あなたと夜と音楽と

まあ、せっかくですから、お座りください。真夜中のつれづれにでも。
( by 後藤 純一/めるがっぱ )

須田ノート:竹橋の小特集

2010年02月20日 20時29分53秒 | Weblog
竹橋の東京国立近代美術館で須田の小特集が
組まれ、次の8枚が展示されている(2010/2/20-
4/11)。

「法鑑寺塔婆」(1934)
「書斎」(1937)
「歩む鷲」(1940)
「脱衣」(1948)
「犬」(1950)
「真名鶴」(1953)
「窪八幡」(1955)
「鉱山」(1959)

これまで常設展示で一枚づつの展示は
あったが、これだけの作品が一堂に会するのは
2005/06年の「須田国太郎」展以来だろう。

須田の代表作が見られるのはありがたい。
期間中、また出かけたいと思う。

(企画制作は同美術館の都築千重子氏とか)




須田ノート:飯国二郎

2010年02月09日 16時04分48秒 | Weblog
(いったんブログに挙げたものを書き直しました。) 

須田寛氏の「家族から見た須田国太郎」(1994)に
飯国二郎という画商が出てくる。

「普通画家が売り出していく時には専属の画商さんがつくように
なるケースが多いそうですが、父の場合は画家としてのスタートが
変則であったこと、京都在住という洋画家としてのハンデイも
あったことからこのような後援者を得ることも困難でした。
そのような時に飯国二郎さんという若い画商さんがたまたま
父の絵に興味をもち、ご自分で積極的に東京や大阪で展覧会を
企画して大いに父の絵を宣伝して下さったのです。よく私の家へも
来られ母も大変飯国さんを信用していましたし、小学生であった
私を可愛がっていろんなところへ連れていって下さいました。
高知県のご出身で明るい活動的な方でしたが、不幸にして太平洋
戦争中南方で戦死されました。」
「『飯国さんがもっと生きていてくれればーーー』と両親がいつも
いっていたのを思い出します。同時にこれも父の口ぐせであった
『絵で食べていくことは容易ならんことだ』という言葉もこの時代の
父の気持ちをよくあらわしています。」

 飯国二郎は、「日本洋画商史」(美術出版社・一九八五)にも
出てくる。当時、大阪朝日ビルにあった美術新論画廊で須田の
展覧会が毎年のように開催されたことに関連して、同書の中で
大河内菊雄「関西の洋画商」は、須田の日記を引用し、飯国二郎に
短く触れている(文中の岩田五郎左衛門は画廊の創設者)。

 「また飯国氏というのは美術新論画廊で、後藤真太郎と一緒に
仕事をしていた飯国二郎のことで、須田の日記のなかにたびたび
登場するが、岩田五郎左衛門も、須田と飯国との関係をまれにみる
画家と画商とのよい関係であったと回顧している。飯国はおしくも
この大戦で戦死している。」

 広島の医師で須田作品のコレクターであった大林次彦が飯国二郎に
ついて書いている。

 「彼の誠実な人柄は業界では稀に見るところで、須田先生夫妻の
信頼もあつく、先生の作品を一手に扱わしてもらっていました。
彼は自分の画廊を持たなかったので、先生の個展の時は、大阪の
朝日会館にあった美術新論画廊を、よく利用したものです。」
 「同君との交遊は、僅か二年余に過ぎませんでしたが、妙に
心に纏いついて離れ難いものがあります。彼は後に愛妻と一人の
嬰児を残して、フィリピンの戦場に渡ったのであります。」
「戦後、間もない頃でした。須田先生の発起で、飯国君の遺族に
慰問品を贈ったことがあります。その後、消息は杳として
分からないのですが、妻君は女医さんでしたから、あの時の
赤ちゃんも、今では立派に成人していられることと思います。」
(「楳軒美術閑話(一)」:同人誌「随想おのみち」#30:
一九七三年)

 飯国二郎の生年月日、召集や戦死の時期、またその後の遺族に
触れた資料は見当たらなかった。