おひさしぶりでごんす。
ま~いつもの言い訳ですが,忙しいんどすえ。
京都弁になってるのは先週京都行ってきたからですわ。
京都はええですなあ。
特に京都の朝。
御所の大きくてゆったりとした木立にかかる朝靄の中を,爽やかに駆け抜ける,
なんてことは,京都でしかできまへんな。
ほんで朝飯がうまい。
もう最高ですわ。
ほんで,今日は,京都の話とは全然違うんどすわ。
もう河内弁に戻っとる。
今も気ぜわしいんやけど,ちょっと書いときたいことがおましてな。
先月からどうしても見たい映画がおまして,
最終日前日の昨日,見に行ったんどすわ。
ドキュメンタリー映画『ひめゆり』です。
この映画はもちろん,太平洋戦争の沖縄戦の,ひめゆり学徒隊の方々のドキュメンタリーどす。
なんでわてが,この映画を「どうしても」見たかったかと言いますと,ただ沖縄好きやからというだけやないんです。
「どうしても」という感情には説明でけへん理由がおますな。
札幌の千歳空港で監禁されたときも,この「どうしても」に圧迫されとったわけですが,この「どうしても」は曲者です。
一種の脅迫観念なんで,単なる主観的な思い込みなんどすわ。
せやけどこれ,理由を丹念に探ると,全ての人間の「どうしても」には,必然的に理由があるんどす。
その理由というのはトラウマなんですが,精神病理学的な意味でのトラウマではなく,アカシック的なトラウマですな。
いずれにしても,神経症的な感情が,この「どうしても」です。
せやから,神経症の源になっているトラウマが解消されれば,この感情は消えるんドス。
ほなら,この映画に関するわてのトラウマて何やねん?
て,そら,わてが訊きたいんどすわ。
自分で理由が分からんから,「どうしても」なんです。
ま,たぶん前世あたりに理由があるんでしょうけど,
前世のことなんてわてはどうでもええので,そこまでは考える気おまへん。
ただ,前にも書きましたけど,
初めて訪れた沖縄の地を離れる時に猛烈な懐かしさを感じたり,衝動的に沖縄に移住したくなったのは,ただの沖縄好きでは説明のできない,圧倒的に強い感情なんどす。
ほんでひとつ,現世的に言える理由としては,
わてが沖縄に移住したかった説明可能な理由でもあるんやけど,
おじい,おばあの戦争体験を聞きたかった,ということなんどす。
不謹慎に聞こえるかもしれんけど,興味本位やないんでっせ。
「それは知らなければならないこと」やと,頭ではなく,心の痛みとして認識するんどす。
エーテル的に認識するとでも言うんでしょうか。←ちょっとこの表現はええかげんです。
これもやっぱり身体感覚でしか感じられへんことなんどすけど,
老人というのは,話し出したら止まらへんのどす。これは沖縄ではなく一般論の話。
ただ,その話を誰も聞いてやる暇がないから,老人は語らへんのだす。
なんぼでも時間あるし,なんぼでも聞いたんで~,
という状況なら,延々,話は尽きません。
それを止められるのは外的な中断以外に,空腹,便意,睡魔だけです。
しかし,この状況に堪えられる聞き手というのは,滅多にいません。
カウンセラーが職業として成り立つのは,そのせいです。仕事じゃなきゃ聞いてられっか,というのが聞き手側の本音なんです。
同じ話が何度もループする,結論が無い,主語が無い,支離滅裂,何の話題だかさっぱり分からない。そんなことは当たり前なんです。
何が言いたいんか,分からないんです。
せやけど,それは語ってる本人も同じなんです。
語れば語る程,ほんまに言いたいことからは遠ざかって行くことを,語っている本人が知ってるんです。
それでも話は止まらない。厳密には,本人が生きて来たのと同じ時間だけ,聞く時間が必要なんです。
聞き手にとっては,それは完璧な苦行なんやけど,
この後,語っている人間はこの現世から居なくなってしまい,次の次元へと旅立ってしまう,とわかってれば,語りたいだけ語ってから行きなはれ,と思うのが人情どす。
せやけどわては人情家やおまへんから,おセンチは嫌いなんどす。
この苦行を経なければならない本当の理由は,人情ではないんどす。
それは,今語っている目の前のこの人が,自分の代わりに,その体験を体験した,ということを知ることにあるんどす。
せやから,人情でもって聞いてあげるんやなくて,苦行として聞かなければならないんどす。
戦争体験も同じどす。
戦争を体験する機会に遭遇した人類というのは,戦争という極限状態を体験したことのない人類に対して,語らなければなりません。そして相手は聞かなければなりません。人間の行為の中でも最大の愚行であると受け止めるか,戦争が人間の自然状態であると考えるかは各々でしょうが,進化のプロセスとして人類に与えられた戦争に対してどのような選択肢をとるかを考えるために,体験を共有せねばならないんどす。
せやけど,この共有が難しい。
そもそも,人間が共有できるくらいやったら,戦争なんか起きへんのどす。
つまり,人類の課題はココなんどす。
悲しいことに,3次元で生きている人間は,言葉でしか体験を伝えることはできへんのどす。
一部,テレパシーや霊感で伝えちゃう人もおますけど,マイノリティーどす。
言葉に頼らないそれらの人々がマジョリティーになったら,人間は次の次元へ行きますから,既に人間やなくなるんどす。
けども,21世紀地球の人類というのは,まだまだ言葉に縛られた3次元の生物です。
せやから,人類が共感を共有するためには,言葉を語り尽くさねばならない。
けれども,語れば語る程,その言葉は体験そのものからは遠ざかって行くんです。
それが言葉というものです。
いつしか人間はこんな不便な言葉を捨てるでしょう。でもその時までは,人間には言葉というこの不便な乗り物しか無いんどす。
『ひめゆり』の映画でも,生き残った方々のうち,22名の方が映画の中で証言されましたが,いまだに語ることのできない方々が20名いらっしゃるとのことでした。
その20名の方々は,もちろん,心に負った傷の深さのために語ることができない,ということもあるでしょう。一方で,「語ることによって体験を語り尽くせない」ことを知っておられるのです。
また,証言をされた22名の方々も,そのことを知っておられるのです。
語ることによって全てが語り尽くされるわけではない。
それでも,語らなければならないから,語るのです。
語ることができるのは,戦争という歴史の総体において個々の一人ひとりが体験した体験の一部の,ほんの表層でしかない。
その実際の体験を,リアルに語ろうとすればするほど,体験そのものからは遠ざかる。
だから,語られないことこそが重要なのだ,と,この映画は教えてくれました。
真実は語られた言葉の背後にあります。
「語ることのできないものについては沈黙しなければならない」と言ったのはヴィトゲンシュタインですが,語ることのできる全ての言葉が語られ,人類が体験できる全ての体験がし尽くされなければならないんどす。
そのために,個々人の使命というものがあるんどす。

ま~いつもの言い訳ですが,忙しいんどすえ。
京都弁になってるのは先週京都行ってきたからですわ。
京都はええですなあ。
特に京都の朝。
御所の大きくてゆったりとした木立にかかる朝靄の中を,爽やかに駆け抜ける,
なんてことは,京都でしかできまへんな。
ほんで朝飯がうまい。

もう最高ですわ。
ほんで,今日は,京都の話とは全然違うんどすわ。
もう河内弁に戻っとる。
今も気ぜわしいんやけど,ちょっと書いときたいことがおましてな。
先月からどうしても見たい映画がおまして,
最終日前日の昨日,見に行ったんどすわ。
ドキュメンタリー映画『ひめゆり』です。
この映画はもちろん,太平洋戦争の沖縄戦の,ひめゆり学徒隊の方々のドキュメンタリーどす。
なんでわてが,この映画を「どうしても」見たかったかと言いますと,ただ沖縄好きやからというだけやないんです。
「どうしても」という感情には説明でけへん理由がおますな。
札幌の千歳空港で監禁されたときも,この「どうしても」に圧迫されとったわけですが,この「どうしても」は曲者です。
一種の脅迫観念なんで,単なる主観的な思い込みなんどすわ。
せやけどこれ,理由を丹念に探ると,全ての人間の「どうしても」には,必然的に理由があるんどす。
その理由というのはトラウマなんですが,精神病理学的な意味でのトラウマではなく,アカシック的なトラウマですな。
いずれにしても,神経症的な感情が,この「どうしても」です。
せやから,神経症の源になっているトラウマが解消されれば,この感情は消えるんドス。
ほなら,この映画に関するわてのトラウマて何やねん?
て,そら,わてが訊きたいんどすわ。
自分で理由が分からんから,「どうしても」なんです。
ま,たぶん前世あたりに理由があるんでしょうけど,
前世のことなんてわてはどうでもええので,そこまでは考える気おまへん。
ただ,前にも書きましたけど,
初めて訪れた沖縄の地を離れる時に猛烈な懐かしさを感じたり,衝動的に沖縄に移住したくなったのは,ただの沖縄好きでは説明のできない,圧倒的に強い感情なんどす。
ほんでひとつ,現世的に言える理由としては,
わてが沖縄に移住したかった説明可能な理由でもあるんやけど,
おじい,おばあの戦争体験を聞きたかった,ということなんどす。
不謹慎に聞こえるかもしれんけど,興味本位やないんでっせ。
「それは知らなければならないこと」やと,頭ではなく,心の痛みとして認識するんどす。
エーテル的に認識するとでも言うんでしょうか。←ちょっとこの表現はええかげんです。
これもやっぱり身体感覚でしか感じられへんことなんどすけど,
老人というのは,話し出したら止まらへんのどす。これは沖縄ではなく一般論の話。
ただ,その話を誰も聞いてやる暇がないから,老人は語らへんのだす。
なんぼでも時間あるし,なんぼでも聞いたんで~,
という状況なら,延々,話は尽きません。
それを止められるのは外的な中断以外に,空腹,便意,睡魔だけです。
しかし,この状況に堪えられる聞き手というのは,滅多にいません。
カウンセラーが職業として成り立つのは,そのせいです。仕事じゃなきゃ聞いてられっか,というのが聞き手側の本音なんです。
同じ話が何度もループする,結論が無い,主語が無い,支離滅裂,何の話題だかさっぱり分からない。そんなことは当たり前なんです。
何が言いたいんか,分からないんです。
せやけど,それは語ってる本人も同じなんです。
語れば語る程,ほんまに言いたいことからは遠ざかって行くことを,語っている本人が知ってるんです。
それでも話は止まらない。厳密には,本人が生きて来たのと同じ時間だけ,聞く時間が必要なんです。
聞き手にとっては,それは完璧な苦行なんやけど,
この後,語っている人間はこの現世から居なくなってしまい,次の次元へと旅立ってしまう,とわかってれば,語りたいだけ語ってから行きなはれ,と思うのが人情どす。
せやけどわては人情家やおまへんから,おセンチは嫌いなんどす。
この苦行を経なければならない本当の理由は,人情ではないんどす。
それは,今語っている目の前のこの人が,自分の代わりに,その体験を体験した,ということを知ることにあるんどす。
せやから,人情でもって聞いてあげるんやなくて,苦行として聞かなければならないんどす。
戦争体験も同じどす。
戦争を体験する機会に遭遇した人類というのは,戦争という極限状態を体験したことのない人類に対して,語らなければなりません。そして相手は聞かなければなりません。人間の行為の中でも最大の愚行であると受け止めるか,戦争が人間の自然状態であると考えるかは各々でしょうが,進化のプロセスとして人類に与えられた戦争に対してどのような選択肢をとるかを考えるために,体験を共有せねばならないんどす。
せやけど,この共有が難しい。
そもそも,人間が共有できるくらいやったら,戦争なんか起きへんのどす。
つまり,人類の課題はココなんどす。
悲しいことに,3次元で生きている人間は,言葉でしか体験を伝えることはできへんのどす。
一部,テレパシーや霊感で伝えちゃう人もおますけど,マイノリティーどす。
言葉に頼らないそれらの人々がマジョリティーになったら,人間は次の次元へ行きますから,既に人間やなくなるんどす。
けども,21世紀地球の人類というのは,まだまだ言葉に縛られた3次元の生物です。
せやから,人類が共感を共有するためには,言葉を語り尽くさねばならない。
けれども,語れば語る程,その言葉は体験そのものからは遠ざかって行くんです。
それが言葉というものです。
いつしか人間はこんな不便な言葉を捨てるでしょう。でもその時までは,人間には言葉というこの不便な乗り物しか無いんどす。
『ひめゆり』の映画でも,生き残った方々のうち,22名の方が映画の中で証言されましたが,いまだに語ることのできない方々が20名いらっしゃるとのことでした。
その20名の方々は,もちろん,心に負った傷の深さのために語ることができない,ということもあるでしょう。一方で,「語ることによって体験を語り尽くせない」ことを知っておられるのです。
また,証言をされた22名の方々も,そのことを知っておられるのです。
語ることによって全てが語り尽くされるわけではない。
それでも,語らなければならないから,語るのです。
語ることができるのは,戦争という歴史の総体において個々の一人ひとりが体験した体験の一部の,ほんの表層でしかない。
その実際の体験を,リアルに語ろうとすればするほど,体験そのものからは遠ざかる。
だから,語られないことこそが重要なのだ,と,この映画は教えてくれました。
真実は語られた言葉の背後にあります。
「語ることのできないものについては沈黙しなければならない」と言ったのはヴィトゲンシュタインですが,語ることのできる全ての言葉が語られ,人類が体験できる全ての体験がし尽くされなければならないんどす。
そのために,個々人の使命というものがあるんどす。
