紋次郎と日々の出来事

骨肉腫と闘った紋次郎と保護犬の正次郎との日々

無事四十九日が終りました

2008年03月30日 23時37分51秒 | 父のこと
3月29日、無事四十九日が終りました。禅宗の我が家ではお父さんは仏になりました。
ほんとにあっという間でした。今でもお父さんの声を聞けないって信じられません。とてもいい天気でした。



昼近く、お父さんたちが帰ってきました。診察は若い内科の先生がしてくれたそうです。(後に大問題になる)頼りなかったけど、レントゲンを撮ったら肺気腫も泣く、大丈夫とのこと。家にタバコを吸う人(母のこと)がいると話すと「それはいけませんね~」っと言われたとお母さんにお父さんとおねえちゃんでほら、お母さんのタバコが悪いんだよ!!っと言わんばかりでとても機嫌がよかった。姉は寒いからと4畳半の部屋にガスファンヒーターを入れた。
私が掃除機に靴下を詰まらせたというと姉と義兄がいつものようにすごいいいあいをしながらなおしていた。私は申し訳ない気持ちだった
義兄がその間お父さんに「コーヒーを飲みますか?」と聞いた。「おう、飲むわ」っと、病院に行く前はお茶も飲めなかったのに「お父さんよかったね!!」って私が言った。
お昼はうどんにすることになった。その間私が詰まらせた掃除機で姉と義兄がけんかをして大変だった。申し訳ない気持ちでそばにいた。するとお父さんが姉を呼んだ。姉は私が詰まらせた掃除機を治すのに一生懸命だったので私がお父さんのところに行くと「しょうがをすってくれ」とのことだった。これが私とお父さんの最期の会話になってしまった。
冷蔵庫の野菜室からしょうがをだし、お父さんに「皮はむくの?」
お父さん「むかなくていい」すりきが細かくすれるところと大まかにすれる場所があって悩んで細かくすれる場所ですっていると「こっちでいいよ」と。
そのまますっていて「これくらいでいい」っとお父さん。
するのをやめて掃除機をなおしている姉の下へ。お父さんはたぶんパソコンのところへ。義兄は甥を迎えに駅へ行った。
4畳半のみんなが集う場所には母、姉、姪、私、犬の紋次郎がいてファンヒーターの前でくつろいでいる紋次郎を見て犬は暖かい場所がわかっているねって話をしていた。


その時、急にお父さんがトイレに走って行った・・・・・

忘れない為に(PartⅣ)

2008年03月27日 22時54分22秒 | 父のこと
国道の状態を見ながらガソリンを入れて戻ってくる。すぐに出ることが出来るように車は出しやすい場所に置いた。
車から降りると近所の人が町費を取りに来た。お母さんとお父さん私とで細かいお金があるか、出し合った。
お父さんはまだ病院に行くことを病院に伝えていないという、そうかぁっと思い犬の紋次郎がまだう○ちをしていないので、病院に電話するようにお父さんに言って、紋次郎を裏庭に連れて行くと姉夫婦が来た。そして私に車をどかせという。私は「お父さんが病院にいくっていうから」というと「聞いているよ、連れて行くから車をもっと奥にしまって」と。
え??私に乗せて行って言ったはずなのに。どうして??やっぱり私は頼りがない?ショックだったけど、こんなことはしょっちゅうだった。でも頼りにされてとてもうれしかったのにやっぱり姉なんだ・・・ってとても悲しくなった。

しかしそんなことは言っていられない、すぐに姉夫婦がお父さんを病院に連れて行った。私は前日の夜の咳が犬の毛のせいではないように掃除機をかけたところ、なんと姪の靴下を吸い取ってしまってそれがホース部分に詰まってしまった
これが姉夫婦のけんかの種となる

その後、姉に電話。すると今喫茶店にいると。お父さんは一人で診察を受けているので状況がわからないということだった

忘れない為に(Part3)

2008年03月20日 00時23分31秒 | 父のこと
2月10日朝9時ごろ起きる。そのときお父さんは確か「よろしくお願いします」と寝言で珍しく敬語を使っていた。誰に何を頼んでいるのか不思議だったけど、それ以上に『よかった、眠れたんだな』っと安心したのを覚えている。

台所で雑誌を読んでいると珍しくお父さんが起きてきた。最近はかなり遅くまで寝ているのに珍しいなぁっと思っていたら、いつもの場所に座るとなぜか息が上がっている。まるで走ったよう。
大丈夫?っと聞く前に「横になっているとだるいんだわ、逆に座っていると楽になる」っと言ってしばらく座っていると不思議に上がっていた息が収まった

病院にいかないと!!っと言ったが、今日は祝日で医者がいないから行ってもしょうがない。と。
その時まで私は雑誌を読みながら話をしていたけど、なぜか読むのをやめないと、お父さんがしゃべっているんだからっと本当に思った

お父さんは右に癌があるのに今日は何もない左側が痛いと。今思えば心臓だったのかも知れない。何度も病院にいくように説得する。夜の状態は普通じゃなかったよっと。でも頑として行かないという。押し問答の間私に毎朝最初に飲むお茶を頼んだ。私は普通に入れたが、これが最期のお茶になってしまった

息遣いも落ち着いて新聞がないことに気づき、私がとりに行こうとすると、俺がいくからっと立ち上がってとりに行った。ほんの数メートル。帰ってきたらすごく息が上がっていた。まるで走ってきたよう
さすがに「これはおかしいから病院にいく、お前は犬の散歩に行っていないだろ?」っと。私はあせって、前日の雪で近くの駐車場に車をとめてあるからそれを取りに行きがてら散歩に行くから。っといってすぐに母を起こし、散歩に出かけた

前日の大雪はすっかり解けていた。車に乗り、ガソリンがないため国道23号線の状態を見る目的も含め、ガソリンを急いで入れに行く。これがよかったのか悪かったのか、結局無駄足となった


たった一人が欠けただけでも

2008年03月17日 23時56分42秒 | 日常
家族にはゆがみがでてしまうのだな・・
香典返しで姉妹けんかをしてしまった。姉はすべてなんでも自分で仕切って決めてしまう。葬儀のときからそうだった。私に意見を求めながらも結局は自分で決めてしまう。だったら聞くなよっと。先週の土曜日もそうだった。
父、母は私がいつでも家にこれるように姉には近くに家を買わせた。父は遠慮して
私が家事をすると決まって「自分の家に帰ってきているのに何を遠慮しているんだ!」っと怒ったっけ。そのときは逆にいやだった。義兄になんとなく遠慮しなくてはいけない気持ちになって・・・
しかし姉妹けんかをすると私はいつも「じゃあもう帰る!!」っと言ってしまう。それは普通に子供が駄々をこねてもう帰る!!って言っているつもりだったのだが、今回は違った。
母は姉妹けんかを見るのがつらいのだろうっと思っていたのだが違い、私が「もう帰る!!」って言ってしまうともうこの家に帰ってこれないと言うのだ。さっぱり
わからない。日ごろ姉妹平等っといいながら姉には何も言わない。私は父ががんだとわかったとき、私だけ最後の報告だった。それが悔しく、そしてお父さんとのくいのない日々を過ごすために毎週末帰ってきていた。
両親は姉妹平等っといいながら姉ばかり頼り、私には頼ってくれなかった。とても
つらかったけど、長女にはかなわないっと我慢してきた。
が、今回、姉が吹っかけたけんかに私が日ごろの姉の態度を怒ったら、母はまるで私に「遠慮しろ」っというような態度だった。私にはいつでも帰ってきてほしいし、帰りたいときに帰ってこればいいんだよ。と母。姉はお母さんが死んでも気軽に着てほしいからっと涙をこぼす。甥姪もそれを楽しみにしているんだよっと。子供のいない私は最後は一人なんだからっと。
馬鹿にしているんか!!!!!私の考えが間違っているのかも知れないけど、そんなことはわかっている別に頼る気持ちもない。ただ、お父さんとの短い時間を過ごしたかった。弱っている母を助けたかった、少しでも頼ってほしかった。今すんでいる場所になじめないことはわかっているけど、二人して自分を正当化してなに?
と思った。葬儀で事実上の跡取りは姉だってこと、近所の人の態度でわかっていたよ。母がなんと言おうとね。私のこと、一人くらいしか知らなかった。ずっと暮らしてきた町なのに、義兄のほうが有名だった。

現実を突きつけられた。自分でも考えなくてはって思っていた矢先だった。

そんな私をお父さんはわかってくれていたのだろう。決して「いつでもかえってこればいいんだから・・・こうしろ」とは言わなかった。逆に堂々としろと。

お父さんの死をもって、自分のおかれている立場がとてもよくわかった

忘れない為に(Part2)

2008年03月13日 23時49分28秒 | 父のこと
2月9日の夜、いつものように父と母が寝ている四畳半の部屋へ各自のお酒を持ち込む。その隣の部屋で私と甥が寝るための布団をひいた。
いつもは自分の飲むお酒と甘いもの(ケーキとか饅頭とかハンバーガーとか)を
持ち込んで食べている父が今日は何も食べていないし飲んでいない。
今回の抗がん剤を打って退院してから2週間目になるが、私は初めて会ったのだ

1月のはじめ、もう打つ抗がん剤がないっといわれたのが12月、担当医が変わり中○病院の呼吸器科の先生が担当となった。そしてタキソテールという非小細胞肺がんの人が打つ抗がん剤を打つことになったのです。そして退院して2週間後に私は父と会ったのです。その間、めまいがするとか戻したりとか今までではありえない症状が出ていました

母に「お父さん、お酒持ってきてないけどどうしたの?」っときくと、最近そうなのだそうだ。タバコをやめた代わりにお酒だけは好きなだけ飲みたいっといって病院まで持ち込んでいた父がお酒を飲んでいないって言うのはよほど副作用がつよい
のだな・・・そんな程度でした

ここから最初の試練が始まります

夜中、2時過ぎだともいます、父はトイレに何度も起きました。トイレに何度も起きるって言うことは実は前にもありました。しかし今回はトイレから戻ってきてもすぐに横になれず、座り込んでかなり咳き込んでいました。母が「大丈夫?」っと聞くとだるいと。母は「今度病院に行ったときトイレの回数が減る薬をもらわないといけないね」ってこんな会話をしていました。私も今思えば起きて背中をさすってあげればよかったのに・・・逆にトイレに行く途中、甥と私に布団をかけてくれたお父さん。今でも甥に咳が出てだるくて寝付けないのに布団をかけていた父の姿が焼きついています。


忘れない為に(part1)

2008年03月12日 22時59分57秒 | 父のこと
忘れない為にリアルな最期のときを綴りたいと思います

2月9日、名古屋はすごい雪でした。午前中はよい天気でしたが、午後から急に雪が
振り出してそのままつもっていきました
私は連休のため午前中に来るまで到着、その後スポーツクラブに行きました
エアロビとティラピスを終え、先々週(先週は帰えらなかった)から痛い右足の
付け根が限界になり、クラブ内の接骨院に行った。
帰るときにはかなりの雪が積もっていた。ゆっくり走ったけど、実家近くの坂道で
さすがにスリップ。家に電話して実家所有の駐車場に止めたいと電話を入れると
おいが出た。お父さんは??っときくとトイレだって。車を止めたいというと
おいがわざわざトイレまでお父さんに聞きに行ってくれた。いいよ。と許可が下りて歩いて5分ほどの場所に車を置いて歩いて帰った
帰るとお父さんは普通にしていた。お母さんが心配だって。母はパチンコが好きで
よく行く。今日は雪が降るからいくなっていったのに!!って怒っていた。後から
聞くと、この日はお父さんが母に「広告が出ているから行って来い!!」って逆に
促していたそうだ。
夕方、義兄にむかえに行ってもらい母帰宅。その後のことは覚えていません
ただ、夕方夕飯が出来る前、父はだるいっといって横になった4畳半の部屋にその
日は不思議と義兄を除いた父の直系母、姉、私、姪、甥、私の犬紋次郎が父が
寝ているそばで銘々をすごしていた。父が目覚めて驚いたほどだった
このときはなんとも思わなかった

みんなが狭い場所にいたのでちょっと怒ったお父さん。その後夕飯へ
お母さんのタバコがお父さんのほうへ行き、いつものように怒る。お母さんは
平気のようす。いつもの夕飯、でも雪のおかげで家族全員がそろった久しぶりの
夕飯だった

はじめに

2008年03月12日 15時51分12秒 | 父のこと
2008年2月14日、最愛の父が旅立ちました。69歳でした
2005年2月ごろから咳が続き、家族の説得の元、病院にいくと大きい病院を
紹介されました。
3月、検査入院。4月に小細胞肺がんと診断されました。
家族全員ショックでしたが、日々を大切にし、3年、癌と闘ってきました。
小細胞肺がんは進行が早い癌で有名でしたが、父は最期まで転移はなく、最期の
担当医もとても驚いていました。

最期は心肺停止、脳死状態になり、旅立っていきました。その闘病生活を忘れない
ために綴っていきたいと思います。