地理講義   

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37.扇頂の集落  青梅と寄居

2011年04月20日 | 地理講義

扇状地は沖積平野
山地と平野の境界には扇状地ができる。山地が隆起をし、平野との落差が生じると、その落差を埋める形で扇状地ができる。扇状地は山崩れ・鉄砲水・洪水など、形成プロセスは多様だが、河川が堆積作用により指数曲線の河川縦断面ができる。扇状地は、河川縦断面の落差を埋める斜面である。

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扇状地
海岸平野を巨大津波が襲撃するような地震が起こると、山地が揺すぶられて山麓の集落を土砂崩れが襲う。集落が土砂に埋もれ、犠牲者多数の悲劇が起こる。これは扇状地が形成される、よくある現象である。
地震だけではなく、台風や前線性の豪雨によっても土砂崩れが発生し、扇状地ができる。雪解け水が土砂崩れを起こして扇状地をつくることもある。
扇状地は沈降傾向にある平野部分と隆起する山地との境界の断層に沿ってできることが多い。扇状地の地形は扇頂・扇央・扇端に区分される。

扇頂の谷口集落
扇頂の集落は扇頂集落であり、山地と平野との境界にできる。山地に集落の多い場合には、扇頂は、山地の集落と平野の集落とを結ぶ、最上流部にできる。かつては山地の集落から扇頂に木工製品・山菜・薪・木材などが扇頂に運ばれ、平野から扇頂には米・麦・野菜などの食料が運ばれる。扇端では山地と平野との交易が、日数を商品がたまり次第開催される。市(いち)の成立である。毎月10日の市(いち)に開催されると十日市、7日の市は七日市となる。これらの交易目的の市場集落は谷口集落と呼ばれることがある。
扇頂に集落ができない場合がある。これは山中に生活する者がいない、あるいは扇状地が小さく谷口集落の市が不要だからである。
青梅(東京都。武蔵野扇状地)
多摩川のつくった武蔵野扇状地の扇頂にある。新宿(江戸)と甲府(甲州)とを結ぶ青梅街道にある宿場町でもある。奥多摩と甲州の農林産物、それに青梅の綿製品が青梅商人に買い取られ、江戸に運ばれた。
寄居(埼玉県。荒川扇状地)
荒川のつくった荒川扇状地の扇頂にある。秩父山地に至る秩父往還の宿場町であったし、鉢形城を中心とする城下町でもあった。秩父山地で得られる農林産物と、荒川扇状地周辺の平野部で得られる農産物あるいは遠方から運ばれる海産物との交易の場であった。寄居では、四の日には市が成立した。
2013年7月にHondaの新型Fitの生産組み立て工場が完成した。
なお、寄居町は荒川のつくった大きな扇状地の扇頂にできた、豪族屋敷村でもある。荒川が扇央を侵食した河岸段丘も見られる。




百瀬川扇状地(滋賀県)
琵琶湖と野坂山地の断層を埋める形で、百瀬川扇状地ができた。扇頂から扇端まで4kmの小さな扇状地である。野坂山地には集落がないし、福井から京都・大阪への北国街道(西近江路)・鯖街道(若狭街道)・塩津街道は山麓を通り、野坂山地を越えなかった。百瀬川扇状地の扇頂には谷口集落はできなかった。

百瀬川扇状地(扇頂には集落がない。地形図は1922年)
 

扇頂の集落は安全か
巨大津波が扇状地をさかのぼって扇頂に到達することはない。津波の襲来に関しては安全である。しかし、巨大津波を起こすような巨大地震に関しては安全とは限らない。扇状地が断層線上にでき、扇頂は扇状地の最高地点にあるために、山地からは地震による山崩れ・土砂崩れ・鉄砲水などの、土石流災害の恐れがある。
巨大津波を起こすような大地震に限らず、小さな地震でも長雨でも、扇頂には災害の危険がある。扇頂の山地側(谷奧)には、人間の気づかぬうちに小さな異変が累積していて、小さな地震でも大きな災害の危険がある。

扇頂に住むのか、住まないのか
扇状地は平野と山地の境界つまり断層線上にある。過去に大地震を起こした断層であれば、そこの扇頂に人が住まず、集落はできない。
扇頂に住むのは、古くからの街道が平野と山地、さらには山地の向こうの地域とを結んでいて、人・物の往来が頻繁であり、宿場町や市場町が成立した場合である。青梅・寄居はこの部類に属する。
歴史的事情が変わって谷口集落としてはすたれても、新たに住宅団地ができたり、自動車交通の要衝となって賑わいを取り戻し、さらに大型商業施設ができて、農業・工業・商業の中心的集落となったりしたからである。近世から、扇頂の口集落(渓口集落)が、現在まで存続している例はない。
扇頂の奥の山中では、1960年代の高度経済成長期のエネルギー革命以前、家庭用燃料として炭焼きが盛んであった。炭焼き人は家族と離れて、原木を求めて移動するので、山中に多人数が住む集落を形成することはなかった。また、木製の什器を生産する木地師は、山中で原木を探し求めて移動したが、集落を形成するほどの長期滞在はしなかった。

入会権の問題
中世・近世には、山地の所有者が曖昧であり、山麓村民が山林に自由に出入りして、薪炭用間伐材や堆肥用落葉等を村民が伐採・利用していた。明治になっても、入会地の利用と管理は各村落においても習慣的ルールとして確立していた。
しかし、かつての藩有地は国有地となり、入会権は国有地でも民有地でも存続した。しかし、明治29年、民有林への課税が強化され、入会権を所有する村人が資産家に山地の所有と納税を依頼したことから、入会地は次第に個人所有地となった。山地における産業の成立が困難になった。




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