地理講義   

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250.千厩町の枡形  岩手県一関市千厩町

2017年07月23日 | ひとやすみ

岩手銀行前は急カーブの枡形である。

岩手銀行千厩支店前で国道284号線が左に大きく曲がる。道路改修前は国道が銀行正門に向かっていて、自動車が銀行に突っ込んだことが何度もあった。カーブは緩やかになったし、正門も移されて、そのような事故はなくなった。銀行を正面に見て、左に火薬店、旅館、仏具屋、食堂がある。右には旅館、呉服店、薬局が並ぶ。自由競争で生き残った商店の並び方ではなく、強権で割り振った配置である。

吉川寺の一部は明治6年に旅館、大正14年に薬局、昭和15年に銀行になった。

吉川寺(きっせんじ)は岩手銀行3軒隣の真言宗智山派の名刹である。しかし、藩政時代から住職が長続きせず、無住の期間がくり返され、現在も無住である。明治元年の神仏分離令で全国の寺が勢力を失い、吉川寺も敷地の大部分を失った。明治6年に旅館、大正14年に薬局、昭和15年に岩手銀行になった。枡形は寺社前を通る道路が鍵型に曲がることが多いが、岩手銀行前が枡形になっているのは、そこがもともと寺の敷地であったからと考えることができる。

巨大な道祖神を夫婦岩と呼ぶ。

 地元では夫婦岩と呼ぶ。花崗岩の自然石のようだが、直径2m以上の男女の岩が偶然できるものではなく、しゃれた石工が冗談半分真面目半分の気持ちで製作したのであろう。
夫婦岩つまり道祖神は村境、千厩商店街はこの夫婦岩から、岩手銀行前の枡形までであった。夫婦岩からJR千厩駅までの四日町は商店街の範囲外であり、製材所以外は農地だけであった。なお、岩手銀行から西の新町も既存の本町商店街の範囲外であり、新たな商店は1ランク低く見られた。
夫婦岩と枡形間の本町商店街として力を振るい、四日町・新町の商店は、新規開店に並々ならぬ苦労を強いられた。例えば、問屋が納品を渋ったり、大売り出しに入れてくれなかったり、その他有形無形の圧力があった。また、商店街振興組合法(昭和37年施行)においても、補助金の交付から除外されたりもした。このような排他的な商店街が、夫婦岩から枡形まで続いていたのである。

明治元年開業の総合商社が権勢をふるった。

 百貨店、ガソリンスタンド、スーパーマーケット、金物店、呉服店、化粧品店など、一族で手広く商売をしている。明治元年は神仏分離令により、寺の勢力がまったくなくなった時である。この時に、創立された総合商社は、町内では商業で、近隣農村では地主として大きな力を発揮した。商売と政治の双方において、商店街の支配的地位にあった。吉川寺は神仏分離令によってすでに力を失っていて、総合商社には完敗、住職も定着しなかった。
明治元年から本町商店街の支配的指導的地位にあった。代理店、特約店、規制業種への進出など、独占的な利益を得ていた。20世紀末に完成したバイパスに交通量が増えると、バイパス沿線にガソリンスタンド、書店、スーパーマーケット、コンビニエンスストアなどを建て、本町商店街にあった店舗を続々と閉めた。本町商店街は衰退傾向にあるが、商店街の再起を図らずに、早々にバイパスに移転した総合商社の経営姿勢が大きな原因である。

本町の商店街は衰退、シャッター街となった。

シャッター街となり、多くの店は開店しているような、閉店しているような、中途半端な状態である。商品を充実して営業をする意欲が感じられない。店を潰して駐車場にしているのは1店舗だけである。どこも中途半端な営業状態である。本町商店街における商売では、商店の経営が維持できないし、家族の生活も難しい。
実は、商店の再利用のために更地にしない、つまり商売を再活性化するための抜本的対策を避けている。商店を中途半端な状態にしておくのは、税金対策である。赤字の商店経営を続けていれば税金は安くなるし、商店街への補助金も続けてもらえるのである。
生活費は郊外の店舗収入で稼いだり、家族総出で工場労働者として働いたりすれば、商店街の収入を越える収入を得られるのである。枡形は商店街の存在感を強めるシンボルである。一見寂しい商店街だが、実は巧妙な計算にもとづいたシャッター街でもある。 

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