国際情勢について考えよう

日常生活に関係ないようで、実はかなり関係ある国際政治・経済の動きについて考えます。

ある家族の旅立ち

2007-07-11 | 日本と世界
クルド人というのは、トルコ、イラン、イラクの三国の国境が接する地域に住む「国家なき国民」として、よく知られています(参考記事)。昨日、あるクルド人難民の家族が、日本からカナダへ旅立ちました(関連記事)。彼らは、かねてより日本政府に難民認定を申請し、日本での定住を希望していましたが叶わず、迫害を受ける国籍国トルコへの強制送還の恐怖と隣り合わせの日々を、これまで日本で送ってきました。

その意味では、彼らがカナダで定住先を見つけられたことは、日本で恐怖に満ちた生活を送ることよりも、はるかに幸せなことだと言えるように思います。同時に、日本政府の判断、またそれを招いた日本という国の狭量さに、いささかの疲れを覚えます。



思えば、このドーガンさん一家と、先にニュージーランドへの移住を果たしたカザンキランさん一家とは、私は毎日のように顔を合わせていたのでした。というのも、この二家族が、日本政府による難民資格の不認定を受けて、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の東京事務所が所在する国連大学ビル(東京都渋谷区)の敷地内で座り込みをしていたとき、ちょうど私はここのビルに入っている別の国連機関に勤めていたからでした。

寒い日も暑い日も、雨の日も風の日も、家族は日本の支持者の支援を受けながら、苛酷な生活環境に耐えていました。この二ヶ月あまりに及ぶ座り込みの最後は、政府間機関としての国連が家族に退去を求め、それに激昂したカザンキラン家のお父さんが、頭からガソリンをかぶり、自身に火をつける寸前まで行くなど、国連側の対応にも問題が指摘される大変苦々しい結末となりました。



その二家族が、ついにみんな日本を離れました。苦悩の中で一縷の希望を見出そうと必死に生きていた一家の顔を思い出すと、この日本という国はどういう国なのだろうという思いが込み上げてきます。実際に難民認定を不許可にした日本の法務省や、敷地からの立ち退きを命じた国連を責めることは簡単です。しかし、その背後には、外国難民を大量に受け入れることに対する心理的抵抗を抱える日本人一般の国民感情があります。

もし今、日本政府が難民の受け入れ方針を急に転換して、この二家族のような人々を差別せずに受け入れるようにすれば、結果的に他の様々な外国の人々も、同時にたくさん日本に入ってくるようになります。そうすれば、日常生活のあちこちで文化の摩擦のようなことも頻繁に生じるでしょうし、いわゆる外国人犯罪もさらに増加します。事実、難民を積極的に受け入れている国々は、難民を受け入れると同時に、こうしたリスクも同時に受け入れています。それは、これらの国々の国民自身が、そうしたリスクを受け入れているから、政府もそうした寛容な政策が取れるのです。

私たちには、こうしたリスクを受け入れる度量はあるでしょうか。それによって、第二のドーガンさん、カザンキランさん一家の運命が決まります。こうした人道上の問題は全てそうですが、単なる善意だけでは解決しないのです。



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世界史の教科書が面白い

2007-07-03 | 書籍・映画の感想
このブログは、いろいろな方が読んでくださっていると思いますが、もともとは、私が専門学校の講師をしていたときに、担当科目の国際関係論等を履修していた教え子の皆さんたちに、授業のフォローアップをする趣旨で始めた経緯がありました。

そういう趣旨にも関わらず、これまで無難な話題だけでなく、集団的自衛権のような微妙な話題も取り上げてきたのは、こういう微妙な問題こそ、人の意見にいたずらに影響されることなく、自分の考えで判断して欲しいという思いがあったからでした。

ということで、いまも一部の元教え子の学生さんたちが読んでくれているようにも思いますので、今後はときどき国際問題に関する文献の紹介のようなこともしていきたいと思います。ただし、あまり専門的なものは避け、国際問題に関心があるけど、どうやって勉強したらいいのというニーズに見合うものを取り上げて行きたいと思います。



というわけで、第一回目は、高等学校の世界史の教科書の話をしたいと思います。とはいっても、これは読んでくれている学生の皆さんや、社会人の方々を軽く見ているのではありません。高校の世界史の教科書は、大変中身が濃く、こんにちの国際問題の背景を深く知る上で不可欠の基礎知識を与えてくれます。

具体的に言うと、たとえば、中世ヨーロッパのあたりを読んでいると、なぜヨーロッパだけでEUのような結束の固い地域連合体ができたのか、なぜアジアやアフリカでは、通貨を統合するほどの結束力の強い連合体ができないのか、理由が良く分かります。

また、産業革命から植民地開拓のあたりを読んでいると、世界の経済格差がここまで開いてしまった理由が、具体的に分かります。また、イギリスの清教徒革命、アメリカの独立戦争のあたりを読んでいると、なんで現代のアメリカが、必死になって民主主義と市場経済制を世界中に伝播しようとするのか、理由が良く分かります。

つまり、世界史を学ぶと、現在の世界情勢のカラクリを立体的に理解できるのです。ちなみに、私は個人的に山川出版というというところの「世界史B」というものを、いつも手元に置いて、ときどき読み返しています。たしか千円しなかったと思います。紀伊国屋とか、大きな本屋なら置いてます。

もし、国際問題が良く分からない、難しいと感じることがあれば、いちど高校の世界史の教科書を手に取ってみてはいかがでしょうか。目からウロコの体験をすると思います。



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不可解な事件

2007-06-28 | 地域情勢
不可解な事件です(関連記事)。公安調査庁というところは、日本国内における北朝鮮関係機関のさまざまな活動を調査することを任務の一つとする情報機関ですから(参考記事)、そこの元トップが、実質的な北朝鮮政府の出先機関である朝鮮総連の土地建物の売買に関わったということは、誰もがそこに裏があるものと信じていました。

しかし今回、検察は、元長官を単なる経済上の刑事事件の容疑者として逮捕しました(詐欺容疑)。今後、捜査が進むにつれ、いろいろな背景が明らかになるものと思われますが、このまま詐欺事件として告発して、裁判に付される可能性もあります。その場合、検察は事情をしっかり具体的に説明しないと、今度は疑いの眼が検察に向けられることになるように思います。


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北朝鮮に査察が入ります

2007-06-24 | 地域情勢
一部報道されている通り、あさって26日、北朝鮮に核査察が入ります(関連記事)。査察を行うのは、IAEA(国際原子力エネルギー機関)という国連の専門機関です。

これまで国際社会は、IAEAを北朝鮮やイラクといった疑惑のある国に送り込んできましたが、これらの国々は、後ろ暗いところのあるときは必ずIAEAの査察官を国外退去させてきました。IAEAの査察官というのは、純粋に技術的な査察を行い、その科学的に検証された査察結果をそのまま公表してしまうので、政治交渉のようにごまかしがきかず、都合の悪いときは査察官を追い出すしか方法がないからです。

ですから、今後も、もしIAEAの査察官が国外退去させられたら、今回の北朝鮮の合意は、これまでと同じ外交テクニックの一つだったことを示していることになります。また、もし退去させず、査察官が自由に北朝鮮を出入りできるようであれば、それは世界標準の本当の国際法上の合意だったことを示していることになります。ある意味で、とても分かりやすい話です。今後の動向に注目したいものです。

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シャトル外交

2007-06-21 | 一般

シャトル(shuttle)という言葉は、スペースシャトルなどで日本人にも耳慣れた言葉ですが、もともと機織機の飛び梭(ひ)を指す言葉で、そこから転じて、交通機関の往復便などを指す言葉となりました。そしてそこから、関係各国を次々と飛び回り、短期間のうちに外交交渉を一気にまとめ上げる外交手法を、シャトル外交(shuttle diplomacy)と呼ぶようになりました。

 

古くは、ニクソン政権のキッシンジャー国務長官の中東和平、ブッシュ政権(父)のベーカー国務長官の湾岸和平、クリントン政権のホルブルック国務次官補による旧ユーゴ和平などの交渉において、シャトル外交の手法が見られました。そして、今回クリストファー・ヒル国務次官補によって展開されている北朝鮮問題の外交交渉も、シャトル外交の様相を呈してきました(関連記事)。余談ですが、このヒル次官補は、かつてホルブルック次官補(当時)が精力的なシャトル外交を展開して、旧ユーゴ紛争の和平交渉を取りまとめたときのホルブルック氏の直属の部下、米政府交渉団の次席代表でもありました。

 

昨年11月の中間選挙で政権党である共和党が負けてから、ブッシュ政権の北朝鮮政策はグダグダになりました。BDA問題では、自らの首を絞めました。すでに足元を見られているアメリカですが、どのようにして核放棄という外交目標を達成するのか、しばらくは様子を見守りたいと思います。

 

 

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地味だけど凄いニュース

2007-05-23 | 一般

地味だけど凄いニュース。社会保険庁が管理している年金保険料のうち、誰の分だか確定していない「宙に浮いた年金記録」が五千万件あることが発覚したニュース(関連記事)。私はこのニュースを見たとき、思わず「五千件」の間違いではないかと思ったのですが、いろいろな媒体が「五千万件」と報道しているので、やっと信じることができました。しかし、この問題がさらに凄いのは、政府がまだ問題の全容を把握できていないという点です。

 

社会保険庁という役所は、2004年に不祥事が発覚して以来、本格的なメスが入り、今後漸進的に行政機関として解体・廃止することが決まっています(参考記事)。しかし、これほどひどい問題が続くのであれば、検察も再度捜査をやり直して、しかるべき告発に踏み切るべきではないかという気がしてきます。

 

一方、アメリカでは、しばらく前に、これもまた地味だけ凄いニュースとして、イラク戦争での負傷兵を、米国政府がボロ屋のような古い陸軍病院に集中的に送り込んでいたというニュースがありました。あまりに非人道的な話として国民の怒りを買い、病院長だけでなく、結果的に監督官庁の責任者である陸軍長官まで解任されました。あまり日本では報道されませんでしたが、アメリカでは世論が沸騰しました(関連記事)。

 

 

どこの国でも行政機関の不始末はあるようですが、この手の問題の困ったところは、組織に自浄作用がほとんどないということです。企業が不始末をすれば、そのツケは市場原理によって、ブーメランのように組織に返ってきます。最悪の場合、企業は潰れてしまいます。しかし、行政機関の場合、今回の社会保険庁のように解体されるケースは稀ですし、職員の雇用はほぼ100%守られます。しかもその間、行政機関の不始末のツケは、その組織に回ることなく、税金という形をとって国民に回ってきます。これが、行政機関の不始末が永遠に改善されない理由です。自分で責任を負う必要がないからです。

 

ということで、立法府や司法府が、行政府に対して監督責任をしっかり果たしてもらうためにも、行政機関をちゃんと監督できない国会議員は、次の選挙で責任を取ってもらうような仕組みを作るべきだと改めて感じました。アメリカや韓国では、すべての国会議員の国会での投票行動や、公約の実行の度合いをチャートにした国会議員の通信簿のようなサイトがいくつかあって、有力なサイトで悪いスコアがついた議員は、次の選挙でほぼ確実に落選するそうです。日本でも、似たようなサイトはあるのでしょうか・・・。そんなこと言うくらいなら、自分で作れと言われそうですが・・・。とりあえず、少なくとも各官庁の大臣、副大臣、政務官が誰くらいかは、調べなおしておこうと思いました(参考記事)。


 

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世銀総裁のスキャンダルの本質

2007-05-20 | 国際社会

世界銀行のウォルフォウィッツ総裁の辞任が(やっと)決まりました。言うまでもなく、国際復興開発銀行(IBRD)を中核とする世銀グループは、あらゆる国際機関の中でも世界最大の融資額を途上国に貸与する巨大な国際支援機関です(世銀メイン・サイト)。その業務の中核は、途上国の経済・社会開発ですが、この活動目的を達成する手段の一つとして、途上国政府における汚職対策も、支援事業の大きな柱の一つとして据えられています(参考情報)。

 

途上国開発事業の中に途上国政府の汚職対策が盛り込まれている理由は、これも言うまでもないことですが、現地政府の汚職が現地における支援事業の事業効率を落とすだけでなく、支援国による資金調達のモティベーションも落とすなど、支援事業全体に与える負のインパクトがあまりに大きいからです。したがって、このような汚職対策事業を実施する機関のトップが、自ら説明のできない行為(関連記事)を行っていたことは、まことに愚かなことであり、辞任は遅きに失したといわざるを得ません。

 

 

一方、後任人事をめぐっては、アメリカ人ばかりが世銀の総裁を占めるのはおかしいという声が一部で上がっているようですが(関連記事)、私は必ずしもそうは思いません。世銀は巨額の融資資金を主要な活動資本とする独特の国際支援機関であり、こうした機関のトップには、やはり世界最大の経済大国の出身者がなるのが、効率的な事業運営の上で欠かせないように思うからです。

 

国連の事務総長のように、中小国の出身者が組織のトップになるのは、たしかに理想的かつ民主的に見えますが、世銀のようなおカネが主要な活動資本となる組織で同じことをやれば、中小国が主導した意思決定に対し、実施段階になって大国が賛同できずにおカネを出せなくなるといった問題が必ず生じてきます。ですから、世銀のような独特の組織では、やはり経済大国の出身者がトップになるのが、効率的な組織運営の上でも、受益者である途上国のメリットを考えても、ベストだと思うのです。

 

 

また、ウォルフォウィッツ氏のようなイラク戦争を主導した人間が、そもそも世銀総裁のようなポストをやるべきではなかったのだという論調も時折見かけますが、こうした彼のバックグラウンドと、世銀での仕事ぶりは互いに直接関連しませんから、このような指摘もやや的外れという気がします。

 

事実、かつてベトナム戦争を主導したマクナマラ元国防長官は、長官辞任後まもなく世銀総裁に転じ、世銀の活動資金と活動規模を飛躍的に拡大させるなど、多くの功績を残しました。イラク戦争もベトナム戦争も最悪の戦争ですが(戦争はすべて最悪ですが)、やはり仕事の能力で人を見るべきなのではないかという気がします。その点、ウォルフォウィッツ氏は、仕事の核心に触れる致命的なミスを犯しました。世銀の受益者である途上国市民のためにも、一日も早く後任人事を決めて、深く沈み込んだ世銀のモラルを早く回復してほしいものです。



 

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改憲に関する新たな論点

2007-05-08 | 日本と世界

今日は改憲(憲法改定)問題について書きます。実は、この原稿は憲法記念日の少し前に書き初めていたのですが、その後GWに突入し、なんやかんやで原稿を仕上げる時間が取れず、今日に至ってしまいました。ということで、時機を逸したトピックではありますが、今後国民投票法などの問題を始め、改憲問題は常にホットな話題として世間を騒がし続けることになると思いますので、そのままアップすることにしました。読者の皆様が改憲問題を考える上で、一つのヒントとなれば誠に幸いです。

 

改憲問題に関する現在の世の中の議論については、その焦点となっている九条の改定について、以前の投稿で、議論の分かれ目、私の個人的私見について十分に触れましたので、今日は同じことは繰り返しません。その代わり今回は、メディア上の議論ではあまり議論され尽くされていないけれども、実は私たち国民にとって意外と大事と思われるポイントを三つほど取り上げることにしました。

 

1.改憲問題をその「目的」から遡って考える
言うまでもないことですが、憲法を変えるか、変えないかという議論は、日本の国益を維持・増進するという「目的」を達成するための「手段」に関する議論です。ですから、現行憲法が国益を維持・増進しうるなら変えるべきではありませんし、そうでないなら変えるべきです。しかし、今日の改憲に関する議論は、このような論理的な議論ばかりではないようです。たとえば、
現行憲法がアメリカ人によって書かれたものだから変えた方が良いとか、古すぎるから変えた方が良いといった議論があります。このような議論は、果たして意味のある議論と言えるのでしょうか・・・。どこの国の人が書いたものでも、もしくは新しくても古くても、日本の国益を増進するという「目的」に適うものであれば変えるべきではないし、そうでなければ変えるべきなのではないでしょうか。改憲問題というのは、そもそもこうした純粋な国益の観点から論じられるべきものなのではないでしょうか。

 

2.改憲の是非を判定する「判断基準」について考える
現行憲法が、現在の激動の国際情勢に適合しなくなっているので変えた方が良いという議論があります。しかし、国際社会全体がおかしな方向へ向かっているときに、憲法を改正してまで、そのおかしな方向へ追随していくことは、果たして賢明だと言えるでしょうか。たとえば、ブッシュ政権が作り出した制御不能なイラク情勢を考えてみても、
強国が主導する国際社会の趨勢というものは、常に揺れ動く相対的な基準に過ぎないことが分かります。自国の憲法のあり方を考える上で、自国を取り巻く国際情勢を考慮することは、国際社会で孤立しない上でとても大切なことですが、それよりももっと大切なことは、自国の国民の利益、すなわち国益なのではないでしょうか。ですから、まずは日本の国益にとってどうなのかという絶対的な基準に照らして、改憲の是非を考えるべきで、その次に二次的な基準として国際情勢という相対的基準を適用して、改憲の是非を考えるべきなのではないでしょうか。現在の議論は、この物を考える順番が逆になっているように感じます。

 

3.自分の手元に引寄せて考える
言うまでもなく現在の安倍政権は、現行の厳格な九条の規定を緩和し、自衛隊に普通の軍隊としてのステイタスを与え、海外での武力行使を容易にするために改憲の準備を進めています。こうした中、政治家や学者の人々は、テレビなどで改憲問題を様々な角度から論じていますが、多くの議論は得てして大変抽象的で、私たち国民にとって直接関係のない話もあります(国際法と国内法の整合に関する議論など)。では、何が私たち国民にとって大いに関係があるかというと、安倍政権の意向がそのまま実現すると、日本が海外の戦争に巻き込まれる可能性が高くなるということと、私たち一般市民がその戦争に直接出向く可能性が高くなる(予備役・徴兵などの制度導入を含め)ということではないかと思います。はっきり言えば、私たち自身や、私たちの父親、兄弟、息子が、海外へ行って外国人を、―これも誰かの息子や父親、兄弟である場合が多いわけですが―、殺害したり、逆に殺害される可能性が高くなるということです。議論の飛躍と思われるかもしれませんが、現在イラクに戦闘部隊を送っている欧米諸国では、実際にこういう問題が国民の身の上に降りかかっています。自分が殺したり、殺されたりする瞬間に、国際安全保障のためだから仕方ないと、本当に割り切れる人はどれくらいいるのでしょうか。このように、改憲問題を自分の手元に引寄せて考えることは、抽象的な学問を勉強するよりも、もっと大切なことではないかという気がします。

 

今回、改憲をめぐって私の頭に浮かんだことは以上の三点です。私は、どうしても改憲してはダメだとは考えていませんが、現在の国内・国際環境下で現行の憲法を改定することは、日本の国益を推進しないとは考えています。その意味で、安倍政権の考え方は、私から見ると、最初に改憲ありきというイデオロギー先行型で、結果的には日本の国益を損傷し、アメリカの国益を推進するものだと考えています。このあたりの詳しい内容は、前の投稿に書いたのでこれ以上展開しませんが、国民投票法案が審議されつつある現在、私たち個々人が、自由に憲法について考えることができれば幸いです。

 

 

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銃規制と核不拡散

2007-04-19 | 国際社会


アメリカと日本で、立て続けに銃による大きな事件が起きました。アメリカでは、改めて銃社会の問題点が浮き彫りになったようですが、これほどのことがあっても、本気で銃規制を進めるべきだという主張は、日本人が大声で唱えているだけで、アメリカ人の間ではあまり見受けられません(関連記事)。これもおそらく、銃で国土を開拓し、銃で秩序を維持してきたアメリカ建国の歴史と深い関係があるのでしょうか。

 

かつて私は、ニューヨーク・マンハッタンのロウワー・イースト・サイドの近くや、ハーレムという所に二年ほど住んでいたことがありました(地図)。両地域とも、あまり治安の良いところではありませんでしたが、殴り合いの喧嘩どころか、激しい口論さえも一度も目にすることはありませんでした。その謎は、アメリカ人の友人に説明してもらって、間もなく解けました。

 

その友人によると、アメリカの治安の良くないところでは、誰が銃を持っているか分からないので、うかつに口論もできないのだということでした。たしかに、派手な口論も殴り合いも一度も見かけませんでしたが、斜め向かいのアパートで銃の発砲事件はありました。日本では、人間関係のこじれが、不和→口論→殴り合い→殺人事件と、段階的に事件に発展するのだろうけれども、アメリカでは、不和→殺人事件と一気にエスカレートする場合があるので、うかつに口論もできないということでした。このことは、アメリカ社会全体に一般化して考えることはできないかもしれませんが、ニューヨークの一部では、たしかにそのような状況があると感じました。

 

 

ニューヨークのマンハッタンという場所は、アメリカの中でも極めて特殊な地域であり、ここでの出来事を、アメリカ社会全体の傾向を考える材料として捉えることはできません。しかし、ここに住んでいる間、誰が銃を持っているか分からないという疑念が、逆に人々の間で争い事を引き起こさないようにする抑止力として働いているということを、たしかに感じたことがありました。お互い肌の色も、価値観も、経済力も、また時には言語も国籍も違うのに、なぜか皆お互いに礼儀正しく暮らしている様子を見て、そんなことを感じることがりました。

 

しかし、このことによって銃を持つことは良いことだという結論は引き出されないように感じます。今回のアメリカの大学での事件のように、日本では起きない事件が、銃社会のアメリカでは起きるからです。やはり、銃が野放しで蔓延している状態は、銃がしっかり規制されている状態よりも、トータル的に見ればデメリットの方が大きいのではないかと思います。

 

 

ちなみに、この銃規制の論点は、スケールアップすると、そのまま核兵器の拡散防止の論点にも通じてきます。核兵器を保有・開発する国は、必ずと言っていいほど、「核兵器の圧倒的な破壊力は、大規模戦争を予防する上で有効な「抑止力(detterance)」として作用するのだから、核兵器を保有・開発することは、世界平和を維持することにつながるのだ」という主旨の論法を展開します。しかし、これは物事の一面だけを取り上げた偏った見方です。

 

まず核兵器を保有・開発するには、莫大な資金がかかり、その分、社会保障や公共投資などの他の貴重な財源を食ってしまいます。また配備した後は、何らかのヒューマン・エラーによって偶発的な核戦争が起きてしまう確率をゼロにすることは不可能ですから、その破滅的なリスクと隣り合わせで同居することになります。さらには、核兵器を保有している国は、他の同じ核保有国によって、非核国よりも優先度の高い核攻撃のターゲットに選定されますから、核保有国は、非核国よりも核攻撃される可能性が常に高い立場に自らをさらすことになります。

 

つまり、核兵器が、戦争を予防する上での圧倒的な「抑止力」を備えていることは事実なのですが、それは物事の一面だけであって、そのメリットをはるかに上回る破滅的なデメリットがあるということです。この核武装のデメリットの一部の論点は、銃社会におけるデメリットとも共通しているところがあるようにも感じます。

 

 

先ごろ銃弾に倒れた伊藤一長・長崎市長は、奇しくも被爆地域の首長であり、かつて国際司法裁判所(ICJ)で「核兵器の使用・威嚇は、国際法に違反するか」という勧告的意見の諮問が行われたとき、参考人の一人として現地に赴き意見を述べたことがありました。ICJは、司法判断が可能な国際問題について、国際法を適用して判決を下したり、法的意見を述べる国際裁判所ですが、伊藤市長は半ば当事者の立場から率直に所感を述べ、それが今も公式記録に残されています(関連サイト勧告的意見の原本)。

 

この勧告的意見諮問の結果は、「核兵器の使用と威嚇を禁止する国際法上の実定法は現時点で存在しない。国家存亡の危機に際しては、法的な適否を判断できない」という主旨のものであり、これはこれで、司法機関であるICJが、高度に政治的な問題に対して、可能な限りのギリギリの見解を示したものとして評価できます。

 

 

銃規制にしろ、核兵器の拡散防止にしろ、それぞれの立場が、自分の立場を主張するだけでなく、反対の立場をじっくり学ぶことは、議論を収斂・昇華していく上で大切です。銃規制でいえば、全米ライフル協会のようなところは、日本の主流の論調に学ぶべきですし、私たちの多くは彼らの意見をじっくり傾聴して、論点の噛み合う議論をすべきです。また、核武装論者は、非核論者の意見を学ぶべきですし、非核論者は核抑止理論などをしっかり学んで、核武装論者と論点の噛み合う議論をすべきだろうと思います。今日はトピックがあちこち飛びましたが、銃による事件の多発に接して、そんなことを考えました。


 

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投票に行こう!

2007-04-07 | 日本と世界

明日の統一地方選挙は、あまり国際情勢とは直接関係がないかもしれませんが、ある意味においては関係のある部分もあります。今さら言うまでもなく、選挙というのは、私たちの生活や人生の様々な側面を、結果的に大きく左右するものです。

 

様々な選挙の中でも地方選挙は、私たちの実生活に密着した身近な問題、たとえば社会福祉、教育、医療と保健衛生、環境(ゴミ問題含む)、交通・輸送、またこれらを支える地方税などの財源問題を決定する代表者を、私たち国民が取捨選択する大事な機会です。

 

ですから大袈裟な言い方をすれば、地方選挙に参加しないということは、愛する家族の福祉や教育問題がどうなってもいい、自分の生死を分ける医療体制がどうなってもいい、地方税はいくらでも払うという態度を取るのと、あまり変わりないことになります。これが、衆参の国政選挙ともなれば、こうした身近な問題に、国防問題(今後は戦争への参加の是非などが焦点となる)、国税(所得税、消費税、法人税などの税制一般)などの大きな問題が、さらに加わってきます。

 

 

近年の日本の選挙の投票率が、一般的に低落傾向にあることはよく知られているとおりですが、地方選挙について言えば、その傾向はさらに激しく、このまま行くと50%を切る勢いです(統計)。

 

かつて私は、途上国や紛争国で、国政選挙の計画と実施、第三者機関による監視体制の構築などを、中立的な国際機関の立場からサポートする「選挙支援」という仕事をしていたことがあるのですが、独裁政や極度の貧困、戦争などに苦しんだ国々の国政選挙では、ほぼ軒並み投票率が85‐95%の高いレベルを達成する点が極めて特徴的でした。こうした国々の人々は、国民が選挙を通して政治に参画しないと、どういう目に遭うかよく知っているから、こういう高い投票率が常に達成されるのでした。

 

日本は先進国だから大丈夫という見解もあるかもしれません。しかし、かつてヒトラーは、選挙を通して台頭し、一度も違法行為を犯さずに、選挙だけで政権を掌握しました。たしかに当時と今では時代背景は違いますが、当時のドイツは、国民の教育レベルもきわめて高く、また当時の覇権国イギリスと対等に国力を競うほどのトップレベルの「先進国」でした。

 

ですから、こういう急激な独裁政の構築というのは、どこの国でも起き得ることではないかと思います。ひとたび公正な選挙の機会を与えられると、軒並み85-95%の高い投票率をマークする途上国や紛争国の有権者の人々を、ぜひとも見習いたいものです。


 

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