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お笑い神秘学

まじめに神秘学を学ぶためのノート

魂の乗り物

2007-08-24 16:18:23 | 知覚の扉
毎度。
眠いっす。

毎回毎回眠い言うてますけど,今日は特別眠いっす。
頭ボ~ッとしてます。
ま,いっつもボ~ッとはしてますけど,今日は特別。
せやから,今日はしょうもないことはあんまり言えまへん。

ほなしょうもなくないこと言うんか,いうたら,
もちろん,そんなことはありません!キッパリ

そんなわけで,眠いっす。

さて,いっつも眠い眠い言うてるわてが,ついついやってしまうのが,
居眠り運転。

あかーん。あかんで~それはー

そう。やばいです。
どこでも寝ます。
たぶん,運転してても,いきなりボ~っとして,アストラル体が抜けちゃいます。

せやから,恐くてねー。
今まで運転でけへんかったんですわ。
ペーパードライバー歴○十年‥

ところが,こないだスパルタ教育を受けまして,久々に車を運転してみました。

まず,アクセルとブレーキが,どっちだか分からない。
「ブレーキは,こっちやな!」
と確信して,思い切りアクセルを踏み込みました。

幸い,ギアがPに入っていたので,動きませんでしたが‥。

これ,何回やっても覚えられません。
時々,「アクセルとブレーキを間違えた」と民家の壁に激突して大事故を起こす老人がいますが,全く私と同じです。
そういう事故を起こすのは決まって老人ですな。

「老人か!」
と,自分で突っ込みを入れて,いざ出発。

ハンドルさばきもふ~らふら。
それに,どうもスピードが出ません。
必死にアクセルを踏み込んでも,ゆっくりしか進まない。

「最近の車は,遅いんやな‥」

ちがいます。
サイドブレーキが掛かってました‥
その状態で,レンタカー屋から家まで走りました。
全く気付かず…

こんなんで,よく事故を起こさなかったもんだ‥。
そっちの方が不思議なくらいです。
神樣方が,守ってくれていたにちがいありません。
ありがとう! (←えらい軽いな!

さて,免許とって○十年ですが,教習所の講習以外で普通の路上を走ったことはほとんどありません。

自動車なんて,あんな排気ガスをブンブン出すゴツいもんが,ビュンビュン道路を走ってんねんから,恐ろしいこってす。
まして,それにわてが乗って走らすやなんて,めためたに恐ろしいこってす!
(ほな,なんで免許とったんや~!?
ま~,わてが乗ったら,ボンボン人はね飛ばすやろな~
よう皆,人はね飛ばさんと,運転できるもんやな~

と,思てました。

ところが,乗ってみわかったこと。
それは,魔狂う飯と同じで,車体の幅にまで,身体感覚が延長されるってこってした。

えー!!

いや,つまり。運転してるときは,もう四方八方に気を配らなあかんのです。
いつものこんな顔では死んでしまいますので,常に,前見て右見て左見てバックミラー見てなあきません。
まったく神経の休まる暇はないのです。

そうなると,自分の身体が車体の幅まで延びて,右はぶつからないか,左は隙間が空いてるか,といつも気になるようになります。
アストラル体が車の大きさまで広がっちゃうみたいです。

あ~,自分のアストラル体が,運転してる車を包んでる。
だから,ぶつからへんのか!

と思いましてん。

他の人たちの車も,みんな,アストラル体のシャボン玉に包まれてるから,お互いにボンボコぶつかり合うことがないのでせう。

うまいことできてんなーと思いましたわ。
自動車なんて,こんな不格好な乗り物やのに,その自動車に乗っている自分の身体を乗り物にしている自分の魂は,身体の外側の殻(=車体)も,ちゃんと統制しようとするんやね‥

えらいですなあ。

魔狂う飯

2007-04-02 14:58:22 | 知覚の扉
植木等さんがお亡くなりになりました。

すいすいすーだらだったすらすらすいすいすい~
すい~らすーだらだったすーだらだったすい~すい

こんなんでええんやろか?スーダラ節。

北海道行って,
沖縄行って,
高円寺行って,
新宿行って,
ゲーして,


きょうは魔狂う飯のつづき。
魔狂う飯といえば,腹減りますね。
おいしそうですよね。
天津飯食べて,
天津飯食べて,
天津飯食べて,
ホイ,魔狂う飯。

ほ~ら,めっちゃうまそうだ。

‥いや,仕事さぼってそんなこと言ってる場合ちゃいますねん。

ところで,これ読んでるそこの貴方,
あなたには友達がいますか?

わてねぇ,友達めっちゃ少ないですねん。
そのうえ,少ない友達を自分から切りますねん。
なんで切るんやろねえ。トカゲのしっぽ切りですな。
そんなもんブラ下げてるのが,いやになりますねん。
けど,なんでいやになるか言うと,理由がありますねん。
それは,そんなシッボが自分にくっついてると,自分が傷つくからですねん。
尻尾が時々,変なことしよるんですわ。
いや尻尾本人は変なことしてるつもり全然ないんです。
せやから問題なんです。
けど尻尾くっつけてるわての身からすると,尻尾の行いは身を切られる思いやったりするんです。
しかも,アカシックレコードと同じで,わての記憶は,どうも相当に執念深いみたいなんです。
他人から付けられた傷が,消えることがないんです。
時間が経てば自然に回復して,消えてなくなる,なんてことは,ないんです。
それは,わてが,消えるなボケ~,忘れるな~と,どっかで思てるせいかもしれません。
その反対に,わてが他人にしたことはぽっかり忘れることが多いんですけど。

わてのイメージでは,自分の心というのは玉なんです。
生まれた時は,ツルンツルンのきれいな,瑕一つない玉。
あ,もちろん,「生まれた時」いうても,お母さんのお腹の中にいる時点で既に「生まれて」ますからね,
羊水浸かったり参道通ったりする間に,十分瑕がつくんですよ。で,外界に出た時にはまあ割とキズキズになってる。
で,成長するにつれて,瑕は増えて行くばかり。決して消えることはないんです。
よく,海にいる鯨の胴体に傷がついていて,年寄りの鯨ほど傷がたくさんありますやん。あんな感じ。
せやから,歳とって傷だらけの心玉は,歳とってシワシワになった脳味噌と同じようなもんなんです。
智慧の塊。
でも,歳だけとって脳味噌ツンツルテンの人間もいっぱいいますからね。
歳だけとって心玉もツルンツルンの人間も,当然いっぱいいます。
要は,歳の問題やないということで,シワの数とキズの数が,その人の叡智の数やということ。

せやから,消えるな~ボケ~
と,思てるのかもしれません。

せやけど,わての執念深いのは,わての玉にキズをつけた相手の人間のことも,
絶対に忘れないということ。
キズと,そのキズをつけた相手の人間が,セットになって残るんですな。
それが,自分の中にあると,いつまでも血が静まらない。
だから,現実の関係における人間だけは切って,キズだけは心玉に残しておく。
それが,わてが友達が少ない理由ですわ。

けど,普通の人は,あんまりこんなことをいちいちしてないと思いますねん。
なんでやろな~と,すごい不思議なんですけど,要するに,
そんなにいちいち玉に瑕つかへん,ちゅうことやと思いますねん。
それか,自己治癒力で,玉についた傷口が,時間経つとふさがるのかも。
けど,心玉の性質自体はアカシックレコードと同じやから,「わての玉は自己治癒力は働かんけど他の人の玉は自己治癒力が働く」,なんてことはないと思いますねん。
心玉は,自己治癒力が働くか働かないか,どっちかやと。
玉自体には自己治癒力はないけど,アストラル体かエーテル体あたりで調節して治癒してるんかもしれません。

いずれにしても,普通の人(ここでは,神秘学なぞにいちいち関ずり合う必要性を全く感じることなく日々の生活を営むことが可能な人々,と定義しておきませう)は,そんなにいちいち玉に瑕つかへん,ということは言えると思うんです。
というか,瑕のつき方には人それぞれに程度の差がある,と。
俗に言う「傷つきやすい人」とはまた違うんですな。
一般的に繊細で感情に流され易い「傷つきやすい人」というのは,アストラル体が不安定になりやすい人のことやと思います。
わてが心玉とよんでるものは,多分,自我に当たると思いますので,傷つき方がもっと即物的なんです。
それこそ,心臓にカッターナイフで,ちっちっと切り目を入れる感じ。

で,そんな風に,わての鉄の心臓に,ちっちっと,切り目を入れて通り過ぎて行く人間が多いんです。
ほんでも,入れた人間は全然気付いてないので,それまで通りに,のんきにわてに近づいてくるんですが,
その時にはもう,わての玉は瑕がついているので,その人間を受入れることが出来なくなっているんです。
わては多血質人間らしいので,そんな時には,たいていカッと血が上って,近づいてきただけで,相手をシャッと引っ掻きます。
もとい,
相手に怒りをぶつけます。
そして尻尾切り。さいなら~

これは,わてが他人を許すことができない,非寛容な人間やということでせうか?

まあ,それならそれでしゃあないんですけど,結局,友達なんて,なんで必要なんでしょうか?
と時々思うんです。
地球紀の人類は,共感(愛)を知るために生きております。
愛を知るためには,残酷な修羅が必要なのです。戦争,殺人,etc...
愛は,家族や恋人の場合にはとても分かりやすいです。
戦争の残酷さは,誰でも家族や恋人を守ろうという気にさせます。
しかし,友達っていう中途半端な存在は,地球紀の人類にとって何なんでしょうね。
わてが思うには,共感(愛)と反感(修羅)のごた混ぜやと思うんです。
反感を通して稀有な共感に至ることもあれば,
共感に包まれていた関係が,ささいなことで修羅に転じる。
そんな道場なのではないかと。
結局のところ,わてにとっては,中途半端ななまぬるい共感といったものはあり得ず,
完全な共感があるか,さもなくば孤独か,てことなんですね。
こりゃいかんかね?

話がえらいそれました。
なんでこうなったんや?

そう!植木等。
つまり,魔狂う飯=スーダラ節なんです。

「メディアは知覚の延長である」
これが,わてが知っている唯一の魔狂う飯です。
前回それを書いた後,
「メディアによって,公共の空間に断片化された自己が現れる」
という意味のことを森岡正博の本の註に書いてあることをご指摘いただきました。

にゃるほどね~
そんなことも言っておったか。魔狂う飯。
でもわし,ほんま,よう知らんのだよ,魔狂う飯。
「メディアは知覚の延長である」
なんて,えらそうに言うけどおっさん,

だから何?

て,ずっと思てたからね~ この15年。

このハゲ

とは,あんまり思わんかったけどね~

でも,

「メディアは知覚の延長である」

というこの言葉,実はとっても神秘学なのではないかと思う今日この頃。
だって,視覚がどこまでもどこまでも伸びて,
聴覚がどこまでもどこまでも広がって,
味覚がどこまでもどこまでも深まるんですよ。
う~む,妖怪ハラゴナシ

て言うても,魔狂う飯の著作自体を読んだことは一度もないんです。
だから,「メディアは知覚の延長である」という言葉についてだけ語ります。

つまり,メディアは知覚の延長として,スーダラ節を可能にするということです。

これは,特に北海道や沖縄の離島で監禁状態になった後に,よく実感できます。
北海道で監禁状態になると,まず寒いです。
沖縄の離島で監禁状態になるとまず暑いですが,海を泳いで渡るには潮の流れが早過ぎます。
そして動けません。
手足の自由が縛られます。
携帯電話もパコソンも,釈迦ポンも,電波が入りません。
本屋は遠いか,閉まってます。
電車は止まっています。
車の免許は持っていません。
吹雪が舞い,台風が直撃してきます。

さあ~,どうやって東京まで今日中に帰るか?!

東京に居た時に,いかに自分が無意識のうちにメディアに乗っかっていたかを,思い知ります。
メディアといっても,情報機器のことだけではありません。
メディアはメディウム=媒体=霊媒でもあります。
駅にいれば電車が時刻表通りに3分おきに来ること,
電車を降りれば,エスカレーターが改札口まで運んでくれること,
どこへ行ってもひっきりなしにアナウンスが流れていること,
ネットがあれば千手観音気分であること。
いつもエアコンで快適室温であること。
つまりは,スイスイと行きたい場所へ行き,知りたい目的を達する,まさにスーダラ節の世界です。

ここから,テレパシーやテレポーテーションまでは,あとほんの一歩だ,と思うのは,
わたいだけでせうか?

マクルー飯

2007-03-23 17:31:25 | 知覚の扉
ども,こんちは。
いま,5分だけ時間が空いたので書き込みに来ました。

5分でどこまで書けるにゃ~
勝負です!

と言ってる間に,3分経ってしまいました。

さて,マクルー飯といえば,パイコー飯とかルースー飯とかの一種です。
マーシャル・マクルー飯ですね。
一種のフレンチ中華ですわ。

そのマーシャル・魔狂う飯の有名な言葉
「メディアは知覚の延長である。」

魔狂う飯と言えば,これが全てです。
わしゃ,これしか知りまへん。

さて,この知覚の扉を開く話‥
おっと時間切れや。

ほな,これから沖縄北海道行き鱒よってに!
さいなら!!