輪廻の沼 3

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evo2017ときど氏優勝

2017年07月21日 00時41分31秒 | CAPvs.SNK2
個人主義的な職業


evo2017ときど氏優勝、賞金金額は400万円ほど。東大出の彼がこの金額に見合うかは分からない。

が、同じ東大出で故高橋さんのように大企業に就職しガムシャラに働く。そういう人生とはものが違うんだろう。

ときど氏はプロゲーマーの道を選択した。

そこには何の土台もない。

ボクシングのように汗をかくわけでもなく。

それでも責任が全て自分に来る世界。

という部分はボクシングと共通してる様に思う。

考えてみると、プロゲーマーは日本の賞金金額が10万円でありこれで生計を立てる事は不可能だ。だが、それでも彼は東大という肩書きでもなく、大企業という牢屋でもなく、ときど という個人を選んだ訳だ。

そして、彼は多くのファイターを倒し、米国チャンプに勝利するってのは凄まじい事だ。

考えてみれば、日本は小さい頃から競争、競争と言いながら実際は競争ではなく妨害だ。

受験で、ライバルを蹴落そうとするライバル妬みから来る妨害。恋愛で、ライバルを嵌めてやろうと企む、恋愛妨害。出世競争とは名ばかりの、持ち上げ落としたり、左遷させたりする会社の出世妨害。パワハラや自殺ですら、妨害者は勝手に死んだとしか思っていない。

そうやって相手を妨害した結果、自らの魅力を上げようとは出来なかった。妨害こそが人生の団塊世代が何人いるだろうか。

プロゲーマーは確かにリスクはデカイ。

ただしボクサーのようにパンチランカーになって人間ゴミの様な人生になるリスクはない。また、女性でもチャンスがあれば名乗りを挙げられる。

ただし、1日20時間位ゲームすると言うリスクを踏まえないといけない。ときど を見ていると著「田村淳」の「日本人失格」という本を思い出した。

頁25
芸能界という「村社会」の息苦しさ
それはともかく、芸能界は師匠が「黒」だと言えば、たとえ自分が「白」だと思っていても「黒」と言わなければ生き残れない世界だったのだ。お笑いの世界に限らず、料理の世界や、芸事、職人など、理不尽さを乗り越えて一人前になっていく姿を、日本社会は美化してきた。

とあった。芸能界は、縦割。所詮は迎合と闇に包まれ、国民を妖しく惑わせる性質があることは、大学時代から気づいていた。

なぜか芸能人の左顔は、常に引きつっている人が多い。左顔は人の本心が現れ易い。ボクシングでも悪魔の左手、神の右手とあるが。

相対的に人は、左顔が急所になり、右はブラフとなり易い。これは人を殺したいぐらいの本音が出るのが身体の左に現れ易いことに由来する。

つまり、先人がいう神と言われた右が実は嘘つきとなる。こういう、顔なり胴なりが左右が大きくゆがまされた住人が多い世界ってのは、芸能界も然りで、煌びやかな様で、実は地獄だ。


プロゲーマーとは新しい仕事であるが。

新しい世界には活力がある。

evoを優勝した ときど 氏の顔には悪魔も神も宿って否かった。本来、人間の顔ってこうあるべきだし、どんな仕事でも、雇い側も雇われ側もこういう顔しながら働くと幸せになれんのになって思ってしまった。

プロゲーマーは甘くない。スポンサーの企業やファンもいないといけない。だから、それらの影響は受けるだろうし、面倒な人間関係もあるんだろうが。

勝つか負けるかという世界で生きたいという部分には男として生まれ、共感する。また、ワールド級の大会でアメリカや日本のゲーセンで行われているガチという状況が、決勝戦でそのまま再現されていた。

八百長で噂になる相撲や、出来レースが疑われる公営ギャンブルとも、プロゲーマーは違う生き方ができる様に思う。

プロゲーマーはアメリカがスタンダードになりつつある。格闘ゲームを生み出した国ではなく、米国こそが格闘ゲームの聖地となるのも時間の問題だろう。

田村淳の本にもあるように、この国は生きづらい。

大衆迎合文化は、プロゲーマーを職として認めないのには、やはり政治的な権力を手中にしている頭の固い世代が選挙権を盾にかたまっているから、認めないのだろう。

考えてみれば、この国には「いいじゃない、それで」という考え方が希薄だ。自分と関係なければ、ソイツがそれで頑張るんだから、「いいじゃない、それで。

これに馴染めない人が何と多いことか。

世の中の役に立つか否かで評価し、結果、他人の生き方を社会的に全否定する世界。

一度しか無い人生を、あーだ、こーだと言われる世にも奇妙な自殺の多い国。

世の中の役に立たないという見方をする老人もいるかもしれないが、それをいうなら多くのボクシングを代表する大衆文化の象徴的スポーツが世の中の役に立ってるか疑わしくなる。

そもそも役に立つ、立たないでまとめると。ある人には意味があっても、ある人の人生では自分の人生に自分が居なくなるんじゃないだろうか。

人の役に立つのではなく、自分が自分としてあり続けるためにこの人を全力でサポートする。あるいは、王者になりたい、この仕事をしたいとやらないと、働き方改革なんて言葉だけが踊るのみ。

卵の殻が、白から赤に変わった。
本質は同じままじゃんとなる。

それって、お客様こそ主人公みたいな事言いながら、実際は経営者こそ真の主人公。客は豚、従業員は奴隷のような分かりにくいオモテナシの日本。

自由の意味について、干渉社会や大衆性の悪害を本気になって見直さないと生きてるだけで嫌な国にしかならないじゃないかな。

EVO2017は、好きな事をして生きる事を保証されている大会と言えるだろう。勿論、プロであるからには、優勝者だけしか輝く事が無い世界な訳だ。


抑圧型教育と秋葉原連続殺人事件の関係

2017年07月19日 16時11分52秒 | 心理学
死刑制度と無差別殺人、抑圧型教育の関係について
話の論点を何からするから迷ったが、日本人には恥ずかしがり屋が多い。恥ずかしがり屋の人はうつ病にかかりやすい。

自分を見せたくないから、自分の事が言えない。なぜ自分の事が言えないか?親子関係において自分の意志や願望等々を言えない様に育てられたからだ。

ある親子がレストランに行く。母親は周囲に「好きなもの食べなさい」と言い、子供は好きなものを食べようと高いステーキ肉と言った。すると母親は、「こんなに油まみれでコレステロールが高いのはダメよ」と言い、ステーキではなく豚肉料理に置き換えた。

さらにレストランから出たあと、子供をひどく叱りつけた。「なんであんな高いもの頼むのよ!周りから恥をかくとこだったじゃない!」こんな家庭で育ってしまうと、この子供は特定の人に自分の意志を言う事ができずに育つ事になる。

好きなものでも好きと言えないと、基本的欲求が大きく偏屈されてしまう。心の底に大量の憎しみを蓄積し、それは想像を絶する程に凄まじい。

秋葉原連続殺人事件は、ある意味、日本の教育により作られた抑圧型人間の結果である。著加藤諦三の「モラルハラスメントの心理構造」という本にその心理状態について記載された文章がある。

頁数164
自分の意志や願望等々を言えないように育てられているのである。それが美徳による束縛、美徳による支配の恐ろしさである。
何も言えないだけに、心の底に蓄積された憎しみは想像を絶するほどすさまじい。無意識にすさまじい憎しみがあるとなれば、人と親しくなれない。
ベラン・ウルフの言うように、人は相手の無意識に反応するから、周囲の人はその人と心から親しくなろうとはしない。そして自分の心の底の憎しみが外化されるから周囲の人が怖くなる。おそらく、これが対人恐怖症になる一つの原因であろう。
とにかく怒りや憎しみが表現されれば、それはコントロール可能になることもあるだろうが、表現されないままに心の底に積もりに積もっていけば、ある限界を超えるとコントロール不可能になる。その無意識にあるものすごい不満が爆発した時が「できるだけ多くの人を殺したかった」という心理であろう。社会が衝撃を受ける時である。

とある。

日本の教育は、皆同じという暗示を子供にかける事から開始される。しかし、この暗示はある子供には薬になれば、ある子供には毒にもなる暗示ではないだろうか。

日本の教育は、大衆迎合教育が本質である。今の日本の子供の貧困化、社会的な質の低下は、子供に多様性を持たせた。

しかし、皆同じという暗示はこの多様性を否定する。

大衆迎合教育は、抑圧型の教育だ。自分が大衆にどう映るか?異性にどう映るかを気にしながら生きねばならない人生を意味する。

大衆の欲求が、自分の基本的欲求を意識的に否定するように作用し、無意識に憎しみを集積させる教育。

これが日本教育の根幹ならば、行き着く先は秋葉原連続殺人事件、av強要問題、電通の過労自殺・職場や学校のイジメや自殺、東芝等の不正会計等の隠蔽・嘘の塊社会となる。違う問題でありながら、大衆を欺くため、大衆から自分を守るために起こした犯罪という視点は皆、共通している。

これら事件が日本の教育の仕組みが作り出した一つの副産物とも捉えられないだろうか?

話はそこまで単純ではない。

なぜ単純でないか?この教育の仕組みは日本人に奴隷と悪魔を作り出した組織ってのは一筋縄ではいかないからだ。

秋葉原連続殺人事件は死刑になったが、犯人はもともと自殺するつもりで、この事件を起こしている。つまり、死刑となっても社会的な再犯予防の効力も、余り効果的とは言えない。

世間は犯人の母親にその責任を唱えた。

確かに、機能不全家族における原因に母親は深く関係する。しかし、母親から離れても殺人犯になり自殺する事で人生の苦を終わらせたいと願う気持ち。

その心理状態になるまでを、母親だけに責任転嫁した犯人の真の動機は、母親なら責任を負っても問題ないと思ったからではないだろうか。

それも日本の教育は正しいという目線で秋葉原連続殺人事件を見た場合での話である。日本の教育は正しいから、母親は間違っていたという結論で殺人犯の人生を片付けると、次の殺人犯も生まれるのではないだろうか?

逆に自分達の受けてきた教育は間違っていた。社会に殺人犯を人工的に作り出す仕組みが延々と放置されていたという視点にはならない。

日本の大衆迎合教育は、最初に子供へ嘘を教える教育である

話を最初のレストラン親子に戻す。

先程挙げた、同書の頁191
非言語的メッセージと言語的メッセージの矛盾は、幼児には深刻な影響を与える。幼児はとまどう。何が何だか分からなくて自分一人の世界に引きこもる。

自分一人の世界に閉じこもるのは恥ずかしいからだ。大衆迎合教育は、立派な言葉を言う先生が親鳥の代わりとなる。そこで、幼児は親鳥から見られた自分という存在を意識する。

しかし、その先生も教育でそれを言う様に教えられたから言っているだけで、心の中では別の事を考えていたりする。

世間的な倫理観、道徳観は皆、全て美徳であり自然界には存在しない。幼児の周りの友達も仲良く仲良く言いながら実は心の世界では別の事を考えていた。

そんか嘘の世界で幼児は、既に引きこもるための準備が働いている事になる。

それが日本の教育ではなかろうか。

支配者は子供や大人が何人自殺しようが、この仕組みを変えようとしない。公に、明るみに出さないのは、支配者にとってこの仕組みそのものが好都合以外の何者でもないからだろう。

これらのモラハラから受けた心傷や社会的な労働制裁による残業地獄を担うための社会的な救済措置も自己責任として放置した。

言葉に表すと破壊的という他ない。

レストラン親子は何も特殊な訳ではない。形を変え、母子家庭なら特に起こりやすい。恥ずかしがり屋を作りやすい。

それだけ、女と男の基本的欲求は違うからである。違うものを同じになれと言うのは、白いモノでも黒くなる。あの教育と同じではないだろうか?

私はこの事実に気づいた時、驚いた。日本の教育は、小中からすでに極道思想の片鱗を教えられていた事になる。