輪廻の沼 3

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大衆迎合と戦争

2017年06月28日 13時17分57秒 | 心理学

迎合的な人ではなく、ユニークな視点を持つ人が世界を救う時代が近くなっている。
日本の教育は、常に第三者の目を気にする和の教育である。それは狭い世界で何かしらの問題を抱えた人を追放し、自分の意見に賛成したと見せかけた嘘つきを周りに囲んだ仮面文化と言って良い。

アメリカが、スマホやネットなどの新技術を生み出す時代になぜか日本ではこの手の発明が生まれない。

第三者の目を気にする迎合教育は、社会的な目論む詐欺師たちの悪戯が流行した。例えば、日本で有名な家電メーカー、自動車メーカーは今やアジアの国々にその手法が真似されている。

かつて、アメリカの家電や自動車の真似をした様に、今度は自分自身がアジアの新規企業から真似される立場になった。

東芝という会社も、真似してきた。

そして、東芝ブランドを作り、東芝にとって不利となる情報は嘘をついて隠してきた。これは何も東芝だけでなく、世界的な企業、政府に至るまで嘘という砂城が崩れにくいという思い込みが働くし、大衆に働かせているからだろう。

そう考えると、会社という組織は会社法により代表を決めねばならず、それが構造社会を生み出す原因である。ブラック企業を作り、企業色に染まれない人は排除されてきた。

ある経営雑誌に0.9の人は要らないと言った。が、社長や経営者が0.9以下なのに、要らないのは『人間は一貫していない』と言った正直者ではなく。『要らないのは社長の考えを理解していない人です』と言った役員や管理者らの嘘まみれの人々によって徹底的に変化できない世界になった。

気づけば、社長にとって不利となる情報は隠蔽され、嘘の世界のみが淡々とある。そんな狭い世界が各組織に存在。

私が日本の大衆迎合教育が崩壊すると説いたのは、かつて日本がアメリカにしてきた迎合ビジネスをアジアが逆に真似し始めたからである。

日本企業が中国に進出すれば、反日デモによって多くの損失を生み、中国で作られた日本製品が信頼できるものかも怪しい。日本の家電メーカーの不振と不審、そして不信は、業種を問わず様々な世界に波及していく。

日本の大衆迎合教育と会社法による独裁者の創出、嘘とエゴが織り成した世界は法的な意味の世界だ。

つまり、自然界のような絶対者がいない世界とは違う。もし、絶対者がいるのならそれは単細胞生物であろう。多細胞生物には絶対者はいない。

どんなに強いとされる生物でも、自然の循環の中では必ず世代交代が急ピッチで行なわれる。猿のボスですら任期は約4年である。

しかし、人間のボス猿は法によって守られている。日本という社会は、実力があっても法によって排除される。

実力がある人は世界を変えれる人である。実力がないから法に頼ろうとする。

法に頼ると世界は変えられない。

日本社会は、出る杭は打たれるという迎合教育であり、排除されるか真似されて捨てられてしまうか、自殺に追い込まれるかで和の統制を図った国である。

第二次世界大戦に終止符を打った原子爆弾、日本よりも高度を誇ったアメリカのネット型の基地の分散。このような柔軟な発想は、日本でやろう物ならたちまち和を乱す因子と見なされ弾圧と糾弾が待っている。

考えてみれば、暴走族なんかも迎合反応の一種ではなかろうか。社会的に底辺だったり、思い通りにいかない嘘と見栄の大人の世界ではなく、自分達の世界を作ろうと考えた。

考えたが良いが、考えた暴走族の世界で総長を作り、悪い事をやれと下っぱに迎合を押し付けた。気付いたらアンダーワールドに就職するための下準備が出来ていたなんて青春も多いだろう。

日本社会なんてアンダーワールドも上の階級社会も大衆迎合教育を受け続けて出来た副産物なら対して本質は変わらないではなかろうか。

世界を変えるとは、新しい世界を作る事だ。

例えば、お金に頼らなくても生きていける世界を作る事だ。

今の経済とは、お金持ちのためのものだ。貧乏人からは排除して欲しい世界ではないだろうか。そして、真の意味はアメリカの一部の支配者の為のものだ。現実に、経済などをやっている生き物は人間だけだ。

私たちは、教育を通してお金のメリットばかりを伝えられた。その経済という世界以外で生きる方法は排除されてきた。

暴走族になるにしても、バイクを買ったり、ガソリン代や車検、改造費もいる。

無意識に、どんな人生でさえ私達は経済とリンクした。

経済を利用せずとも生きていける世界の創造は、支配者から自分が支配できる人間を手放すことになり、容認されないだろう。

けれども私は思う。

今の日本は破滅に向かっている世界なのかも?と。

様々な情報が錯誤し、嘘と無価値な世界がただただあり続けるだけが、ご時世ならば。

それを変える力が必ず必要になると思うからだ。

それはアメリカ人の真似をするだとか、そういう事ではなく。

新しい世界を作るという事。

国家だの組織だの、そう言った類ではなく。

自然界のように、何かしらの世界が必要になる。それは経済という支配者都合ではなく、生物の基本的欲求に沿って、そこから嘘を排除し、人々が幸福になれる事を支援するような世界。

キーワードは、AI、ロボット、戦争、その他だろう。

未来は不確かな事だが、私の感覚では、世界は戦争に向かっていると感じている。金持ち達は、経済と情報をコントロールし、増えすぎた人口を抑圧をしたいはずだ。

戦争を引き起こすキーワードは、テロ、少子高齢化、世界大戦。

そこから破壊がおき、恐らくは私も生きていないかもしれないが、国家に飼われない生き方を人々が模索する時代が必ず来るはずだ。

AIにより、人は文化的に生きるか、生物的に生きるかを選択可能になるだろう。

ロボットにより、今の組織対組織の世界から、別の世界に移行するだろう。

その他により、人は人に頼らずとも生きていける能力を手するだろう。その新しい世界と古い(今の)世界とで何か大きな事が生じるとも思う。












大衆迎合を論じる

2017年06月06日 19時26分30秒 | 心理学

日本の教育がいかに大衆迎合的か

長い者には巻かれよ
皆の心は一つ
大和魂

これらの言葉は、皆、大衆迎合的な言葉である。

大衆迎合という言葉をググルと、よく政治の事ばかりが出てくる。政治家の言動ばかりが、大衆迎合と言われてしまう。

私は大衆迎合は、政治よりも教育の部分から見直す必要があると論じたいのだ。教育こそ大衆迎合の種となるような感覚の植え付けである。

日本を不幸にした元凶であると言いたいのだ。

何て事は無い。

日本に住めば、日本社会のほぼ8割以上は大衆迎合と呼べる文化にどっぷり漬かっいる。何が大衆迎合か、そうでないかが分からない。

そういう日本文化に染まると感覚がマヒすることがある。自分は自分、他人は他人が分からない人が多くなりやすい。

自分の考えがあたかも第三者によって作られたものではないか、よくよく疑う事を知らない。

例えば、学校教育で起立ー礼ー着席を統一する。これも、第三者がどういう狙いでそのような制度や立ち振る舞いを作ったかを、勘付く事である。

他の国ではどうかを比較する事である。

イジメをする、あるいはパワハラをする、警察に補導される、死刑が下った。


上記の言葉も意味は違えど、これらも関係ない事柄でありながら何か共通した意図が隠れていないか吟味する事である。

観察、比較、吟味を繰り返す。

すると、ある日にハッと気づく事がある。情報の根が、広く深いほど、頭の中で世界の繋がりを実感できる。

これを閃(ひらめ)きと言ったりもする。

閃きとは、異なる世界と世界とが繋がった瞬間に人間の頭の中で生じたイナヅマ現象だ。

右脳と左脳、連合野と感覚野、運動野とが抑圧により繋がるはずがなかった神経同士。領域同士。
ある遺伝子が不活化すると途端に生きていく事が出来なかった世界で生きる事が出来る様になる。
今まで自分とは無関係と思っていた領域に手を伸ばす。感覚が一体化される。

例えば、ドアの向こうにいる人間が何者で、何をしているかが分かる人がいる。これが自我と他我が繋がった世界にいる住人である。

これは覚醒などという生易しい言葉ではない。

人間は脳を変化させるというが、逆に言えば、自分の脳を自分で殺すことも、死なせる事も出来るはずだ。

ただ基本プログラムが邪魔しているだけ、脳の世界には普通では踏み込めない領域にあえて入り込む事ができる人がいる。

日本人の脳の世界を作る日本教育は、人間として生まれ、何らかの紐付けを行う行為。教育は紐付けを行う、基本にあるのは感情である。感情と言葉や情報、そして本能などが手を取り合うように教え込まれる。

それを共通したものにしようとしたのが、大衆迎合教育である。

感情と言葉
言葉と本能

教育とは上記の関係を紐付けを延々と繰り返し、優先順位や複合的な反応を作り出す行為だ。教育は、親よりも、国家管理の部分が多いのではなかろうか。

1日の大半を学校で縛られる。これに何故だ?と言う疑問が湧かない。湧かない様にプログラムされている。湧くことに恐怖や不安、あるいわ違和感でもよい。幼少時代から、そう反応するような多面的なサインを受け続けた。

その結果なのだ。

あなたは自分を変えたいのに、自分を変えれない様に日本教育から教えられている。日本の支配者にとって1番恐ろしい事は反乱である。反乱させたくないから大衆迎合教育を徹底する。

自分に嘘を付いても良いから人に合わせなさいとなる。それらの習慣が、脳の中で思考化すると自分を変えれるチャンスを自ら手放す。鬱病で苦しむ人がいざ鬱病を克服できるチャンスを自ら手放すのは、大衆迎合教育の弊害である。

そして、鬱病から抜け出せず、時の魔物によって自殺する人がなんと多い事か。今、官製結婚しなさいという国家の後押しも、確かに自分を変えれるチャンスなのかもしれない。

しかし、『あなたのことはそんなに』のドラマであるように、周囲や自分の欲とが分からず、結局、自分を出せる場所がどこにもない人がこの国にはなんと多い事か。

多様な親がいるのに、学校では共通した価値ばかりに重点が置かれる、すると人は本能よりも価値を選ぶ傾向が強くなる。

価値を選ぶ傾向が強くなると、人は人との付き合いにでさえ、第三者の目を気にする様になる。


第三者の目とは評価の事だ。ニュースでの情報の伝え方、情報を伝えている、読んでいる、聴いている自分。ニュースキャスターも読者、聴者も常に第三者の目を意識しないといけない。

そういう伝え方、聴き方、見方になる。

成らざる終えなくなる。

そこに本能はない。

言うなれば、日本社会の大部分が本能を抑圧する事に重点が置かれた社会ということだ。気にしないという習慣が、これほど欠如した教育、文化も日本特有である。

ニュースを読む、聴く、見るだけで、読み手も聴き手も、見る方でさえも互いが互いに干渉しだす。

このニュースって酷くないか、このニュースは凄い。それは、その人だけに生じているとも限らない。

限らないにも関わらず、大衆迎合教育を受けた日本人は互いが互いに干渉する。『そんなに酷いことかな?』、『そこまで凄い事かな』と言うと不快感が生じる。それは不快感が生じた者だけの感覚だが、あたかも恥をかいたような錯覚ですら覚える者がいる。

そう不快感に、そう恥をかいたように感じるのも、あなた特有、あなただけの感覚なんですよと言う事が分からない。

皆の心は一つを『皆勝ちたい!これだけ練習したから!』とは言わない。心まで同じですよと声を荒げるのが、干渉者だらけのこの国であるからだ。

このような大衆迎合教育で作られた文化の中で不幸になるのは、スタート地点から既にハンディキャップを背負った人々である。

ハンディキャップとは別に貧困だけではない。機能不全家族であったり、色々な面で影響し複雑な人間関係が絡むのがこの国だからだ。

そして、最初からハンディキャップを背負った人を排除したり、逆にけなしたりするのも大衆迎合教育なのだ。だから、イジメが陰湿になったり、従業員を物としてしか見ないブラック企業が出てくるのも、ある意味、大衆迎合教育の賜物だ。


ハンディキャップを背負った人の人生は、人から幸せの素となる本能的な部分を吸われるか、吸いとるかしかなぬなる。

しかし、人から幸せを吸い取ったり(破壊しても)、一時的に満たされた様に感じ、すぐに幸せを吸いたい、破壊したい衝動に駆られてしまう。

これは、人間も犬と同じように階層的な思考を持っている。自分が仲間の中でどれぐらいの位置にいるかを気にする。

しかし、本能的な願望を、貧困や機能不全家族などで破壊された人々は若くして絶望の頂きに立っている事が多い。これが若年者が自殺する社会的な仕組みであり、支配者によって切り捨てられた人々である。

カエルの子はカエル

と言う言葉があるように、この国の文化には大衆迎合が色濃く表れ、幼き時代に受けた第三者からの評価やトラウマ、傷心を抱える人が多くいる。日本人の多くは第三者からの目を気にするあまり、内面的な部分を表出したり、受け止める習慣が欠落している。

外国では心の傷を受けた人を抱擁したり、励ます文化があるのに日本は心の傷を受けた人を、弱者として痛ぶる習慣が多い。

あるいは、皆な和を乱す危険因子として排除したりする。

これには地域差もあるだろう。

日本人は、日本人の心の世界を大きな様で表すが、自分の本心よりも他者の評価を気にするだけの哀れな国民像とも言える。

確信をつくとみすぼらしい。なので、日本人は健気や誇らしいなどの言葉で飾り、本心からは遠ざかろうとする。

だから、心の悩みは解決しない。

心の悩みとは本能だ。

自分の本心や本能を抑圧することは、心の悩みの解決から遠ざかる。長期化すると恐怖や不安も生じる。

本能を抑圧する文化は、やがて内面から腐食し、外圧によって壊される。

これは自然の世界でも同じ結果だ。

支配者は、大衆迎合教育を残そうとやっけになっている。しかし、大衆迎合教育の結果、自殺者を増やし、少子高齢化による老害ゾンビを社会的な権力を使い放題にしている限り、次の時代や日本外の環境の変化に耐えれない。

大衆迎合教育は、いつか必ず、ド派手に崩壊する。

少子高齢化は、本能を抑圧する日本教育が生み出した賜物だ。

衝動的に人の幸せをぶっ壊し、社会的な不幸が蔓延化。今、やっけになった政策等もいずれは無理を生じ、社会に大きな影や、あるいは戦争が始まるかもしれない。

では、本能や本心を抑圧すると人の心はどうなるか?それが大衆迎合教育でいう、第三者の目を気にすると説明した。

第三者の目が気になると、注意深い観察が浅くなる。人の本質が見えなくなる。何が大事で、不要かが分からなくなる。

つまり、第三者の目を気にする文化や教育には、自分を捨てなさいが裏のメッセージとして込められている。

誰が誰と付き合うも自分と関係なければ気にしないが無い不幸な文化を継続し、日本人は日本人の幸せばかりを気にする様になる。

気にするだけでなく。干渉する。

大衆迎合的な反応として、自分がスタンダードという刷り込み的な思考にとらわれると、自分より幸せな者がルール違反になる。

気に障るなら、破壊が始まる。

いいじゃない、そういう人も居てという感覚がない。こうして、幸せな家族の人口が減り社会から活力がなくなったのがこの国である。

そして、死ぬ時だけ人になる。

この国は、死人だけ個性が尊重される。そういう習慣が強い。

葬儀に参列した時ではなかろうか。死人は丁重に扱われ、自殺志願者などは死人になるまで、あたかも生きてないかの様に扱われた。

否、壊され、殺された。

この国には、どこか恐ろしくも見えにくい習慣や考え方が狂気として渦巻き、国民はそれを平和という言葉で隠蔽されているのかもしれない。

そして、疑う事にフタをされた教育を信じる人々には、自分こそがスタンダードなのだ。ニュースで流れた情報から芽生えた自分の感情こそがスタンダードなのだ。

アメリカ映画に『いまを生きる』という映画がある。

日本では、この映画の上映や閲覧に規制が生じている様に感じるのは、この国にとって何か不都合な事実がこの映画に隠されているのかもしれない。

自分はどこか社会的に満たされているのに、本能的な矛盾を感じたり、あるいは家族内や自分そのものに疑問を持つ人は観てみると良いかもしれない。

私のように考えると、やはり大衆迎合は、政治ではなく教育から考える必要性も無くはないのではなかろうか。