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お笑い神秘学

まじめに神秘学を学ぶためのノート

体験は語ることができない

2007-07-13 12:03:15 | 四次元,五次元‥
おひさしぶりでごんす。

ま~いつもの言い訳ですが,忙しいんどすえ。

京都弁になってるのは先週京都行ってきたからですわ。

京都はええですなあ。
特に京都の朝。
御所の大きくてゆったりとした木立にかかる朝靄の中を,爽やかに駆け抜ける,
なんてことは,京都でしかできまへんな。
ほんで朝飯がうまい。
もう最高ですわ。

ほんで,今日は,京都の話とは全然違うんどすわ。
もう河内弁に戻っとる。

今も気ぜわしいんやけど,ちょっと書いときたいことがおましてな。

先月からどうしても見たい映画がおまして,
最終日前日の昨日,見に行ったんどすわ。
ドキュメンタリー映画『ひめゆり』です。

この映画はもちろん,太平洋戦争の沖縄戦の,ひめゆり学徒隊の方々のドキュメンタリーどす。

なんでわてが,この映画を「どうしても」見たかったかと言いますと,ただ沖縄好きやからというだけやないんです。

「どうしても」という感情には説明でけへん理由がおますな。
札幌の千歳空港で監禁されたときも,この「どうしても」に圧迫されとったわけですが,この「どうしても」は曲者です。
一種の脅迫観念なんで,単なる主観的な思い込みなんどすわ。
せやけどこれ,理由を丹念に探ると,全ての人間の「どうしても」には,必然的に理由があるんどす。
その理由というのはトラウマなんですが,精神病理学的な意味でのトラウマではなく,アカシック的なトラウマですな。
いずれにしても,神経症的な感情が,この「どうしても」です。
せやから,神経症の源になっているトラウマが解消されれば,この感情は消えるんドス。

ほなら,この映画に関するわてのトラウマて何やねん?
て,そら,わてが訊きたいんどすわ。
自分で理由が分からんから,「どうしても」なんです。
ま,たぶん前世あたりに理由があるんでしょうけど,
前世のことなんてわてはどうでもええので,そこまでは考える気おまへん。
ただ,前にも書きましたけど,
初めて訪れた沖縄の地を離れる時に猛烈な懐かしさを感じたり,衝動的に沖縄に移住したくなったのは,ただの沖縄好きでは説明のできない,圧倒的に強い感情なんどす。

ほんでひとつ,現世的に言える理由としては,
わてが沖縄に移住したかった説明可能な理由でもあるんやけど,
おじい,おばあの戦争体験を聞きたかった,ということなんどす。

不謹慎に聞こえるかもしれんけど,興味本位やないんでっせ。
「それは知らなければならないこと」やと,頭ではなく,心の痛みとして認識するんどす。
エーテル的に認識するとでも言うんでしょうか。←ちょっとこの表現はええかげんです。

これもやっぱり身体感覚でしか感じられへんことなんどすけど,
老人というのは,話し出したら止まらへんのどす。これは沖縄ではなく一般論の話。
ただ,その話を誰も聞いてやる暇がないから,老人は語らへんのだす。
なんぼでも時間あるし,なんぼでも聞いたんで~,
という状況なら,延々,話は尽きません。
それを止められるのは外的な中断以外に,空腹,便意,睡魔だけです。
しかし,この状況に堪えられる聞き手というのは,滅多にいません。
カウンセラーが職業として成り立つのは,そのせいです。仕事じゃなきゃ聞いてられっか,というのが聞き手側の本音なんです。
同じ話が何度もループする,結論が無い,主語が無い,支離滅裂,何の話題だかさっぱり分からない。そんなことは当たり前なんです。
何が言いたいんか,分からないんです。
せやけど,それは語ってる本人も同じなんです。
語れば語る程,ほんまに言いたいことからは遠ざかって行くことを,語っている本人が知ってるんです。
それでも話は止まらない。厳密には,本人が生きて来たのと同じ時間だけ,聞く時間が必要なんです。
聞き手にとっては,それは完璧な苦行なんやけど,
この後,語っている人間はこの現世から居なくなってしまい,次の次元へと旅立ってしまう,とわかってれば,語りたいだけ語ってから行きなはれ,と思うのが人情どす。

せやけどわては人情家やおまへんから,おセンチは嫌いなんどす。
この苦行を経なければならない本当の理由は,人情ではないんどす。
それは,今語っている目の前のこの人が,自分の代わりに,その体験を体験した,ということを知ることにあるんどす。
せやから,人情でもって聞いてあげるんやなくて,苦行として聞かなければならないんどす。

戦争体験も同じどす。
戦争を体験する機会に遭遇した人類というのは,戦争という極限状態を体験したことのない人類に対して,語らなければなりません。そして相手は聞かなければなりません。人間の行為の中でも最大の愚行であると受け止めるか,戦争が人間の自然状態であると考えるかは各々でしょうが,進化のプロセスとして人類に与えられた戦争に対してどのような選択肢をとるかを考えるために,体験を共有せねばならないんどす。

せやけど,この共有が難しい。
そもそも,人間が共有できるくらいやったら,戦争なんか起きへんのどす。

つまり,人類の課題はココなんどす。

悲しいことに,3次元で生きている人間は,言葉でしか体験を伝えることはできへんのどす。
一部,テレパシーや霊感で伝えちゃう人もおますけど,マイノリティーどす。
言葉に頼らないそれらの人々がマジョリティーになったら,人間は次の次元へ行きますから,既に人間やなくなるんどす。

けども,21世紀地球の人類というのは,まだまだ言葉に縛られた3次元の生物です。
せやから,人類が共感を共有するためには,言葉を語り尽くさねばならない。

けれども,語れば語る程,その言葉は体験そのものからは遠ざかって行くんです。
それが言葉というものです。
いつしか人間はこんな不便な言葉を捨てるでしょう。でもその時までは,人間には言葉というこの不便な乗り物しか無いんどす。

『ひめゆり』の映画でも,生き残った方々のうち,22名の方が映画の中で証言されましたが,いまだに語ることのできない方々が20名いらっしゃるとのことでした。
その20名の方々は,もちろん,心に負った傷の深さのために語ることができない,ということもあるでしょう。一方で,「語ることによって体験を語り尽くせない」ことを知っておられるのです。
また,証言をされた22名の方々も,そのことを知っておられるのです。
語ることによって全てが語り尽くされるわけではない。
それでも,語らなければならないから,語るのです。

語ることができるのは,戦争という歴史の総体において個々の一人ひとりが体験した体験の一部の,ほんの表層でしかない。
その実際の体験を,リアルに語ろうとすればするほど,体験そのものからは遠ざかる。

だから,語られないことこそが重要なのだ,と,この映画は教えてくれました。
真実は語られた言葉の背後にあります。

「語ることのできないものについては沈黙しなければならない」と言ったのはヴィトゲンシュタインですが,語ることのできる全ての言葉が語られ,人類が体験できる全ての体験がし尽くされなければならないんどす。
そのために,個々人の使命というものがあるんどす。






暗殺の森

2007-06-05 13:57:49 | 四次元,五次元‥
自分で書いた過去記事を読み返してたら,おもろいでんな。
全っ然,忘れてる。書いた内容を。
今から読み直して再校正版を書くとおもろそうですけど,
めんどくさいんで,やらへんやろな~

ところで全然話変わりますけど,「暗殺の森」ていう映画がありましたな。
ベルト立地でっか?
ベルト立地といえば,「1900年」という映画しか記憶に残ってないですが,
「1900年」の内容は,全く覚えてまへん。  …1個も覚えてへんねやんけ!

しかも,今日は,そのベルト立地とは,何の関係もおまへん。
こないだわてが見た夢の話ですわ。

****
夢の中で,わては,戦ってましてん。戦争の夢,よう見るんですわ。
でも,こないだのは戦争というより,単にわてが,何かの理由で狙撃者からねらわれてる,
ちゅう設定やったみたいです。

わては,森の中にある白い小さくて小ぎれいな一軒家に隠れてまして,
味方が一人だけ,わてを守って,敵が来えへんように,
扉の陰で見張ってくれてるんです。 扉の陰~でぇ,息を殺~したぁ
けど,そのたった一人の見張りの味方は,盲目なんです
見張りにならへんや~ん
わてが隠れてるんやなくて,見張りに立った方がええや~ん
そんなことに気付くのは,遅すぎたんドス。

ついさっきまで,森の木陰でこちらの様子を窺っていた狙撃者は,
次の瞬間には,扉口に立ってました。
丸いサングラスを掛けた,小柄な奴です。ニヤッと白い歯見せて笑っとるんですわ。
その狙撃者の黒いピストルを持った手は,盲目の味方のこめかみに‥‥

その人は,めくらだから,撃たないでくれ!
人の情けがあるなら,撃てるはずがないだろう!!

そうやって眼で訴えたわての顔をじっと見て,
しっかりとわての気持ちを理解した上で,
奴はニヤッと笑って,一呼吸をおいてから,
ピストルを撃ったんです。

‥あぁ‥‥。優しかったたった一人の味方が,殺されてしまった‥‥
絶望感以外には何もありません。

次はわての番でした。
もう逃げることも嘆くこともできまへん。
狙撃者は,ニヤッと笑ったまま,わての方へ近づいてきます。
小さな家です。後ろに退がっても,白い壁しかありません。
もう仕方がない。わてはすっかり諦めていました。
こいつは,優しい盲目の味方を撃ち殺してしまった。こいつに同情はきかない。

この状況になってしまえば,こでわてが死ぬことは,わての愛する全ての存在達にとって,最も良い選択肢なのだ。
わてはここで死ぬしかない。愛する人達よ,さようなら
思えば,短い生涯だった。20数年の‥‥(夢の中でサバ読んでいた。)
‥しかし‥‥しかし!ただ一つだけ
ひとつだけ心残りなのは,  ‥‥部屋をもうちょっと片付けておくべきだったということ‥‥

そんなことを考えている間に,狙撃者は,わての腕をつかんで,
わての心臓にピストルを当てました。
奴は,ニヤニヤ笑いながら,一言も口をきかず,
いったん止めたピストルの手を,ゆっくりとわての頭の方へ持って行き,
「頭がいいか?こっちの方が一瞬で死ねるぞ」
と,無言で告げたようでした。
わては,首を振って,
奴のピストルの手を,元のように自分の胸の間の心臓へと戻しました。

その時わてが考えていたことは,
「頭撃たれたら,びゃ~と脳みそ飛び散るな~。
そうなると,意識はどこで途切れるんかな?バン撃たれたら,その瞬間に意識止まってまうんちゃうん?
それよりは,心臓を撃たれて,意識では次に自分がどんなところへ行けるかを,ちゃんと見届けたいよな~」
てなことでした。

そんなわけで,わては,もう,ただ,あとは撃たれることだけを,待っていました。
非情な暗殺者は,そんなわてに,回想シーンを振り返る余裕も全く与えずに,
2秒後には,わてを撃ち殺しました。ニヤニヤと笑ったまま。

バンッ

撃たれたわては,
 わっ,わっ,撃ちやがった!痛いんちゃう~ん?めっちゃ痛いんちゃう~んすごいカーッて熱なるんちゃう~ん
と,頭の中ではあたふたしてました

が,意外にも,撃たれた所は,あまり痛くもなかったし,熱くもなかったです。
ただ,撃たれた箇所の肉が,粘度を固めたように,ギュッと固まって,固まったところが広がり,黒に近いような暗い灰色の丸のイメージが広がって行きました。
そして,その黒い丸の周りには,もやもやと白っぽいものがこんにゃくのようにゆれていました。

あ‥これは,酔っぱらって倒れるときの感覚やな。
さて,これから,どこに行けるんかな?いよいよ高次元かな?
それともあの世かな?
しっかり見てくんで~~
やっぱ頭を撃たれんでよかった~

と思いながら,気を失った時のように意識が遠のいて,黒い丸の中に吸い込まれるように感じました。

そして,次に目を開けた時は,朝でした。

多重人格

2006-09-14 16:43:34 | 四次元,五次元‥
おっはよう!!

お,もう6時か‥

時間が経つのはあっという間でんな。
今日は朝から,無料掲示板を探して,沖縄行きの航空券予約しただけやのに‥


さて,すべては選択の自由であることを前回お話しました。
これを前々回のアウトサイダーとつなげて見てみると,
いつも現実に満足できないロマン主義者のまわりには,秘密の花園
が,あらゆる可能性をもつ選択肢としてつねにころがっていることになります。

言い替えれば,あらゆる可能態をもつパラレルワールドでんな。

わてはロマン主義者なもんで,現状に満足するということがほとんどありまへんねん。
不満や〜ちゅうわけやないんですよ。
けど,奈良犬民のぐるぐるさんの言うように,湯かげんのちょうどいいお風呂につかってるみたいに現実の自分に満足しきって安住してる,ちゅう状態が,できまへんねん。貧乏性でんな。
あっちふらふら〜,こっちウロウロ〜,してんと,なんか落ち着きまへんねん。

あんたが一番落ち着いてへんのやんか!

その通りだす。


ほんでな,
いまこの現実には,すべての次元の現実が存在している,
とするやん。
それが,あらゆる可能態をもつパラレルワールドですわ。

ほんで再び『デミアン』からやねんけど,
「ぼくはなるほどしかじかのことを空想することはできる。自分はどうしても北極に行きたいんだ,というようなことを頭に描くことはできる。しかし,実行したり,十分に強く欲したりすることのできるのは,その願いが完全にぼく自身のうちにある場合,実際にぼくというものが完全にその願いに満たされている場合に限るのだ。そういう場合になってきて,きみが自分の内から命令されることを試みる段取りになれば,きみは自分の意志をよい馬のように駆使することができる。…」

以前,雲黒斎さんが「望むこと」と「欲すること」のちがいを語ってたけども,上のデミアン君の台詞も同じようなことを言うてるな。
すべての可能性がある中でも,実現できるのは「ぼくというものが完全にその願いに満たされている」意志だけやねんな。
せやから,「願えば必ず叶う」なんていうのは嘘でっせ。
へたなテッポは数打っても当たりまへんねん。
そら,わての経験からしてもそうでんがな。
話せば長くなるんで,詳しくは書きませんけども‥

とは言うてもやね,「どーせ現実には叶わへんねや」
とかひねくれて,何も望まんちゅうのは,あんたアホでっせ。
それこそ「犬井の哲学」全然わかってへんや〜ん

そうやって,自分で勝手に線引いちゃうのはやなあ〜
人格にも線引くことになっちゃいますねん。
ちゅう話やねん。今日は。

「『完全な人格』を満月のような円と考えるのがいいかもしれない。しかしこの『完全な人格』を発達させた者は,ほとんど神に近い存在になるだろう。わたしたちの多くはかなりの制限を受けたままでいる。わたしたちは小心にすぎ,神経をはりつめすぎている。もっとも活気のある『あけっぴろげな』人格でさえ,せいぜい三日月程度のものだろう」(コリン・ウィルソン『魔道書ネクロノミコン』序文)

そうそう,満月を見ると,なぜか
うさぎ男だぴょん
になるのではなく,まろやか〜な気持ちになるのは,完全な円(実際には完全ではないけど,むしろそのためによりいっそう),完全な自分,というものを思い起こさせるからなんですな。
ユングのいう超自己,集合的無意識によってすべての元型が統合された人格というか。

「多重人格の多くの事例では,患者は三人以上の異なった人物に分離する‥(中略‥『アルジャーノンに花束を』の主人公は確か24の人格に分裂してたと思うけど‥牛註)‥興味深いのは,複数の人格がしばしば階層を構成して,ハシゴ状に配置されているかのように思えることだ。高位の人格は下位の人格のことをすべて知っている。そして多くの場合,最高位の人格は患者が実生活で示す以上の支配力と成熟度を示す。さらに『ハシゴ』の下の方になるにつれ,人格はますます子供っぽくなって,その力もかぎられる。世紀末に起こったドリス・フィッシャーの事例では,最下位の人格はほとんど録音機のようなものでしかなく,活力もなければ,考える能力もなかった。
 心理学者のピエール・ジャネが興味深い観察をしている。いつまでも不安や失意の状態にあると,活力を節約しようとしているかのように,人格が『狭まる』ようになるという。そのために嗅覚や触覚がなくなることもある。しかし奇妙なことに,『狭まってはいない』人格がまだのこっている。…」

「わたしがここでいわんとしているのは,わたしたちが高度な−あるいは広い−人格をもっていて,それが制限された普段の自己よりも『よく知っている』かもしれないということである。」

「ともかく,たいていの人がいささか『不完全』であることはたやすくわかる−神経過敏や不信の念によって,人格が一定の範囲内に『固定』され,そうしてつくりだされる限界が習慣や怠惰によってかたまってしまうのだ。もの静かでおとなしい人の多くは,潜在的にかなりの活力をもっているが,自分たちの限界を調べようともしない。」(同上)

そんでやな,魔術とか自己催眠とかドラッグとかは,この限界を見極めようあるいは限界がないのかもしれん,ちゅうことで,「大きな自己」を呼び出すだめに使われるんやけども。

でも,それらを使わんでも,多重人格にはなれるねんで〜

ってことを,わては言いたいねんけどな。

おっと時間切れや。
続きは次回‥?




 


皮膜つづき

2006-09-01 13:37:03 | 四次元,五次元‥
さて,前回は,パンダ光線氏の突然の登場にズッコケて本論へ入れませんでした。
今日からが本論です。

ところで,にゃんだ光線氏の記事は,いまひとつよくわからなかったです。
最後の「or」のところが,どうも。kt2氏が教えてくれた「or」の記事も読んでみましたが,やはり最後のところがにゃんだかよくわからにゃい
わての頭でいつか分かる日が来るんやろか‥


はっ。
しまった。
これから本論に入らねばならなかったんや‥

えーと,デュシャンの「皮膜」の話でしたなあ。
それをフランス語で何というか,という話から,にゃんだパークへ突入してしまったのでした。(わんだパークは未体験です。)

えーと…
フランス語で「アンフラマンす」infrimanceといいます。
極薄性,とかって訳すんですかね。
これについての資料が我が牛小屋にあるはずで,探そうと思っていたのですが,牛小屋へ帰ると忘れるんですわ。

ぼーけーとして新聞読んで飯をかき込んで,出掛けて行くぜ,今日も爽やかにオーイエー
てな感じで,毎日その繰り返しですわ。
ほんま,いやんなりまっせ。


えー。
元へ戻りまして…

そんでまあ,結局,何が言いたいかといいますとですなあ!
手元に資料がないもんで,「アンフラマンす」でググってみたんですわ!!

そしたら出ました。懐かしの椹木野衣。
以下,引用。
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「アンフラマンス(極薄性、infrimance)」とは、1980年にマルセル・デュシャンの未刊のメモが刊行されたとき話題になったことばで、僕らがこの物理空間上に留まったまま非物質界へとアプローチするために考えられたデュシャンの造語です。

いってみれば物質界に居ながら、可能な限り非物質界に近い、その<寸前>に留まることを指したことばで、デュシャンがしばしば「ガラス」や「ドア」を使ったのはそのためであると考えられます。

したがって、デュシャンが「ガラス」や「ドア」を使うときには、象徴的比喩というよりも、あちらとこちらを折り返す「蝶番」の機能性を重要視しています。

つまり、物質界と非物質界を往還できるための、折り返しが効いて厚みのない境界膜のようなヴィジョンですね。

ここで思うのは、

「物質界(現実世界)と非物質界(情報世界)を往還できるための、折り返しが効いて厚みのない境界膜のようなヴィジョン」

こそ、新学科が求めているものではないかということです。(後略)
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ソースは,こちらhttp://www.tamabi.ac.jp/wsc/mad/noi.html

しょう油は,マルキン。

で,この後に,稲垣足穂を引いてきて
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ちなみに、藤本由紀夫氏のエッセイによると、稲垣足穂(1900年生だからデュシャンのほぼ同時代人。しかも独身者!)のことばの中にも「薄板界」という概念があるそうです。

たとえば、タルホは次のように語ります。

「まっすぐに行く者には見えないが、横を向いたら見える。しかし、その角度は最も微妙なところにあるからめったにわからぬ」(「タルホと虚空」)

タルホがこういうとき、彼の念頭にあったのは、おそらく鉱石ラジオであったと思われます。

端的にいえばチューニングの妙ですね。だからタルホにとっての薄板界というのは、具体的には巻きコイルのようなものであったのではないかと。
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この後,無理やり大学とアンフラマンすを結びつけるこじつけをしようとして,前半はわりと惜しいとこついてるにもかかわらず,なんともアホらしい結論に至るんですが,そこら辺はほっといて。

アンフラマンすとは,「物質界と非物質界を往還できるための、折り返しが効いて厚みのない境界膜のようなヴィジョン」ということです。上の椹木氏は,これに「物質界(現実世界)」と「非物質界(情報世界)」というように無理やり括弧で説明を入れていますが,こんな説明を入れてはいけません。
そいでもって,稲垣足穂の「まっすぐに行く者には見えないが、横を向いたら見える。しかし、その角度は最も微妙なところにあるからめったにわからぬ」というのも,同じことを言ってると思うのですが,その角度にチューニングすることによって初めて見える,ってことですね。
そこまではいいと思うんです。具体的には「巻きコイル」だったとは,思いませんけど。

ほんで,結局,デュシャンは何を言いたかったんか‥ってことはめっちゃ謎やったんですけど,いろんな解釈されても全然ピンと来えへんかったんどす。
自己と他者の境界とか,内面と外面の極薄の膜を隔てて入れ替わることが可能な境界とか。
なんかそうやって「私」的なものに解釈を押し込もうとするのが,デュシャンのスケールには合わないんどす。
けんよーの泉もそうやけど,あれをなんでデュシャンがやったか,っていろんな解釈したところで,誰も当たってへんと思うわ。
けんよーがなんでトイレか,ってことを,誰も分からんのと同じやで。

あれ‥
いつのまにか,
「デュシャン=トイレ=けんよー方程式」
にはまってしまってる~!! (‥方程式?)

あかん。これはけんよーの罠や。
お祓いせな。


それでやな‥。

‥またもや我が惰眠の友,荒俣宏コレクション『神秘学マニア』が,この長年の謎を解くヒントをくれたんですわ! (ていうか,いつまで借りとんねん!)

あ,そうそう,これ図書館で借りたんですわ。
期限過ぎてますねん。すいません。
今日,この記事書いたら,返してきますわ。 (すんませんですんだら警察いらんわ~


 以下,引用。
「ルネサンスの西洋自然哲学者たちは,ジョルダーノ・ブルーノ,ヨハネス・ケプラー,ライプニッツらの<多元宇宙論>の系譜を引く発想のなかで,平面と空間,空間と超次元ーあるいは宗教的宇宙観の用語を用いるなら地獄,煉獄,天国など-のつながり方の真相をさぐった。
 そしてかれらのうちの何人かは,存在の重層性,ということに気づいている。これを簡単に説明すれば,平面は空間の断面であり,空間はつぎの空間すなわち四次元空間の断面である,という考え方である。この発想により,それまでは完璧に別ものだと思われていた他次元同士が,より高次の宇宙論的観点からはみごとにつながることになった。
 この発想は現代の最先端をゆく宇宙論仮説にさえ命脈を保っている。最近の考え方によれば,宇宙に存在する各次元は,そのうちに,より高次の次元を現に宿している。たとえば二次元の平面は,じつは三次元の立体空間も包括しているのだけれど,この三次元部分はかぎりなく薄く存在しているために,十二分にその性格を見定めがたい。また,われわれの生きる三次元にも,四次元は薄い断面として存在するのである。素粒子のふしぎなふるまいから宇宙空間のゆがみにいたるまで,この<薄く存在する四次元>がなんらかの作用をおよぼしているのかもしれない。」(「『サイキック』を読むためにー重層と曖昧の意味ー」『神秘学マニア』)


あては,これやー!思いましたねん。
デュシャンはこの「薄く存在する次元の境界」を言ってたんやと思いますねん。
この薄く存在する次元によって,すべての次元がつながってるんやとしたら,それこそが「皮膜」の意味やと思いますねん。
足穂の「薄板界」は,今日はじめて知りましたけど,同じものを指してると思いますねん。
具体的で,空間的で,見たり触ったりすることのできる「膜」ですねん 

皮膜

2006-08-30 11:25:35 | 四次元,五次元‥
「受肉」の記事のコメント欄に少し書きましたけど,霊的進化論については,第1段階(土星紀)~第7段階に至る物質の進化の過程が一方にあって,第7段階~第1段階に降りて来る霊性の下降の過程が他方にあって,その交点に第4段階(地球紀)の人間がいる,というふうに考えてくださいね。
これ,図にするとわかりやすいんですけど,色々と説明が面白くて長くなるので,また暇な時に書きますわ。
 (今は暇とちゃうんかい!

今日は,別のことを書きたいんですわ。  (完全に趣味でやっとるやないか!

そら,もう,趣味でっせ。趣味以外のなにものでもありまへんで。  (われ,修行しとるんちゃうんかい!

いや,修行も趣味ですねん。  (…笑われへんわ!)


‥さむくなったところで,ドッペるゲンガーさんにはちょっとお寝みいただきまして‥

本日のテーマは「皮」です。

ビーフジャーキーちゃいまっせ。


最近,皮がモロモロ剥けるんですわ。
脱皮しとるんちゃうかーいうくらい。
顔かゆいしねぇ,もうたまらんわーこれ,って3ヶ月位まじ困ってたんですわ。
ほんでもう病院行くしかないわー,思ってたんやけど,
先週,バイオダイナミック農法で作ってる化粧水買いにいきましてね。リップクリームも。
ほれつけてみたら,もういっぺんに治まったんですわ。
すごいでっせー,Drハウシュカ化粧品
(以上,宣伝でした。)

ほんでまあ,今日は,マルセル・デュシャンの話やねんけども。

デュシャンの「皮膜」って概念があって,あれフランス語でなんて言うんやっけなー,
って今ググってみたら,トップにヒットしたんが,
半田広宣氏エッセイ。


なんでやねん,パンダ光線!!

今から書こう思たけど,しゃあない。コーセン読んでからにするわ。

せっかくやから皆も,暇やったら読んだって
http://www.noos.ne.jp/05_articles/01_spep/spep_02.html