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お笑い神秘学

まじめに神秘学を学ぶためのノート

生きていく理由

2008-06-17 15:55:26 | シュタイナー
ちわっす。

毎年言うてる気がしますが、今年は変なことが多い年でんな。
しかし、毎年言うてるのは、毎年変なことが増えてるからやという気がしまふ。
先月の四川大地震、この週末の日本の東北地方での大地震。
天災以外でも、この間の秋葉原の通り魔事件。その前から数件起きていた無差別殺人事件。

天災人災が多く起きるのは、今年が変革の年回りに当たるからやと言う人もおるようです。
そんなことはわてには分かりまへん。

しかし、外に起こることは内に起きたことの顕われですから、どこかで何かが常に変革していることにはちがいありません。

まあそんな、一見意味があるようで実は全く無いご託を並べててもしゃあないので、先へ行きませう。

昨今のようないろいろなことが起きると、「いのち」について考えますわ。
神秘学を学ぶ人間は、何事も起きなくても普段から「いのち」について考えてると思うし、まあそれを考えすぎて神秘学まで行てまうようなもんですから、色々起こると特に、そのことを意識するもんやと思いまふ。

中国の地震やミャンマーの水害で何万人もの人命がゴミのように消えてしまい、それが人災の面もあるわけやけど、他方で、秋葉原など日本の都会では、偶然遭遇した人達の生命が無差別殺人で一瞬にして消されてしまう。
無差別殺人の犯人というのは、自殺願望の八つ当たりやと思うんですが、この人らは、日本にたくさんおる自殺願望者の氷山の一角です。
アフリカの貧困に苦しむ子供達の間には、自殺をする人間がいないと、黒柳徹子が言ってたと思います。懸命に生きようとする、と。

こうやって対照して言われることは、決まって、「世界では多くの命が失われ命を大切にしなければと皆が思っているのに、日本の若者はなぜ命を粗末にするのか」ということでんな。ほんまは若者だけやないんですけど。

簡単に答えたら、無差別殺人をしてしまうほど自殺したい人間には、「生きていくための理由」「生きているための理由」が無いからやろう。
自分は死にたい、しかし、自分を死にたいとまで追い込ませた他の人間達に復讐してから死にたい、てな感じとちゃいまっか。
要するに、おまえ、ほんまはただ生きたいだけやんけ、ってことなんですけど。

「生きている」状態、というのは、これほど不思議なもんはないなあ~と、つくづく思い万年。
「生きている」状態というのは、「死んでいない」状態、としか、定義のしようが無いんでんな。
産まれてしまったら、全ての生命は、死ぬまでの間、生きる以外に方法がないわけです。

そんなんあったり前やんけ、何ごちゃごちゃ言うてるねん、あほちゃう~~~て、思いますやん。

せやねん、わたい、あほでんねん。まあ、こんなことばっかし、ぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅと、考えとるんですわ。

ほんでな、まあくちゃくちゃと考えてるとですな、ほんまにいろんな人間がおるなー、ちゅうのが不思議に思えてきますねん。
電車乗ったり駅にいるとですな、なんでこんなにようけ人がおんねーん、ほんでもって、皆、全然ちがうことばっかり考えてんねんやろー。どんだけようけ、「想念」が行き交ってんねーん。
とか、思うんですわ。

ま、わてはその理由は知って万年けど、教えてあげな~い

ほんでまあ、基本的に、想念は、二種類の人間のパターンに分けられると思います年。
「生きていく」ことに基づく想念か、「生きない」ことに基づく想念か、のどちらかですわ。

今日何しよう、何時に誰と会って何食べよう、どこ行こう、
明日あれしなきゃ、将来はお嫁さんになろう。
こういうのが、全部、生きていく想念でんな。

あ~もう、しんどいわー、つらいわ~。なんでこんなしんどいんやろう。
明日のことなんか、何にも考えられへんわー。明日の朝ご飯のことなんか、
考えたこともないわー。苦しいわー。
こういうのが、生きない想念でんな。「明日ご飯食べへん」を毎日続けたら、死んでまいますから。

人間の雑念は、たいていこの2パターンのどっちかちゃいまっか。
あとは、哲学的想念。この2パターンの前提を問うパターンやね。
人はなぜ生きるのか、なぜ死にたくなるのか。おせ~て。
つまり、わてでんがな。ふっ

ほんでまあ、子供の頃の人間は、みんな前者でんな。わー、きゃー、あそぼー
それしか考えてへんやろ。
ほんで、だんだん成長して生きる辛さを味わうようになると、後者の憂いを知って、渋くて深い人間になりますわな。

せやけど、最終的に死ぬまで、基本的に前者のままで明るく楽しく爽やかに、ただ本人の思い込みにすぎないにせよ、生きていく人間というのも、意外に多そうでんな。
後者の人間の数が少ないとは決して思いまへんけど、社会が前者の人間を前提にして動いているもんやから、後者の人間は少数派にされています。
なんでかというと、生きていく状態は現状の継続やから、楽なんです。惰性だけで行ける。
生きない状態は、現状を断ち切ることやから、努力がいる。勇気がいる。めんどくさい。
だから社会は楽な方へ流れます。

そもそも、この前者と後者の想念のどちらが生きるベースになってるかによって、人間は全く別の人種のようになっていると思いまふ。全くコニュニケーションがとれません。
この異文化の人間たちがごった煮となって日々暮らしているのが社会なので、まとまりがあるわけがありません。

さて、ほんなら、人間が「生きている理由」とは一体何なのか?
それは、惰性です。
単なる。まったくもって。シンプルな。そんじょそこらの。
惰性です。
産まれちゃったから、生きてるのよ~
それ以外に、理由なんてありません。

せやけど、人間がこれからも「生きていくための理由」については、人それぞれ千差万別です。好きにしなはれ、てなもんです。たいがいは欲ですな。食欲、金銭欲、性欲。それから、愛。家族への愛、他人への愛、世界への愛。

「生きている理由」が惰性だと知って、そこから「生きていく理由」が見つからない人間は、死にたくなります。
欲を持てる状態にない。愛を感じる状態にない。
これだけで、たいがいの人間は、生きるのが嫌になります。
この状態が長く続くと、多くの人間が自殺か緩慢な自殺か、惰性での死か、ともかく死んでしまおうと思います。
つまり、喜びがなければ、ほとんどの人間は死に絶えて当たり前なわけでんな。

しかし、それでも「自殺してはいけない」「生きる力を育てなさい」と説得したり教育しようとします。
そりゃたいがい、無理でんな。
もともと、理由なんか無いんどす。

「なんで死んではいけないか」を説明しようとするほど、コジツけに聞こえて、ウンザリします。
チクシてつやみたいな人に言われたりしたら、より一層、ガッカリします

要するに、「生きていく理由」なんてのは、誰にとっても、コジツけなんどす。
どんなに薔薇色に見える人生を歩んでいる人でも、コジツけの上に美しい花を咲かせているわけです。
「それでええや~ん」と言える人が、まあ一番しあわせなんでせう。

けど、そのコジツけに疑問を抱いてしまう人は、悩みがつきまへんな。
いつまでも、どこまでも、「生きていくための理由」が見つからなくてオロオロし、ガックシ落ち込んで鬱になってみたり、場合によっては人や動物に八つ当たりして迷惑を掛けたり殺したり、自殺したりします。

夢なんかいらない、希望なんかいらない。
それでも、おれは生きていく。

そう言える理由が、人間にだけは必要なんどすな。
それを考えるために、人間には脳みそがあるんどす。ちゅーちゅー
せやから、脳みそ使えや、このボケがー
と、シュタイナー先生も言うてはるんどす。

(↑※シュタイナー先生は、関西弁は使いません※)

今日はえらい長いな。暇なん?

はい、そのとおり

では、暇な方はご一緒に、こんなイメージを思い浮かべてみませう。
レッツ・いめーじ!

ハワイの海で、サーファーが波乗りをしています
白い波が、大きな渦のように、波打ち際に押し寄せます。
その波が繰り返し繰り返し打ち寄せるうちに、うねりが竜巻となって空へ伸びていきます。
やがてその波が太い竜巻として螺旋状に回転しながら海から空をつなぎます。

はい、ここで、サーファーはどこへ行ったでしょう?

波のうねりに飲み込まれて海底へと沈んでしまった。
竜巻の下の方で、渦に飲み込まれそうになりながらも、なんとか沈まずに水面から顔を出してもがいている。
海から盛り上がった竜巻の勢いに押されて、あれよあれよという間に、空に近い所でなんとかバランスをとりながらサーフィンをしている。

別に、心理テストぢゃありません。
クイズでもないでっせ。
単なるたとえ話です。

サーファーの足下にある波が時間、サーファーが自分です。
足下にある時間は、常に変転きわまりなく、止まることがありまへん。
太い波のように、螺旋形を描きながら、上へ上へとあがっていきます。
これが宇宙の進化です。
サーファーは、足下の波の動きの他に、その瞬間瞬間の天候、風の動き、周囲の生き物や物体の動き、月の引力、太陽の熱、地球の自転・公転、地球上のどこかで起きた地震の影響、その他環境のあらゆる諸条件に照応して、初めてうまく、波に乗ることができます。
もちろん、自分の体調と精神の状態が、それを支えます。
ずっと波に乗り続けることのできる人間はいません。
それができれば、人は神になります。
波の中に沈んで死んでしまう人間もいれば、海底近くまで行っても泳げる人間も、魚人のようにエラ呼吸を発達させ進化する人間もいます。
他方で、こんどは空から海へ向かって、光の螺旋が降りてきます。
この、上から下への螺旋が、精神の進化です。
海から空への波の螺旋と、
空から海への光の螺旋が、
絡まるように二重螺旋になって、
光の螺旋が波の螺旋の上昇を支えています。

これが、DNAの二重螺旋なんですわ。

占いと自由

2008-01-30 15:45:12 | シュタイナー
ぼんじゅ~る
ねずみ年ですわー

ねずみ年になってから何日経っとんねん
ごぶさたしおって~~

と、怒る人もいないでしょうから、流します。

あ~ねむ。眠いわ~
めっちゃ眠いわ~~

まぁ、鼠の野郎の年になってからというもの、
めたくそにいそがしんですけど、
今日は朝5時半に起きてゴミ出しでっせ。
資源ゴミ。
ほんま、せっせせっせと、よう分別しまんな~
わてなんか今日のゴミ、出すのに1時間も掛かりましてんで。
なんでゴミ出すのに、こないに苦労せんならんねん。
って、浪速のおっさんなら、怒ってぜったい分別なんかしまへんな。
ただ面倒くさいってだけの理由ですけど。

せやけど、この分別にかかるエネルギー考えたら、
リサイクルなんてちっともエコやないんちゃう~ん?
て、よく思いまんねん。
ちゃあんと、そういうこと研究してる人は居はるんで、調べたら分かることやろうけども。
ま~、人間が生きてるちゅうことはゴミが出るちゅうことやから、よくよーく考えなあかん問題ですわ。

ゴミのことを考えたら、自然に哲学になってしまう‥‥
ふっ関西人の悲しい性ですな‥

どこがやねん


さて、鼠の野郎はいけ好かないので、今年は牛年にしちゃいましょう。
来年は、丑年

まあ、このクソ忙しい合間を縫っても、
やはり哲学者である関西人はちゃあんと考えてるもんで、
牛年である今年初の大テーマともいうべき、
「運命
について、考えてみますた。

さてさて、世の中には、
にっちもさっちも行かない
どうにも首が廻らない
なんでこんなことになったのか分からない
ということが、たくさんあります。
借金ではなく、人生の話です。
そんな時、
これは運命だから仕方ないのね
と、都合の良い諦めの理由に使われてしまう言葉、
それが「運命」です。
逆の場合もあります。
とても素晴らしく嬉しいことがあった時、
これは運命なのね
と、都合の良い自己満足のために使われる言葉。
どっちも同じことなので省略します

さて、この「運命」なんてもんは、あるんでせうか?

わては、「カルマ」ならあるだろうと思います。
人間のあらゆる行為は、輪廻転生を通じて、宇宙のあらゆる場所に影響していると思てます。
せやから、今生に自分の置かれた環境やら味わう人生というのは、前世の行為の影響もあるやろうし、今世で既に行った行為の補償もあると思います。
わてが今朝出した資源ゴミは、前世のわてのウ○コかもしれまへん。

そんなことあるかっ!

せやけど、「運命」って、何なんか、全然ピンと来まへん。
運命と宿命はちがう、と美輪明宏も言うてますが、その意味もよう分かりまへん。
ただ、「カルマ」で説明しきれへん部分を自己満足で納得させるために、「運命」と呼んでるような気がします。

例えば、生まれた日にちで「運命」を云々する誕生日占いは、
西洋占星術から四柱推命までピンキリですが、それで何が分かるというのでしょうか?
とはいえ、ヨブのように我が身に降り掛かる神の不条理を、なんとか説明してもらいたい、という弱い人間の気持ちは、わてもよう分かります。
わても、神をさんざん恨み、憎んだからこそ、こうやって神秘学にいそしんでおります。

はい、ほんま。
ほれ、神煮込み。

ま~、そんなときは、占いは便利です。
納得のいく説明をくれます。
これだけ様々な占いがあるので、そのどれかには自分のほしい答えが載っています

ことわっておきますが、わても占いを馬鹿にしてるわけやおまへんので、
ある程度根拠のあるもんやとは思てます。
ただ、母親のお腹から外界へ出て来た「生まれた日、時間、秒」にどれほどの意味があんのか、カルマとはもっと精妙なもんやないかと、思てるだけです。
せやから、大雑把にやったら、占いを参考にするのも慰めにはなると思てます。

このように散々パラえらそうに好き勝手なことを言うてるわてですが、
先日、占いの本を買いました。

なんやと、ゴルァ

ま~、関西人はそんなもんです。
てことは、橋下徹知事が証明しています。

で、その買った本によると、
わての生まれた星は、別名「官僚の星」だそうです。
この日に生まれた人間は、官僚に向いており、権力の下で自分の権力をふるうことに大きな力を発揮するそうです。

にゃにおぅ~~~

わては役人や官僚なんか大嫌いどす。
せやのに、その占いには、わてが官僚的な生き方をすれば一生安泰と書いてあるのです。

ぬぅぅ~~
その前に、ストレス溜まって死んでまうわ!!

かように、占いとは、不条理なものどす。「運命」という言葉が不条理であるのと同様に。
占い師によって断定的に決めつけられる私の「運命」を、どこまで逸脱し、
どこまでも「私の責任」で取捨選択して行く生き方が、神秘学的な自由だと思うのですが。

アトランティス人2

2007-10-31 17:24:59 | シュタイナー
さて,本日3度目の登場です。 (‥‥そうとう暇やな…

アトランティス人の第1亜人類であるルモアハルス人から,第2亜人類であるトラヴァトリ人への変化をうながしたもの。それは名誉欲です。
もう一度,参考図を載せておきましょう!(図の挿入位置を指定できないのは,gooのせい。)

ルモアハルス人が青比古はんやったら,トラヴァトリ人は桂はんたち亜神の戎士の方々かいのう。
ルモアハルス人たちにとっては,
「霊力を秘めた特定の音声をみだりに使用したりすることは,まったくありうべからざることであった。聖なる言葉を乱用したら,どんなおそろしい禍いをまねくかわからない,と誰もが感じていた。同じ言霊の魔力が正反対の力に転化してしまうかも知れないからである。正しい仕方で用いれば祝福を与えてくれる言葉が,冒瀆的に使用された場合には,その使用者を破滅させるかも知れなかった。まだ無垢な感情を或る程度のこしていたルモアハルス人は,このような言葉の効力を自分自身の力であるとは考えず,むしろその中に働く神的な自然(傍点)に帰していた。
第二の亜人類(いわゆるトラヴァトリ人の諸民族)の場合になると,すでにこの事情に変化が生じている。この亜人類人たちは自分たち個人の価値を感じ始める。名誉欲は,ルモアハルス人の場合まだ未知の感情であったが,トラヴァトリ人にとってはもはやどうでもいい事柄とはいえなくなる。共通の思い出(傍点)が或る意味で共同生活の支えとなる。誰かが自分の行為を誇りをもって回想できたとき,彼はそれを仲間からも評価してもらいたい,と思うようになった。自分の業績が人びとの記憶の中にも生き続けることを彼は望んだ。人間集団が特定の人物を指導者として迎えるようになったのも,その人の業績の共同の記憶に基づいていた。王者の尊厳が問題にされるようになった。事実,王者たるにふさわしいという評価はその人の死後に至るまでも保持されるようになった。祖先や生前功績のあった死者への追憶(傍点)が,今や共同体で体験されるようになった。そして更にここから,死者への一種の宗教的な敬慕,つまり祖先崇拝(傍点)が各種族の内部に生じた。祖先崇拝は後々の時代に至るまで生き続け,そこにさまざまな儀礼形式が現れるようになった。」(同上,25-26頁)
宗教の起源はトラヴァトリ人から始まるっちゅうことでんな。
死者の埋葬や崇拝が実際にはいつ頃から始まったかっちゅうのは,ほんまに興味深いこってす。

このトラヴァトリ人あたりから,わりと今の人間じみてきます。
「人間の共同生活のために記憶力の果たす役割はますます大きくなり,共通の思い出(傍点)によって結ばれた人間集団を形成するまでになった。それまでの人間集団は,自然力の働きの下に,血のつながりによって互いに結ばれていた。まだ個人の精神力は,あらかじめ自然によって作り出された人間関係に変化を加えるまでには至らなかった。しかし今や強力な人物が,特定数の人間を共同の事業のために呼び集めることができるようになった。そしてこの共同作業を共に分かち合ったことへの思い出が,ひとつの社会集団を形成した。」

ほいで,これが発展したものが国家になります。
国家は,アトランティス人の第3番目の亜人類であるトルテケン人のときに現れます。
トルテケン人を表してるようなイティハーサの登場人物といえば,空子都(クスト)でんな。
空子都は旧大陸「アスカ」の民族である真魔那(ママナ)の生き残りですが,超文明人でもあります。おっと,ネタバレ…

本日はここら辺までにしときませう。
今日はモウ出てきまへんで…

アトランティス人

2007-10-31 14:19:19 | シュタイナー
まいど。本日2度目の登場です。

今回は重要なネタなんで,図を描いてみました。参照してください。

『イティハーサ』に,1万2千年前に沈んだ大陸として,「ムウ」と「アスカ」が出てきます。ほんまは漢字で表記されてるんやけど,面倒くさいので片仮名で書きますわ。ごめん。
ほんで,これは竹内文書の「ミヨイ」「タミアラ」のことなんやろうと思うし,西洋では「ムー」と「アトランティス」というようなもんやと思いますねん。

ま~,このうちほんまはどれが実在したんかいなーちゅうのは謎でんな。
アトランティスはプラトンが書いたので有名になったけどwikipediaによると,ムーはちと出自がうさんくさい。
竹内文書は,竹内文書そのものがうさん臭いと言い出したら,全部うさん臭い。
そんなわけで,実在性については,ほっといてええですわ。

それで,『イティハーサ』のムウとアスカのモデルなんやけど,イティハーサではSFチックに脚色してますが,おそらくムウがレムリア,アスカがアトランティスを基にしてると思います。
ここでまたもや別の大陸,レムリア大陸が出てくるわけですが,
レムリアは地質学と生物学から出て来た大陸説のようでんな。from wikipedia

ついでにゴンドワナ大陸ちゅうのもありますが,これは2億年前くらいの地球で大陸が分かれる前にくっついてた大陸やねんな。こちらはスケール的に九鬼文書なみです。

で,このうち神秘学では,レムリアとアトランティスが出てきます。
しかし,主に大陸としてではなく人類の種類として。
それが図のとおり,人類の歴史上の第3番目と第4番目の人類にあたります。
現在は第5番目のアーリア人類の時代で,アトランティス人の中の第5番目の「亜人類」であった「原セム人」のうち,優秀な人類が生き残ったその末裔です。
せやけど,アジア人などは,アトランティス人の第7番目の亜人類である「蒙古人」の末裔になります。

この辺も,イティハーサでは,様々な人類のちがいとして描かれていたところでもあります。
ちょっとおもろいので,登場人物をこの人類の歴史上におけるアトランティス人の亜人類にあてはめてみませう。

まず,最も重要な登場人物であり,イティハーサの陰の主役とも言える「青比古」はんでんな。
この方,ルモアハルス人。
ルモアハルス人は,アトランティス人の第1番目の亜人類で,その前のレムリア人の要素を多く引き継いでいます。

レムリア人は,まだ感情を所有してませんでした。記憶力もほとんど無かった。
レムリア人は,「体験した事柄を表象する能力はもっていたが,一般にはその表象内容を心の中に保持することができず,一たん表象した事柄はすぐにまた忘れられてしまった。そのような彼らが,それにも拘らず,特定の文化を持ち,道具を所有したり,家を建てたりできたのは,この表象能力のおかげというよりは,むしろ本能的(傍点)ともいうべき彼らの別な精神能力のおかげだった。とはいえこの精神能力を今日の動物の本能そのものと混同してはならない。」(『アカシャ年代記より』国書刊行会,23頁)
このようなレムリア人から,次第に記憶力を発達させて生き延びた人々が,アトランティス人の第1亜人類であるルモアハルス人と呼ばれてます。
「この亜人類の人びとが発達させた記憶力は,主として感覚の生き生きとした印象と結びついていた。一度見た色,一度聞いた音が長い間心の中で生き続けた結果,ルモアハルス人は祖先であるレムリア人がまだ所有しえなかった程にまで感情(傍点)を発達させることができた。例えばこの時期になってはじめて,過去に体験した事柄への愛着が,こうした感情の中から育った。」(同上,23-24頁)

青比古はんは,とっても優しい人間ですが,普通の人間とはだいぶ違って,ぱっと見,冷たいんかなーちゅう印象も与えます。これは,上記のように,感情にまだあまり慣れてなくて感情が稀薄やからなんですな。
ほんで,記憶もよくぶっ飛んで,すぐに月や樹や風に心をうばわれてしまいます。
これは,表象能力が発達して記憶力を育てる必要がなかったからでんな。

さらに,これだけやおまへんで。
「さてこの最初期のアトランティス人の場合,その魂の中には自然力に似た力が働いていた。彼らは後代の人びとよりも一層周囲の自然存在と調和していたのだ,ともいえる。彼らの魂の力は現代人の魂の力に較べればはるかに自然的であり,発する言葉のひびきもまた非常に自然的,根源的であった。彼らは言葉を用いて事物に名前を与えただけではなく,その言葉の中に,周囲の事物や人間に対して効力を発揮しうるような力をこめた。ルモアハルス人の発する言葉には意味と共に力もまた具わっていた。言葉の魔力という言い方は,現代人の場合とは比較にならぬほど,当時の人間にとって実際的な意味を持っていた。ルモアハルス人が言葉を発するとき,その言葉にはそれが指示する対象そのもののもつ効力同様の何かが生み出された。従って当時の言葉には,病気を治療し,植物を成長させ,狂暴な動物を鎮める力があったし,それ以外にも類似した諸効力があった。」(以上,傍点省略。同上24-25頁)
まさに,青比古はんが唱える,真言告(まことのり)そのものでんがな。

そんなわけで青比古どんはルモアハルス人なんやけど,ほな,ほかの登場人物はどうかな‥と思たら,青比古はんだけで結構長いので,つづく‥‥

イティハーサ

2007-10-29 15:52:47 | シュタイナー
ちは。

え~,すっかり「お笑いうんこ学」として,このブログは親しまれているようです。


‥ちゃうねん!誤解やねん!!
「お笑いうんこ学」とちゃうねーーん
オーイオイオイ (自業自得‥

では,気を取り直して,うんこから脱出


え~,うんことは全く関係のない美しい物語,
『イティハーサ』を読み終わりました。
まあ,何より絵が美しい。
せやけど,わし,少女漫画には興味ないんどす。
特に少女漫画のキラキラした絵は,全く興味ないんどす。
わしの興味ある漫画は,『パタリロ』と『じゃりん子チエ』と『ぷりぷり県』だけなんどす。
まあ,そんなわけで,すんまへんな。

話おわってしもたやないか~~~


ちゃいまんがな。『イティハーサ』でんがな。

「イティハーサ」って何やねん,覚えにくい片仮名やな。
「ネコノニャンコ」でもええやんけ。

って,このネタ,この前も書きましたがな。

せやから「猫のニャンコ」でもええやんけ~ちゅう「イティハーサ」なんやけど,
一体,どういう意味やねん?て思いますやん。
何語やねん。

これ,最後まで読んでも意味分からへんのだす。
タイトルの意味についてはどこにも書いてない。

ほんで調べたら,サンスクリット語で「歴史物語」とかいう意味らしいどす。
普遍的な意味だけで特別な意味はないんやね。

ほいでもってこの物語,1万2千年前の日本の話だす。
お~~~,こりゃ,ニギハヤヒとかスサノオとかが,天鳥船に乗ってビュンビュン飛び回る話かいな~~?!
て,ワクワクしますやん。

全然そんな話ちゃいます。
ニギハヤヒもスサノオも,アマテラスもヒミコも出てきまへん。

どっちか言うと,日本の神話というより,神智学です。
もともと,この漫画があるよ~と教えて頂いたのは,
このページからでした。→://homepage2.nifty.com/Mithra/HP_Mithraic_Theology_Comic_Mizuki.html
ミトラ神学からこの漫画を読み解いてはります。

ま~,天使学はわてはよう分かりまへんので,上のページに書いてある内容については理解できまへん。
せやけど『イティハーサ』が神学漫画やということは,いやというほどよく分かります。

これから『イティハーサ』を読む人のために,ネタバレになるので詳しくは書きまへん。
しかしちょっとだけバラしちゃおー
しかもいきなり結論から。

えーと,わてはハヤカワ文庫の文庫版で読みましたんやけど,文庫版では7巻が最終巻なんどす。
ほんで,それまで展開された壮絶な物語の全ての謎が,7巻で解き明かされます。

この7巻のラストは,部分的に『風の谷のナウシカ』とだぶります。

え~,まいど馬鹿馬鹿しい小咄を一席‥


それは「風の谷のハナシカ」やがな!!


‥まぁ,ナウシカと噺家とイティハーサ,さあて,どれが一番早いでしょう?


そんなことはどうでもええんだす。

何の話やったかいな。
あぁ,ナウシカとイティハーサが似てるっちゅう話。

どこが似てるかちゅうとですね,生命が反エントロピーの存在やっちゅうことですね。

こんなこと,文字で「反エントロピー」なんて書いたところで,クソ面白くもなんともないんです。
だから何やねんちゅう話どす。

まぁ,ともかく,クソから脱出するためにも,漫画読みなはれ。

でだ。情報理論で説明されてもクソ面白くもないけども,
人間が進化を目的とした生物である,と言うと,いっぺんに神智学になります。

『イティハーサ』はそれを語るための物語なんやけども,
そんな一行で書ける内容がこの漫画の素晴らしさなんかじゃあござんせん。
結論を言葉にしてしまえば一行で終わることでも,地球期の人間がどれだけの試行錯誤を経て進化を獲得していくか,ちゅうことが,登場人物のすべての行動とセリフと生と死を通じて,いやというほど語られているこってす。
こうやって人間は進化してきたんだな~,と。
作者はアカシック・レコードを読んだのか?!(いや,そんなことはないと思いますけど)

しかし,この漫画は,神智学や人智学の進化論を知らん人が読んで,
いったいおもろいんやろか,ちゅうのは疑問なんやけど。
簡単に共感や感情移入できる登場人物なんておらんからね。
全ての登場人物が,何らかの人類の「類型」を代表しとるんです。
せやから,このコマとこのコマがこの状況でこう出揃えば,こんな状況が起こる,という進化のパターンを示すために人間が存在してるんどす。
こういう宇宙観は非人間的なんで,わてにとってはとても親しみが持てるんどすが,普通の少女漫画ファンにはなかなか親しめないんやないですかなあ‥

ちなみに,この漫画で最も素晴らしい場面は,ラストに全てが明かされるクライマックスのシーンではござんせん。
それがどこかは,皆さん好き好きがありますやろから,まぁ,内緒‥‥

じみへん

2007-10-25 15:17:58 | シュタイナー
こんちゃ!こんちゃ!こんちゃ!!

あ~やっと,書き込みできました。
いそがしんですいそがしんですいそがしんです~~
こりゃもう何かがわての行動を邪魔してるとしか思えない。
でも,いっつもそんなもんですわー

こうやって隙を見て,時々書き込みに来ます。
たっぷりと時間がある訳でもネタに推敲を重ねたわけでもないので,
あんま,おもろいことも言えまへんけど,許してなー

さて,前回,お下劣なネタを書きやがったな~と思ってはる方も
いらっしゃると思いますが,誤解せんとってねー

関西人なんてそんなもんやねん

って「神秘の時間」1で書きましたやん。
忘れたん?

と,開き直るのはやめまして,言い訳しときます。

あのですねー,要するに,芸術的な「表現」をすることも,
う○こも,
自我がexpressする表現としては,同じように神秘やっちゅうことなんです。

まだそのネタ引きずるか!
って,怒らんとってねー
最後まで聞いてから怒ってねー

あんたはんもどなたはんも,自分の「う○こ」は,汚いと思いはるやろ。
でも,他人がう○こする所を見たことありまっか?
赤ちゃんとかオムツ替えた時とかに見ることあるかな。
他人のう○こって,汚いもんやとは,思えまへんねんで。
他人がう○こする,その現場というのは,感動もんなんです。(←こういうフェティシストがいそうやけど。)
いや,そら,さわるのはちと抵抗ありますけど。

人間,う○こせえへんかったら,どんなえらいことになってまうか!!

それを考えただけでも神秘ですが,それだけではありません。

動物で初めて肛門を発明した,ヒモムシという無脊椎動物がいます。
http://www.nihu.jp/journal/ningen/vol1.2_3.html

この生き物,ほんまに動物かいなーと思いますけど,
頭から肛門までが一本の筒のようになってます。

せやけど人間も,基本的にはこのヒモムシと同じ生き物なんですわー。
肛門から腸ができて内蔵が発達して,まさに神秘の複雑な内臓系を人間は持つようになりましたな。
それらの内臓系には,ちゃんとさまざまな霊的レベルでの働きかけがあって,ちゃんと機能するようになってます。
それはほんまに驚くべきことなんですわ。

せやけどね,人間がだんだん死に近付いて老衰していくと,
これまで一生懸命働いてくれていた内臓系がひとつひとつ機能を停止していきます。不具合が起きたり機能不全に陥ったりして。
でも,最後まで残るのはう○こなんです。
う○こができるということは,生きている証。
どんなに寝たきりで,「もー,どっから見ても死んでるんちゃう~ン?」としか思えないような人でも,う○こは出ます。
う○こが出ると,「あ~よかったねえ。まだ生きてるねえ。」と分かる。
芸術的な表現はもう出来なくても,う○こが出せることが,その人が生きていることの最高のexpressなんです。

せやから,わては,他人のう○こや,汗や,匂いなど,
その人の身体から自然に出てくるものは,汚いと思えまへんねん。

汗のしみついたシャツを何日も放置して放たれる臭いは,きたないけどな~~~

さて,ほんで今日のう○この話のタイトルが,なんで「じみへん」なのか。
これは,「じみへん」と「う○こ」との間に直接的なつながりはないので,
決して,この2つの言葉をくっつけようとしてはいけまへん

ま~,なんでかわてにも分かりまへんけどー
強いて言うならば,
じみへん聴いてて,「じみへんってやっぱええわ~~」って思ってた時に,
上のようなう○こについて考察していたからでせうか。

何の理由にもなってまへん。

けども,じみへんがなんでええのか,ちゅうことを考えると,
どうしても神性について考えることになってまうんですわ。
偽芸術からう○こまで,万人のexpressの形態が千差万別にありますけど,
「ほんまのexpress」に近いのは,「じみへん」と「う○こ」やと思いますねん。
余分なもんが無い。フェイクが無い。(フェイクなう○こがあったら見てみたいわ!
似たものが無い。じみへんの後で真似したのは一杯ありますけど。
なんちゅーか,もう,神に直結してます。ヒモムシの頭と肛門が直結してるみたいなもんです。

ま,そういう人というのは早逝するわけですが。
夭折する魂というのは,明らかに,神と対面し過ぎた,そして神に呼ばれた,という気がします。

せやから,わてのように夭折できない一般人の魂は,純粋に神と向き合わずに,世俗の泥と地球の毒にまみれ,地球人の牛歩なみの歩みを目撃し,地球の進化に加担し,美しい物を見て聴いて触って創って,旨いものを喰ってう○こをして,そして死んで行くということが,ふさわしいと思います。

神秘の時間2

2007-10-17 17:24:41 | シュタイナー
ごぶさたしやした~
のっけから言い訳ですが,いそがしんどすわー
遊んでたわけちゃいまんねんでー

ま,忙しから言うて,儲かりまへんけどな~

しごと!しごと?に追われとっても,右から左から,
やって来るもんはやって来まんなあ。
前回の記事から今日までの間に,色々と重要なもんが来ましたわ~
まず,
『霊的見地から見た日本史』(平岩 浩二著)という本が再版されました。
これ,スサノオが誰かってことが,アカシック・レコードを読んで書いたあります。
ま,スサノオに関しては,大体のわての疑問には答えてくれてます。
ニギハヤヒについては書いてありまへんので謎のままですが‥
ほんで,竹内文書に書かれた年代とアカシック・レコードとを照合してくれたりもしてるので,わてがやらんでもすっかり明らかにされてます。
いずれここでも詳しくメモしませう。

それから,漫画。『猫のニャンコ』。
モー,これ,猫がニャーニャー言うてます。
猫だらけです


間違えました
漫画。『イティハーサ』。
‥覚えられんっちゅうねん,こんなカタカナのタイトル。
猫のニャンコでもええやんけ。ニャーニャー。
この漫画,1万2千年前の日本の神は誰だったのかがテーマの漫画です。
まさしくわての関心にピッタリ。
もうおもろくてしょうがありまへん。

それから,理趣経の奥義を体得したと言う人から,思いがけず秘儀を聞いてしまう奇妙な機会もありました

‥ま~次から次へといそがしですわー

そんなわけで次々と書くテーマが溜まってるんですが,
そんなことより,わては,秋が大好きなんどす!!


‥唐突になんやねん,て思いはるやろけど,
わては秋が好きなんどす~~~
10月の初旬から中旬にかけて,つまり今頃の時期どすが,
一年中で一番好きなんどす~~

せやのに今年は,あんまり,この秋を感じられへんのどす~~

こないだまであっつ~って,汗をダラダラかいてたのに
その後は冷たい長雨で秋晴れもほとんど見られませんでした
ほんで昨日は寒くてもう,カシミアのマフラーまいてましてん。

おんどりゃ秋はどこ行ったんじゃ~~
わての秋を返せ~~~

と思てましたら,今日,ようやく爽やかな秋晴れになりました

わ~い。
短い秋かもしれませんが,わずかでも味わいませう。

でだ。
この爽やかな秋のひととき,皆様いかがお凄しですか?

(んー,ことえりのバカめ。)

秋の何がいいかと言いますと,
もちろん秋晴れの青空も,空高い雲も,
金木犀の匂いも,色づき始めた葉っぱも,
皆いいんです。
そんで何よりもいいのが,秋の夜長でんな。

ちゅうてもわし,夜長を十分に味わえるほど,
夜更かしできる歳やおまへん。
晩飯喰ったらゴーですわ。

せやけど昔は,秋の夜長に虫の声を聴きながら夜更かしをするのが,
何よりも好きどした。
熱い珈琲か紅茶なんか入れてね。
これどっちにすっかなーちゅうのは,あんたの好みでっせ。けどココアはあきまへん。ありゃ冬ですわ。
ほんで何もせんかてええんです。ただボーッと月見てるのも贅沢やし,望遠鏡で月面のぞいたりすると,もう最高でんな。
月のない夜は暗い空みてるのもええんどす。
本読んだり日記書いたり,音楽聞くのもええですな。
でもまあ,わてが個人的に一番好きなんは,そういう夜更けに熱いお茶でも入れて,絵を描くことでんな。
まあ落描きですけど,ペンとか鉛筆じゃなくて,絵の具がいいです。
油絵でも水彩でも。にじむ感じがええです。
も,そういうことやってると,一時間でも二時間でも,最高ですわ。
あっという間に時間が流れていきます。
そういう夜の時間は,密度が濃厚なんです。
部屋の空気も,しっとり重みがあるんどす。 (←湿気こもってんちゃいまっせ!

そんなふうに秋の濃密な時間を過ごしてるとですね,
いつのまにか空の色が少しずつ変わってくるんどす。
群青から藍,藍から薄青なんですけど,段階が徐々に徐々になので,藍染めのようにその変化がものすごく細かく多種に分かれるんどすな。
その変化を見とるのは,まさに神秘の時間どす。

さて,「神秘の時間」と言うと,そんな美しいもんどす。
せやけど,この秋の夜更けの美しい神秘の時間と同じような神秘を感じる時間が,ほかにも色々ありますわ。

この「神秘を感じる時間」というのは,どうも,自我の働きと関係があるらしいんどす。この自我はシュタイナー先生のいう自我ですが。
自我が解放されてる時,神秘を感じるようです。

これは,人間の中で,自我のみが神性を担っている機関であるからのようです。

ちゅうのは,
「無から有を生み出す」働きというのは,神様しか出来へんこってす。
な~んも無いところから「在る」物は作られへんからねー。
せやけどそれをやらはったんが神様やからねー。
造物主,デウス・エクス・マキナどす。
この神様の働きは,オート・ポイエーシス(自己創出・自己生殖)なんどす。
自分からどんどん生み出しちゃう。
この創造の働きは,本来,神にだけ属する機能どす。

ところがどっこい,人間は自分からどんどん生み出しちゃう。芸術しかり,技術しかり。
動物と違って,今までに無い新しい物をポンポコポンポコ作ってまう。
神様の最初の創造とはレベルが違うけど,小ちゃい創造をポンポン日々行ってるのが人間なんどす。
その新たに生み出す働きを担ってるのが,人間の中では自我の部分なんどすな。

ほんでまあ,そういう芸術や技術の創造だけでなく,自我の働きは生み出すこと全般に及んでるらしいんどす。
単純に言うたら,出すこと,排出すること全般どす。
汗をかいたり,排泄することなんかもです。
「ほっといても出ちゃう」
これが,オート・ポイエーシスの基本らしいんどす。
「ほっといても出ちゃう」ものは全て,自我に属する神性の働き,
いや逆かな?神性に属する自我の働きでしょうか。

つまり‥‥
神秘の時間とは,う○この時間‥‥

これが,このテーマの結論なのです!!

一元論

2007-09-21 13:09:38 | シュタイナー
ちは
あっちぃ~けど,すっかり気持ちのよい秋の空でんな。

そんなわけで,テンプレートを夏仕様から元に戻してみました。
しばらくぶりにこのブログ見に来たら,「なんじゃこのまぶしいテンプレートは~~?!」
と思ってしもたんですわ。
自分で変えたくせにな。

やっぱしこっちの方が落ち着くわ。

さて,気持ちのよい青空ですが,
近々地震が頻発するそうでっせ。
関西~関東に掛けて,いっぱいらしい。
気をつけましょうね
‥ったって,どないせっちゅ~ねん

まあともかく,でかい地震が来るかもしれんよ~てことは,
心しといた方がええようです。

被害が大きくならないことを祈りましょう。
神様たちが,被害を抑えようと,今がんばって鎮めてくれているような気がしまふ。


でだ。

しばらく日本ネタが続いてましたんで,色々と考えて,達した結論がありますねん。
それが一元丼です。

いや,↑偶然にも間違えた。

一元論です。

だってDとRって近所にあるやーん。

一元丼て,どんな丼やねん。
喰うてみたいわ~~~~!!

うふぎの上にうふぎが載ってまんねん。

‥喰うてみたいわ~~~~!!!

せやけどそれはただの,
ダブルうふぎやないか~~~!
それやったら,ごはんの上にごはん載ってる方が言語学的に正しいわ~~~!!

‥ていうか,それ,
ただのごはんやないか~~!!!

ただのごはんて何やねん。
ごはんは偉大なんじゃ~~!
しかも,うふぎのタレまでかかっとんじゃ~~~!!


あ~,あほくさ。


‥でだ。

要するに一元論どすわ!


え~

「小椋一葉さんの著書では,神社に祀られてる神さんを人格化しすぎてるんちゃう~ん」,てなことをこないだ書きました。
そのことをよくよく考えていたら…
いや,ボ~ッと考えていたら…
・・いや,考えるでもなくポケ~~~としていたら

やっぱちゃうな~
最後まで人やったら拝まへんな~
と思いましてン。

まー,スサノオとかニギハヤヒとかアマテラスとかツクヨミとか,
クニトコタチとかアメノミナカヌシとかモトツワタラセとかサナート熊らとか
ようけいたはりますけど,
皆さんヒエラルキアになってますんで,
その頂点には宇宙の根源がいたはるわけです。

ビッグバンで言えば,宇宙の始源の一点に
全ての神さんも人も地球も銀河系も,含まれてたわけです。
九鬼文書ではモトツワタラセになるんかな。
その宇宙の根源の最初の始まりを,根源神とでも呼びませうか。

神社へ行っても行かなくても,
スサノオを拝んだりニギハヤヒを拝んだり,アマテラスを拝んだりアメノミナカヌシを拝んだり,
イエスを拝んだり釈迦を拝んだり牛頭天王を拝んだり,
磐座を拝んだり神木を拝んだり山を拝んだり海を拝んだりしますが,
結局のところ,それらの
スサノオ,ニギハヤヒ,アマテラス,アメノミナカヌシ,イエス,釈迦,牛頭天王,磐座,神木,山,海などを通して,
宇宙の根源,生命の始まり,
この宇宙を最初に創って生命を創始したカタ(←モノ,でも,コト,でも,存在でもいいですが)を拝んでるわけやないですかー。

そうすっとやっぱ,
スサノオが凄くてスサノオを祀った神社を造ったとしても,
人間という有限の存在にスサノオのような凄さをもたらした無限の存在,を最終的には崇敬してるわけやん。

そんなわけでその宇宙の根源を神様と呼ぼうが,そこから生まれた種々様々の神様の名前があろうが,結局は一元論やと思いますねん。

まぁ,そこへ戻っていかんことには,な~んも意味無いんちゃう~ん,ちゅうか。

ほんで,シュタイナー先生も一元論ですが,
神秘学の基になっている新プラトン主義のプロティノスやグノーシスなども一元論です。
最初に全ての存在を含む一者から,宇宙は流出した。というような。

最終的に一元論に至らずに神様について何かを述べることは,結局間違ってるんちゃう~ん,て思いましたねんけど。

光と影4

2007-08-13 14:21:42 | シュタイナー
おはようさん。
3333おはようSUN

朝っぱらから爽やかに更新するのは,
今日は午後から忙しくなる予定だからです!
じゃあ今は暇なんかい?
と問われれば,
そうです!

と言ってる間に午後になってしまいました~
ダッシュで書きます!

ゴォ~~~

‥言ってるそばから,寝てる場合やないんです!

‥と,怒られるのは当たり前なわけなんですが…,
寝てるもんを無理に起こさんとってーな。
アストラル体がはずれるやん‥

寝てる時にアストラル体が肉体を離れてるわけですが,
目覚めるとアストラル体が身体に戻ってきます。
そん時の入り方が,ピッタリときれいに収まることがまず無くて,
たいてい,ちょっとずれてたり,はずれかかったりしてるんです。
だからいつも,わてはこんな顔→
ま~わての修行が足りん,ちゅうこってす

せやけど,アストラル体がぴったりと身体にマッチして戻ってくると,
身体がとても充足し,気力も満ちてきます。
その時は,こんな顔→

いっしょや~ん。
全然変わらんや~ん。

‥ま,見た目はあんまり変わらんけど,
中身がちがうんでっせ!!

そんなこんなで,そろそろ光と影のシリーズもまとめに入りませう!

さて,前回は,ちとえらそうなこと書きましたわ。
お前,何様やねん!?
てな口ぶりでしたな。

すんまへん,すんまへん‥
わて,牛様でんねん。

ま,あんま気にせんとっておくれやす。
ただのおしゃべりやから,聞き流しとって。

ほんでまあ,前回の内容で大事なことというのは,
光の人にも影があり,影の中にも光がある,ということですわ。
そこだけ。

例えばやねー,
ケンブリッジ大学を主席で卒業して,健康で,
仕事は充実,年収5000万円以上,
家族にも恵まれ,親・自分・子供,仲良く幸せに暮らしている人がいるとします。
誰が見ても,え~な~うらやまし~な~と,
光り輝いて見える人
そういう人って実際に居ます。
せやけど人生,どんでん返しがあるんじゃ~~
と,ルサンチマンの悪魔がささやきそうですが,
実際にはどんでん返しもなく,歳とっても孫にかこまれ,最後まで幸せに死んでいったりします。
人生は収支が合っていると言いますが,
能力や才能に恵まれた人の場合,最後まで謙虚さを失わなければ,
実際には幸せなまま一生を終えることができます。
周囲の妬みや意地悪で思いがけない嫌な思いを受けたとしても,
それで人生がひっくり返っていきなり不幸のどん底に落とされるということは,滅多にありませんから。

こんな光輝く人の場合,影はいったいどこにあるのか?
と思うんですが,よく見たら,
息子が病弱だったり息子の神経が弱かったり,
兄弟姉妹で大病の人がいたり,不幸な死に方をしたりした人がいたりします。

本人じゃなくて,身近な周囲の人間に影が投影されてしまった,
河童日記の弟さんのようなパターンです。

本人はもちろん,人徳のある善良な光の人間ですから,
身近に不幸な人が居ると,心を痛めます。
何とか助けられないかと,自分の能力をそのために活かそうと頑張るでしょう。

でも,その身近な人が不幸であることが,自分自身とも関係のある因縁のせいだとは,まず思い当たりません。
簡単に言ってまえば,自分のせいで,身近な人が不幸なんです。

え~,そんなん言われても知らんやーん
わてのせいちゃうや~ん

そりゃ,その通り。
あんたのせいちゃいます。

せやけど,全てのものはつながっている,という霊的な見方からすると,
その人が不幸な御陰で,自分が幸せである,ということになるんです。
これを業(ごう)と言ったりしますな。

例えばその,身近な「不幸な人」の立場に立ってみませう。
なんでわしはこんなについてへんのやろな~,わし何か悪いことしたかなー,いや,そんなつもりは全然ないな~,悪いことした覚えはないなぁ。せやのに,なんで俺ばっかりこんな目に遭うんやろな~,世の中,不条理やな~

そんな感じですわ。

「それは霊障のせいです!お祓いしてあげましょう!!」
と,通りがかりの霊能者に言われて,お祓いしてもらったら,実際に運が開けてきて良くなった,ということもあるでせう。あるいは,
「それは前世からの因縁です!前世のあなたが為したことの報いを今受けているのです!」「生まれてくる時に,あなた自身が,それを選んでこのような人生の青写真を描いてきたのです!!」
とか言われて,なんやようわからんけど「はぁ‥」と納得したりして。

せやけど根本的な解決やないんです。
何故か理由があって,そのような霊障を引っ張ってきてしまった,そのような因縁を持っている,そのような青写真を選んできた,
それらの理由については,知る必要があるならば詮索すりゃよかろう。
でも,詮索するだけで,この因縁と青写真から自分はどんな人生をこれから歩いて行こうとしているのか,を自分自身が自覚しなければ,業を断ち切ることはでけへんので,死ぬまで影に覆われた人生になります。
大事なのは,全ての因縁と業を自分が引き受けた上で,この人生をどのように生きていくのか,ということです。
それについては,霊能者も占い師も親も,誰も教えてくれません。
自分自身がひとりで考えて,たったひとりで決断を下すことです。
これを自由と言います。

この,「業を断ち切ること」をユング的に言えば,影との統合です。
最初の方で『羊をめぐる冒険』の鼠の行動の例を挙げたように,「羊」を飲み込んだまま,羊の業を断ち切るために,鼠は自殺を選んだわけです。

この話は小説ですから,実人生では実際のところ,羊を飲み込んだまま,羊に飲み込まれずに,生きることを選択しなければならなくなるでせう。
それが,影を克服して自我に統合し,超自己として自己実現することになります。

↑こんなん,ユングの言葉みたいにさらっと言いますけど,
そんな簡単やないんでっせ。せやから途中で自殺したりもします。

霊障だの前世からの因縁だのと言われるように,自分自身が身に覚えのある行いや考え方が原因ではないので,どないしてええんかわからんのです。
だからといって霊能者に頼るのはたまにはええけど,ほんまに全てを自分で引き受けて問題を解決したいのであれば,最終的には自分自身で克服しなければなりません。

例えば,何代も前の,もちろん会ったことも話に聞いたことすらないような自分の祖先が,何らかの戦さや争いに巻き込まれて,仕方なく多くの人を殺したとします。
そのことが原因となって,自分が知らず知らずのうちに「黒いもの」を近づけてしまい,大事な時に失敗ばかりし,全く望んでもいないような,「なんでこないなことになってしもたんか全っ然わからん!」ような悲惨な人生を歩んでるのかもしれません。

もしそうだとして,たとえ今現在ここに生きている自分自身に身に覚えがなく責任が無いとしても,遠い先祖の行為の代償は,今ここにいる自分が払わなければならないんです。
つまり,その原因を先祖のせいにしてしまうのではなく,自分の身に引き受けて,自分の中にある「影」として引き受けて,その影と闘わなければいけないんです。

他人のせいにしちゃいけません。
全てがつながっているという見方からすれば,自分の身に起こること,地球の身に起こること,地球上の誰かの身に起こること,未来の子孫の身に起こることは,すべて,自分に関係の無いことはなく,すべてが「自分のせい」の一部なんです。
自分は一切悪いことはしていない,罪を犯したことは無い,と言う人間がいれば,それは偽善者です。
影を持たずに生きてきた人間など,いません。(宇宙人は,わかりません。)

自分の抱えている影が自殺するほど重いものではなく,比較的軽いものであれば,日常生活で影に悩まされることなく,「多少の憂鬱」という程度で人生を送って行くことができるでせう。
世の中のメジャーな人々は,このように暮らしている,と言えるかもしれません。

しかし,抱えている影が重いと,日常生活を日常的に送ることは困難となり,日常生活を円滑に進めていくための仕事や人間関係をこなすことは大きな障害となります。
いわば重度の身体障害者であるにも関わらず,健常者と同様に日常生活についていこうと努力しているのと同じです。
やがて無理がたたって生活が破綻し,きわめて多くの場合は自殺を選ぶことになります。

そこで,重い影を抱えている人間はあらゆる手段を尽くして,自分の身体,思考,感情の全てを総動員して,矢が尽きるまで,その自分の中の「影」と闘わなくちゃなりません。
矢が尽きてしまったときは,自分が「影」に負けて死ぬ時です。

自分が抱えているのが軽い影であれば,ここまでやる必要はないので,神秘学や古代の哲学に関ずり合う必要もないのですが。

せやけど,あまりにもその影が強力で,いったん始めた影との闘いに,
「もうあかん,俺もがんばったけど,もう力尽きた。ここまでや‥
と進退極まった時,ここに,ひとつの名言があります。

「わしはな~,勝つまでやめへんのじゃー!」 
                  (by テツ in じゃりん子 チエ)

これこそ,すばらしい名言です!!
つまり,「勝つまで,なんぼでもねばってええよ~
と言って,神様が与えてくれたのが,あなたの生なんです。
タイムリミットは無いんです。
生きてるうちは,あなたの勝ちなんです。
ねばったもんが勝ちなんです。
死んだような腐ったさかなのような目をしてどんよりと生きてても,
死ぬまでに「勝った!」と思えれば,それでええんです。

というのも,全ての人間は,ただ生きてさえいれば,その本来そのものが光だからです。
影は,その光が投影された後ろに出来るものに過ぎません。
つまり,光がなければ影は存在しないのです。
後からくっついてきたに過ぎない影,その影が暗さを増し闇をつくり,そこへますます多くの影がくっついていきます。
それらが業であり因縁であり時には霊障をもたらすものとしていつのまにかすっかりあなたの姿を飲み込んでしまっても,本来のあなたそのものは,一個の光の球なんです。
これは,アストラル体とエーテル体が身体と調和していると,実感できます。

神秘学では,ひとりひとりの人間の中に全宇宙があると考えます。
これは抽象的なことではなく,即物的とでも言いたいような具体的なことです。
自分の身体の皮膚の内側を,外側へ,ぐりんと引っくり返してみませう。
全宇宙が自分の中へ入ってしまいます。
全ての影も,悪も,黒いものも,自分自身の一部となります。
他人の悪は自分の影であり,先祖の罪も子孫の罰も,温暖化も核兵器もアルカイダも,影の一部なんです。
影は影を引き寄せて太っていきます。
けれども,照らし出す光がどんどん明るさを増し,影の端っこの一隅までをくまなく照らし出すことができれば,影は存在できなくなります。

影との闘いを始めた人間は,まず自分自身の内側にその状態を目指さなければなりません。
そして,その光を宇宙の全てにまで広げてみませう。
そして,全ての人間の影が,その本来持っている光の明るさに負けたとき,地球は一つの大きな光の球になります。
全てのものは,そのようにつながっているのです。





光と影3

2007-08-07 15:23:39 | シュタイナー
こんちゃ。
ちゃっ。ちゃっ。ちゃ。

毎度,暑いでんな。
ほんで,眠いでんな。

これしか言うてまへんな,最近。
ほとんどこればっかりですわ。

プラス,

腹へった~
あ”~喰いすぎた~~~

だいたい,この4語しかしゃべってまへん。
こんだけで,ほとんど足ります。

ま~大体ねー,皆しゃべりすぎなんですわー。
電車乗ったらぺちゃくちゃぺちゃくちゃ。
歩きながら電話でペチャクチャペチャクチャ。
ネット見てもぺちゃくちゃぺちゃくちゃ。

なんでそんなにしゃべることあるん?
どーでもえー話を‥‥。
そんなんきいてる暇あったら,わし,寝ますわ‥


‥じゃなくてねぇ,
皆,ようしゃべらはりますわな。

せやけど,一体,何をそんなに一生懸命しゃべってんねやろ~?
と思って,耳立てて聴いてみますやん。
そしたら,別に,たいしたこと何もしゃべってないんですな。

いや,それでええんですよ。
おしゃべりなんて,無意味なことしゃべって戯れることに意味があるんやから。

それはそれでええんです。
せやけど,そのおしゃべりの音にまぎれて,聴かなあかんことが聴こえなくなることがある。

それがどうも,まずいんですな。

音だけやないんです。もちろん。
見るものも,読むものも。
そんなにいらーん,と,耳をふさげばいいんでしょうけど,
ついつい入ってくるんです。
そしてダラダラ見ちゃう。聞いちゃう。
そうやっていつのまにか時間が過ぎ,歳をとり,死んじゃう。

それが人生よ~

(↑こんな歌,ありまへんで。)

せやけどね,自分の使命を自覚している人は,時間が無いんです。
耳をふさぐ所はしっかりとふさぎ,
見なくてよいものは,あえて見ない
余計なことは,しない

そうしないと,ほんまにやらなあかんことをやる時間が,無くなってしまうんですわ。

それが人生よ~

(↑こんな歌,ありまへんで。)

でもたいていは,ほんまにやらなあかんことと,余計なことのちがいって,わかりまへんやん。
何もせんと,ぼ~~~っとしてることが,ほんまにやらなあかんことなんかもしれまへんねん。
河童日記の弟さんのように。

せやけどね,わからんわからん言うても,ほんまは本人が一番ようわかってるんですわ。
「これが今やらなあかんことやね~ん」つって,一生懸命「よけいなこと」をやってるのか,
ただ自分に対する甘えで「これが今やらなあかんことやね~ん」と,喜んで張り切ってるのか。

緊張感のある無しやないんです。
めっちゃ魂(コン)を詰めて,もう,頭から電流走りそうなくらい集中して,切迫した緊張感でもって何かに没頭してても,霊的に見たらそれはただの自己満足で,単に無駄なことをやってるにすぎない,てこともあります。
逆に,ただただ無為に時間を垂れ流し,
暗いトンネルの中で一歩も進まずに膝を抱えて座っていたり,
ずーっと家にも帰らんと遊び歩いてたりしても,
霊的に見たらそれが使命だった,ということもあります。

どっちがほんまにやらなあかんことかはわからへんけど,要は本人が,
「これを今やらなあかんことや」と,甘えなく自覚できてるかがポイントちゃいまっか。

自覚すると,必死になるんです。
せやから,意味のあるおしゃべりには付き合うけど,無意味なおしゃべりには付き合う時間がなくなる。

結局,無駄なおしゃべりで一生を過ごす人は,一生,使命を自覚することはないんです。

けど,それでいいんです。
自覚しないことがその人の使命なんです。

それやのに,
あなたの運命は,使命は,
運命の人は,本当のあなたは,前世は,
地球の未来は,人間のあるべき姿は,
などと吹き込む人が多すぎるので,
そんなものが他の場所に存在すると思い込んでまうんです。

人間は思考せなあかんけど,それは,自分がどう生きるのかを考えるんで,人の生き方から学ぶことはあっても,人から教えられることは無いんです。
考えているつもりで,ただの言葉並べに終わってる偽善者が多いです。
言葉の使い方を知らんと使っているのと同じです。
そういう言葉は,言葉を傷つけるので,使っていはいけない言葉です。
同じように脳で合成された言葉に見えても,言葉の「出所」がちがいます。
せやから,全然話が通じへんな~
という人ばかりが増えています。

人間は,「自分に必要なこと」だけをやればいいように出来てます。
自分に必要なことが無いんやったら,何もやらんでいいんです。
ちゃんと考えて普通に生きてたら,自分に必要なことがなんぼでも出てきます。
普通に生きてて,何も出てけえへんのやったら,現在の自分以外の何者も必要やないっちゅうこってす。
自分の外にあるものばかり追いかけて振り回されてると,それは必ず,自分の周囲にいる人間を傷つけます。
身近な人の犠牲があるからこそ,自分が遠くへ行けるのです。
そして,自分自身もまた,本来の使命を忘れ果たさなかったことによって自分の魂を傷つけたことを,後になってから知ることになります。


ま,わてがこんなん書いとっても,これこそおしゃべりやから,
全然聞かんでもええねんで~

それが自由の哲学やからな~

ほんで,強烈に光り輝いて見える人の足下には,くっきりとした影があること
真っ暗な影に被われた闇の中では,かすかな星の光が何ものにもかえがたい救済として光り輝いて見えること
もまた,真実なんです。

光と影

2007-08-02 17:32:32 | シュタイナー
ちはっす。

ここいらは,ようやく夏らしい天気になってきました。
ついこの間まで梅雨の天気やったからねー
もう8月やっちゅうねん。
昔の季節感が無くなってきてるのは,なんか,滅んでしまった地球をなつかしむような,わびさびとした気分になりますな。
これからどんどん夏が長くなって四季が崩れていくことは,テレビでも言ってるそうやけど,まぁそんなこともありますやろ。
温暖化したり,氷河期になったり‥
夏やぜ!!ワー!!

みたいな明るい暑苦しさって,また感じることが出来るんでせうか。
それとも,今から沖縄に行けば,感じるかな?


ところで,河童日記という面白いブログがあります。8月5日で終わってまうそうですが。 http://plaza.rakuten.co.jp/nusari/
河童さんて,今の日本にも本当に居るんですねえ。
河童だけでなくて,いろんな妖怪,妖精,霊,神様などもリアルにいらっしゃることが,あっさりとわかります。
色んな興味深いネタがたくさんありますが,一つだけコメント。
「あんぱんまん」の歌詞はすごい,と,わても思ってました。
ダンナに共感。

ほんで,この河童日記を読むと,
人には色んなモノがくっついて,守ってくれたり,
逆に攻撃を受けたり,体調が悪くなったり,
時には死んだりもするということが,わかります。

この悪いモノを,河童達は「黒いもの」と呼んでいます。
光に満ちた良いモノに守られている人達も,いつでも,黒いものにつけ込まれて,
光と切り離され堕ちていくことは常識だそうです。
だから,自己の利益のために,光を利用してはならない。

また,まったく神仏を信じず,信仰などとはほど遠いところで日々の生活に追われ,
経済的な利益や名誉を追い求めている人であっても,
その毎日の仕事やナリワイが,他の人々の役に立ち地球のためになっていることであれば,
信仰心など皆無で神仏にお願いやお祈りなどしたことがなくても,神様は見ているので守ってくれるそうです。
↑この後半部分は,河童達の言ったことではなく,別の本からの抜粋やけども‥

まあ,そんなもんやろうと思います。

つまり,良い守護霊がついてるからその人間自身が明るく幸せだという場合もあれば,黒い悪いヘンなもんがくっついてるから,その人間がいつも暗くて惨めで不幸せだということもあり,
逆に,ヘンな悪いもんをくっつけてても,その人自身が明るい光になれば悪いもんが勝手に離れて行ってしまい,良い守護霊がついてるからといって人間が油断して黒くなってしまったら見離されてしまうこともある,ってこと。

きわめて当たり前のことでんな。

さて,そんな人間界と霊界と妖怪・妖精界のはざまで,人間界における神秘学が何の役に立つかと言いますと,
霊感があっても無くても,
良い守護霊がついてても,ヘンな黒い悪魔がついてても,
健康でも不健康でも,身体が動かなくても五感が不自由でも,
全ての人間が持っている平等な魂によって,誰でもが自分自身を光にすることができる,

ってことにあります。

もちろん,神秘学なんか必要無しに,
自分自身を光にして日常生活を生きている人達はいくらでもいます。
神秘学に代わる何かがその人を支えていたり,あるいは,一切何も余分な知識も精神的支えも必要なく,ただ自然に生きているだけで即,光として生きている人達も,います。
それぞれの個人にとって何が必要で,何が必要でなくて,相性が合うのか,
ということは,個々様々なわけで,それぞれ個々人が必要なものに必要な時に触れれば,それでいいこってす。
ほんでもって,わての場合はたまたま神秘学やったわけですが,
別に相性が合うわけやないと思います。
たまたま,与えられた環境と人との出会いが,思考の手段としての神秘学をわてに教えてくれた,ってことですわ。

つまり,霊感がなくても,五感以上に何も感じなくても,
どんな因縁で悪霊につきまとわれていても,
自己の思考だけで真理を知ることが可能だと言うのが神秘学です。
そのような,真理を把握する思考のことを,直観といいます。


ところで,わては思うんですが,
「思考ができない人」の場合はどうなるんでせうか?
「思考ができない人」というのは,たとえば,脳の障害などで,論理的判断ができない,言葉を理解することができず聞くことも話すこともできない人のことです。

そういう子供達は,普通に居ます。
大人になった人達には,なかなか会う機会はないですが‥。

つまり,思考によって真理に至るのが神秘学で,思考には論理が不可欠です。
論理は言葉が使えなければ発動できません。
言葉を使うといっても,話す,書くことではなく,純粋に「考える」ことだけです。
脳の発達障害で言葉を覚えることができない子供達は,言葉を使って考えることができません。重い障害で,立つこと,歩くこと,話すこともできない子供には,論理が発動する機会を永遠に与えられていないように見えます。
そうだとしたら,その人達は,生きている間,真理に至ることができないんでせうか?
神秘学的な疑問です。

こういう問いの立て方自体がまちがってるのかもしれませんが,
それに対するわての答えとしては,真っ先に「否」なんです。
つまり直観的に,「否」です。

実際に,その子達の前に自分が立ったら,わかります。
それは,論理が無くとも,その存在自体が光なんです。

つまり,影が無いからでしょうか‥?

シュタイナー先生は,そのような,脳の発達障害・知的障害のある子供達を,
「魂の保護が必要な子供達」と呼びました。

その呼び方が,正しいと思います。




魂のレベル

2007-04-19 14:25:31 | シュタイナー
おっはようございます!

爽やかな晴れやね!!
さっきまで雨降っとったっちゅうねん!
なんやねん,この天気。昨日は阿蘇で雪降って北海道かここは~
て感じになってるしね。
もう春やっちゅうねん。4月19日でっせ。下旬やんけ。
寒いっちゅうねん。なんとかせ~龍神
あ,すんません。ウソです。龍神様

え~
朝から小沢健二の話です。小沢昭一じゃありません。
小沢栄太郎でもありません。
オザケンの「ある光」のB面?
「美しさ」って曲があります。
「OKよなんて強がりばかり…」て曲。
ここ数年のオザケンは,人界魔境の境地に達し,誰も近寄ることができませんが,
この曲はまだちょっと近づけます。
歌詞はともかく,これは名曲やね。真ん中辺の盛り上がる所はダメですけど。
その今イチな盛り上がりのすぐ後の,残り2分38秒くらい(曲全体は6分以上ある)から始まる部分なんですけど

「南風を待ってる。旅立つ日をずっと待ってる。
 OKよなんて強がりばかりをみんな言いながら。
 本当は分かってる。二度と戻らない美しい日にいると。
 そして静かに心は離れていくと…」

この最後の1行が謎で,いいんです。
この謎が,どうにもこの一週間ほど引っ掛かって離れないんですよ‥‥
一週間ほど前に,iPodのシャッフルであらためて聴いたわけなんですけど。

この,夕方の海辺を思わせる美しいメロディの,
一見昔のオザケンを彷彿とさせるなんてことないサラッとキャッチーな歌詞の,
この1行だけが引っ掛かるので,この曲は名曲なんですわ。

OKよなんて皆いいながら,二度と戻らない美しい日に居ても,
「静かに心が離れていく」ことを,皆知っている‥‥

なんてことは,普通は無いです!
やはり人界魔境の境地にいるオザケンだからこそ,言えること。

OKよなんて皆いいながら,二度と戻らない美しい日に居て,
「いつまでも心はつながっている」と,皆思ってる‥‥

というのが普通ではないかと。
むしろ思い込んでるというか。
そう言うのが,現在はオザケンが足を洗ってしまったポップス業界の定型なのではないかと‥

でも,本当は,心は離れて行くんですよねぇ‥‥シミジミ……

最近のテーマは,これです。
心は本当につながるのか,離れているのか,
一瞬つながっても,また離れて行ってしまうのか,
離れて行った心は,またどこかでお互いにつながることがあるのか。

ところで,魔狂う飯の所で書いたように,インターネットが現在のように普及すると,当然,精神は延長します。
肉体の居る空間を離れて,自我が,あっちでもこっちでも,ウェブを伝って出没します。
だから,肉体の接している相手とは心が全く通じていないのに,肉体を見たことも触れたこともない相手と心が通じ合ってるという状況が,日常的になってますわな。
わては,ブログが普及したせいで世の中の愚痴が減ったと思うんですけど,ちゃいまっか?
代わりに,陰口が増えたんですわ。
肉体を伴う生身の人間と酒でも飲みながら「愚痴をこぼす」機会をやめて,
自分のブログで「ウサを晴らす」ようになったので,それは,愚痴をぶつけたい相手が絶対に見えない所で陰口たたいてんのと同じですわ。
こいつ,何考えてるんかわからん,というような奴は,その人のブログを読めば分かります。
口に出す必要がなくなってしまったんですな。

ネットの普及は,地球全体の共感を増します。それは有無を言わせる余地がありまへん。
せやけど,共感を増加させる分,反感も増してるんですわ。それがバランスです。

せやから,ネットで「つながった心」が,どこから「離れて行く」のか,
あるいは,どこで反作用が起きているのか,
それをこれからじっくり観察するのは,結構な見物です。

ところで前回,「脱皮」の所でふいに書きましたけど,
友達とは何なのかも,同じテーマですな。
つながっては離れ‥で,たいていはそのまま離れたままで死ぬわけですけど,
最後までつながったまま,ということも稀にありますな。
せやけど,例えば,
全く反感の無い共感だけのまま80年も心がつながっている,なんてことは,
人間にはあり得るんでせうか?

わての感覚では,人間同士の関係というのは,分厚いバームクーヘンみたいなもんです。
最初はとても暖かな空気に包まれた和やかな層があり,
一枚皮を剥がすと,また違った層が現れ,
さらに剥がすと冷たくて険悪な層に達し,
冷えきって固まった所でまた一枚剥がすと,思っても見なかった嬉しい層が現れ‥‥

そんな感じで,次々に意外な面が現れるのが人間なのではないかと。
けれどもほとんどの人間は,最初の表面の皮だけで生活をし,仕事をして,生きています。
それがスムーズに滑らかに生きるコツなんですな。
剥がすと,訳分かんないものが噴き出して収拾つかなくなりますねん。
パンドラの箱ですわ。自分自身も,自分以外の他人も。
だから,最初の層で止まったまま,ずっと付かず離れずの関係を続けていれば,永遠に共感のままでいられるのかもしれません。薄っぺらい共感ですけど。

でも人間を知ろうとすることは,パンドラの箱を開けるのと同じことなので,
当然,自分と他人の嫌な部分,見たくない部分,知りたくない部分,関わりたくない部分をどんどん剥がして行ってしまいます。

そして最後に現れる,バームクーヘンの穴。
この穴は,一体,何なんでしょうか?!

おそらく,共感も反感も無い,「空」なんですわ。
ほんでもって,この「空」に到らんかぎりは,人間「関係」なんてえらそうなことは言われへんで,ただの「お付き合い」やと思いますねん。

ところが,いちいちペリッ,ペリッとバームクーヘンの皮はがさんでも,
パックリかじっていきなり穴まで到達しちゃったりしますやん。
わても時々やりますけど。
バームクーヘンの皮はがしながら食べるのがうれしいんやけどねー
やっぱ,かっぷり卵の味をあじわいたいときがありますやん。
そんなときは,つい‥‥

そういう関係の,人も居りますねん。
どういう関係って,「卵と私」じゃなくて,
いきなり穴まで到達してしまう人同士の関係,でっせ。
つまり,ちまちまゴチャゴチャペリペリやんなくても,
共感も反感も超えて,
いきなりお互いに空の境地に達する人同士でんな。

そういう人というのは,魂のレベルが近いんやと思いますねん。
言葉をたくさん費やさなくても,一瞬にして通じますねん。

魂にはレベルがあるということは,最近つくづくよく感じます。
「あいつとは気が合わへんわ~」「あいつはもうちっとマシな奴かと思てたけど,やっぱアホやったわ~」と思う時に,
魂のレベルが違いすぎる,と思うことがあります。
レベルは当然高い所から低い所まであって,様々なヒエラルキアがあるんですが,
わてには,わてより相手が魂が低い奴なのか,高い奴なのかは分かりません。
ただ,段差というか,向いている方向の違いというのははっきりと感じます。

シュタイナーは何でも7段階に分けるのが好きですが,人間の構成要素も7つから成ります。
物質体,エーテル体(生命体),アストラル体,自我,霊我,生命霊,霊人の7つです。
これは左から順番に,進化の段階も表していて,
地球紀の人間は,既に物質体・エーテル体・アストラル体・自我を獲得し,次に霊我へと進化する段階におります。
人間が自我を獲得するまでの間にも,長い長い宇宙の歴史があったので,
人間が霊人を見出すまでには,想像もつかない長い時間が必要です。ものすごい未来です。
ほな,自我の次の霊我くらいやったら,すぐなんちゃうん?とか思うでしょ。
甘い!
それはあと100年くらいでは到底無理な話です。どんなにあんさんが,スピッツでもオカルト系でも猫族でも。
あくまで霊我を見出すことに向かって日々進化を重ねているのが,今の時代です。

生きている人間の魂のレベルのちがいというのは,この霊我にどれだけ近づいているかによると思います。
もちろん人間は未完成な存在なんで,近づいては戻り,逆方向に突っ走ってみたりらせん状に回転してみたり,
穴掘って閉じこもってみたり,崖から飛び降りてみたりします。
でも,魂のレベルが明らかに高くなるにつれ,そういうアホな無駄なことはやらなくなります。
それは,ブッダやシュタイナー先生など,どっから見ても魂のレベルが高い人を見れば,そんなアホなドンチャン騒ぎはやらないことは,すぐに分かります。
一般人でも,やはり霊我に近づいている人とそうでない人はいて,類は友を呼ぶで,結局似たようなレベルの人同士が群れています。

オザケンが,静かに心は離れていくと歌った,この「静かに」そして離れてどこへ「行く」のかが,ポイントなんですわ。

芸術の生命

2007-04-10 16:09:53 | シュタイナー
いま,ちょっと暇ですねん。
いや,ほんまはそんなに暇やないんですけどね。
色々やらなあかんな~ちゅうことはあるんでっせ。
せやけど,尻ぬぐいみたいなことばっかりやからね,
ま~今じゃなくてもいっか,ちゅうことでね。
いや,尻ぬぐい言うても,
ほんまに尻ぬぐってへんわけちゃいまっせ。
そらあんた,当たり前でんがな。比ゆでんがな,比喩
そんなもん,尻ぬぐうん後回しにしとったら,まずいでんがな。
お尻かいぃ~なりますやん‥

ま~,そんなわけで,ちょっぴり暇なんで,
忘れんうちに忘れそうなことを書いておこうと思いまして。
もうあと2日くらいしたら忘れそうなんでね,
2日いうても,ほんまにあと48時間で忘れるんかい!
って訊かれたら,そら49時間くらい覚えてるかもしれんし,38時間くらいで忘れるかもしれまへんけど,
そんなことどうでもいいんです。

これから芸術の話しようっちゅうのに,お尻の話とか,どうでもええことはどうでもええんです。

そう,芸術の話。
忘れそうなのはこのこと。
ある日,絵師BG氏は言いました。
「空がこんなにきれいなのに,絵なんか描いてて何の意味があるのかなあ」と。
今から40数年前に,YOが言いました。
「この空の美しさにかなう芸術があるだろうか」と。

YOはそれから,絵なんか決して描かない,イベントとパフォーマンスだけのアーティスト,オノ・ヨーコになりました。
それから40数年後,絵師BGは,今日もせっせと絵を描いています。

人間は誰しもがアーティスト,絵を描こうが無意味なイベントを48時間ぶっ通しで行おうが,273秒間沈黙を守ろうが,宅急便を運ぼうが列車を運転しようが雪かきをしようが,何をしていたって芸術なんです。
ただし,その行為が「宇宙への愛」の「表現」であるならば。

人は人のためだけに生きているのではありません。
愛を表現するために生きているのが人間です。
表現された愛は,宇宙自身が,地球を鏡にして見ています。
その姿を宇宙に見せてあげることが,人間の役割なのです。

ベルリン天使のもの作り

2006-11-15 17:04:38 | シュタイナー
なんでか最近,「ベルリン天使の詩」の冒頭の「子供が子供だった頃‥」の詩がずっと頭に浮かんでくるんですわ。
なんでやろね~。
気になるのでここに書いてみよう。
映画では一部だけやったけど,下が全文なのかな。
 
「ベルリン・天使の詩」 より。ドイツのわらべ歌(ピーター・ハントケ)
「子供は子供だった頃
腕をブラブラさせ
小川は川になれ
川は河になれ
水溜まりは海になれ
と思った

子供は子供だった頃
自分が子供とは知らず
すべてに魂があり
魂はひとつと思った

子供は子供だった頃
なにも考えず
癖もなにもなく
あぐらをかいたり
とびはねたり
ちいさな頭に
大きなつむじ
カメラを向けても
知らぬ顔

子供は子供だった頃
いつも不思議だった
なぜ
僕は僕で君でない?
なぜ
僕はここにいて
そこにいない?
時の始まりは いつ?
宇宙の果ては どこ?
この世で生きるのは
ただの夢?
見るもの 聞くもの 嗅ぐものは
この世の前の世の幻?
悪があるって
ほんと?
悪い人がいるって
ほんと?
いったいどんなだった
僕が僕になる前は?
僕が僕でなくなった後
僕は いったい
何になる?

子供は子供だった頃
ほうれんそうや豆やライスが
苦手だった
カリフラワーも
今は平気で食べる
どんどん食べる

子供は子供だった頃
一度 他所の家で目覚めた
今はいつもだ
昔は沢山の人が
美しく見えた
今はそう見えたら僥倖
昔ははっきりと
天国が見えた
今はぼんやり予感するだけ
昔は虚無など考えなかった
今は虚無におびえる

子供だった頃
子供は遊びに熱中した
今は
あの熱中は
自分の仕事に
追われる時だけ

子供は子供だった頃
リンゴとパンを
食べてれば良かった
今だってそうだ

子供が子供だった頃
ブルーベリーが
いっぱい降ってきた
いまだってそう
胡桃を食べて
舌を荒らした
今も同じ
山に登る度に
もっと高い山に憧れ
町に行く度に
もっと大きな町に憧れた
今だってそうだ
木に登り
サクランボを摘んで
得意になったのも
今と同じ
やたらと人見知りをした
今も人見知り
初雪が待ち遠しかった
今だってそう

子供は子供だった頃
樹をめがけて
槍投げをした

刺さった槍は
今も 揺れている」

こんな詩やったんか‥。

さて,なんでこの詩が気になったんかはわかりまへんのやけども,子供が子供だった頃と変わってもた部分と変わってない部分と,変わったけどまた子供に逆戻りした部分とが,あるんやな~と思います。
天使もむしろ今の方が身近に居はりますね。

ところで,唐突に,今は「ものづくり」について考えてますのやけど,
「ものづくり」と生殖行為は同じらしんですわ。
もの作るというのは,世界に対する愛の表現なんですな。
せやから,愛の無いもんは,作ったらあきまへんねん。

なんでこんなこと唐突に言うかっちゅうとですなあ。
全然商売が儲かりまへんねん!
物は全く売れん!!

なんで売れんかっちゅうとですなあ,
売れんもんを売ってるからですな。
売れるもんを売らんかい,ちゅう話ですわ。

せやけどやね,売れるもんて何?
なんで売れるのん?
需要と供給のバランスやと思いますやろ。
ちゃいますねん。
日本にあっては当然,供給過剰ですやん。
せやけどね,供給不足な物もあるんでっせ。
例えば,丈夫で軽い車椅子,身体障害者用の食器,適切な医療サービスetc,etc...

ところが,そういうマイノリティー以外の部分では,物質も食料も芸術もすべて,供給過剰ですな。
それでも売れるもんと売れんもんがあるっちゅうのは,本質とマーケティングと只の運の3つの要素が原因です。
マーケティングと運については,まあどうでもええことやのでほっときます。
本質というのは,作ったものが宇宙への愛として成立し,それが他の人達にも伝わったこと=売れるということです。

わては高校生の頃まではエコ・テロリストやったので,エントロピーを拡大すること=物を生産することは「悪」やと決めつけておったんですわ。
今はちゃいます。人間は存在自体がエントロピーを拡大する「悪」であるがために,生存し物を生産することによって宇宙に対する「愛」を表現することが人間にとっての唯一の救いであり使命であると思っちょります。
せやけど,「愛」のない,中途半端なもんを生産することは悪やと,今でも思ってます。
だから,自分が作るもんも中途半端で納得いかん物やと,すごい罪悪感があります。
高校生のエコ・テロリストのわてが,怒るんですわ。

せやからね,別に売れんかっても,儲からんでもいいんです。
ものを作ることが,愛の表現として成立してさえいれば。
でもわては,自分の作るもんに,そこまで自信が全然持てないんですな。自分でも納得できずに,コストやら何やらのいろんな条件の制約のもとに作ってるからですな。
そんな生産は,そのうち止めます。
そして,本当の生殖行為としての「もの作り」を始めたいと思ってるんですわ。

二者択一

2006-11-08 13:44:13 | シュタイナー
人間の生き方には,
生きるために生きること,と,
死ぬために生きること
の二通りあります。
前者がごく一般的な普通の生活です。
後者はかなり異常な生活になります。

同じ「生きる」ことでも,この二つは天と地の差,地球の内と外がひっくり返るくらいのちがいがあります。
どえらい違いです。
「死ぬために生きる」ことは,人間としての全ての義務と責任を放棄することです。
つまり全ての人間の義務と責任は生きることの持続によってしか果たせないからです。
生まれてしまったら,生きることが義務なのです。

生かされている,という感覚はそのどちらでもないと思うかもしれません。
自分は死にたい,でも生かされているのだから生きなければならない。
自分は生かされている,だから他の存在に感謝しつつ,愛を持って生きなければならない。
どちらも,「生かされている」感覚から出る言葉です。
でも,この前者が最初に挙げた二択のうちの後者で,後者が最初の前者であることは,お気付きでしょう。
生かされているという感覚にも二通りあって,そのどちらかでしかないのです。
「生かされているけど,生きたくもないし死にたくもない。ただ生かされている。」という惰性的な中間はあり得ないのです。
なぜなら,その中間の宙ぶらりんな感覚は一時的なものであり,結局は最初の二択に行き着くことになるからです。

でも,日本の多くの人達は,その中間の宙ぶらりん状態で何不自由なく生きているように見えます。
けれども毎日ごはんを食べて排泄し,仕事や学校に行き,家事をこなすことは,生きるために生きていることに他なりません。
ただ生かされているだけの惰性なら,食事もせず排泄もせずに,ごみにまみれて死ぬでしょう。
意識したことがないだけで,「与えられた生をただ生きている」だけの人はいないのです。

では,死ぬために生きるとは何なのか?
特攻隊がそうですね。現代で言えば,生を持続する気力を失い,近い将来に訪れる「死の選択」の時に備えて,毎日を生きている人,ということになります。
最近は小中学生の自殺が頻発していますが,彼らの中にも,衝動的にではなくそんな死の選択の準備期間を持っていた子供達がいたと思います。
「死の選択」は人間に許されることではない,というお説教は無効です。なぜなら人間には意思で選択することが可能であり,その選択は自由の領域に属すからです。
死の準備期間,彼らを「生きる」ことへ引き戻そうとする出来事はいくらでもあったでしょう。
ふいに感じる親や家族の愛情,動物や植物との親愛つまりは世界への愛,思いがけない友人の友情。
秋晴れの空がきれいだった,風が気持ちよかった,鳥の声が聴こえた,そんなことだけで,もう一度生きようと思うことは何度もあるでしょう。
それでも最終的に死を選択してしまうことは何なのか。
それは,一瞬感じられる幸福ではなく,彼らの現世を執拗に持続的に取り囲んでいる唾棄すべき世界から逃れるための,抗い難い魅力があるからです。
そんなにお前の周りの世界が嫌なら,全部壊してしまえ。
私はそう言います。嫌いな奴なら殺してでも,お前が生きろ。学校なんか爆破してしまえ,と。
それが出来ないからこそ,彼らは自分が死ぬことを選択するわけですが。

そんな「逃避の手段」ではない死の選択,というのがあります。
例えば,自分の周囲の世界に対して不満は無い。世界はそのままで美しいと感じる。
人間関係も嫌いということも無い。家族の愛情も感じている。
それでも死を選択する。
こういう人も,死ぬために生きている人です。
心にポッカリ空いた穴を,他の何物をもってしても埋めることができない。
あらゆることを試してみた。もう少し生きてみたら何か変るかもしれないと無理やり自分を励まし,頑張って生きてみた。
でもほんの気休め程度で,何も変わりはしなかった。
大好きなペットに安らぎを感じるけれども,全ての感情が刹那的なものだ。残された家族がきちんと面倒を見てくれるだろう。

こういう人にとっては,世界の全てに対して自分が感じていた親愛の情が,全てひっくり返って,世界の全てがよそよそしい顔を見せるようになります。
「生きるために生きる」ことを止めた途端に,世界と自分との回路が閉ざされるのです。
もはや他人の声など聞いちゃいませんし,鳥の声も耳の中を流れていくだけです。
自分がただ風になることだけを望んでいるのです。
「死ぬために生きる」ことを選択した瞬間に,世界の全てがあなたにとっての意味を失います。
だから全てが色あせて見えます。そして生きる気力はますます無くなっていきます。
いったん「死ぬために生きる」ことを選択してしまうと,そこから戻ってくるのは至難の業です。
「生きるために生きる」ことがバカバカしく思えて,やっぱり死にたくなるでしょう。

こういう人に対しては,死後の世界を詳しく説明してあげるしか思いとどまらせる方法はありません。
もっとも,その説明を聞いて益々,死後の世界へと行きたがる可能性もありますが。

けれども,この二者択一には,答えは一つしかありません。「生きるために生きる」こと。
生きるならば,カッコつけずに,何をしてでも生きること。
死ぬならば,勿体つけずに死になさい。死ぬために生きることは,単なるアリバイでしかないのです。