秋に向けて2本の戯曲を書き上げようと、今準備をしています。
まったく内容の違うものになるので、そのテキストとして読むものもまったく違うのですが・・・・・・。
まずその1冊が、鎌倉時代の仏教説話集「沙石集」。巻一を読み終えて、今巻二の途中です。
が、最初は原文を読み、その上で現代語訳を読んでいこうとはじめましたが、あまりに進み具合が遅いので、現代語訳を先行させ、気になった部分だけを拾うことに切り替えました。
私の師が最後に書き上げた遺作が、この「沙石集」をもとにして書かれたものだったので、いつかは読まなければと思いながらついつい怠っていたものを、向こうからやってきてくれた感があります。
今1冊はアントン・チェーホフの戯曲「桜の園・三人姉妹」。神西清訳の新潮文庫版です。
20代から何度も読んできた作品なんですが、今回なんとも一つ一つのセリフが、生きたセリフとして入ってくることに驚いています。
これが歳を取るということであり、芝居ということに置いても、年輪を積み重ねるということなのかと、あらためて感じ入っていますが、それでも普通の演劇人の方々に比べれば、この歳でようやくこの閾かというところかもしれず、この先どのくらいの時を費やせば、まともなレベルに到達できるかと、思ってしまいます。
それでも、チェーホフに立ち向かうしかない、というのが私の現状で、まあだから何? という程度のことなのでしょうが、読むしかないのです。出来れば他訳のものも読みたいですが、手に入るか・・・・・・。
そのほか、橋本治さんの著作を読み齧ったり、また法律関係の書物にも手を伸ばそうかと考えています。
そう言いつつも、まったく関係のないものにも手を伸ばし、小川洋子著「猫を抱いて象と泳ぐ」を読んだり、前に「ワタシのほんだな」で紹介した三枝和子さんの小説「その日の夏」を本棚に見つけてしまったので、いっきに読んでしまったり、また谷川俊太郎さんの詩集「夜のミッキー・マウス」を読んでしまったりしているのですが、まったく関係ないかといえば、そうでもないのが面白いところで、やはり世界はそこそこに繋がっていて、いろんなことを教えてくれ、必要な情報を与えてくれます。
読書は、めぐりまわる宇宙の端緒に繋がる窓であるようです。
さあしかし、なかなか、いまだ書き出すに至れない私です。
まったく内容の違うものになるので、そのテキストとして読むものもまったく違うのですが・・・・・・。
まずその1冊が、鎌倉時代の仏教説話集「沙石集」。巻一を読み終えて、今巻二の途中です。
が、最初は原文を読み、その上で現代語訳を読んでいこうとはじめましたが、あまりに進み具合が遅いので、現代語訳を先行させ、気になった部分だけを拾うことに切り替えました。
私の師が最後に書き上げた遺作が、この「沙石集」をもとにして書かれたものだったので、いつかは読まなければと思いながらついつい怠っていたものを、向こうからやってきてくれた感があります。
今1冊はアントン・チェーホフの戯曲「桜の園・三人姉妹」。神西清訳の新潮文庫版です。
20代から何度も読んできた作品なんですが、今回なんとも一つ一つのセリフが、生きたセリフとして入ってくることに驚いています。
これが歳を取るということであり、芝居ということに置いても、年輪を積み重ねるということなのかと、あらためて感じ入っていますが、それでも普通の演劇人の方々に比べれば、この歳でようやくこの閾かというところかもしれず、この先どのくらいの時を費やせば、まともなレベルに到達できるかと、思ってしまいます。
それでも、チェーホフに立ち向かうしかない、というのが私の現状で、まあだから何? という程度のことなのでしょうが、読むしかないのです。出来れば他訳のものも読みたいですが、手に入るか・・・・・・。
そのほか、橋本治さんの著作を読み齧ったり、また法律関係の書物にも手を伸ばそうかと考えています。
そう言いつつも、まったく関係のないものにも手を伸ばし、小川洋子著「猫を抱いて象と泳ぐ」を読んだり、前に「ワタシのほんだな」で紹介した三枝和子さんの小説「その日の夏」を本棚に見つけてしまったので、いっきに読んでしまったり、また谷川俊太郎さんの詩集「夜のミッキー・マウス」を読んでしまったりしているのですが、まったく関係ないかといえば、そうでもないのが面白いところで、やはり世界はそこそこに繋がっていて、いろんなことを教えてくれ、必要な情報を与えてくれます。
読書は、めぐりまわる宇宙の端緒に繋がる窓であるようです。
さあしかし、なかなか、いまだ書き出すに至れない私です。