載がある。

「 戦後まもなくカリエスを患い、三年間寝たままで
絵を描いてきた山中さん。病床を見舞った須田は、
あお向けになって、胸の上にキャンバスを固定して
描くそのスタイルに、とても関心を示したという。
 それがヒントになったのか晩年、病に倒れた
須田は、山中さんと同じスタイルで寝たまま
描き続けた。」
(同紙:1992年2月25日)

 山中の談話に基づく記事だが、それなりに説得力を
持つ。「特製の画架」が作られた経緯に触れた須田論は
他に見当たらない。
須田の執念を思わせる「特製の画架」の背後に
松江の山中を見舞った記憶があったとすれば、
それはそれで興味深い。





須田ノート:島根と山中徳次

2013年03月28日 15時04分44秒 | Weblog
 島根県立美術館での「没後50年展」について、少し書いてきた。
その展示には、どこか須田展を迎えての気持ちの昂りを
感じさせるものがあった。
この印象は、当初、学芸員の個性から来るものかと思った。
展示を担当した方が格別、須田に愛着を持っている人なのだろう
と思ったのだ。
そのことは間違っていないと思うのだが、どうもそれだけでは
ないらしい。

 須田国太郎展が松江で開催されるのは、20年ぶりである。
1992年3月28日から4月12日まで「光と影のリアリスム
須田国太郎展」が県立博物館で開かれた(その後、静岡、
大津、大分、名古屋、岡山に巡回)。
当時の地元紙に開幕当日の写真が掲載されていて、年配の
男性が県知事らに「歩む鷲」の前で説明をしている様子が
映っている(山陰中央新報1992年3月29日)。
記事に「須田に師事した独立美術協会会員の山中徳次さん
(78)=松江市在住=」とある。
同年の2月にも同紙は「須田国太郎 その生涯と芸術」という
連載記事を挙げ、その最初に山中徳次が須田と
映っている写真を載せ、山中の談話を書いている。

「少壮の画家として独立展に出品を続けていた山中さんが、
須田と初めて出会ったのは昭和15年夏、松江で開かれた
洋画講習会の席上だった。
『ああ、あなたが山中さんですか。鳥取の人かとばかり
思っていましたよ。今年のあなたの作品、なかなか評判が
良かったですよ』ー恐る恐る名刺を差し出した山中さんに、
講師としてやってきた須田はこう答えたという。」

1913年生まれの山中は当時27歳だった。
須田の好意的な評に若い山中は舞い上がるような
気持ちだったと、想像できる。
この時以来、須田は山中にとって特別の存在となった
のだろう。
 山陰に須田はたびたび写生旅行に来ている。隠岐を描いた
「断崖と漁夫」(1951)は主要作の一つだ。
年も違い、須田が山中とそれほど親しくつきあったという
ことはなかったようだが、それでも、山中をひょっこり
訪ねることもあったとか。
山中は2000年に亡くなるまで島根の美術界の中心人物
(の一人)だったらしい。山中の須田への思いが
周辺に伝わり、その死後も残っているのだろう。
今回の展示に感じられた美術館の気持ちの昂りにも、
その一端が流れているのではなかったか。

 なお、島根県立美術館では須田展にほぼ並行して「独立
美術協会と昭和の美術界」という小特集をコレクシヨンから組み、
山中の絵も1点(「魚市」)、展示されていた。







 

須田ノート:「犬」について

2013年03月04日 23時55分28秒 | Weblog
 島根県立美術館での須田国太郎展でのこと。
会場入り口から天井にかけて、須田の「犬」を
大きく拡大した写真が置かれていた。
「犬」は90x73㎝だから、その3倍?くらいの
大きさではなかろうか。
拡大された「犬」の写真は迫力があり、
会場入り口のモニュメントとして悪くなかった。

 しばらくその引き伸ばされた「犬」を
仰ぎ見ていた。
絵をここまで大きく拡大して、なお
不自然にならずに視線に堪えるのは、
須田の作った犬のイメージが持つ
力強さ、鮮明さにあるのだと思う。
ふと、須田は90x73㎝という大きさより、
なぜもっと大きなサイズに描かなかったのか
と思った。
「犬」は戦後の出発点となった絵である。
「犬」の持つイメージは、妙な
言い方だが、実際に描かれた絵よりも
大きく見える。
「犬」をもっと大きなカンバスに描く
アイデアはなかったのか。
戦前の「早春」(165x230㎝)や「水浴」
(180x285㎝)ほどでなくとも、「犬」(1950)
の前後に描かれた作にも「岬(室戸)」
(1949)や「溜池」(1950)は90x131cm
という大きさがある。
「犬」はもっと大きくても良かったのでは?
巨大な「犬」を見ながら、そんなことを
漠然と考えていた。

 しかし、そういう構想はなかったのだと思う。
「犬」で重視したのは、実際の犬の大きさや
その感触(質量感)ということではなかったか。
今より大きなサイズではあの犬の異形な姿が
強くなりすぎる。
両目は南天のように赤くはするけれど、
犬は日常から遠過ぎた存在になっては
いけないのだ、
須田が現在の大きさに描いたのは、そのためだと
思う。






 

須田ノート:島根県立美術館の「犬」

2013年03月03日 17時57分02秒 | Weblog
 島根県立美術館の須田展でもうひとつ眼を引いたのは、
「犬」の展示だった。
ほとんど白に近いクリーム色の壁紙の上に、絵よりもひと回り大きな
オレンジ色?のボードを貼って、その上に「犬」を置いていた。
コーナーの壁全面にではなくその絵の背後に色違いのボードを
敷いているのは、「犬」だけであった。
他の美術館では「犬」を特別に扱うような展示方法はなかったが、
「犬」は須田の作品でもっとも人気のある1点であろう。
須田の代表作とみる人も多い。
その意味では今回の展示で「犬」を特別扱いするのもそれほど
不自然ではなく、うなずける。
そこには島根の展示関係者のいわば個人的な愛着が感じられた。
ポスターやちらしに「犬」を用いた美術館は他にもあったが、
チケットの図柄も「犬」で統一したのは、島根だけではなかったか。
きっと「犬」という絵が好きなのだ。

 どんな絵も絵は一点、一点で完結している。数多くの
点数を一堂に会した中で見られるよりも、その一点を見る
機会を欲している。
その意味では、会場の明るさを抑え、絵にスポットを
あてる照明の方法がわたしには好ましく思える。
観客の視野から他の絵の存在を消して、その一点に観客の
視線が集中する環境を準備してくれるからだ。
この方法は、しかし、天井の低い、ホールの小さな
会場でないと難しいだろう。
せめて傑出した絵に格別の注意をひきつけたいという
展示する側の気持ちが動くのは、よく分かる。
思い出すと、葉山では幾つかの絵を特別扱いというほどではないが、
展示の流れにアクセントを加えるように所々につい立?を
立てて、そこに1点だけを置いてその絵に観客の眼を引きつけようと
していた。
絵は「信楽」や「窪八幡」などだったが、残念ながら、わたしには
その狙いはあまり効いていないように思えた。
展示の流れが作る動線からむしろ逸れてしまい、観客の眼を
捉えることが難しくなっていたように思う。
葉山も松江も、天井の高い、大きなホールだ。
照明は広いエリアを照らし、それぞれの絵を個別化するのは
難しい。
その中で、松江の試みは面白いと思った。
(ボードのオレンジ色?が良かったか、異論も
あるかもしれない。)