ちわっす。
毎年言うてる気がしますが、今年は変なことが多い年でんな。
しかし、毎年言うてるのは、毎年変なことが増えてるからやという気がしまふ。
先月の四川大地震、この週末の日本の東北地方での大地震。
天災以外でも、この間の秋葉原の通り魔事件。その前から数件起きていた無差別殺人事件。
天災人災が多く起きるのは、今年が変革の年回りに当たるからやと言う人もおるようです。
そんなことはわてには分かりまへん。
しかし、外に起こることは内に起きたことの顕われですから、どこかで何かが常に変革していることにはちがいありません。
まあそんな、一見意味があるようで実は全く無いご託を並べててもしゃあないので、先へ行きませう。
昨今のようないろいろなことが起きると、「いのち」について考えますわ。
神秘学を学ぶ人間は、何事も起きなくても普段から「いのち」について考えてると思うし、まあそれを考えすぎて神秘学まで行てまうようなもんですから、色々起こると特に、そのことを意識するもんやと思いまふ。
中国の地震やミャンマーの水害で何万人もの人命がゴミのように消えてしまい、それが人災の面もあるわけやけど、他方で、秋葉原など日本の都会では、偶然遭遇した人達の生命が無差別殺人で一瞬にして消されてしまう。
無差別殺人の犯人というのは、自殺願望の八つ当たりやと思うんですが、この人らは、日本にたくさんおる自殺願望者の氷山の一角です。
アフリカの貧困に苦しむ子供達の間には、自殺をする人間がいないと、黒柳徹子
が言ってたと思います。懸命に生きようとする、と。
こうやって対照して言われることは、決まって、「世界では多くの命が失われ命を大切にしなければと皆が思っているのに、日本の若者はなぜ命を粗末にするのか」ということでんな。ほんまは若者だけやないんですけど。
簡単に答えたら、無差別殺人をしてしまうほど自殺したい人間には、「生きていくための理由」「生きているための理由」が無いからやろう。
自分は死にたい、しかし、自分を死にたいとまで追い込ませた他の人間達に復讐してから死にたい、てな感じとちゃいまっか。
要するに、おまえ、ほんまはただ生きたいだけやんけ、ってことなんですけど。
「生きている」状態、というのは、これほど不思議なもんはないなあ~と、つくづく思い万年。
「生きている」状態というのは、「死んでいない」状態、としか、定義のしようが無いんでんな。
産まれてしまったら、全ての生命は、死ぬまでの間、生きる以外に方法がないわけです。
そんなんあったり前やんけ、何ごちゃごちゃ言うてるねん、あほちゃう~~~
て、思いますやん。
せやねん、わたい、あほでんねん。
まあ、こんなことばっかし、ぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅと、考えとるんですわ。
ほんでな、まあくちゃくちゃと考えてるとですな、ほんまにいろんな人間がおるなー、ちゅうのが不思議に思えてきますねん。
電車乗ったり駅にいるとですな、なんでこんなにようけ人がおんねーん、ほんでもって、皆、全然ちがうことばっかり考えてんねんやろー。どんだけようけ、「想念」が行き交ってんねーん。
とか、思うんですわ。
ま、わてはその理由は知って万年けど、教えてあげな~い
ほんでまあ、基本的に、想念は、二種類の人間のパターンに分けられると思います年。
「生きていく」ことに基づく想念か、「生きない」ことに基づく想念か、のどちらかですわ。
今日何しよう、何時に誰と会って何食べよう、どこ行こう、
明日あれしなきゃ、将来はお嫁さんになろう。
こういうのが、全部、生きていく想念でんな。
あ~もう、しんどいわー、つらいわ~。なんでこんなしんどいんやろう。
明日のことなんか、何にも考えられへんわー。明日の朝ご飯のことなんか、
考えたこともないわー。苦しいわー。
こういうのが、生きない想念でんな。「明日ご飯食べへん」を毎日続けたら、死んでまいますから。
人間の雑念は、たいていこの2パターンのどっちかちゃいまっか。
あとは、哲学的想念。この2パターンの前提を問うパターンやね。
人はなぜ生きるのか、なぜ死にたくなるのか。
おせ~て。
つまり、わてでんがな。
ふっ
ほんでまあ、子供の頃の人間は、みんな前者でんな。わー、きゃー、あそぼー
それしか考えてへんやろ。
ほんで、だんだん成長して生きる辛さを味わうようになると、後者の憂いを知って、渋くて深い人間になりますわな。
せやけど、最終的に死ぬまで、基本的に前者のままで明るく楽しく爽やかに、ただ本人の思い込みにすぎないにせよ、生きていく人間というのも、意外に多そうでんな。
後者の人間の数が少ないとは決して思いまへんけど、社会が前者の人間を前提にして動いているもんやから、後者の人間は少数派にされています。
なんでかというと、生きていく状態は現状の継続やから、楽なんです。惰性だけで行ける。
生きない状態は、現状を断ち切ることやから、努力がいる。勇気がいる。めんどくさい。
だから社会は楽な方へ流れます。
そもそも、この前者と後者の想念のどちらが生きるベースになってるかによって、人間は全く別の人種のようになっていると思いまふ。全くコニュニケーションがとれません。
この異文化の人間たちがごった煮となって日々暮らしているのが社会なので、まとまりがあるわけがありません。
さて、ほんなら、人間が「生きている理由」とは一体何なのか?
それは、惰性です。
単なる。まったくもって。シンプルな。そんじょそこらの。
惰性です。
産まれちゃったから、生きてるのよ~

それ以外に、理由なんてありません。
せやけど、人間がこれからも「生きていくための理由」については、人それぞれ千差万別です。好きにしなはれ、
てなもんです。たいがいは欲ですな。食欲、金銭欲、性欲。それから、愛。家族への愛、他人への愛、世界への愛。
「生きている理由」が惰性だと知って、そこから「生きていく理由」が見つからない人間は、死にたくなります。
欲を持てる状態にない。愛を感じる状態にない。
これだけで、たいがいの人間は、生きるのが嫌になります。
この状態が長く続くと、多くの人間が自殺か緩慢な自殺か、惰性での死か、ともかく死んでしまおうと思います。
つまり、喜びがなければ、ほとんどの人間は死に絶えて当たり前なわけでんな。
しかし、それでも「自殺してはいけない」「生きる力を育てなさい」と説得したり教育しようとします。
そりゃたいがい、無理でんな。
もともと、理由なんか無いんどす。
「なんで死んではいけないか」を説明しようとするほど、コジツけに聞こえて、ウンザリします。
チクシてつやみたいな人に言われたりしたら、より一層、ガッカリします
要するに、「生きていく理由」なんてのは、誰にとっても、コジツけなんどす。
どんなに薔薇色に見える人生を歩んでいる人でも、コジツけの上に美しい花を咲かせているわけです。
「それでええや~ん」と言える人が、まあ一番しあわせなんでせう。
けど、そのコジツけに疑問を抱いてしまう人は、悩みがつきまへんな。
いつまでも、どこまでも、「生きていくための理由」が見つからなくてオロオロし
、ガックシ落ち込んで鬱になってみたり
、場合によっては人や動物に八つ当たりして迷惑を掛けたり殺したり、自殺したりします。
夢なんかいらない、希望なんかいらない。
それでも、おれは生きていく。
そう言える理由が、人間にだけは必要なんどすな。
それを考えるために、人間には脳みそがあるんどす。
ちゅーちゅー
せやから、脳みそ使えや、このボケがー
と、シュタイナー先生も言うてはるんどす。
(↑※シュタイナー先生は、関西弁は使いません※)
今日はえらい長いな。暇なん?
はい、そのとおり
では、暇な方はご一緒に、こんなイメージを思い浮かべてみませう。
レッツ・いめーじ!
ハワイの海で、サーファーが波乗りをしています
白い波が、大きな渦のように、波打ち際に押し寄せます。
その波が繰り返し繰り返し打ち寄せるうちに、うねりが竜巻となって空へ伸びていきます。
やがてその波が太い竜巻として螺旋状に回転しながら海から空をつなぎます。
はい、ここで、サーファーはどこへ行ったでしょう?
波のうねりに飲み込まれて海底へと沈んでしまった。
竜巻の下の方で、渦に飲み込まれそうになりながらも、なんとか沈まずに水面から顔を出してもがいている。
海から盛り上がった竜巻の勢いに押されて、あれよあれよという間に、空に近い所でなんとかバランスをとりながらサーフィンをしている。
別に、心理テストぢゃありません。
クイズでもないでっせ。
単なるたとえ話です。
サーファーの足下にある波が時間、サーファーが自分です。
足下にある時間は、常に変転きわまりなく、止まることがありまへん。
太い波のように、螺旋形を描きながら、上へ上へとあがっていきます。
これが宇宙の進化です。
サーファーは、足下の波の動きの他に、その瞬間瞬間の天候、風の動き、周囲の生き物や物体の動き、月の引力、太陽の熱、地球の自転・公転、地球上のどこかで起きた地震の影響、その他環境のあらゆる諸条件に照応して、初めてうまく、波に乗ることができます。
もちろん、自分の体調と精神の状態が、それを支えます。
ずっと波に乗り続けることのできる人間はいません。
それができれば、人は神になります。
波の中に沈んで死んでしまう人間もいれば、海底近くまで行っても泳げる人間も、魚人のようにエラ呼吸を発達させ進化する人間もいます。
他方で、こんどは空から海へ向かって、光の螺旋が降りてきます。
この、上から下への螺旋が、精神の進化です。
海から空への波の螺旋と、
空から海への光の螺旋が、
絡まるように二重螺旋になって、
光の螺旋が波の螺旋の上昇を支えています。
これが、DNAの二重螺旋なんですわ。

毎年言うてる気がしますが、今年は変なことが多い年でんな。
しかし、毎年言うてるのは、毎年変なことが増えてるからやという気がしまふ。
先月の四川大地震、この週末の日本の東北地方での大地震。
天災以外でも、この間の秋葉原の通り魔事件。その前から数件起きていた無差別殺人事件。
天災人災が多く起きるのは、今年が変革の年回りに当たるからやと言う人もおるようです。


しかし、外に起こることは内に起きたことの顕われですから、どこかで何かが常に変革していることにはちがいありません。

まあそんな、一見意味があるようで実は全く無いご託を並べててもしゃあないので、先へ行きませう。

昨今のようないろいろなことが起きると、「いのち」について考えますわ。
神秘学を学ぶ人間は、何事も起きなくても普段から「いのち」について考えてると思うし、まあそれを考えすぎて神秘学まで行てまうようなもんですから、色々起こると特に、そのことを意識するもんやと思いまふ。

中国の地震やミャンマーの水害で何万人もの人命がゴミのように消えてしまい、それが人災の面もあるわけやけど、他方で、秋葉原など日本の都会では、偶然遭遇した人達の生命が無差別殺人で一瞬にして消されてしまう。
無差別殺人の犯人というのは、自殺願望の八つ当たりやと思うんですが、この人らは、日本にたくさんおる自殺願望者の氷山の一角です。
アフリカの貧困に苦しむ子供達の間には、自殺をする人間がいないと、黒柳徹子

こうやって対照して言われることは、決まって、「世界では多くの命が失われ命を大切にしなければと皆が思っているのに、日本の若者はなぜ命を粗末にするのか」ということでんな。ほんまは若者だけやないんですけど。

簡単に答えたら、無差別殺人をしてしまうほど自殺したい人間には、「生きていくための理由」「生きているための理由」が無いからやろう。
自分は死にたい、しかし、自分を死にたいとまで追い込ませた他の人間達に復讐してから死にたい、てな感じとちゃいまっか。
要するに、おまえ、ほんまはただ生きたいだけやんけ、ってことなんですけど。

「生きている」状態、というのは、これほど不思議なもんはないなあ~と、つくづく思い万年。
「生きている」状態というのは、「死んでいない」状態、としか、定義のしようが無いんでんな。
産まれてしまったら、全ての生命は、死ぬまでの間、生きる以外に方法がないわけです。
そんなんあったり前やんけ、何ごちゃごちゃ言うてるねん、あほちゃう~~~

せやねん、わたい、あほでんねん。


ほんでな、まあくちゃくちゃと考えてるとですな、ほんまにいろんな人間がおるなー、ちゅうのが不思議に思えてきますねん。
電車乗ったり駅にいるとですな、なんでこんなにようけ人がおんねーん、ほんでもって、皆、全然ちがうことばっかり考えてんねんやろー。どんだけようけ、「想念」が行き交ってんねーん。
とか、思うんですわ。

ま、わてはその理由は知って万年けど、教えてあげな~い

ほんでまあ、基本的に、想念は、二種類の人間のパターンに分けられると思います年。
「生きていく」ことに基づく想念か、「生きない」ことに基づく想念か、のどちらかですわ。
今日何しよう、何時に誰と会って何食べよう、どこ行こう、
明日あれしなきゃ、将来はお嫁さんになろう。
こういうのが、全部、生きていく想念でんな。

あ~もう、しんどいわー、つらいわ~。なんでこんなしんどいんやろう。
明日のことなんか、何にも考えられへんわー。明日の朝ご飯のことなんか、
考えたこともないわー。苦しいわー。

こういうのが、生きない想念でんな。「明日ご飯食べへん」を毎日続けたら、死んでまいますから。
人間の雑念は、たいていこの2パターンのどっちかちゃいまっか。
あとは、哲学的想念。この2パターンの前提を問うパターンやね。
人はなぜ生きるのか、なぜ死にたくなるのか。

つまり、わてでんがな。

ほんでまあ、子供の頃の人間は、みんな前者でんな。わー、きゃー、あそぼー

それしか考えてへんやろ。
ほんで、だんだん成長して生きる辛さを味わうようになると、後者の憂いを知って、渋くて深い人間になりますわな。

せやけど、最終的に死ぬまで、基本的に前者のままで明るく楽しく爽やかに、ただ本人の思い込みにすぎないにせよ、生きていく人間というのも、意外に多そうでんな。
後者の人間の数が少ないとは決して思いまへんけど、社会が前者の人間を前提にして動いているもんやから、後者の人間は少数派にされています。
なんでかというと、生きていく状態は現状の継続やから、楽なんです。惰性だけで行ける。
生きない状態は、現状を断ち切ることやから、努力がいる。勇気がいる。めんどくさい。
だから社会は楽な方へ流れます。
そもそも、この前者と後者の想念のどちらが生きるベースになってるかによって、人間は全く別の人種のようになっていると思いまふ。全くコニュニケーションがとれません。
この異文化の人間たちがごった煮となって日々暮らしているのが社会なので、まとまりがあるわけがありません。
さて、ほんなら、人間が「生きている理由」とは一体何なのか?

それは、惰性です。
単なる。まったくもって。シンプルな。そんじょそこらの。
惰性です。

産まれちゃったから、生きてるのよ~


それ以外に、理由なんてありません。
せやけど、人間がこれからも「生きていくための理由」については、人それぞれ千差万別です。好きにしなはれ、


「生きている理由」が惰性だと知って、そこから「生きていく理由」が見つからない人間は、死にたくなります。
欲を持てる状態にない。愛を感じる状態にない。
これだけで、たいがいの人間は、生きるのが嫌になります。

この状態が長く続くと、多くの人間が自殺か緩慢な自殺か、惰性での死か、ともかく死んでしまおうと思います。

つまり、喜びがなければ、ほとんどの人間は死に絶えて当たり前なわけでんな。

しかし、それでも「自殺してはいけない」「生きる力を育てなさい」と説得したり教育しようとします。
そりゃたいがい、無理でんな。

もともと、理由なんか無いんどす。
「なんで死んではいけないか」を説明しようとするほど、コジツけに聞こえて、ウンザリします。

チクシてつやみたいな人に言われたりしたら、より一層、ガッカリします

要するに、「生きていく理由」なんてのは、誰にとっても、コジツけなんどす。
どんなに薔薇色に見える人生を歩んでいる人でも、コジツけの上に美しい花を咲かせているわけです。
「それでええや~ん」と言える人が、まあ一番しあわせなんでせう。

けど、そのコジツけに疑問を抱いてしまう人は、悩みがつきまへんな。
いつまでも、どこまでも、「生きていくための理由」が見つからなくてオロオロし



夢なんかいらない、希望なんかいらない。
それでも、おれは生きていく。

そう言える理由が、人間にだけは必要なんどすな。
それを考えるために、人間には脳みそがあるんどす。

せやから、脳みそ使えや、このボケがー

と、シュタイナー先生も言うてはるんどす。
(↑※シュタイナー先生は、関西弁は使いません※)
今日はえらい長いな。暇なん?

はい、そのとおり

では、暇な方はご一緒に、こんなイメージを思い浮かべてみませう。
レッツ・いめーじ!

ハワイの海で、サーファーが波乗りをしています

白い波が、大きな渦のように、波打ち際に押し寄せます。

その波が繰り返し繰り返し打ち寄せるうちに、うねりが竜巻となって空へ伸びていきます。

やがてその波が太い竜巻として螺旋状に回転しながら海から空をつなぎます。

はい、ここで、サーファーはどこへ行ったでしょう?



別に、心理テストぢゃありません。
クイズでもないでっせ。
単なるたとえ話です。
サーファーの足下にある波が時間、サーファーが自分です。
足下にある時間は、常に変転きわまりなく、止まることがありまへん。
太い波のように、螺旋形を描きながら、上へ上へとあがっていきます。
これが宇宙の進化です。
サーファーは、足下の波の動きの他に、その瞬間瞬間の天候、風の動き、周囲の生き物や物体の動き、月の引力、太陽の熱、地球の自転・公転、地球上のどこかで起きた地震の影響、その他環境のあらゆる諸条件に照応して、初めてうまく、波に乗ることができます。
もちろん、自分の体調と精神の状態が、それを支えます。
ずっと波に乗り続けることのできる人間はいません。
それができれば、人は神になります。
波の中に沈んで死んでしまう人間もいれば、海底近くまで行っても泳げる人間も、魚人のようにエラ呼吸を発達させ進化する人間もいます。
他方で、こんどは空から海へ向かって、光の螺旋が降りてきます。

この、上から下への螺旋が、精神の進化です。
海から空への波の螺旋と、
空から海への光の螺旋が、
絡まるように二重螺旋になって、
光の螺旋が波の螺旋の上昇を支えています。
これが、DNAの二重螺旋なんですわ。
