「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

高雄港

2006-06-12 22:47:22 | Weblog
 船は昨日までの「ああ堂々の輸送船」の姿は何処えやら、落武者のように3隻が1列になって航行していた。
 やがて 海上に細長く突き出た洲の先端に監視硝があった。次第に港に入っていく。爆撃された船が横倒しになっているのを横に見ながら、随分長く入ってようやく岸壁に横付けされた。
 「やれやれ、これでひと安心」 聞けばこの港は高雄港だという。
 有馬山丸の船首の復元作業が終るまで、このマニラ丸も停泊するとのことだった。軍歴表にはその日(6月2日)出航したことになっているが、私の記憶では2週間くらい いたと思う。
 この間、下船したのは2回。1回は岸壁で宮原隊長から、モールス信号の発声練習、1回は何かの使役だったと思う。
 船に台湾人の物売りが来た。彼らは乗船できないので、岸壁からバナナを売っていたが、その前に[物売りからバナナを買って食うことは禁止]の命令が出ていたので誰も買わなかった。すると今度は、黒砂糖飴を売りに来た。値段を丸窓越しに決めて、飯盒に銭を入れて吊り下げてやると、銭と引換えに飴を入れる。上から紐を手繰り寄せて、受け取る要領で、随分売れたようであった。
 ある時、スコールがやって来たが、その雨の中をゆうゆうとズブ濡れになりながら、荻野1等兵が岸壁を歩いていた。
 「荻野!何をしとるか!」と宮原隊長は怒鳴ったが、荻野は別に急ぎもせず歩いていた。
 有馬山丸の船首が出来上がって、出帆したのは月15日頃だったと思う。今度の船団は5,6隻のみすぼらしいものに変わった。その中に有馬山丸の妙な形の船首があった。