goo blog サービス終了のお知らせ 
My Encyclopedia
知らないことや気になることをいろいろと調べて記録していきます
 



 

2021年に土木学会推奨土木遺産として北海道の弾丸道路 (札幌・千歳間道路) が選出された。「積雪寒冷地や自動車高速走行のための先駆的な設計基準を導入し、北海道に限らず全国の道路改良の指標となった土木遺産」 というのが選奨理由である。

土木学会 選奨土木遺産 弾丸道路(札幌・千歳間道路) 
https://committees.jsce.or.jp/heritage/node/1148

この弾丸道路は正式には国道36号の札幌・千歳間であり、北海道の大動脈だ。
1952年12月に一級国道36号 (札幌市~室蘭市) が指定され、これに先立つ同年10月から札幌・千歳間の改修による舗装工事が始まり、道幅7.5 m・最高設計速度75 km/h という高規格道路基準の道路が1953年11月2日に、僅か13ヵ月の工期で完成された。
特筆すべきは現在では一般的なアスファルト舗装と機械施工を本格的に導入したことで効率化を実現したことである。

さて、本件で少し驚いたのは「弾丸道路」という通称で選出されたことだ。国道36号 (札幌・千歳間道路) が「弾丸道路」と呼ばれる由来は、「米軍の弾丸運搬に使われた」「弾丸のような突貫工事だった」「弾丸のように早く走行できる」など諸説ある。
しかし「弾丸道路」という言葉は、戦前の新幹線計画である「弾丸列車」の呼称と同様に、高速道路の戦前から戦後の一時期にかけての呼び名であり、弾丸のように速い自動車が走ることから名付けられたものだ。従って展開によっては「弾丸道路」は一般名詞になっていた可能性もある。
(もっとも新幹線は「Bullet Train」とも呼ばれた(ている)ものの、「Shinkansen」で充分に通用するようになっているので、やはりどこかで「高速道路」に落ち着いたと思われる)

高速道路を表す「弾丸道路」という言葉は、1954年12月の『文藝春秋漫画読本』創刊号に掲載された「サザエさん 10年後」 という一コマの漫画に登場する。(タラちゃんの妹と思われる「ヒトデちゃん」が描かれており、有名な漫画だ)

すなわち1950年代には「弾丸道路」という言葉が一般的であったことがわかる。
実際にサザエさん邸の世田谷区桜新町付近では、推進派と反対派の激しい対立があり、最終的に1955年に工事が開始され1961年に完成したということなので、まさにこの10年後の描写どおりとなったことになる。

さて、欧米諸国では第二次世界大戦以前から自動車が普及し高速道路が走っていたが、欧米に比べ自動車の普及が遅れた日本では、高速道路の建設は相当に遅れた。

日本の高速道路 高速道路の建設構想
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%AB%98%E9%80%9F%E9%81%93%E8%B7%AF#%E9%AB%98%E9%80%9F%E9%81%93%E8%B7%AF%E3%81%AE%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E6%A7%8B%E6%83%B3

高速道路建設の着想自体は実業家の菅原通済が1929年に東京 - 大阪間に自動車専用舗装道路を事業費8,000万円(当時)で建設し、民間で運営する構想を打ち出したのが最初である。この計画は一般の自動車にも有料通行をさせるという構想だったが、自動車が一般に本格普及する以前の時代で不況とそれに続く戦時体制によってまったく実現しなかった。
日本で初めて高速道路構想が持ち上がったこのころの戦前の道路計画では、弾丸よりも速く走れるという意味で「弾丸道路」と呼ばれていた。
ドイツのアウトバーンに刺激され、1938年頃から高速道路である自動車専用国道の議論が始まり、1943年に全国自動車国道計画が策定された。計画によれば、北は樺太の国境端から北海道の稚内 - 札幌 - 函館間、本州は青森 - 下関間を太平洋側と日本海側でそれぞれ結び、九州では門司 - 福岡 - 長崎間まであり、総延長は5490 km、設計速度は平坦部が150 km/h、丘陵部が100 km/hであった。

この1943年の全国自動車国道計画の中で唯一開通したのは、東京 - 御殿場の一部である「戸塚道路」 (横浜市戸塚区柏尾町(不動坂交差点) = 戸塚町 (大坂上)) である。
ここは正月の箱根駅伝の2区、9区の戸塚中継所の手前(直後)で、毎年激しい争いが繰り広げられる舞台である。

戸塚道路 歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E5%A1%9A%E9%81%93%E8%B7%AF#%E6%AD%B4%E5%8F%B2

戸塚道路は、1953年に第4次吉田内閣のもとに建設決定となった。
元々は、東京 - 御殿場間の弾丸道路の一部として計画していたが、大磯に私邸を構えていた当時の首相吉田茂が東京に向かう際に、国道1号と東海道本線が交差する戸塚駅の北側にある「戸塚大踏切」の渋滞に業を煮やし建設を指示したという逸話があり、吉田のニックネーム「ワンマン宰相」から、「ワンマン道路」あるいは「ワンマンバイパス」という異名をとった。
この道路は戸塚道路として1955年2月1日に開通し、1959年10月28日 に横浜新道へ編入され、この区間の償還が終わった1964年12月16日に無料開放された。
戸塚道路は開通以降交通量が大きく増加したが、当初は幅員が11mと狭く、またこの区間の中間に位置する矢沢交差点が平面交差でネックとなっていたのを、1968年に矢沢交差点の立体交差化、1970年に幅員が拡幅されている。

開通した1955年は上述の「サザエさん」の一コマの漫画の発行とほぼ同時期だから、戸塚道路が「弾丸道路」と称されてもよかったように思う。しかし当時は「弾丸道路」は普通名詞であったし、またやはり吉田茂の方がインパクトが強かったということだろう。

その後全国高速道路網整備が推進され、1963年7月の名神高速道路 栗東IC - 尼崎IC間 (71.7km) を皮切りに、日本の高速道路建設は本格的に推し進められて、現在の高速道路網に繋がっている。

このように国道36号の「弾丸道路」はもともとの弾丸道路とは意味合いが異なるものだが、その正当な襲名者として幅広く認知され、北海道の交通を末永く支えることを期待したい。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« エル・アヘド... イタリアの「... »