おはようごじゃります。
昨日につづいて朝っぱらから投稿です。
要するに暇なんです。
(↑ウソですけど。)
いま珈琲入れようと思ったらねえ,
ドトールで買ったペーパーフィルター,お湯を注ぐと破れやがった。
ドリッパーから,粉ごと,どばーとドリップされました。
‥どないやねん。フィルターの意味ないやないか
これ2度目です。こらー。ドトール
さて,妙な味の珈琲をちびりちびりと飲みながら,
「光と影」については壮大なテーマですんで,
ちびちびと更新しときます。
昨日は,河童日記の河童さん達やママさんに見える「悪霊や黒いもの」に対して,守護霊や神様・またそれらに守られた良いものを「光」と呼びました。
ですので,この場合,悪霊や黒いものが「影」になります。
河童日記のママさんが仰るには,
「まぶしく強い光とつながるほど,影が濃くなる」そうです。
つまり,ママさんのように強い光の神様とつながっている人は,それに対して影の闇の部分も強力で,その闇の部分が弟さんに現れてしまったのだと。
霊的に客観的(?)に見たらそういうことやとして,
では,それを個人的・主観的に見たらどうなりまっか。
弟さんの主観から見た場合,
「なんもやる気でえへんわ~。なんかだるいわー。なんでやろう。なんでかわからへんけど,しんどいわー。とても仕事なんかでけへんわ~。あ~外に出る気力もないわー。もうええわー。家で寝てよう。寝るくらいしかできることないわー。あーしんどー。なんでこんなしんどいんやろう。ごはん食べる元気もないわー。食欲どっかいってもたわー。あーもういややな。なんでこんな晴れてんねん。なんやねん。あーもうこんなことしとってもしょうがないな。え~い,ごはん食べるのもめんどくさい。もうえっか。もう死んでまおか‥」
そんな感じかもしれません。
たぶん具体的には,もっと色々と頭を悩ますことや感情的に辛くて苦しくて仕方のないことがたくさんあり,こんな苦しみに対して自分が余りにも無力であり,そのために家族や周囲の人間にも迷惑を掛けたり苦しませていることを知っており,ならば,死んだ方がましやろう,と思うのだと思います。
これを霊的に,先祖からの因縁,本人自身の因縁,またそれらが引き寄せた霊障のためであり,そのように「先祖からのすべての因縁を自分が引き受けて問題を解決し,家族を守る」ために,自分自身が選んで生まれてきたのだと,分析することはできるでしょう。
それによって河童さんちがそうだったように,家族や周囲の人間が彼の不可解な行動を理解し,占いや風水も利用して,問題が解決するよう努力し,気が付いた時にはいつのまにか,にっちもさっちも行かなかった状況が望んでいた方向へ転回し始めることもあるでしょう。
また,自分では全く気付いていなくても,霊的には何か「黒いもの」が自分にとり憑いているために,感情や発言が荒くなったり周りの人間が驚くような行動を自然ととってしまっている,という時に,お祓いをしてもらったら「黒いもの」が離れて行って,素の自分に戻れた,ということもあるでしょう。
せやけども,身近に霊能者も善良な占い師もおらず,霊的な次元での状況や出来事などは皆目わからず,ただただ自分一人で苦しんでいる時に,どうやって闇のトンネルから抜け出す糸口を見つければよいのでせうか?
ここから神秘学が始まります。
霊的な次元をも含めて,人間がこの地球上で生きていることの意味を知り,自分自身の力と責任で,死ぬまで生を持続させるための方法が神秘学です。
なので,ここからは霊的・客観的にではなく,
個人的・主観的に「光と影」を考えてみませう。
まあ,なんとなくわかりやすいとこからいきまひょか。
村上春樹の『羊をめぐる冒険
』で,「僕
」の親友の「鼠
」が,「羊
」を飲み込んだまま自殺しますやん。
ユング的にいえば,「影」
を統合化した「自我」
が「自己(ハイアーセルフ)」として実現した(=自殺)ことになります。
ここで重要なことは,主人公が
であることです。
(↑ウソです)
この鼠の行動が神秘学でんな。
岡真史君ふうに言えば,
「てめーだけで考えろー。それが自由なんだ。」
ってこってす。
神秘学は犬井ヒロシの自由の哲学ですから‥

昨日につづいて朝っぱらから投稿です。
要するに暇なんです。

(↑ウソですけど。)
いま珈琲入れようと思ったらねえ,
ドトールで買ったペーパーフィルター,お湯を注ぐと破れやがった。
ドリッパーから,粉ごと,どばーとドリップされました。
‥どないやねん。フィルターの意味ないやないか

これ2度目です。こらー。ドトール

さて,妙な味の珈琲をちびりちびりと飲みながら,
「光と影」については壮大なテーマですんで,
ちびちびと更新しときます。
昨日は,河童日記の河童さん達やママさんに見える「悪霊や黒いもの」に対して,守護霊や神様・またそれらに守られた良いものを「光」と呼びました。
ですので,この場合,悪霊や黒いものが「影」になります。
河童日記のママさんが仰るには,
「まぶしく強い光とつながるほど,影が濃くなる」そうです。
つまり,ママさんのように強い光の神様とつながっている人は,それに対して影の闇の部分も強力で,その闇の部分が弟さんに現れてしまったのだと。

霊的に客観的(?)に見たらそういうことやとして,
では,それを個人的・主観的に見たらどうなりまっか。
弟さんの主観から見た場合,
「なんもやる気でえへんわ~。なんかだるいわー。なんでやろう。なんでかわからへんけど,しんどいわー。とても仕事なんかでけへんわ~。あ~外に出る気力もないわー。もうええわー。家で寝てよう。寝るくらいしかできることないわー。あーしんどー。なんでこんなしんどいんやろう。ごはん食べる元気もないわー。食欲どっかいってもたわー。あーもういややな。なんでこんな晴れてんねん。なんやねん。あーもうこんなことしとってもしょうがないな。え~い,ごはん食べるのもめんどくさい。もうえっか。もう死んでまおか‥」
そんな感じかもしれません。

たぶん具体的には,もっと色々と頭を悩ますことや感情的に辛くて苦しくて仕方のないことがたくさんあり,こんな苦しみに対して自分が余りにも無力であり,そのために家族や周囲の人間にも迷惑を掛けたり苦しませていることを知っており,ならば,死んだ方がましやろう,と思うのだと思います。

これを霊的に,先祖からの因縁,本人自身の因縁,またそれらが引き寄せた霊障のためであり,そのように「先祖からのすべての因縁を自分が引き受けて問題を解決し,家族を守る」ために,自分自身が選んで生まれてきたのだと,分析することはできるでしょう。
それによって河童さんちがそうだったように,家族や周囲の人間が彼の不可解な行動を理解し,占いや風水も利用して,問題が解決するよう努力し,気が付いた時にはいつのまにか,にっちもさっちも行かなかった状況が望んでいた方向へ転回し始めることもあるでしょう。

また,自分では全く気付いていなくても,霊的には何か「黒いもの」が自分にとり憑いているために,感情や発言が荒くなったり周りの人間が驚くような行動を自然ととってしまっている,という時に,お祓いをしてもらったら「黒いもの」が離れて行って,素の自分に戻れた,ということもあるでしょう。

せやけども,身近に霊能者も善良な占い師もおらず,霊的な次元での状況や出来事などは皆目わからず,ただただ自分一人で苦しんでいる時に,どうやって闇のトンネルから抜け出す糸口を見つければよいのでせうか?

ここから神秘学が始まります。
霊的な次元をも含めて,人間がこの地球上で生きていることの意味を知り,自分自身の力と責任で,死ぬまで生を持続させるための方法が神秘学です。
なので,ここからは霊的・客観的にではなく,
個人的・主観的に「光と影」を考えてみませう。

まあ,なんとなくわかりやすいとこからいきまひょか。
村上春樹の『羊をめぐる冒険




ユング的にいえば,「影」


ここで重要なことは,主人公が


(↑ウソです)
この鼠の行動が神秘学でんな。
岡真史君ふうに言えば,
「てめーだけで考えろー。それが自由なんだ。」
ってこってす。

神秘学は犬井ヒロシの自由の哲学ですから‥
