「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

昭 南 (シンガポール) 1

2006-06-17 19:18:51 | Weblog
 6月29日、久方ぶりに見る島は、目の覚めるような緑に包まれて、あちこちに点在する赤や白の建物、真青の海、とても綺麗だったなあ。
 私達の船の横に、ハーゲンクロックの旗を立てた、ドイツの潜水艦が一隻停泊していて、水兵が私達に手を振っていた。
 朝入港して、軍装を整えて夕方上陸、宿舎まで行軍。夜の昭南の町には電灯が輝き、私達をびっくりさせた。宿舎までは随分遠かった。田口上等兵は
 「自分はもう歩けません」と、すっかり参って道路端にうずくまろうとした。
 「この馬鹿野郎!」引率者のゲンコツが飛んだ。歩こうとするが駄目らしい。仕方がないので、周りの者が銃を担いでやったり、背嚢を背負ったりしてやったが、それでもヒョロヒョロとして歩く始末だった。
 そして、とあるガラス戸の広い間口のある店先で小休止が出た。へたへたと座りそうになる周囲の者に、
 「腰を下ろしてはいかん、立てなくなるぞ」と言ったが、殆どがアスファルトに腰を下ろして休憩したが、私は立っていた。
 「出発!」の号令で直ぐ立てた者は少なかった。大半は手を引いてもらったり、銃を杖にヨロヨロと立ち上がったりして、足を引きずり、ビッコを引きながら、歩き始めた。 こんな時、足を地面から離して休憩をすると、今度歩き始めると、足の裏に針でも刺さるようにチクチクして痛むのだ。

奴隷船 3

2006-06-16 22:24:35 | Weblog
 転属の時、満州から持ってきた乾麺苞の袋の中から、金平糖を抜き出す者も現れ、又、船倉の糧秣倉庫から乾麺苞やら缶詰類を 盗み出す者もいたと後で分かった。
 途中、新南群島の一部と思われる珊瑚礁の綺麗に環状になった 静かな海を通って行った。この頃、私は初めて南十字星を水平線上、一寸の所で見た。
 6月23日、ボルネオ島ミリーに寄港。水と石炭を積み込んだ。石炭積み込みは夜間作業。現地人がクレーンを使ってやっていた。ここの現地人は色が黒く、石炭の色と同じくらいに見えた。時折、合図する手のひらと、白い歯で人のいるのが分かった。
 6月25日、ミリー港出帆。この間、駆逐艦が護衛してくれた。「アッ沈んだか!」と息を呑むと次の波の間から小さな姿を現した。
 「駆逐艦てたいへんだなあ!」と思ったものだ。

奴隷船 2

2006-06-15 19:19:24 | Weblog
 船倉には燃料の石炭が積み込んであったが、聞けばこの石炭は、時折切り返さないと、自然に発火する恐れがあるとかで、石炭切り返し作業の使役があった。これに出た者には水筒1本分の水を支給するという条件付、力の強いのが応募して人選に困ったようであった。
 飯の量も減っていったが、副食は毎日毎日南瓜汁ばかりだった。肉は船倉にはあるというがなかなか私達の食事には上がらなかった。それでも、腐ったからといって肉を海に棄てていた。もったいない事をするもんだと 兵隊達は憤慨したが、やはり南瓜汁は続いた。
 航海中の余興にと川柳の募集があったが、1位入選は
 「奴隷船 下痢の止まらぬ南瓜汁」
 この発表にみんなワアッと歓声を上げたが、実情は正にこの通りであった。選にあたった将校たちも同感だったのだろう。しかし、奴隷船とはいうもいったり、入選させた者もさせた者である。この下痢がアメーバ赤痢の前兆とは誰も気付かなかった。

 

奴隷船 1

2006-06-14 09:13:42 | Weblog
 6月18日、マニラ出航。バターン半島の横を通って、広々とした海洋に出た。 この頃から船内にシラミが出始めた。誰かが持ち込んだのか、急速に増えたのた。私は頭髪のシラミしか見たことはなかったので、最初気がつかなかったが、あちこちでシラミ騒ぎが起きた。「俺はシラミなんか」と言っていた者もやられていた。勿論私もである。
 半透明のシラミが褌の縫い目に5,6匹いた。私達は甲板に出てシラミ退治をした。血を吸った奴は血が透けて見えた。卵もヘリにビッシリ産み付けられて、1ミリくらいなのをプツ、プツと片っ端から潰していった。
 入浴もないし、勿論顔も洗わない。選択もろくすっぽ出来ず、暖かいというよりも蒸し暑い、風も通さない船倉の中だから、シラミの繁殖にはもってこいの所であった。
最初のうち、「洗濯しろ」とやかましく言うので、取り掛かってみたが、海水での洗濯は泡も出ず、カエッテベトベトした感じで気持ちが悪かった。
 後で逆性石鹸というのを配給した。これは海水でも泡が出て汚れは落ちるのだが、すすぎが海水ではこれも良くなかったので、次第に誰もしなくなった。
 牡丹江から着ていた襦袢は、所々破れて、背中の所は肌が出ていた。ある将校から、「おい、おい、これはどうした?」と軍刀のこじりでつつかれたが、「はっ」と言ったままだった。着替えたって、ほころびを繕ったってどうにもなるものではないしと気にしなかった。
 この頃から水の配給が少なくなた。だんだんに減って水筒半分を2日で飲むという具合になった。船倉からクレーンを使って食料品を吊り上げていたが、その原動力が小型の蒸気機関だったので、翌朝、ピストンのドレンコックをひねるとタラタラと水がこぼれた。それを大事に水筒に受けて飲んだ。
 スコールが来るのが見えると、急いで携帯天幕を張って集めたが、これは苦くて飲めなかった。きっと、天幕の塗料のためだろうといった。しかし、別の所の雨水は飲めたそうだ。

マニラ港

2006-06-13 18:57:11 | Weblog
 波が荒くなった。 バシー海峡だ。ここは荒れるから潜水艦の攻撃はないだろう。とはいっても見張りは厳重になった。稲妻は時々真昼のように夜の海上を照らし、我々の肝を冷やした。
 6月16日、海の上に島が見えた。切り立った断崖、その上の樹木の緑がとても美しかった。船はその先端を左に見て、ゆっくり進んでいった。突端が断崖で高く、次第になだらかに低くなって、港の方に続き、海は青く澄んでいた。
ここがフィリピン、ルソン島のマニラ湾のバターン半島で、突き出た所が要塞で、激戦のあった所だ。お玉じゃくしのような形をしていると新聞に出ていたとおりであった。
 マニラ港の沖合いに停泊して、タンカーで水の補給を受けた。接岸は状況が悪いので、できないとの事。遠く遥かにマニラ市街を見ただけだった。

高雄港

2006-06-12 22:47:22 | Weblog
 船は昨日までの「ああ堂々の輸送船」の姿は何処えやら、落武者のように3隻が1列になって航行していた。
 やがて 海上に細長く突き出た洲の先端に監視硝があった。次第に港に入っていく。爆撃された船が横倒しになっているのを横に見ながら、随分長く入ってようやく岸壁に横付けされた。
 「やれやれ、これでひと安心」 聞けばこの港は高雄港だという。
 有馬山丸の船首の復元作業が終るまで、このマニラ丸も停泊するとのことだった。軍歴表にはその日(6月2日)出航したことになっているが、私の記憶では2週間くらい いたと思う。
 この間、下船したのは2回。1回は岸壁で宮原隊長から、モールス信号の発声練習、1回は何かの使役だったと思う。
 船に台湾人の物売りが来た。彼らは乗船できないので、岸壁からバナナを売っていたが、その前に[物売りからバナナを買って食うことは禁止]の命令が出ていたので誰も買わなかった。すると今度は、黒砂糖飴を売りに来た。値段を丸窓越しに決めて、飯盒に銭を入れて吊り下げてやると、銭と引換えに飴を入れる。上から紐を手繰り寄せて、受け取る要領で、随分売れたようであった。
 ある時、スコールがやって来たが、その雨の中をゆうゆうとズブ濡れになりながら、荻野1等兵が岸壁を歩いていた。
 「荻野!何をしとるか!」と宮原隊長は怒鳴ったが、荻野は別に急ぎもせず歩いていた。
 有馬山丸の船首が出来上がって、出帆したのは月15日頃だったと思う。今度の船団は5,6隻のみすぼらしいものに変わった。その中に有馬山丸の妙な形の船首があった。

火焼島沖の戦闘 2

2006-06-11 10:30:18 | Weblog
 私は階段を下りて自分の部屋に戻ろうとしたが、どうにも進めなかった。
 甲板では警備の兵隊で爆雷が投下され、ズシン ズシンと重苦しい破裂音が海中で起こった。船のエンジンは全馬力をあげた。石炭ガラが火の粉になって、煙突から吹き出され、振動が激しくなった。
 私が甲板に行ったときは、兵隊が曲射砲見たいなので、海中を射撃していた。
 漸く入った船倉の部屋は興奮に青ざめた兵隊で一杯だった。皆、軍服を着て剣を吊り、編上げ靴を履いて、巻脚袢を巻いていた。陸上ならともかく、こんな服装で海に投げ出されたら、とても助かるまいと思った。こんな準備をしているから、避難態勢が遅れてしまうのだ。よほど慌てたと見えて、軍曹が1等兵の服を着たり、巻脚袢もただ巻きつけただけだったりして、階段の上の方の取り乱し方が目立った一幕だった。
 この時から、階級が上で威張っていても、いざという時のザマは(勿論、灯火管制下の真っ暗闇ではやもう得ない事かも知れないが)何だという空気が出てきたことは否めない。命が惜しいのは誰でも同じであった。
 「各船は緊急避難せよ」の命令が出たとかで、私達のマニラ丸は、煙突が赤く見える程、石炭を焚いて狂ったように走った。そして どの位時間が経ったろうか、ようやく明け方近く、どこかの港の入り口に、2,3隻の僚船と一緒に停まった。
 今思うと、この港は台湾の東にある台東港だったらしい。
 しばらくして出航、又、全速力で南に急いだ。昨日見たような海岸の岸壁が又見えた。船は厳重な灯火管制が行われているが、南に下がるにつれて雷が多くなり、稲妻が真昼のように海上を照らすのには、どうすることもできなかった。
 昨夜のアメリカ潜水艦の攻撃は、私達のマニラ丸がジグザグの進路を変えた途端に、隣に並んで走っていた、有馬山丸がツッと出てきたため、その船首に魚雷が命中。そこにいた兵士が7名死んだということだった。
 これが、火焼島の戦闘となっている。(台湾の太平洋側の小さな島、今の緑島?)

火焼島沖の戦闘 1

2006-06-10 22:58:13 | Weblog
strong> その夜、私は甲板の手すりにもたれながら1人で立っていた。
 船は大きい黒い塊のようになって、右に左にと進路を小さく変えながら、時には上下に微かにゆすり真っ黒い海を走っていた。
 一体、これから先どんな運命が待ち構えているのであろうか。昼間見た軍属の死が私に強い衝撃を与えたことは事実である。
 事ここに至った以上、死すべき時には死なねばならぬし、決して見苦しい事はしてはならないのだ。軍属の人だけでなく、誰でも明日の命は分からないのだ。
 しかし私は軽々しくは死なないぞ、そして最後の最後まで人間として、日本人として最善を尽くし、親、妻子達の幸福を祈りつつ悠久無限の世界に溶け込んでいこうと決心した。
 そのころ、私は下痢をしていたので、軍医に見てもらったら、「これを飲んでおけ」と丸薬をくれた。今思えばクレオソートだったらしい。「何もしないでここに来て寝ておれ」と言ったのを幸いに、2等船室の横のなるべく人の通らない廊下に寝ていた。
 2日くらい経った時、それまで船団を護衛していた飛行機が着艦に失敗して海に墜落したのを私は見た。それから飛行機の護衛はなくなった。
 船には救命道具として、本式のボートや孟宗竹の直径12,3センチのものを10本くらい組んだ急造筏がうず高く積んであった。ここは兵隊の立ち入り禁止だったが、このボートの中に寝ていた兵隊が見つかり、注意を受けたと言っていた。
 「俺はここに居れば船が沈む事があっても先ず安心だ」なんて思って寝転がっていた。
 その夜も船は真っ暗闇の中をジグザグコースをとりながら進んでいた。
 突然、私達の船の右側前方200メートルくらいの海上に火柱が船のマストより高く上がったのが見え、又向こうにも火柱が立った。
 「あっ、魚雷だ!」と叫んで立ち上がった時は、火柱は海上を真昼のように照らして消え、後は又もとの闇が包んだ。
 さあ、どうゆう事になるか、1分、2分、3分と私には随分長い時間に思えた。すると5分《私にはそう思えた。実際はもっと短かったかも知れぬ》突然船内が割れるようにざわめいて、甲板に兵隊が集合し始めた。

輸送船

2006-06-09 22:48:35 | Weblog
 5月29日 門司港出発。船室は蒸し暑く、人間が一杯詰まっているので皆、甲板に出た。3等船室が兵隊、2等船室は将校、1等船室は司令部ということだった。 私も甲板に出て見た。
 ああ堂々の輸送船という言葉がピッタリのような、二十数隻が1列に船団を組み、その上を飛行機が警戒していた。
 ここでも又、便所が足りず、そこで急遽、簡易便所が作られた。甲板から横に2メートルくらい木材を突き出し、その上に板囲いをして扉をつけたのが10個位連なったものであった。
 踏み板を跨(また)いで下を見ると大海原。ここでやると糞は風邪で飛び散り、舷側の丸窓の上に落ちていった。
 船倉では、暑くてたまらないので丸窓をいっぱい開けて、ボール紙で風受けをつけ、少しでも冷たい海風が入るようにして「これで涼しくなった」と喜んでいたら、そこから大便が飛び込んでくる始末になり、《これはたまらん》と丸窓は閉じられて、ますます暑くなった。
 ますます暑くなる訳はもう一つあった。それは私達の船団は南に南にと下っていたからであった。
 「おい、俺達はスマトラに行くのだとよ」
 「ヘエー、何処から聞いた?」
 「どこかの部隊の准尉が秘密だけどと言って話したそうだよ」
 「スマトラか、まさか?」
 この事について、電信第6連隊からの引率者であった神野少尉が、昭和60年4月、三重県桑名市の長島温泉での戦友会で次のように話してくれた。
 【あの時、斉藤は《内地に帰れる》と言ってよろこんでいたなあ。 私は牡丹江駅で顔見知りの憲兵に会った。「神野さん、この兵隊は何処へ行くか知っていますか?」 「いや、知らんねえ」 「実は秘密ですが、この列車の兵隊はスマトラに行くんですよ」と囁くように教えてくれた】   勿論、私達兵隊は知る由もなかった。
 勤務は対潜哨戒、飯上げの当番くらいで、それ以外の兵隊は外に出てゴロゴロしていた。 出帆して2,3日位経ってからだったか軍属の人が脳溢血かなんかで相次いで2人死んだ。私も2等船室の横に寝かせてあるのを見た。私のところの宮原中尉(その頃少尉だったか?)が兵隊を集めて
 「御国の為に死なれたのに、敬礼もして通らんとは不都合だ」と訓示したが私達は《俺達だって明日はああなるかも知れんのだから、おあいこだ》と可哀そうとは思いながらもそう言っていた。

転属 3

2006-06-08 19:24:52 | Weblog
 そうしたら、門司駅下車。 その夜は門司兵站所で宿泊。近くの者はひそかに連絡をとって家族と面会した者もいたようだ。
 5月27日、門司港の家畜検疫所の横の広場で、訓示と命令伝達があったが、私達には聞き取れなかった。 
 それが済むと傍らの軍用船に乗船。船の名はマニラ丸、9千トン。大阪商船か日本郵船か分からない。後で聞けば兵員9千名が乗っていたという。船倉には食糧、兵器を満載していた。この頃になると、
「おい、おい、伊勢の宇治山田に行くのに、なんで船で行かねばならんのか。おかしいぞ」と、不審顔でヒソヒソ話し合った。
 私達は船倉を2段に板で仕切った所に入れられた。上、下共、立って歩けない高さ、背嚢は一括して船倉に格納。帯剣と飯盒、巻脚袢、軍靴という格好。何しろ、右往左往、混雑に混雑を重ねた状況だった。