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今上天皇は第126代の天皇であるが、遡って初代の天皇は神武天皇で、紀元前660年に即位したことはよく知られている。
神武天皇は、日本神話に登場する主神である天照大神(または天照大御神、あまてらすおおみかみ) の五世孫で、日本国を建国したとされる人物だ。

神武天皇 略歴
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87

『日本書紀』によると庚午年 (換算すると紀元前711年となる) に筑紫の日向で誕生。15歳で立太子 (公式に皇太子とさだめること)。
吾平津媛 (あひらつひめ) を妃とし、手研耳命 (たぎしみみのみこと) を得た。
45歳のときに兄や子を集め東征 (神武東征) を開始。日向から宇佐、安芸国、吉備国、難波国、河内国、紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え中洲 (大和国) を征し、橿原 (現在の奈良県橿原市) の地に都を開いた。そして媛蹈鞴五十鈴媛命 (ひめたたらいすずひめ) を正妃とし、翌年に初代天皇として紀元前660年2月11日に即位した。
皇后となった媛蹈鞴五十鈴媛命との間には神八井耳命 (かんやいみみ)、神渟名川耳尊 (かんぬなかわみみ、綏靖天皇) を得た。即位76年に、崩御。




このように神武天皇は現在の宮崎県生まれである。
夫人の吾平津媛も同郷で、長く連れ添った夫が天皇に即位という大出世を果たしたものの、父親が神で母親はヤマト地方の有力者の娘だった媛蹈鞴五十鈴媛命に正妃 (=初代皇后) の座を奪われたという、極めて理不尽な待遇を受けている。現代だったら大変なスキャンダルだ。
吾平津媛は宮崎県日南市の吾平津神社で祀られている。



また神武天皇は45歳にして東征を開始したのだが、縄文時代の平均寿命は15歳、弥生時代の平均寿命は18~28歳と推定されており、相当な晩成型であったようだ。
そして51歳で天皇に即位し、そこから76年在位し紀元前585年に崩御された。
76年の在位は昭和天皇の62年を超えて歴代最長、そして127歳まで長生きされたということで人類史上最長寿でもある。。

さて、初代天皇の神武天皇が紀元前585年に崩御された後、天皇のポジションはいきなり約3年間空位となった。この間に起きたのが「手研耳命の反逆」だ。

手研耳命の反逆 (タギシミミの反逆)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%AE%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%9F%E3%81%AE%E5%8F%8D%E9%80%86

神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛命の間には、神八井耳命 (かんやいみみ)、と神渟名川耳尊 (かんぬなかわみみ) の二皇子が生まれた。紀元前619年に神渟名川耳尊は立太子されて皇太子となった。
神武天皇は紀元前585年に崩御し、翌年葬られた。皇太子の神渟名川耳尊は特に心を喪葬の事に留めていた。その庶兄である手研耳命は長くにわたる政務経験があったが仁義にそむいており、二弟を害することをはかった。神渟名川耳尊と神八井耳命はひそかに手研耳命の志を知って、これを防いだ。
神渟名川耳尊は弓矢で手研耳命を射殺そうと思った。神渟名川耳尊は、兄の神八井耳命に射殺す役目を与えた。しかし神八井耳命は手脚が戦慄し矢を射ることができなかった。そして神渟名川耳尊は兄の所持していた弓矢を掣き取り、手研耳命を射た。
神八井耳命は失態を恥じて神渟名川耳尊に皇位を譲り、紀元前581年に神渟名川耳尊は綏靖天皇 (すいぜいてんのう) として即位した。


手研耳命は神武天皇の東征に従っていたといわれるので、在位76年の神武天皇の崩御時点で既に90歳以上だったと推測される。
古事記によると、未亡人となった義母の媛蹈鞴五十鈴媛命を妻にしたとも言われる。かなりドロドロした一家だ。

また綏靖天皇の在位は紀元前581年から紀元前549年までの33年間で、51歳で即位して84歳で崩御されたこととなる。これまた当時では考えられないほど長寿だ。



第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代は「欠史八代」と呼ばれ、その多くが後世の創作によるものと見られ、欠史八代の天皇が実在した可能性は学術的にはほぼ無いとされる。同様に神武天皇についても実在性については議論があるが、細かいエピソードや在位期間などは神話の世界であろう。
しかし物語としても日本が誇るべき皇室の歴史の原点として、これではコンプライアンス上の問題が多すぎる。もう少しロマンにあふれた内容にできなかったか思う。



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