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日和山めぐり ~郷土「室積」を見つめる~

旅の再開は2024年度春に開始、中途半端だったゴルフの基礎練習は現在も継続、猛暑や寒さを避けて旅をする予定です。

北前船のふるさと「塩飽本島」

2019年11月17日 | 日和山めぐり(四国編)

江戸時代に大名領でも天領でもなく、一種の自治領だった塩飽諸島

海賊の子孫の島であり、ある意味「北前船のふるさと」

金比羅信仰を全国に広めたのは塩飽廻船

 

のんびりと島内を散策してみました。

アート作品ががいたるところにありました。

資料館ではボランティアさんから懇切丁寧な説明を受け、冊子まで頂戴しました。

遠見山から

「笠島補修工業学校」の生徒らが建てた笠島集落の尾上神社 

神社から見た笠島集落

廻船基地として栄えた笠島集落の「マッチョ通り」

 資料館になっている「塩飽勤番所」

 

 

 

木島神社の鳥居

 

船内にて

 

瀬戸大橋は瀬戸内海で一番狭く島が密集している場所に立てられていることを、塩飽諸島の一つ本島を訪れて知りました。

速くて複雑な潮流が高度な操作船術をはぐくみ、古くから塩飽水軍として名をはせたということがよく理解できました。

 

塩飽水軍の歩みをかいつまんでまとめてみます。

・瀬戸内海には村上水軍、河野水軍、塩飽水軍の三つが存在するが、塩飽衆は他の水軍と違って元来戦いとは縁が薄く、一貫して輸送集団という特殊な性格をもっていた

・水軍として織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に重用され、朱印状が与えられた

・江戸時代には幕府の御用船方として城米の輸送、城普請の資材運搬、役人の送迎を一手に引き受けた

・巧みな操船術に加えて舟造りの技術にも優れていたので大勢の船大工を排出した

・18世紀前半までは活況を呈したが、城米輸送の特権が大坂の廻船問屋へ移ると回船業が衰退の道をたどり、多くの水夫は転職を余儀なくされた

・島内で暮らしを立てるのは難しくなり、多くの大工職・船大工もその優れた技術を生かす場を失い、宮大工や家大工に生活の道を求めていった

・水一滴の漏れも許さない緻密な造船技術が宮大工の高いレベルにも生かされた

ここまでの流れをまとめると、

水軍から御用船方そして大工へ、

・塩飽大工とは、江戸末期から明治にかけて瀬戸内海岸を中心に腕のよさでならした塩飽出身の大工

 

 


第78番 郷照寺

2019年11月16日 | 日和山めぐり(四国編)

仏光山 広徳院 郷照寺

踊り跳ね念仏申す道場寺
拍子を揃え鉦を打つなり

境内からは瀬戸内海にかかる瀬戸大橋の眺望が見事である。往時から港町として栄え、「四国の表玄関」とでもいえる場所なので、高僧・名僧との由縁が深い霊場である。地元では「厄除うたづ大師」と呼ばれ、また、四国霊場で唯一「時宗」の霊場である。縁起によると、郷照寺は神亀2年、行基菩薩によって開創された。行基菩薩は55センチほどの阿弥陀如来像を彫造し、本尊として安置され、「仏光山・道場寺」と称した。御詠歌に「道場寺」と詠まれているのもその名残である。その後、大同2年(807)に弘法大師が訪れ、仏法有縁の地であると感得し、大師自身の像を彫造して厄除けの誓願をされた。この木造の大師像は「厄除うたづ大師」としていまも広く信仰されている。

郷照寺の見どころ

・観賞式庭園

・境内から臨む瀬戸大橋の眺望

万体観音堂

本尊聖観世音菩薩を中心にミニ観音像約一万体を安置。(ご信徒皆様のお願い事の成就を託しています。)

庚申堂

「庚申信仰」を伝えるお堂。本尊には6本の手をもつ青面金剛が祀られ、病魔を除く霊験があるとされる


金刀比羅宮

2019年11月16日 | 日和山めぐり(四国編)

金刀比羅宮参りの玄関口として知られる丸亀港口の太助燈籠

 

 

 

 

 太助燈籠から金刀比羅宮門前の燈籠までは12キロの道のり

785段の石段

 

海の守護神とされる金刀比羅宮

 全国の海運関係者の信仰を集めた金刀比羅宮本殿

 

交通安全ステッカーを入手しました。


第77番 道隆寺

2019年11月16日 | 日和山めぐり(四国編)

桑多山 明王院 道隆寺

ねがいをば仏道隆に入りはてて
菩提の月を見まくほしさに

仁王門をくぐると、ブロンズの観音さんがずらりと並んで迎えてくれる。創建ころのこの付近一帯は広大な桑園で、絹の生産地であったようである。縁起によると、和銅5年、この地方の領主、和気道隆公が桑の大木を切り、小さな薬師如来像を彫造し、草堂を建てたのが寺の初めといわれる。道隆公は、周囲5メートル近い桑の大木が、夜ごと妖しい光を放っているのを見た。この光を怪しみ矢を射ると、女の悲鳴があり、乳母が倒れて死んでいた。嘆き悲しんだ道隆公は、その桑の木で仏像を彫り、草堂に安置して供養する。

道隆寺の見どころ

・潜徳院殿堂

本堂の左裏手。江戸後期の典医・京極左馬造公の墓所で、眼病にご利益があると信仰されている。

・観音像

西国、秩父、坂東の百観音のほか、観音霊場として名高い各地の本尊、水子供養の観音像や交通安全の観音像など255体が建立されている

ちょうど護摩祈祷の行事が行われていました。

 


人気のうどん屋

2019年11月16日 | 日和山めぐり(四国編)

金倉寺の駐車場の方におすすめうどん店を聞くと、金倉寺すぐ側にあるうどん店が食べログでもナンバー1ということで行ってみました。

地元の人もリピーターが多いようでした。

 食べ終わって駐車場に戻ると私の車を眺めている家族がいました。

「のろわれているようだな!」という子どものつぶやきが耳に入りました。

私と目が合って思わず苦笑い!

神社とお寺の交通安全ステッカーは魔除けのようなものです。

確かにそう思われても仕方ないかもしれません。


第76番 金倉寺

2019年11月16日 | 日和山めぐり(四国編)

鶏足山 宝幢院 金倉寺

まことにも神仏僧をひらくれば
真言加持の不思議なりけり

金倉寺は、弘法大師の甥で天台寺門宗の開祖「智証大師」が誕生した地。縁起によると、弘法大師が生まれた宝亀5年に智証大師の祖父・和気道善(わけどうぜん)が建立し、道善は「自在王堂」と名づけ、仁寿元年(851)11月に官寺となった際に開基の名をとって「道善寺」となりました。その後、唐から帰朝した智証大師が唐の青龍寺にならって伽藍を造営、薬師如来を刻んで本尊に。「金倉寺」になったのは928年、醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷にちなんだ寺名となったようです。

「智証大師」は、子供の頃「日童丸」と呼ばれ、たいそう賢いと評判でした。智証大師が2歳の時には、一人で遊んでいる幼い体からなんとも言えない後光が射しているのを付近の人々が見たといわれています。そして、「きっと仏様が生まれ変わったに違いない。将来は必ず立派なお方になられるだろう。」と、この地に立派な子が生まれたと喜び合ったそうです。また、5歳の時には目の前に天女が現れ、「貴方は三光天の一人、明星天子であり、虚空蔵菩薩の仮の姿。貴方が将来仏道に入るなら私がずっとお守りしましょう。」と告げられたという伝説も。この天女こそが、よその子供を食べた罪でお釈迦様に末子をとられ、子供を失った母の辛さを教えられた後に仏になったとされる「訶利帝母(かりていも)」(別名「鬼子母神(きしもじん)」)でした。こうして訶利帝母に守られて育った智証大師は、修行を重ね、仏法を広めることに精進できたといわれています。

金倉寺の見どころ

・大師堂

智証大師と弘法大師の像を安置。共に「大師」の称号を得、「讃岐の五大師」に数えられています。

・訶利帝堂(かりていどう)

本堂の左。訶利帝堂(かりていどう)に訶利帝母(鬼子母神)の尊像を祀っています。


第75番 善通寺

2019年11月16日 | 日和山めぐり(四国編)

五岳山 誕生院 善通寺

我すまばよもきゑはてじ善通寺
ふかきちかいの法のともしび

五岳山 善通寺の創建は、『多度郡屏風浦善通寺之記』(江戸時代中期成立)によると、唐より帰朝されたお大師さまが、御父の寄進した四町四方の地に、師である恵果和尚の住した長安・青龍寺を模して建立したお寺で、大同2年(807)臘月(陰暦12月)朔日に斧始めを行い、弘仁4年(813)6月15日に落慶し、父の諱「善通(よしみち)」をとって「善通寺」と号したと記されています。

三度目のお遍路にしてやっと表門を拝見しました。

駐車場の関係でいつもは裏門から御影堂・本堂に向かっていました。

善通寺の見どころ

・金堂

創建当時の金堂は、永禄元年(1558)、三好実休の兵火により焼失し、現在の建物は、元禄12年(1699)に上棟されたものです。本尊・薬師如来坐像は、像高3メートルにも及ぶ丈六の巨像で、元禄13年(1700)、御室大仏師北川運長によって造像されました。

 

・五重塔

総高43メートルに及ぶ大塔で、善通寺のシンボルとして、広く人々に親しまれています。創建以来、大風や火災により、いくたびかの倒壊・焼失を経ましたが、そのたびに再建されました。現在の塔は、弘化2年(1845)、仁孝天皇の御綸旨により再建が始められ、明治35年(1902)に完成したものです。
初層には五智如来像のうちの4体が安置され、毎年ゴールデンウィークに特別公開を行っています。

 ・御影堂(弘法大師が御誕生された佐伯家の邸宅地に建ち、奥殿には大師自筆と伝わる本尊・瞬目(ひめき)大師像が秘蔵されています。現在の建物は天保2年(1831)に再建され、昭和12年に大規模な修築がされました。

また、御影堂地下には、約100メートルの「戒壇めぐり」があり、暗闇の中、御宝号を唱えながら大師と結縁する道場となっています。

 

・御影の池

唐に留学する直前にこの地を訪れた大師が母・玉寄御前のために、池に自分の顔を映して自画像を描いたという。大師像の前には父・母の姿がある。

交通安全ステッカーを入手しました。


第74番 甲山寺

2019年11月16日 | 日和山めぐり(四国編)

医王山 多宝院 甲山寺

十二神味方に持てる戦には
己と心かぶと山かな

甲山寺周辺は弘法大師の故郷で、幼少時代によく遊んだといわれる場所。平安初期、壮年期になった弘法大師は善通寺と曼荼羅寺の間に伽藍を建立する霊地を探していました。
ある時甲山を歩いていると、麓の岩窟から老人が現れ「私は昔からここに住み、人々に幸福と利益を与え、仏の教えを広めてきた聖者だ。ここに寺を建立すれば私がいつまでも守護しよう。」と言いました。弘法大師は大変喜び、毘沙門天像を刻んで岩窟に安置し、供養しました。

甲山寺の見どころ

・本堂

檜の一木造りで、重厚な姿と力強く引き締まった表情が印象的な「薬師如来像」が祀られています。

・毘沙門天の岩窟

大師堂の左手にある奥行12mほどの岩窟。

大師が彫ったといわれる毘沙門天像が祀られています。

・子安地蔵(大師堂へ続く石段の隣に祀られたお地蔵様は子宝にご利益があるとか。子宝を願ってお地蔵様の前掛けを持ち帰り、叶うと新しい前掛けを持ってくる習わし。)

交通安全ステッカーを入手しました。

ご詠歌のかぶと山から、かぶとがステッカーのデザインに使用されています。


第73番 出釈迦寺

2019年11月16日 | 日和山めぐり(四国編)

我拝師山 求聞持院 出釈迦寺

迷いぬる六道衆生救わんと
尊き山に出づる釈迦寺

出釋迦寺の開基には、弘法大師幼少期の数ある伝説のひとつ「捨身ヶ嶽」縁起にゆかりがあります。それは、弘法大師が“真魚”と呼ばれていた7歳の時。我拝師山に登り「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じました。すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめました。命を救われ、願いが叶うことを示された弘法大師は、青年になって我拝師山の山頂で刻んで安置し、堂宇を建てたといいます。

出釋迦寺の見どころ

・捨身ヶ嶽禅定

寺の境内から50分ほど登った場所にあり、さらに100m進むと大師捨身のお行場が毎月旧暦15日には護摩祈祷が行われています。

・捨身ヶ嶽遙拝所

捨身ヶ嶽禅定まで登れなくても、ここでご宝号を唱え、祈願すれば同じぐらいのご利益があるといわれます。

・本堂(弘法大師作の本尊・釈迦如来と、脇仏に不動明王、虚空蔵菩薩があります。)

交通安全ステッカーを入手しました。