国際情勢について考えよう

日常生活に関係ないようで、実はかなり関係ある国際政治・経済の動きについて考えます。

本当に変えていいんですか!?

2006-09-19 | 日本と世界

いよいよ、明日は次期自民党総裁、次期総理大臣が決まります。より正確に言うと、明日午後に新総裁が決まり、26日の臨時国会で新総理が正式指名されるのですが、これは単なる手続のようなもので、明日の総裁選で実質的にすべてが決まります。

そして、新総裁、新総理は、安倍さんということを、もう誰も疑いません。かなりしらける展開ではありますが、今後2週間くらいは、安倍さんの所信表明演説をはじめ、私たちの日常生活にも関わってくるさまざまな政権構想が、より具体的に明らかになってくるものと思われます。

 

そこで、前回少し触れたことでもあるのですが、今日は、安倍さんの政見、『美しい国、日本。』の中の目玉でもある憲法改定(改憲)問題、その中でも、とくに戦争放棄を定めた憲法第9条の改定に関する問題を取り上げたいと思います。言うまでもなく、安倍さんは、9条を改定して、自衛隊をもっと積極的に活用したいと考えており、この方針を政見の冒頭に掲げて、政権の最優先課題の一つに定めています。

9条改定というテーマは、これまで多くの政治家が語り、私たち一般市民も強い関心を寄せてきたテーマでもありますので、ともすると議論がヒートアップしてしまう傾向を持っています。そこで、ここではまず私自身があまり熱くならないように注意しながら、主な議論の対立点なども紹介しつつ、個人的な見解についても触れさせていただければと思います。

 

まず、9条改定の是非について能動的に考えている人々の間に、どのような立場があるのかということを、大雑把に見てみたいと思います。これは、あくまで私の独断による分類ですので、ほかの切り口や分類法があるかもしれないことをあらかじめお断りしておきます。

まず、当たり前のことですが、この問題をめぐっては、変えた方がいいという立場と、変えない方がいいという立場があります。そして、変えた方がいいという立場は、どのように変えるのかという点をめぐって、さらに細かく立場が分かれています。

そして、なぜ変えるのか、なぜ変えないのかという理由・動機をめぐっても、大きく分けて二つの立場があるように思います。一つは、アメリカが押し付けたものだから変えた方がいいとか、平和主義を守るために変えない方がいいとか、理念や抽象的な価値観によって、問題をとらえる立場と、もう一つは、国益にとってプラスかマイナスかという是々非々で、国益上の具体的な損得勘定から問題をとらえる立場です。

ほかにも様々な切り口で、立場を分けることができると思いますが、大事な点だけ抜き出すと、だいたい以上のような感じではないかという気がします。こうしたさまざまな見解の相違が、政治家、一般の人々の間にあるように見受けます。

 

― というわけで、ここからは、私の個人的な私見に入ります。最初に結論を申しますと、私は9条を変えない方がいいと思っています。そして、そのように考える根拠は、変えてしまうと、国益上のプラスよりも、マイナスの方が大きくなるからという、国益上の計算によるものです。

私が9条を変えない方が良いと思う具体的な理由は、主に四つあります。第一に、このままでも、現在の国際情勢に十分対応できるという法律の運用面で問題がないという法律上の理由です。第二には、改憲すると、日本がアメリカの世界戦略により深く組み込まれることになり、日本の政策決定権が侵されてしまうという日本の主体性に関する理由です。第三には、自衛隊の活動の拡張対象ともなっている国際貢献活動が、関係国の政治的駆け引きによって、わりと簡単に侵略行為に横滑りすることがあるという国際貢献活動のリスクに関する理由です。第四には、こうした国際貢献活動における人的犠牲に対して、日本の世論が極めて敏感・脆弱であるという日本の世論との相性に関する理由です。以下、それぞれの理由について順次ポイントを述べたいと思います。

 

まず第一の理由ですが、私は現行の9条は、法律の運用上の観点から、現在の激動する国際情勢にも十分耐え得ると考えています。日本政府は、これまで多くの国連PKOに自衛隊を出したり、また同時多発テロ直後には、アフガニスタンでアルカイダ掃討作戦を実施する米軍を後方支援するためにインド洋上に海上自衛隊を出したり、イラク戦争においては、名目上は人道復興支援とは言っても、実質的には米軍等の軍事作戦と一体化する形で陸自、空自を出してきました(空自は現在も派遣中)。 ― ここでちょっと、9条の条文を、改めて見てみたいと思います。

第9条 戦争の放棄,軍備及び交戦権の否認
1項 日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する。
2項 前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国の交戦権は,これを認めない。

この9条をよく読んでみると、自衛隊の運用云々よりも、まず自衛隊の存在自体の法的根拠がかなり危ういことに、誰でも気づくのではないかと思います。しかし、それにも関わらず、日本の軍事予算が世界第四位に付けていることと、日本が核兵器のようなおカネのかかる軍備を持っていないことからも明らかなように、自衛隊の装備は世界のトップレベルの水準に達しています。さらには、自衛隊の運用面を見ても、これまで何度も海外に出し、さらにはイラクのような戦場にまで出した実績を既に作っています。このキツイ憲法で、ここまでできたことは、まさに驚くべきことです。ここまでできたら、もう何でもできるという勢いです。

いま注目されている集団的自衛権の行使をどうするかという問題にしても、日本にとってエネルギー安全保障しか絡まないイラクのような遠隔地に、しかも戦場になっている所に自衛隊を出せたのですから、有事の際に集団的自衛権を限定的に行使することは、現行憲法でもギリギリ可能だと思います。たとえば、日本の領海に極めて近い公海上で、在日米軍が何らかの武力攻撃を第三国から受けた場合、自衛隊が米軍と共同で、日本への自衛行為を行う目的で集団的自衛権を行使しても、その行為が違憲になるとは思えません(私は個人的に、日本が集団的自衛権を行使することや、それを憲法で明示的に容認することには賛成しませんが、現行憲法で、上記のような状況下で集団的自衛権を行使することについては、これまでの内閣法制局の独特の解釈慣行からして、現実的には問題にならないと考えています。集団的自衛権に関しては、後日別途に一稿設けます)。

現行憲法で、ここまでできた背景には、法律の条文が設定する行動範囲と、その解釈が切り拓く実際の行動範囲の間には、多少のギャップがあるからです。どの法律もそうですが、0から10までの行動範囲を認めた法律があるとすれば、それは文字通り10までしかできないことを必ずしも意味しません。むしろ、無理をすれば15くらいまでできることも、場合によってはあります。だからこそ、この憲法で、戦場に自衛隊を出すこともできたわけです。しかし、もし15までやりたいから、15まで容認する法律に作り変えるとしたら、どうなるのでしょうか。それはおそらく20まで行ってしまうのではないでしょうか。実はこの問題は、次に挙げる第二から第四までの理由とも絡んできて、結果的に政府の首を絞め、国益を損なうことにもつながりかねないところがあります。しかし、ここではまず、法律の運用上の観点から、現行の9条を変える必要性がないという点を述べるにとどめます。

 

次に第二の理由、9条を改定して、自衛隊の活動範囲・程度を広げると、日本がアメリカの世界戦略(アメリカの国益を最大化するための世界規模の対外構想)により深く組み込まれてしまい、かえって日本の政策決定権が侵されてしまうという点です。3年前、日本がイラクに自衛隊を無理して出したとき、「日本はアメリカのポチなのか?」という議論が改めて出てきました。ここから、日本もいい加減、アメリカが作った憲法を捨てて、独自の憲法を制定し、主権国家としての自主性を取り戻すべきだという議論も出てきました。しかし、私は9条を変えて、自衛隊の活動範囲・程度を広げると、逆にアメリカに対する従属度が高まり、日本の政策決定権がもっと侵されてしまうと感じています。

その理由は、日本という国が、その国家安全保障と経済的繁栄という枢要な国益の両面において、もともとアメリカにきわめて深く依存しているからです。国家安全保障の観点からすると、日本はもともと、北朝鮮、中国、ロシアなどが形成するきわめて複雑な地政学的条件を与えられており、アメリカの圧倒的な軍事力なしに、安全保障政策を組み立てられない環境に置かれています。また、経済的な観点からも、日本経済は、アメリカ経済が日本経済に依存しているよりも、はるかに深くアメリカ経済に依存しており、アメリカが日本離れを進めることはできても、その逆はできないという経済的な条件下に組み込まれています(統計)。ロシアや中国、またフランスやドイツのような国が、ときとしてアメリカを突き放すことができるのは、こうした地政学的条件、経済的条件を抱えていないからです。

こうした対米依存を促す地政学的条件と経済的条件を覆すためにも、改憲して自主性を回復すべきだという意見もあるかも知れませんが、改憲して自衛隊の活動範囲・程度を広げれば、その瞬間にアメリカは抜け目なく、日本をアメリカの世界戦略にもっと深く組み込むことになるでしょう。「ポチ度」が今よりも上がってしまうということです。ですから、言ってみれば、現行の9条は日本がアメリカの世界戦略に、あまり深く組み込まれないための防波堤のような役割を果たしていると言えます。この観点からも、9条を改定をしない方が国益上プラスになると考えます。

 

次に第三の理由、いわゆる国際貢献活動というものは、動態的な性質を持っているので、場合によっては容易に侵略行為に横滑りすることがあるという点です。日本では一般に、国際貢献活動は政治的に中立な非戦闘的活動であり、侵略行為は加害国の政治的意図に基づく戦闘行動であって、両者は全く別物だという認識があります。確かに、机上の意味ではその通りです。しかし現実には、国際貢献活動として始まった活動が、現地情勢の変化や関係国の駆け引きの結果、いつの間にか実質的な侵略行為に横滑りしてしまうことが現実にあり、この点は日本ではあまり議論されていないポイントであるように思います。

国際貢献活動が、少しずつ実質的な侵略行為に横滑りした事例としてよく知られているのは、90年代前半のソマリアのケースです。当時、アフリカ北東部にあるソマリアでは、飢餓の被害が本格的に拡大したために、国連が国連ソマリア活動(UNOSOM)という人道支援を主目的とした伝統的な非戦闘型のPKOを派遣したことがありました。しかし、現地の民兵組織が定期的に配給食糧を略奪するようになると、この非戦闘型PKOは戦闘行為を追加容認されて組織改変されるようになり、半年程度の間に、アメリカの強い影響下のもとで侵略軍と言って差し支えないような部隊に変質してしまいました。これと似たような現象は、のちに程度は軽かったものの、ボスニア・ヘルツェゴビナでも起きており、このように国際貢献活動が、現地情勢の変化や関係国の政治的駆け引きの結果、いつの間にか侵略行為に横滑りしてしまう現象を、国際協力の世界では、ミッション・クリープ(活動の横滑り)と呼んで、警戒するようになっています。

ですから、国際貢献活動だと安心して参加したら、いつの間にか侵略活動に変質してしまい、部隊撤退の交渉をしている間に、犠牲者が出たり、現場レベルで戦闘行為を無理強いさせられることは、各国部隊が勝手な行動を取れない国際貢献活動の世界では、十分にあり得ることだということです。現実的な話をすると、日本政府は現在、中東のゴラン高原というところに展開している国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)という非戦闘型の国連PKOに自衛隊を出していますが、ここはイスラエルとシリアの係争地で、シリアとイランが支援しているヒズボラと、イスラエルの現在の対立状況を考えると、この国連PKOが「横滑り」する可能性も皆無ではないように思います。

ですから、とくに日本のような対外諜報活動が法的に許されていない国は、現地情勢の変化や強国間の政治的駆け引きをリアルタイムで把握することには限界があるのですから、国際貢献活動だからと言って、やたら首を突っ込むのは愚かなことだと思います。国際貢献活動を現状のレベルで維持することは、日本の国益上問題ないように思いますが、9条を改定してまで現状以上に深入りするのであれば、国益上マイナスに転じる可能性が強くなるように思います。

 

最後に第四の理由ですが、日本の世論というのは、自衛隊の海外活動を含む国際貢献活動での人的犠牲に対して、極めて敏感で脆弱だという点を取り上げたいと思います。 ― 大変痛ましいことですが、紛争地などに日本政府が要員を出すと、たまに犠牲者が出ることがあります。これは、凄まじい殺し合いをやっているところに、わざわざ人を投入するのですから、そういうことが起きるのは、ある意味で避けられないことです。これまでも、自衛隊の犠牲者(敵対行為によるもの)はまだ奇跡的に出ていませんが、警察官、外交官からは犠牲者が出ています。

こういう事件が起きると、国内は大騒ぎになりますし、その反応はごく自然なものです。しかし、日本の世論というのは、こういう事件、つまり紛争地で政府派遣の日本人が殺害されるような事件が起きると、関係閣僚の進退を問うほど、かなり激しい反応を示す傾向があるように思います。これは、おそらく日本人一般における良い意味での「戦争アレルギー」のようなものに起因しているのかもしれませんが、これはほかの国にはほとんど見られない特異な現象です。

私はかつて90年代前半に、国連の仕事でカンボジアに行っていたことがあるのですが、そこで日本人の選挙管理要員(国連PKO要員)と、日本人の警察官(国連PKOに組み込まれた日本政府要員)が、相次いで地元勢力に襲われて殺害されるという大変痛ましい事件がありました。当時私は、半分関係者の立場にいたのですが、日本の新聞には連日半狂乱の記事が踊り、当時の宮澤内閣が野党と世論の圧力で倒れそうになったことを覚えています。

たしかに、こうした事件は絶対に起きてはいけないことなのですが、現地は普通の場所ではないのですから、この場合も、そういうことは既に織り込み済みだったはずです。にも関わらず、いざ事件が起きたら、日本の世論の反応というのは、大変激烈なものがありました。そして、この傾向は、最近の日本人外交官がイラクで殺害された事件を見ても、まったく変わっていない感じがします。こうした傾向は、イラクで2500人近くの兵士が死んでも、あまり世論が動揺しないアメリカのような国とは大きく違うところですし、はっきり言えば、ほかの国には見られない日本独自の傾向です。しかし、私は、こうしたナイーブな日本人の感性を馬鹿にするつもりはなく、逆に尊いものだと思っています。戦争はイヤだ、人が殺されるのはイヤだという感覚は、人間として正常なものだからです。

今後、9条を改定して、もっと頻繁に、もっと大胆な方法で、自衛隊を海外で活用するようになれば、当然犠牲者が出る確率も高くなります。そして、犠牲者が出れば、世論の間に激しい「アレルギー反応」が出ることになるのではないかと思います。そうなれば、犠牲者数にもよりますが、そのときの内閣が総辞職に追い込まれるようなこともあるかもしれません。たしかに、内閣総辞職のようなものは政治家の自業自得だとしても、政権運営が極端に不安定になったり、日本の世論がこのようなアクシデントにきわめて脆弱だということがマスメディアを通して世界中に流布されれば、国際テロ・グループ等にも格好のシグナルを送ることになり、結果的に国益を害します。ですから、この日本世論の脆弱性という観点から見ても、9条を改定してまで、自衛隊の活動範囲と程度を拡大する必要はないと思います。

 

以上、ながながと書かせていただきました。要点をまとめると、憲法9条を改定しても、国益上プラスよりマイナスの方が大きくなるので、改定しない方が良いというのが、私の見方です。安倍さんの政見、『美しい国、日本。』を読んでいて気になるのは、抽象的な表現が多いことです。標題からしてそうですが、「新しい時代」、「新しい日本」、「開かれた保守主義」など、よく意味が分からない言葉が羅列されています。この政見には、理念とともに具体的政策も挙げられているのですが、これらの抽象的な言い回しが実際に何を意味するのかは、私の読み方が悪いのかも知れませんが、どうもよく分かりません。私が安倍さんに抱く不安感は、現実的な論点が詰め切れないまま、理念や独自の美学(?)のようなものが先行している点です。とくに9条の改定の問題については、その点を強く感じます。

今回は、久しぶりに日本の総理大臣が替わるということと、しかもその新総理がかなり大胆な発想を持っているということで、かなりの長文になってしまいました。いつもこんな長文だと私も大変ですし、読む方も大変だと思いますので、今後はもう少し短めに、そして頻繁に更新していきたいと思います。今後とも、どうぞお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。