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知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 




このブログでもこれまでにもいくつか例があるが、史上初の○○、最古の○○の特定はとても難しい。実際はより以前のものがあっても広く知られていなかったり、定義づけ、カテゴリー・区分などによっていろいろ変わってきたりする。今回もその一つで「日本で最初の鉄道」を取り上げたい。

もちろん「日本で最初の鉄道」といえば、1872年(明治5年)9月12日(旧暦、新暦だと10月14日) の、新橋駅 - 横浜駅間の正式開業を指すことが一般的で、10月14日は鉄道の日となっている。(実際にはその数か月前から仮営業が行われていた)
しかし、実際にはその何年か前から国内各地で「鉄道」は走っている。確認できる3つの事例を調べてみよう。

まず、日本の鉄道の発祥という点で考えれば、1865年(慶応元年) 4月12日に、長崎で貿易商のトーマス・グラバーが、長崎の居留地の海岸通りに約600メートル(諸説あり)のレールを敷き、上海の展示会で買った英国製の蒸気機関車アイアン・デューク号を走らせたのが最初となる。
2両の客車に実際に人々を乗せ、黒い煙をはいて走ったそうで、集まった人々は大いに驚いたそうだ。
トーマス・グラバーは幕末に貿易商・武器商人として日本の近代化に貢献したが、鉄道も先んじて日本に紹介したわけである。

従って、日本の鉄道発祥の地となると長崎であり、実際に長崎市民病院の前には記念碑が建てられている。日本の鉄道の発祥は明治維新前だったことが興味深い。

発祥の地コレクション 我が国鉄道発祥の地
http://hamadayori.com/hass-col/transp/tetudo-nagasaki.htm



ただし、これはデモンストレーションであり、鉄道の運行とは言えない。
実際に運行した鉄道としては、1869年(明治2年) に開業した北海道・泊村の茅沼 (かやぬま) 炭鉱軌道を挙げることができる。

茅沼炭鉱軌道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%85%E6%B2%BC%E7%82%AD%E9%89%B1%E8%BB%8C%E9%81%93

1856年、茅沼にて偶然石炭が発見された。開港まもない箱館にとって、欧米の蒸気船用の石炭の確保は重要であった。直ちに箱館奉行所は茅沼にて石炭の調査を開始する。
箱館奉行所はアメリカ人技師を招き、茅沼炭鉱の採掘を開始した。そのような中、イギリス人技師エラスムス・ガウワーが、効率化のために鉄道(トロッコ)の建設を提案する。1866年には測量が開始され、建設が始まる。やがて建設は江戸幕府から明治政府に受け継がれ、1869年に開通する。
開業したのは、茅沼炭鉱坑口 - 茅沼港(積み出し港)の2.8km。鉄道とはいっても、仮設軌道やトロッコに近い。記録によれば、枕木は約150mm×150mm×1500mmの角材を用い、約900mm間隔で並べていた。レールは枕木と同じ寸法の角材に、補強用の幅15mmの鉄板を取り付けたものを使用していた。軌間は約1,050mm。
貨車は大型と小型のものがあった。茅沼炭鉱坑口から積み出し港までは緩やかな傾斜であることを利用し、茅沼炭鉱坑口→積み出し港は、貨車の重さを利用して坂を下らせた。制御のため、人が1名乗車していたという。積み出し港→茅沼炭鉱坑口は牛、馬の力、場合によっては人力で動かしたという。
1881年に整備工事によりレールが鉄製に置き換えられた。


その後、作業の効率化を図るために1931年に選炭場から岩内港までの約10kmに索道(ロープウェイ)が完成し、茅沼炭鉱軌道は廃止された。
しかし冬には海の湿気を含んだ風雪によって滑車やロープが凍結することが頻繁にあったため、1946年になって炭鉱に近い平野部の発足 (はつたり) に貨物駅を設けて岩内駅からの茅沼炭鉱専用鉄道が開業し、索道は廃止された。 (以下の写真は茅沼炭鉱専用鉄道)



その後1962年に茅沼炭鉱専用鉄道は廃止、茅沼炭鉱も1964年に閉山となった。
このように「日本最初の鉄道」の茅沼炭鉱軌道は、1931年に廃止されており、痕跡がほとんど残っていない。以下の探訪記はとても貴重なものだ。

日々のメモ帳 茅沼炭鉱軌道
http://futures.at.webry.info/201205/article_13.html

実際には茅沼炭鉱軌道は木製軌条のトロッコに近いもので、動力は牛、馬あるいは人であり、公共性がなく、旅客を運ぶものではない。 従って、茅沼炭鉱軌道を「日本最初の鉄道」と捉えるかどうかは、「鉄道」をどのように定義するかによる。

公共性があり旅客を運んだ馬車鉄道として、1871年(明治4年) に開通した大阪造幣寮馬車鉄道を挙げることができる。
なかなか記録がないが、以下の資料を参照しながら、簡潔にまとめてみたい。

なにわ ふくしま 資料館 中島陽二「幻の馬車鉄道の謎」『大阪春秋 第75号』1994.6
http://homepage3.nifty.com/osaka-web-museum/nakajima3.htm

桜の通り抜けで有名な、大阪市北区天満の造幣局 (当時は造幣寮) は1871年2月に創設されたが、その経営には西欧の新知識、新技術は不可欠であり、政府は英国人を中心に外国人技師を招聘し、一時は外国人が20名ほど任務についていた。彼らの多くは川口の外国人居留地 (現在の大阪市西区川口付近) に住んで造幣寮に通っていた。その交通手段、また造幣寮の資材の運搬手段として考えられたのが馬車鉄道である。この馬車鉄道は当初より計画され、1871年2月造幣寮創設後まもなく1871年9月に開通した。
当時一帯は田園地帯であり、その中を馬に曳かれた車に外国人が乗って走っていたということでたいへん話題になったようだ。町民が線路内に立ち入り、運転に支障をきたしたこともあるという。
しかし、翌1872年5月には「日々の往復を止め、用務のみにこれを使用すること」と、1年たらずでその実用性が問題となった。そして1873年に鉄道局 (鉄道寮) に編入され、1875年に敷地が大阪府に譲渡され馬車鉄道は短い使命を終えた。日本の国有鉄道に編入された鉄道の第1号でもある。

大阪造幣寮馬車鉄道が短命だったのは、造幣寮沿いを流れる大川は、古来から物資輸送の本流の川筋であり、この水運を考慮してこの地に同寮は設置されたにもかかわらず、
鉄道馬車が開設されたことに他ならない。全く実情にそぐわず、短命に終わる宿命であったといえよう。短命であったゆえに、この馬車鉄道が造幣寮からどこまで走っていたかについては明確でなく、諸説あるようだ。廃線後の1888年の大阪実測図で痕跡を見ることができるので、おおよそのイメージは可能で、大阪で中心部を横断する路線であったことがわかる。何らかの形でこの路線が全線引き継がれれば、大阪の地図は変わっていたことだろう。



このように、1872年の新橋 - 横浜の開業前にもいくつかの「鉄道」が走っていたことがわかる。それが東京でなく北海道や大阪であったことに、当時鉄道建設が国家的な注目を浴びていたことが推測できる。実際に京浜間と同時に工事が進められていた京阪神地区でも、1874年5月に大阪 - 神戸が開通し、1877年には京都まで延伸されており、その後鉄道網は全国に広まった。
その日本の鉄道史をより深く捉えるために、アイアン・デューク号、茅沼炭鉱軌道、大阪造幣寮馬車鉄道を記憶しておこう。



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