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もりおか暮らし物語 盛岡ブランド日誌

盛岡ブランドは市民一人ひとりの暮らしの活動から生まる物語です。ひとりの盛岡大好き人間の盛岡自慢の情報日誌です。

黒テント「ど」公演と東北

2006-08-29 06:15:57 | 暮らし文化
 黒テント盛岡公演「ど」の初日は、8分の入り。「ど」は吃音障害を克服しようとする3名の男たちの熱と苦悩の話だが、冒頭から笑いが絶えなかった。
 東北各地を転々としているテントの劇団員たちは、各地の反応を教えてくれた。最初から笑いが絶えないところと、シーンとしているところ。盛岡は笑いが多いところだが、福島・仙台は静かだったとのこと。この話の原点は「吃音」と「被差別」の「差別」だが、これを東北に置き換えると「訛り」と「エミシ」の「差別」になる。盛岡ばかりでなく、東北各地でそんな話が出たとのこと。
 盛岡の客に笑いが多かったのは、芝居慣れした客が多く、芝居が持っている「猥雑さ」(許容力)に遊びながら観劇したせいだろう。主人公の一人が精一杯の気持ちで吃音の源ともいえる「こだわり」(卑屈さの原因)を告白するシーンがある。場内が固唾を呑んで見守るところだが、そこで主人公は「俺は・・・・民だ」という。流石に盛岡でも緊張の場で、客席からは咳払いの一つも聞こえなかった。
 「吃音」と「訛り」、「」と「エミシ」。
 笑いの中で、笑い飛ばすには重いテーマをしっかりいただいた。

もりおかのガキ大将-馬場勝彦とその仲間たち-

2006-08-28 08:52:42 | 暮らし文化
 一昨年の12月に亡くなった馬場勝彦さんの遺稿集「もりおかのガキ大将ー馬場勝彦とその仲間たちー」が発刊された。同編集委員会の自費出版で1680円である。市内の書店でも販売している。本文256ページは馬場氏の講演記録が中心、残り98ページは氏と仲間たちの活動記録になっている。永六輔、秋山ちえこさんら著名人の短文も添えられている。なかなか読み応えがある。
 さまざまな価値観が交差する現代、市民運動といわれる活動は運動家の個性の力によることが大であり、どちらかというとマニアックになりがちだが、馬場さんの活動はスケールの大きかった。福祉活動の域にとどまらず、文化・観光・地域それぞれの場で大きな活動をした。人間愛・郷土愛が彼の原点だったような気がする。詳細を述べるにはここのスペースは足りないので、是非、遺稿集を読んでいただきたいものだ。

黒テントと盛岡の演劇

2006-08-27 06:19:55 | 暮らし文化
 盛岡は演劇がさかん、と言われるが、昔からそうなのかといわれるとそうでもない。昭和30年代から50年代にかけては「枯れていた」と言ってもいい。演劇は人の営みだから、時代のときどきに人気劇団や優れた作家、幾人かの頑張り屋や牽引者が登場し、時代を作っていく。
 盛岡の演劇もそうだ。戦後のアマチュア演劇ブームは職場演劇と文化性の高い土壌から「遊び」として始まった文士劇が支えた。職場演劇と文士劇はほぼ同時期に姿を消すと残ったものは演劇愛好者の劇団数個という寂しい状況だった。
 そんななかで、東京から一つの劇団が盛岡に公演のため訪れた。昭和49年のことである。かってに押しかけた東京の劇団の公演を支えようという演劇人は盛岡には数えるほどしかいなかった。詩人、美術家、Uターン青年らが中心となって彼らを支えた。初回の公演はわずか70人。翌年の公演は200人ほどに増え、昭和53年くらいからは毎年300人ほどの観客が集まった。劇団は「黒テント」と言った。文字通りテントで演劇を行った。常打ちは八幡宮だった。
 黒テントの公演を支える層から盛岡の新しい演劇も生まれ始め、それらの活動が盛岡の演劇を大きく飛躍させた。黒テントとの付き合いは、黒テントがテントを棄て、新しい演劇活動をはじめても続いた。既に30年以上のつきあいになる。
 その黒テントが久しぶりに盛岡公演を行う。テント公演ではないのが残念だが、公演する空間が、かつて黒テントを支えた盛岡の演劇人たちが作り出した手作りの劇場というのがいい。公立劇場もいいけれど、雑多な思いが染み込んだ市民手づくり劇場に黒テントは似合う。
 公演は8月28日(月)、29日(火)の両日、午後7時開演。
 会場は、盛岡市肴町永卯ビル3Fの「いわてアートサポートセンター・風のスタジオ」前売り・予約3500円(学生2000円)だ、(電話予約019-604-9020)
 演目は「ど」、構成演出は山元清多氏、盛岡の劇団出身の内沢雅彦さんが主演する。

盛岡デー・チケット購入

2006-06-20 08:07:24 | 暮らし文化
 盛岡デー・イン・東京のイベントで、有料の催しものが3つある。前にもここに書いたが「盛岡の芸能と音楽の夕べ」(7月3日)と「一人芝居SETSU-KO」(啄木ローマ字日記から)(7月6日)、盛岡リージョナル劇場「泣き虫なまいき石川啄木」(7月8.9日)である。
 いずれも、盛岡人と盛岡出身者による舞台だ。民謡名人位の畠山孝一さん、標準語と盛岡弁のバイリンガル、畑中美耶子さんが出演者たちの代表格で、盛岡出身の音楽家たちもそれぞれの場で活躍している。また、地元の演劇人も盛岡の第一線で活躍している。
 しかし、入場券の販売状況はまだ頑張りが必要なようだ。舞台公演は、全国的に不況下以来、観客減少が続いているうえに、東京で、盛岡人の舞台となると著名度不足が否めない。ブランド推進とは、そのものがもっている価値と社会の認知度の差を埋めることとするなら、まず、これらの舞台を見てもらうことが大切だ。
 何とかしてチケット販売を促進させたいものだ。
 ではどうしたら、チケットが手に入るか?
 首都圏の人は、盛岡市東京事務所で電話予約(03-3289-1521)を受け付けつけている。演劇公演は、チケットぴあでも販売している。
 盛岡の人は、東京の知人・親戚にかわって盛岡市ブランド推進室に電話予約(019-651-4111内線3725)してみよう。
 ちなみに「芸能と音楽の夕べ」は、7月3日午後6時30分開演。新宿明治安田生命ホール(新宿駅西口2分)、前売り2000円。
 一人芝居は、6日午後6時30分。シアターイワト(地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅下車3分)前売2000円。
 「泣き虫・・・」は8日午後1時30分、6時30分、9日午後1時30分の3回公演で、シアターイワト、前売2500円。シアターイワトは客席数100席ちょっとの小劇場だ。芝居の醍醐味を味わうことができる。
 

中村誠展、14日ギャラリートーク

2006-06-14 06:27:42 | 暮らし文化
 8日から「もりおか啄木・賢治青春館」で中村誠展が開かれている。B倍版の大型ポスター3枚を含む28点のポスターと、撮影風景の記録となっている写真などが展示されている。
 今回の企画は、盛岡出身で日本を代表するグラフィックデザイナー中村誠氏が、昨年、盛岡市勢特別功労者となったことを記念したもので、資生堂以外でつくられたポスターを紹介したものだ。前田美波里や山口小夜子をモデルに登用し、一時代を築いた資生堂のデザインは数多く、これまでもよく紹介されていたが、国際博覧会や国民文化祭などの文化催事のデザインはあまり紹介されていない。
 「資生堂の商業ポスターは制約が多いが、文化催事のポスターは自由度が高い」とは中村氏本人の弁だ。今日、14日午後2時から、本人によるギャラリートークが行われる。ポスターの前で、30分ほど、作品の製作過程のお話が聞けそうだ。
 戦時中、美術学校の学生だった中村氏は「啄木の年、賢治の年まで生きられたらどんなに幸せか」と思ったこともある、と語っている。
  病のごと
  思郷のこころ沸く日なり
  目にあをぞらの煙かなしも
 遠く、盛岡を離れていても「ずーと、盛岡人」として作品を紡いでいた中村氏のデザインを、啄木・賢治青春館で見ることができる。盛岡ブランドのシンボルマークは、この中村さんのプロデュース、杉本吉武氏のデザインだ。マークに使用されている盛岡ブルー、盛岡グリーンの色彩が今年の流行色になることを期待したい。

盛岡デー「泣き虫なまいき石川啄木」

2006-06-06 07:21:03 | 暮らし文化
 盛岡は演劇がさかんな街だといわれるが、何時ごろからそうした評価がでてきたのだろうか。昭和50年代前半は、恒常的な活動をしている劇団は3~4しかなかったと思われる。その後、東北演劇祭イン盛岡や市制百周年記念公演が行われ、盛岡の演劇が注目されはじめた。昭和63年のAUNホールのオープンや平成2年の盛岡劇場のオープンで、市内の演劇環境がかわり、多くの劇団が誕生した。一時は20を数える演劇集団が存在するとまで言われた。平成5年の国民文化祭から8年の日本劇作家大会までがおそらく全盛期だろう。
 その日本劇作家大会の大会長だった井上ひさしさんが、盛岡に国立演劇図書館を誘致しよう、と大会閉会式に提言されたほど、盛岡の演劇状況は盛りあがった。
 その状況に陰りがみえはじめたのが平成10年以降だろうか。相変わらず盛岡は演劇がさかんな町ではあるが、全盛期に比べ、恒常的な活動を続ける劇団は減少し、盛岡の街の話題から「演劇の話」は少なくなってきた。勿論、頑張っている人も少なくない。若い世代から元気な集団が生まれてきているし、八時の芝居小屋という企画やおでってリージョナル劇場、アートサポートセンターのプロデュース公演などの活動はしっかりしている。
 その頑張っている演劇のひとつが「おでってリージョナル劇場」である。プロデュースで地元にこだわった作品を上演しよう、プラザおでってが企画したもので、平成12年からはじまった。その第一回公演の演目が「泣き虫なまいき石川啄木」だ。井上ひさしさんの優れた評伝劇で、盛岡の実力派の演劇人が出演している。
 出演者で啄木の両親役の伊勢二朗さんと畑中美耶子さんは、一人芝居もやっている俳優で、盛岡文士劇を盛り上げてきた功労者でもある。啄木役の大森健一さんは賢治役者としても活躍している。それぞれがキチンとした職を持ち、立派に演劇活動を両立させている。プロとしての力量とは違う意味で味わいのある演技をするのが今回の役者たちだ。地域演劇とはなんなのか、を見せることができるだろう。
 7月8日、9日。神楽坂のシアターイワトで上演される。前売り2500円、当日2800円円だが、この入場料は、役者・スタッフの旅費に充てられる。チケットぴあで発売中。予約は盛岡市東京事務所03-3289-1521か、盛岡観光コンベンション協会019-604-3300まで。

二度泣き橋

2006-05-28 08:27:08 | 暮らし文化
開運橋のことを「二度泣き橋」というようになったのはいつの頃からだったろうか。私がその名前を知ったのは丁度10年前、啄木賢治生誕祭(1996年)が盛大に行われた時だった。誰がいつごろ言い出したのか気になっていた。
 二度泣き橋のいわれは「首都圏などから赴任してきた転勤族の方が、盛岡駅から降りてはじめて渡る橋、開運橋で、なんと遠くに来てしまったのだろうか、と泣き、数年後、再び転勤で盛岡を去るにあたって、盛岡の厚い人情や暮らしやすさを思い、離れがたい気持ちがこみ上げて、開運橋をわたり、再び泣く」というものだ。
 本日付けの盛岡タイムスの1面の「盛岡百景」の中で、はじめて言い出した人のことが載っていた。21日付けの同紙で「開運橋」「二度泣き橋」のことが記載されていたので、その記事に対する反応があったのだろう。
 短い記事(5月28日付け)なので全文を紹介する。
「21日の盛岡百景65「開運橋からの岸辺の緑と岩手山」で紹介した二度泣き橋は、91年5月から94年5月まで日銀盛岡事務所長で赴任していた古江和雄さん(58)=下関市在住=が名付け親です」
 古江さんが自らのことを記したのか、転勤族のお仲間のお話からネーミングしたのか定かではないが、機会があったらもっと調べてみたいものだ。
 なお、開運橋のことだが、明治23年に架けられている。前年、盛岡に市制が施行され、東北本線が盛岡まで開通している。近代盛岡の夜明けともいう時期だろう。以来、数多くの方々が盛岡を訪れ、そして去っていた。再び、盛岡を訪れるとき、「懐かしいなあ」と涙を流す、三度泣き橋といわれるような、盛岡の街を大切に残していきたいものだ。
 

お笑い学会

2006-05-26 06:58:45 | 暮らし文化
 久しぶりに生で落語に接した。イーハトーブお笑い学会の企画で「三遊亭鳳楽」師匠の独演会である。場所は、産ビル7階ホール。場所も懐かしい。随分昔、父の職場の職員慰安かなにかのショーを見たのが最初で、あとは講演会程度しか記憶がないが、落語はお芝居や音楽会のような大掛かりな仕掛けが必要ないのがいい。しかし、面白い企画だった。2500円でワンドリンク着、おつまみ付というのもいい。遅れて入ったので、主催者のご挨拶は聞けなかったが、市民主体のこうした企画は長続きして欲しいものだ。最近、演劇でも、音楽でも、美術展でも公立ホールか報道機関、あるいはイベント会社でなければ企画しないという傾向が顕著になってきている。もっと、市民の企画が実現できるようになればいい。一般市民や小さな団体には会場も資金もない。知恵と工夫、多くの市民の協力が必要だ。
 盛岡で「落語」といえば「そば寄席」がなじみだ。「時そば」という古いお話に引っ掛けたのかもしれないが、盛岡の蕎麦屋さんの企画で始まった。もう何年続いているのだろうか。大切にしたい企画のひとつだ。
 戦争中、八幡町に落語家が疎開していたという話を聞いたことがある。糸あやつりの人形劇団一家も疎開していたという。古くは、常磐津林中という名人が、一門のいざこざから逃れ、盛岡に滞在していた。林中さんとの関係は、今なお、盛岡芸者の方々に引き継がれている。啄木も賢治も芸事、芸能は好きだった。
 盛岡の人々は、ジャンルにこだわらず、大切にしなければならないものを知っている。そして、やさしい。

盛岡ことば・・・盛岡弁

2006-02-26 08:56:32 | 暮らし文化
 2月15日号の「広報もりおか」でブランド宣言全文が紹介されている。さて、この宣言文、盛岡ことば版もあるのだが、「盛岡ことば」は「盛岡弁」とは違うのだろうか。大概の方は、盛岡弁も盛岡ことばも「盛岡の地域社会の方言」で了承するだろう。方言には「・・弁」「・・ことば」のほか「・・訛り」「土語」「現地語」「地域語」「里ことば」などと言い表し方がさまざまだ。
 先日、大阪で開催されたある研究会で「地政学」ならぬ「言政学」ということばが提言された。ことばを共有する範囲での社会・経済・文化・政治に対する考え方の違い、問題を明らかにしていこうということだろうか、広い範囲では世界の言語で、狭い範囲では同じ国の「方言」のことにも通じる。
 書き言葉でその違いを埋めようと思ったのが岩手出身の「田中館愛橘」さんの「ローマ字日記」だということだった。エスペラントの宮沢賢治、ローマ字日記の石川啄木、みんな、ことばについて考えてきた。地域のことばと共通語の関係について考えてきた。