慌ただしくこの1月が、もう過ぎようとしています。
年明け早々に母の容態が急変し、その看取りやら、亡
くなってからの葬儀、その後にぎっくり腰になったりと
何とも落ち着かない年の始まりでした。
3日の朝まで、自分で食事のできた母でしたが、あれ
よあれよという間に寝込み、荒い息となってしまいまし
た。それでも、その寝込んだ夜は強い力で酸素マスクを
外してしまい、宥めても諭してもダメで、一晩格闘を繰
り返しました。
その後だんだん力もなくなって行きましたが、大よそ
親戚の人たち、会っておいてもらいたい人にも会っても
らえ、寝付いてから3日後の夕方帰らぬ人になりました。
享年90歳。老衰での最後でした。
若い時から病弱で、長生きはできないというのが口癖
の人でしたが、親戚の誰よりも長生きしてくれました。
面倒を見られるのが嫌で、思い通りにならない体を持
て余し嘆いていた日々からやっと解放されたのですから、
今はきっと遺影の写真のように、明るい笑顔をしている
ことと思います。
去年の秋には、6人目の孫をその手に抱きました。
何も最後の言葉は残してくれませんでしたが、思い残す
ことはなかったろうと、不肖な息子は都合のいい解釈をし
ておる次第です。
年明け早々に母の容態が急変し、その看取りやら、亡
くなってからの葬儀、その後にぎっくり腰になったりと
何とも落ち着かない年の始まりでした。
3日の朝まで、自分で食事のできた母でしたが、あれ
よあれよという間に寝込み、荒い息となってしまいまし
た。それでも、その寝込んだ夜は強い力で酸素マスクを
外してしまい、宥めても諭してもダメで、一晩格闘を繰
り返しました。
その後だんだん力もなくなって行きましたが、大よそ
親戚の人たち、会っておいてもらいたい人にも会っても
らえ、寝付いてから3日後の夕方帰らぬ人になりました。
享年90歳。老衰での最後でした。
若い時から病弱で、長生きはできないというのが口癖
の人でしたが、親戚の誰よりも長生きしてくれました。
面倒を見られるのが嫌で、思い通りにならない体を持
て余し嘆いていた日々からやっと解放されたのですから、
今はきっと遺影の写真のように、明るい笑顔をしている
ことと思います。
去年の秋には、6人目の孫をその手に抱きました。
何も最後の言葉は残してくれませんでしたが、思い残す
ことはなかったろうと、不肖な息子は都合のいい解釈をし
ておる次第です。