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日本一高い構築物の変遷
社会
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2021年01月31日
以前このブログで、世界一高い構築物であった
ワルシャワラジオ塔
(646m) が1991年に倒壊したため、KVLY-TV塔 (629m) が世界一の高さに返り咲いたという記事を書いた。(この記事の中では建築物と構築物の言葉の使い方が明確でなかった)
今回は日本一高い構築物 (建築物ではない) の推移を展開していきたい。
明治時代以降の記録として、1914年に建設された茨城県日立市の「日立鉱山の大煙突」 (約155.75メートル) が当時日本一高い構築物となった。
ひたち風 日立市の大煙突、すごいんです!|ひたち風
https://www.city.hitachi.lg.jp/citypromotion/hitachikaze/topic/001/honsugo2.html
約100年前、日立鉱山の煙が近隣の植物を枯らしてしまいました。さまざまな対策が講じられるなか、久原房之助が主体となって、高い煙突をつくり煙を拡散する方法にたどり着きました。1914年12月20日、当時では世界一の高さを誇る大煙突が完成、煙の害は激減しました。
1914年3月に着工し、同年12月には完成、翌年3月に稼働していた大煙突!恐るべきスピードで作られました!
1993年2月19日に大煙突は突然、およそ3分の一を残して倒壊し、市民に衝撃を与えました。
しかし!折れてもなお、約100年前に建てられた大煙突は、現在も現役! JX金属株式会社日立事業所の設備として稼働しています。
しかしわずか2年後の1916年に、大分県大分市の「日本鉱業 (現パンパシフィック・カッパー) 佐賀関製錬所の第一大煙突」 (167.6m) が抜いた。
この大煙突は約100年を経て2013年5月(まで)に解体された。跡地には、記念として高さ1.5m部分までが残されている。
これを抜いたのは1929年に建設された愛知県刈谷市の「依佐美送信所」 (250.0m) である。
長波の使用を主とした無線送信所で、1929年に運用を開始したが、戦後は米軍に接収された。1993年に米軍より閉鎖する旨の通告を受け、翌1994年に日本に返還されたのに伴い、アンテナ鉄塔、建物は解体された。現在は依佐美送信所記念館が立てられている。
依佐美送信所
http://yosami-radio-ts.sakura.ne.jp/
その8年後の1937年に建設された埼玉県川口市の「NHK川口ラジオ放送局」(312.8m) が、その後しばらく日本一の座に君臨した。
東京発展裏話 #8 日本最高のタワーを支えた基礎構造物~NHK川口ラジオ放送鉄塔跡~
https://www.miwachiri.com/tokyo/0308_kawatwr.html
1937年に竣工し、1982年まで関東地方一円にNHKラジオ放送等を送信していた送信用鉄塔です。鉄塔そのものは老朽化と技術革新等により送信設備を埼玉県久喜市と菖蒲町にまたがる敷地に移管した事で、1984年までに解体されてしまいましたが、現在も跡地にその名残を見ることが出来ます。
日本一の巨塔の構造は、一辺3mの正三角形断面をした三角柱トラス鉄塔で、柱と主塔基部(基礎)との間に基部絶縁(巨大な磁器碍子)4柱が挟み込まれ、主塔を支える支線(ワイヤー)は7段3方向に張られていました。これが南北方向に463m離れて2基建っていました。塔の最上部、5段目、3段目にそれぞれ赤色の航空標識灯が付けられた他、南塔には4人乗りエレベータが設置され、最上部まで10分で昇る設計になっていました。軟弱地盤に建つ鉄塔の荷重1,965tを支えるため、塔を支える基礎には長さ23mの鉄筋コンクリート杭が48本打たれ、また支線を支える支線基礎は850tのコンクリートブロックが使われました。
そして1958年に「東京タワー」(333m) が建設された。 当時はビルの高さが31mに制限されていたので、高さが際立って見える。
しかし、東京タワーの高さを凌ぐ塔が10年後の1968年に2つ同時に現れた。ともに東京都小笠原村の「南鳥島ロランC局」と「硫黄島ロランC主局」である。ともに地上系電波航法システム LORAN (LOng-RAnge Navigation) 用のタワーで、アメリカ沿岸警備隊及び海上保安庁が設置し運用していたものだ。「南鳥島ロランC局」は1965年建設、「硫黄島ロランC主局」は1963年に建設されたものが倒壊して、1965年に再建されたものだ。そしてともに1968年6月に日本に返還された時に「日本一高い構築物」となった。
以下は硫黄島ロランC主局の写真で、よく注意してみると中央に塔が見える。
しかしその後LORANからより高精度な衛星系電波航法システムであるGPSへの移行が進み、硫黄島ロランC主局は1993年に解体、南鳥島ロランC局は最終的に3代まで引き継がれた後に2010年解体、硫黄島ロランC主局となった。
更にこの2つを凌ぎ、1975年には長崎県対馬市で「対馬オメガ局送信用鉄塔」(454.83m) が建設された。オメガ航法はアメリカが開発した電波航法でかつて船舶や航空機で利用されていたものである。超長波を用いることで電波到達距離が10000 kmとLORANなどと比べて格段に長く、わずか8つの送信局で地球上すべてをカバーできるものだった。その中でアジアに設置された送信局が対馬オメガ局である。
しかし、LORAN同様にGPSの普及に伴い、世界中の送信局が1997年9月に電波送信局としての運用を停止し、対馬オメガ局も1998年閉局し、1999年1月から2000年3月までに解体された。跡地はタワーの一部を保存し公園として整備されている。
つまり1999年1月から2000年3月の間のどこかで、東京タワーが再び日本一高い構築物の座に返り咲いたこととなる。(その時点で硫黄島ロランC主局は解体済で、南鳥島ロランC局の2代目と3代目は213mに縮小されていた)
そして2010年3月29日に「東京スカイツリー」(建設中) が東京タワーを抜き、そのまま現在に至っている。
こうしてみるとワルシャワラジオ塔のような倒壊もあったし、世界一の座同様に日本一の高さの後退という例もあった。特に電波航法のLORANとオメガ航法、そしてGPSへの移行は日本一の高さをめぐる争いに大きな影響を与えたことがわかる。構築物の高さは必ずしも建築技術の進歩だけによるものではないことが興味深い。
東京スカイツリーの次があるかどうかを注目していきたい。
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