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お笑い神秘学

まじめに神秘学を学ぶためのノート

光と影2

2007-08-03 11:25:08 | ユング
おはようごじゃります。

昨日につづいて朝っぱらから投稿です。
要するに暇なんです。

(↑ウソですけど。)

いま珈琲入れようと思ったらねえ,
ドトールで買ったペーパーフィルター,お湯を注ぐと破れやがった。
ドリッパーから,粉ごと,どばーとドリップされました。
‥どないやねん。フィルターの意味ないやないか
これ2度目です。こらー。ドトール

さて,妙な味の珈琲をちびりちびりと飲みながら,
「光と影」については壮大なテーマですんで,
ちびちびと更新しときます。

昨日は,河童日記の河童さん達やママさんに見える「悪霊や黒いもの」に対して,守護霊や神様・またそれらに守られた良いものを「光」と呼びました。
ですので,この場合,悪霊や黒いものが「影」になります。
河童日記のママさんが仰るには,
「まぶしく強い光とつながるほど,影が濃くなる」そうです。
つまり,ママさんのように強い光の神様とつながっている人は,それに対して影の闇の部分も強力で,その闇の部分が弟さんに現れてしまったのだと。

霊的に客観的(?)に見たらそういうことやとして,
では,それを個人的・主観的に見たらどうなりまっか。

弟さんの主観から見た場合,
「なんもやる気でえへんわ~。なんかだるいわー。なんでやろう。なんでかわからへんけど,しんどいわー。とても仕事なんかでけへんわ~。あ~外に出る気力もないわー。もうええわー。家で寝てよう。寝るくらいしかできることないわー。あーしんどー。なんでこんなしんどいんやろう。ごはん食べる元気もないわー。食欲どっかいってもたわー。あーもういややな。なんでこんな晴れてんねん。なんやねん。あーもうこんなことしとってもしょうがないな。え~い,ごはん食べるのもめんどくさい。もうえっか。もう死んでまおか‥」
そんな感じかもしれません。

たぶん具体的には,もっと色々と頭を悩ますことや感情的に辛くて苦しくて仕方のないことがたくさんあり,こんな苦しみに対して自分が余りにも無力であり,そのために家族や周囲の人間にも迷惑を掛けたり苦しませていることを知っており,ならば,死んだ方がましやろう,と思うのだと思います。

これを霊的に,先祖からの因縁,本人自身の因縁,またそれらが引き寄せた霊障のためであり,そのように「先祖からのすべての因縁を自分が引き受けて問題を解決し,家族を守る」ために,自分自身が選んで生まれてきたのだと,分析することはできるでしょう。
それによって河童さんちがそうだったように,家族や周囲の人間が彼の不可解な行動を理解し,占いや風水も利用して,問題が解決するよう努力し,気が付いた時にはいつのまにか,にっちもさっちも行かなかった状況が望んでいた方向へ転回し始めることもあるでしょう。

また,自分では全く気付いていなくても,霊的には何か「黒いもの」が自分にとり憑いているために,感情や発言が荒くなったり周りの人間が驚くような行動を自然ととってしまっている,という時に,お祓いをしてもらったら「黒いもの」が離れて行って,素の自分に戻れた,ということもあるでしょう。

せやけども,身近に霊能者も善良な占い師もおらず,霊的な次元での状況や出来事などは皆目わからず,ただただ自分一人で苦しんでいる時に,どうやって闇のトンネルから抜け出す糸口を見つければよいのでせうか?

ここから神秘学が始まります。
霊的な次元をも含めて,人間がこの地球上で生きていることの意味を知り,自分自身の力と責任で,死ぬまで生を持続させるための方法が神秘学です。

なので,ここからは霊的・客観的にではなく,
個人的・主観的に「光と影」を考えてみませう。

まあ,なんとなくわかりやすいとこからいきまひょか。

村上春樹の『羊をめぐる冒険』で,「僕」の親友の「鼠」が,「羊」を飲み込んだまま自殺しますやん。
ユング的にいえば,「影」を統合化した「自我」が「自己(ハイアーセルフ)」として実現した(=自殺)ことになります。

ここで重要なことは,主人公がであることです。

(↑ウソです)

この鼠の行動が神秘学でんな。

岡真史君ふうに言えば,
「てめーだけで考えろー。それが自由なんだ。」
ってこってす。
神秘学は犬井ヒロシの自由の哲学ですから‥


ユングのマンダラ的沖縄

2006-10-18 15:10:20 | ユング
『ユング 現代の神話』の昨日読んでた箇所が,昨日書いたモリスのユートピアとちょうどシンクロしてたので,引用しますわ。

「数年前すでにユングがあるインタヴューの中で強調していたが,都市に住む大衆の革命的暴力の理由は,技術産業の労働過程が魂を殺している点に求められねばならないのである。農民の仕事はそれ自身で意味が充足され,人間の魂に安らぎを与える。手仕事も,たとえ出来上った製品を手離すことになるにせよ,仕事が与える誇りを通して人は満足感をうけとる。これに反してベルト・コンベアの前でする仕事は魂の強奪なのである。なぜならそこでは創造的ファンタジーが無視されているからである。ユングの考えでは,充たされぬ労働者がその遺恨(ルサンティマン)の理由をしばしば誤って外的状況の中に求めようとするのは,彼らの魂(傍点)が欠乏に悩んでいることに気付いていないからである。今日われわれは,物質的貧困がもはや問題でないような人々の間にも,この同じ不満が生じているのを知らされる。(中略)労働における創造的なものをふたたび認めさせようとするヒッピーの試みは,この点で本質的に重要な意味を持っていると私は考えている。」

とまあ,モリス-ユング-ヒッピーがつながるわけですが,ビート-ボブ・ディランまで入れておきましょうね 

ユングの言い方で言えば,沖縄にいると,魂の欠乏を感じないんですな。
普段はつまらんような,どってことない仕事をしていても,村・町・島・家族の中で,何がしか果たす役割があるから,例えば祭りの時は準備から演し物にまで活動し,結構忙しかったりして自己充足する。それが至極当たり前やったりする。

わてが沖縄に初めて行ったのは10年前で,それまで全く興味もありまへんでしたから,その時初めて沖縄に出逢ったと言えるんやけども,あれほど羨望の気持ちを持ったことは今だかつて一度もありまへん。
わたいはジコチュウなもんで,他人と自分を比較するという習慣がなく,他人を羨ましく思うことも滅多にないんやけども,沖縄人だけはほんまに,心の底から羨ましかった。
なんでかというと,わてが最初から持ってないもん,あるいは捨てて来たもんを,全部持ってるからやね。
わてがあらゆるものを犠牲にしても手が届かないものが,沖縄の人にとっては足元に転がっていたわけですわ。

神秘学をやることは,自己を高めて未だ認識できないものを認識できるところへ到達するためなわけやけども,わてから見たら,沖縄は既に日常的にその地点に到達していて,そこから生活が始まっているわけ。
何やろな~,これは。
もしわてが沖縄人やったら,神秘学をやる必要は全く無かったと思うねんけども。

それを言い出したら,東洋人がキリスト者共同体であるシュタイナーの人智学をやることの意味も疑問になってくるわな。
高橋巌先生がドイツの普遍人智学協会からはずされたっちゅうのも何かその辺の理由やとコウセン掲示板に書いてましたな。
一般論で考えてもしゃあないんで,わたいは自分に関してしか考えられまへんけど,
結局のところ,わてが沖縄に住んだところで沖縄人にはなれまへんねん 
郷に入りては郷にしたがう,地域の風習に馴染んで文化を尊重して,その土地の人にはなれたとしてもやね,その自分というのはかつて沖縄に住んでいなかった頃の自分も含んでいるわけで,その沖縄人でない自分を消すことにはなりまへんわな。
それと同じことやと思います。
人智学は,バリバリの西洋キリスト教思想の伝統から進化した思想です。神智学からインド思想が入ってるけども,西洋人にとってのキリスト教を抜きにして理解することは無理ですわな。
神秘学は,キリスト教以前からの秘教の伝統があるから,人智学における神秘学的要素は,東洋人の集合的無意識でも理解できるところです。わては,そういう面からしか手がかりをつかめません。

これについて,ちょっと話はずれるんやけども,またしてもユングが重要な示唆をくれてます。
「(前略)ユングは意識して自分の中のファウスト的衝動を,彼自身述べているように,『永遠の人権の尊重と敬老とのために,そして文化と精神史との連続性のために』犠牲にした。なぜなら,われわれは『進歩の奔流の中へ投げ込まれてしまっているからである。進歩がわれわれをわれわれの根から引き離せば引き離す程,われわれはますます烈しい暴力をふりかざして未来へ向って前進していく。人は増大する欲求不満,不平,不安に駆り立てられて,なりふりかまわず,新しいものを次々に求めて先へ進む。すべての新品がすぐに旧製品に変ってしまうことを人は知ろうとしない。大きな自由への希望は増大する国家奴隷制によって打ち破られる。科学の輝かしい諸発見がどんな恐るべき危険にわれわれを晒しているかについては多言を要しないだろう。』男性的行動衝動とファウスト的攻撃衝動とは,われわれがそれをマンダラ的母胎内に閉じこめ,そうすることによってわれわれの存在の破壊的事業欲を統合する場合にのみ,新しい創造的形式にまで変化されうるのである。」(『ユング 現代の神話』)

ファウスト的衝動というのは,西洋的ロゴス中心合理主義による進歩主義,拡張主義のことですわな。進歩のために古い神を破壊するというような。
最初にヒッピーの話が出ましたけど,この本が書かれた当時(1960-70年代)の若者は,ヒッピーか出世主義かのどちらかに極端に分裂してたんですわ。一方で,進歩したエリートを目指す「(破壊的な)火の人間」と,他方でそれらに反発するヒッピーと。ほんで著者は,この極端な分裂は本来統一されねばならない神の像(=自己像)の分裂であると言っていて,ヒッピーの一面的な明るさ(神の暗い面を見ようとしない)は大いに問題なんやけど,どちらかと言えばヒッピーの創造性の方に未来があると言ってるわけやねん。
ほんでもって,それよりずっと前にユングは,「永遠の人権の尊重と敬老とのために,そして文化と精神史との連続性のために」,自己の中の「拡張しようとする進歩的人間」を犠牲にしましてん。
拡張できること,知識を増大できること,物質的欲求を満足できることを分かっていても,あえてその進歩的自己を封印したのは「マンダラ的母胎(女性性)」と自己を統一することによって初めて,自己の奥底の神(創造的自己)に到達できるからなんですわ。
これは言い替えたら,菩薩ですかな。
「山口百恵は菩薩である」の,菩薩。

これぞまさしく沖縄やと思うんですけど,
つまり,わてがただこのままポンと,沖縄に移住して沖縄人になろうとしてもダメなわけですわ。
自己の中の,浪花生まれ無国籍育ちの自分が,じっとしてまへんからね。
わてが今までの自分を犠牲にしてマンダラ的沖縄の中で封印して,新たな創造的自己として生まれ変わることができて,ようやく沖縄人として暮らすことが可能になるわけ。

せやけどね,それが出来るんやったら,東京におっても大阪におっても,どこにおっても沖縄人として暮らすことが可能なわけで,何もわざわざ沖縄で暮らす必要はないわけやね。
そうなった時には,沖縄で暮らすことは,単なるわての物質的欲望に過ぎないということになるわけやから。
結局のところ,自己の中に沖縄=ユートピア=神の国が存在することに気付けば,空間的にはどこに肉体があっても同じ,ということになるわけやね。

それと同じで,神秘学をやることも,東洋人であってもアラスカ人であっても,神秘学的マンダラにおける創造的自己の発見として,「わてがやる」ことにおいて意味があると思いますねんけど 

沖縄

2006-10-17 13:33:13 | ユング
あれ~,よう見たら,今月に入ってから初めての投稿でんな。
なんや,忙しいはずですわ。
今月はまあ,沖縄行ったりしてたんですが,(でへ‥
書くことはたまってますねんなあ。

なんちゅうても,「神秘学概論を読む」の講義も再開したことですし‥

でも,先に,沖縄についてメモしとかんと,後になったら忘れますなあ。
まあ,なんもまとまったことは書きませんけども,徒然と…

え~と,無理やり前回からつなげるわけやないんですけども,
沖縄県は,神経症にかかる人が圧倒的に少ないんやないかと思うんですが,どうでしょう?
統計調べたわけやないんですけど,今回行きまして,改めて確信したんですわ。

なんで,って,神経症になる理由がないんですわ。
たとえば,わてが神経症になったとしますやろ。
その理由は,まずストレスですわな。どんなストレス?って,
今は感じてないのがほとんどですけど,まあ例え話なんで,
満員電車,東京メトロ,通勤時間の長さ,仕事のプレッシャー,貧困,環境の悪化,家族関係,家族以外の人間関係,自信の欠如…etc.
いろいろありますわな。
このうち,沖縄に無い物。
満員電車,東京メトロ,通勤時間の長さ。 ‥電車関係ばっかりかい!

じゃなくて,例えば普通に道歩いててもですな。
なんか「孤独感」がちがうんですわ。
東京におったら,自分は独立していて孤立している個体であるという意識がつねにあるんですな。
沖縄におると,異郷であるにも関わらず,孤立意識というのが極端に少なくなる。
ほな大阪はどうやねん,って言うたら,その中間ですな。
孤立してはいるけど緊張感がまるでないので,意識の下の方で融けてるというか‥
他の地方都市やと,完全に「よそ者」感を味わうことが多いんですが,
沖縄の人は,来る者は拒まず去る者は追わず,相手にきちんと向き合いつつ親しみを持つ,という感じ。
これは,沖縄の人の寛大さのせいやと思います。
どこ行ってもニコニコして話しかけてくれる,っていうだけじゃなく,
なんか意識構造がちがうんですな。
何やら開かれている。
どう言うたらいいか,モリスの「ユートピアだより」に出てくる人々と,
近いように感じるんです。

神経症というのは近代的な病気やと思うんですが,モリスのユートピアだよりは,
近代の産物である工業化がもたらした害悪・弊害から逃れ,拒絶することによって,健全な精神を成長させた人々がユートピアの住人として描かれています。
ユートピアだよりの主人公は,もはや,神経症になるか,社会革命かという選択肢に立たされています。その時に出逢ったのがユートピアの住人。
神経症は,工業化が大きな要因である近代における人間疎外がもたらした病です。
だからきわめて「近代的」な感じがする。19~20世紀的なんです。
前にも書きましたが,21世紀になると,何だか神経症が前時代的なものに見えてしまうんですね。
もちろん神経症の患者というのは無くならないわけですが,これまでなら神経症になっていたであろう多くの要因があっても,その「逃げ道」としての選択肢が「神経症になること」以外にもたくさんあるんですわ。
それこそ,オカルトとかスピッツとか神秘学もそうですね。
だから多分,精神病の「ブーム」あるいは「モード」としては,神経症から他の病に移行しつつあると思うんです。
非人間的な環境に無理やり自分を合わせなければいけないのが近代で,無理やり合わせられない人が精神を病むのだとしたら,無理やり合わせる必要がなくなってきたのが現代です。

ほんでもって,沖縄の人というのは,最初から神経症から解放されている,という気がします。
沖縄に近代が来なかったのではなくて,そのための別の犠牲というものも大きかったわけですが,近代の神経症的な側面をすっ飛ばして現代に結びついています。
それができたのは家族・先祖とのつながり,共同体とのつながりという要因が大きいんやと思うんです。
だから沖縄でも,那覇と,那覇以外の地方都市と,やんばると,八重山と‥とそれぞれ構造のちがいはあると思います。
けれども,大きく見て,意識における本土との決定的なちがいがあるように思います。

それは,簡単に言えば「視点」のちがいです。
沖縄の人は,つねに「沖縄」から世界を見ている。言い替えれば「沖縄にいる私」から。
それに対して,わたいはどうかというと,東京に居ようが,大阪に居ようが,奈良に居ようが,北海道に居ようが,つねにただの単なる「私」が世界を見てるんですわ。
殻も根っこも無くて,ただ自分の身体だけの,身軽な私なんですけど。
それは裏返せば,拠り所がなく寄る辺の無い,不安定で不安な「一人ぼっちの私」が見ているということなんですけど。
ほんなら,北海道の人とかはどうなんやろう,新潟の人は,茨城の人は,博多の人は,熊本の人は,どうなんやろうと思うんですけど,これは単なる個人差の違いですかねえ。
もちろん極悪な沖縄人もいればやくざもいるし,沖縄が嫌いな沖縄人もいるやろうし,そういう人たちは自分の「拠り所」を否定しているから,わてと似たようなもんかもしれません。

この視点の違いというのは,視点を二重化することやと思います。
不思議な話とちゃいますけど,わては20歳くらいまでは,視点が二重化してたんですわ。
近眼ちゃいまっせ。 老眼でもないって!
普通に見て,何かを感じてる自分がいますやろ。
それとは別に,頭の上の方,あるいはみぞおちのあたりに,同じものを別の目で見て別のことを感じてる自分がいるんですわ。
そういうのは,誰でもあるんかと思ってたんですけど,ありまっか?
子供の頃は,その「別の自分」の存在感が,もっと強かったですね。ほとんど別人格という感じで。
その二つの視点の間でバランスをとっているのが「自分」だったんです。
こういう傾向は,子供に多いと「ユング 現代の神話」に記述がありました。
もう一人の自分というのは,つねに一歩身を引いて,俯瞰して見てるんです。
だからとても頼りになる。そして頭もいい。冴えている。
ところが,ある時から徐々に,その「俯瞰する眼」は影がうすくなり,消えていきました。
日銭に追われて貯金が出来ないみたいなもんですわ。
目の前の物事に対応するので毎日が精一杯で振り回され,俯瞰する余裕が無くなったんですね。
けど,「ユング 現代の神話」によると,それは大人になるには当たり前のことらしいです。
神秘学的に言えば,地球人になること。
別人格がいつまでも別人格のままで存在し続けると,分裂病や神経症になって現れることもあるみたいです。

それがですねえ。
こないだ沖縄に行ったら,その二重化した視点が,戻って来たんですよ。
どこへ?って,わてのところへ。
わての前世のことは知りまへんし,どうでもいいんですけど,どうも沖縄に行くと,猛烈な懐かしさと自分の「ルーツ」という感覚があるんです。
これは,日本人のルーツが沖縄やから,わての中の集合的無意識が反応してるのか,あるいは単なる錯覚かもしれませんし,そう思い込んでる自分を完全に否定されて異邦人と感じることも多々あるんですけど,やっぱり「そこに居たい。戻りたい。」という幻想を,どうしても感じてしまうんですね。
これは何やろう?と10年間不思議やったんですけど,
どうも,空間的な沖縄というだけではないみたいやと,今思います。
つまり,肉体は東京に在っても,視点は,沖縄にあるんです。いま,わたい。
これで,非常にバランスが取れてるんです。
これはもしかしてやばいんかな,とちょっと思うんですけど,
つまり,アストラル体を沖縄に置いたまま,東京におるっちゅうことで。
これは言い替えれば,魂(まぶい)を置いてきた,ちゅうことにもなるわけで。脱魂してるねんから,やばいですわ。
けど,調子いいんで,もうしばらくこのまま続けてみよかな~て思てるんですけど。

せやから,今は,お腹の中に沖縄に居るわたいがいて,眼の奥に東京に居るわたいがいて,そいでもって体は軽く浮いてる感じ。
アストラル体が沖縄まで拡大したんやったらええなあと思うんですけど。

ユングと神経症

2006-09-26 17:13:53 | ユング
あ~~

あ”~~~

むっちゃねむい~~~~

この雨,むっちゃ眠いやんけ~~~
いま昼寝してましたわ。
起きたとこですねん。

起き抜けの寝ぼけ頭で何を書くかっつうとですね,
ユングのペルソナ,影,アニムス,アニマ,自己(セルフ)などの概念について……

せやけど眠いやんけ~~~

それでも,前回,多重人格になろうとすすめましたから,
こんどはやっぱりユングさんに登場して頂かないと,締まりませんやろ。

ケツの穴が…?

違う~~


今日は,わてのバイブルの話をしたいのに,
お尻のネタでまぜっかえさんといて~~

*****
「個体化の過程は複雑であるが,それは生ある者が始めからそうなるように定められているものになる過程である。」

前回は,隠れた人格のことを書きました。
この隠れた人格は,簡単に言うたら,無意識ってことですわ。
心理学の概念で言う自我や自己と,人智学で言う自我とは意味がちがうんですけど,
今日は,ユングの自我の話です。

私的な自我に対して,自分の社会的な役割をペルソナ(仮面)といいます。

「自分が演じる社会的役割,『なんでもわかっている』学者や医師,『精悍な』将校,『心やさしい』看護婦,『父親のように寛大な』牧師等々と自分とが同一であるという錯覚に陥っている人達,自分がつけていた仮面が突然顔に癒着してしまい,取り去ることができないという,よく知られた民俗学的モティーフがこのような人たちの場合,現実に起ったわけである。もちろん多くの人々は生来このようなおとし穴に落ちないだけの洞察とユーモアとをもっているから,自分の社会的役割と自分の私的な自我とをただちに区別することができる。」(『ユング現代の神話』)

ペルソナが顔にくっついてはがれないーこれを,自我とペルソナとの無意識的同一化といいます。
そのほか,無意識の領域には,影・アニマ・アニムス(その他にもいろいろある)といった「劣等人格(意識に抑圧されている人格)」が存在していて,それらの無意識的人格ー実際には「人格」というべき独立した概念ではなく,混沌とした人間の内的経験の一つの力(様相/段階)なわけですがーと,自己との無意識的同一化は,それらを「意識して自我に統合する」こととは正反対であり,浄化(カタルシス)の正反対なんです。

うんとー。
心理学とか精神医学でいう「治療」という言葉は,おいらは全く意味のないものとおもっているのですが,
精神科医が存在する目的は,心に問題を抱える人間を,トンネルの出口へ導くことですわな。
それを治療と,とりあえずは呼んでも,いいでしょう。
そのプロセスを,ユングは告白・解明・教育・変化の4段階に区別してるそうなんやけども,
第一段階の「告白」は,カトリックや古代秘儀祭祀の懺悔行がモデルなんやそうです。
人間が社会から自分を孤立させる要因となるすべての秘事や抑圧された罪悪的要素を意識化して,それを(医師に)告白するように促す。「抑圧されたものは観念,願望,または情緒,激情である。」
「汝の所有するものから離れよ,さらば汝は迎えられん」
と,古代の秘儀の言葉は述べているそうです。
この段階が,カタルシス(浄化)です。
「この第一段階は,我々の人格の影の暗い劣等面の意識化に役立つ。」

告白によって患者は医師か自己の無意識のいずれかに対して幼児的依存関係をもつようになるらしいんですが,この依存を感情転移といいます。この転移を夢判断によって幼児期の印象や衝動に還元することで意識にもたらすそうです。この段階が「解明」に当たるそうです。

そして,無意識内容が意識に結びつけられたら,次に「教育」もしくは「社会的人間」の自己教育が課題となるわけなんですが,これが問題なんですわー。
「この段階までいたれば,『正常な状態』を獲得するに必要なすべてのことが為されたといえるのであろうが,しかし正常な状態というものは,或る人々にとっては救済を意味するが,他の人々にとっては監獄を意味する。ユングは述べている。」
「正常な人間になることは失敗した人間,一般的な適応水準より下に立っている人間にとっては理想的な目標であろう。しかし平均的人間よりもずっと多くの可能性をもっている人間にとって,理念とか道徳的強制とかは正常でなければならぬということでしかなく,強盗プロクルステスの寝台であり,希望なき地獄そのものである。」
「私には現代は,ユングが述べているように,随意的神経症に悩んでいる人がますます多くなっているように思われる。つまり彼らは社会的には正常な生活を営むことができながら,この正に一見『正常な』集合生活の神経症的見当違いについて行けないのである。彼は述べている。」
「今日のいわゆる神経症患者の中には,以前の時代だったら神経症にはならず,自分自身と分裂してしまうこともなかったであろうような人が少なくない。人間がなお神話を通して祖先の世界と結びつき,それとともに見られた自然だけでなく,体験的に把握された自然とも結びついていた時代に,もし彼らが生きていたのだとしたら,彼らは自分自身と統一的に生きていくことができただろう。」

この本は30年以上前に書かれた本で,ユングが語っているのはそれよりさらに前ですから,ユングが上で述べているような状況というのは,ますます尖鋭化しているのを通り越して,もう当たり前になってしもてるんですわ。
誰でもが神経症になっている。15年くらい前までなら,誰でも神経症になれたんですがね‥。
さもなければ,わてらの生きてる今の時代には,すでに分裂することすら最初からできないんです。
それが今のスピリチュアルやらオカルトブームで。
それがいいことか悪いことかなんて,どうでもええんですけど,それが人間にとっては必然やったんでしょうか。

自我が,第2の人格である無意識と自分とを同一視するのは創造的人物の青春時代にはよくあることだそうですが,
「しかしもし誰かが,25歳を過ぎてもなお,その中に入り浸っているなら,『永遠の少年』病とでも名づけうる神経症にかかるだろう。それはしばしば若死にまでいたるところの才能ある若者の不適応症なのである。」

ところがどっこい,今の日本は,ニートなどの形で多少の不適応は表していても,皆が皆,神経症になるわけじゃないんですよね。これは日本だけだと思うんですけど,神経症的な現実は相変わらずなのに,自己の内面をスピリチュアル化することで,みごとに「適応」してしまってる‥
これは進化と呼ぶべきなんでせうか。
それとも,ぷりぷり県の大人になりたくないマリオおじさんと同類と考えるべきでせうか‥

いずれにしても,神経症がとても「20世紀的やまい」であると感じるのは,わてだけでしょうか。
それとも,ユングの洞察は21世紀にも当てはまるんでしょうか?

多重人格になろう

2006-09-15 16:07:06 | ユング
昨日はせわしかったもんで,内容があまりよく伝わらんかったように思います。
すんまへん。

今日は,もうちょっとわかりやすう書きますわ。

何が言いたかったかっちゅうとですなぁ,
本日のタイトル多重人格になろう
これですわ。

あんたー,自分で「自分はこれやね~ん」て思てる人格に縛られとったらあきまへんで。自分の知らん人格ちゅうもんがあんたにはあんねんで~~~
これでええね~ん,て思たら,満月にはなれまへんで~~~~

うさぎ男だピョん

は,もうええっちゅうねーん!!


 でやな‥‥

アウトサイダー(=ロマン主義者)ちゅうのは,犬みたいなもんですねん。

猫ちゃうのん?
って思うやろ?

ま,どっちでもええねんけどな。 (どっちでもええんかい!!)

どっちかちゅうたら犬やねんけど,あいつら,落ち着きないやろ。
キョロキョロ,キョロキョロして‥

それシロさんやんけ! ‥‥猫やがな…

クンクン,クンクン,嗅ぎまわって…
ウロウロ,ウロウロ…
あっち首突っ込んだり,こっち足突っ込んだり…

やっぱりシロさんやんけ!! ‥‥おもっきし猫です…

ま,どっちでもええねん。せやから。

そんな,猫のような,犬のような,
何かおもろいことないかいな~~,て,いっつも探しまわってウロウロしてるんがロマン主義者でんねん。
つまり,わたいでんがな。

ここまでわかってくれるぅ~?


ほんでなぁ,わてら,いっつも「もう一つの世界」を探してますねん。
英語でいうたら,穴田ーワールドですわ。

もとい,穴座ーワールド。

‥なんか便器みたいやな。  やばいっっ!!またもやけんよー菌が!!
しかも最近,奈良犬民まで混じってるから,京都と奈良から合わせて2500年分の胞子が飛来してる‥!!

逃げろ~~~


そして,辿り着いたのが穴座ーワールド。 なんですわ!
あ~あ。

まあ,そんなもんを探してるわけですよ。
なんてこったい,まったく‥

言い替えれば,ユートピアやね。

湯~とぴあちゃいまっせ。

温泉つかってどうしますねん。

いや,温泉でもええのか。ちょうどええ湯かげんやったら 
いっい湯ッだーなっ。あははん 
ちゅうてたらええんですからね。

英語で言うたら,バス ブッブー。

もとい,Nowhere。

え~,マジかいな。
NO WHERE なん?

モリスがそう書いてましたね。News from Nowhere.

どこにもないんですわ。


ところがどっこい。

実は,Nowhere is everywhere
なんですわ。

デュシャンの皮膜の話しましたね。

ビーフジャーキーちゃいまっせ。

あのビーフジャーキーよりも薄い厚さの中に,13次元くらいが全部は入っとるんですわ。
ほんでもってあらゆる場所に遍在してる。

とするとやね,

どこどこ~?どこにあんの~ん?? 見たいや~ん,それ~~,見せて~や~
て思いますやん。

それを実験したのが,偉大なるジョンCリリー博士であり,オルダス・ハクスリーであるわけやねんけど,他にも皆,探してますねん。それぞれのやり方で。

せやからね,自分の人格に限界を設けたらあかんよ。
限界はつねに広がってやがては満月になるんやから。

うさぎ男だピョン。

もうええっちゅうね~~~ん!!


‥人格もやな。1個や2個ちゃうねん。わてらがもってるのは。
だから「自分」の1個の殻に固定してしまうのほど,アホらしことはないねん。
自分探しなんて,ちゃんちゃらおかしいわけやね。
探し出したらそんなもん,キリないねんで。なんぼでも見つかるからな。
そんなもん,わざわざ探さんかて,いっつもそこにゴロゴロしてるやん。

それから,子供に,「将来何になりたい?」って大人が聞いたり作文に書かせたりするやん。
あれもあかんねん。
ああやって未来を固定しようとすることは,自我を束縛することになるねん。
将来は,誰だって「自分」になるしかないねん。
それが如何に困難なことか,って「犬井の哲学」で書きましたやん。

ほんまにねー,自分の柱をぶち壊して自由を獲得するってことは,しんどいことですねん。
わざわざそんな面倒なこと,今どきあんまりやりまへんわな。

せやけど,それを趣味でやってんのが神秘学ですねん。
いや,趣味でやってんのはわたいだけかもしれんから,これは怒られるけども。

前回の最後に,魔術や自己催眠やドラッグで,自分の限界を見極めると書きましたけど,見極めるよりは「広げる」ですね。
ほんでもって,それらの手段に頼らないで,何も使わずに自分の限界を広げる方法,それが「認識」の力ですねん。
誰でもできまっせ。
なんせ,生きてさえいれば,認識することは可能なんやから。
認識によって自己を超越する方法を教えてるのが,神秘学ですねん。

次は,もうちょっと自我の話をせんとあかんな。
まあ,そのうちやりまっさ。