最近感じていたこの世の大きなうねりというか、理みたいなもの・・・なんて表現すればいいのか、書きあぐねていたけど、それを上手く表現してる人がいた。
般若心経の一節である「遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう)」。
これは人間が思うこ幸・不幸や損得は、神仏から見たら逆さになっているように見えると言う意味なんだって!
だからおいらが悲しんだり苦しんだりしているとき、神からはおいらは至極の喜びを感じてるように見えてるかも知れないという事。
そして何か意気込んでやろうとしている人ほど、どうも宇宙が味方をしないようで、反対に 執着がない人ほど宇宙が味方をしたくなるよう・・・。
不条理に思えるけど自身に起こったことを鑑みるとどうやら当たっているように見える。
ある意味、今のおいらは捨て身だし、捨て鉢なわけだ。
何とかしなければいけないとか考えなくなって、楽しい人生なら楽して生きてもいいような気持ちさえしてる。
何となくおいらは生真面目だから、そういのは世捨て人みたいで少し戸惑ったり気に食わなかったりしてるけど、ずいぶんと楽になった笑。
まあ人を呪うなんて正しくはないけど、神仏(宇宙の心理的な何か)から見ると人を呪う行為と云うか、ためらいもなくまっすぐな気持ちで放たれた邪念は正しい力の在り方に見えるのかも知れない。
代わりにおいらみたいな呪われたものは逡巡したり傷ついたり死にかけるから楽しそうに見えたのかも。
世界って二重構造で、水晶を覗くみたいに反転した世界が写り込んでるだけなのかも知れないね。
何にも執着せず、日々感謝すること。
あとは何も求めないことかな。
遠離一切顛倒夢想。
お釈迦様は偉いな。
見つけて欲しいとか、探して欲しいとか、信じるから救われたいとか、期待し過ぎだとか、そういうのはダメなんだよね。
結局はツンデレみたいな人が神仏や宇宙の心理に愛されるのかも知れない。
事実そうなら、おいらは無理か。あまりにも過去に囚われてて、過去の自分を殺し続けてる。
そんな過去から見た、未来の姿である今のおいらなんて、出来のよい恵まれた人間であるはずがない。昔の自分がずっと否定して、懲らしめようと、殺そうとした憐れな自分しかいないんだもん。
まあ少しくらい未来が明るいから、今は未来の自分が微笑んでる気がするから生きる気になったんだけどね。
今の自分がこんなだから、過去に影響していたのかも知れない。
タイムトラベルは出来ないけど、昔の自分には「これはヘンだな。望んじゃいない」ってこと気づいて欲しい。そういう風に優しく呼びかけてみよう。
そしたら明日のおいらは何か変わってるかも知れない。
過去の自分に、今の自分の正直な気持ちや過ちを伝えられたら、今度はもう失敗を恐れないで何でもできるのかも知れない。望む幸福だって簡単に手に入れることが出来るかもしれない。
幸福になることを拒みながら幸福にはなれないよね。
逆さまならしょうがなかったのか・・・。
悪に染まっていた頃の方が生き易かったのはそういうせいだったんだ。あの頃のおいらは迷うことなく他人を傷つけて弄んで楽しんでいた。だから真理は味方してくれたんだと思う。
だけど人として昔の自分を否定しはじめた頃から・・・坂道を転がるように人生が悪くなった。
悪い方へ自分から転がったとも言えなるのか。
般若心経暗記していたのに、灯台下暗しだった笑。
でもま、もう悪事は働けないんで、まあ執着しないことにしよう。
たぶんおいらが視ているものと真逆にそれがあること・・・それが真理だってこと、ようやくわかったかなぁ。
次の面接も落ちるんだろうなぁ・・・。たぶんその日他の楽しみにしていることがあって惰性で面接だもん。こんなしょうもないヒキコのおっさんだから何社も採用不可を受けるのが当たり前だと望んでしまったから、そういう目に合うわなぁ。自分の有様な呪われて汚れた自分じゃもうダメなんじゃないかと卑屈になってるだけだった。
もう視て欲しいと思わない。
裏の裏を掻くのは得意じゃないから、このまま一生報われないのかも知れないけど・・・。
人の本当の恐怖がそこにあって、たぶん宗教的概念や教わった道徳、性善説、性悪説にも関わりもなく、善人悪人の差がなく、人は死ねば同じ所へ運ばれる。
だとしたら信心なんて意味ないよね。そこには気づきがあったんだけど。この世で悪いことしようが善行を尽くそうが、行き着く先は同じなんだ。報われない人、苦しめられた人にこそ必要だったのが「地獄」という概念であって、そういう人は「天国」なんて望んでいなかったりする。自分の悔しさや憂さを晴らすためにこそ、憎しみ恨みこそ人間の性根であって、じゃないとこの世を生きるのが苦痛だったからの「地獄」なんだ・・・。
それを知ったから神仏なんて必要がなくなった。まあおいらを救うのは神でも仏でもないことに気づいてしまったから、特に信仰は必要なくなった・・・。だから祝詞集を燃やすことになったんだ。
でもさ、魔よけは必要だから、一般的な凡庸で評判のいいポピュラーな祝詞集をAmazonで買いました。それはおいらを守るためではなく、姉を守るためですけど。姉には理解できない境地ですからね。
おんりいっさいてんどうむそう・・・・。
今度行き詰まったら、まじないみたいに唱えてみよう。
逆さに見えるから、金持ってるいっけん幸せそうな人が実はすごく不幸せになっているんだろう。
神と云うか、宇宙の真理ってただの気まぐれなんだよね・・・。もうそういうのに逆に付き合う必要もないんだよね。おいらも昔から逆さまだもん。あべこべと云うか、全部が人の裏返しだからなぁ・・・。
もう人のために尽くそうとは思えない。幸福は自分だけで存分に味あってやる笑。
楽しんでやる。
そしてちゃんと死ぬ。
だから悪人を責めない自分になろう。正義なんて捨ててしまおう。
昔みたいに、子どもみたいに手を伸ばそう・・・。
神の逆さが、おいらの幸せなら、おいらは絶対に幸せになれるはずだ。
それだけ信じていこう。
ちなみに今は戦闘機飛んでません笑。
どうなったんだろう。
でも明日起きて、日本のどこかにミサイルが着弾したってニュースだけは訊きたくないよね。
般若心経の一節である「遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう)」。
これは人間が思うこ幸・不幸や損得は、神仏から見たら逆さになっているように見えると言う意味なんだって!
だからおいらが悲しんだり苦しんだりしているとき、神からはおいらは至極の喜びを感じてるように見えてるかも知れないという事。
そして何か意気込んでやろうとしている人ほど、どうも宇宙が味方をしないようで、反対に 執着がない人ほど宇宙が味方をしたくなるよう・・・。
不条理に思えるけど自身に起こったことを鑑みるとどうやら当たっているように見える。
ある意味、今のおいらは捨て身だし、捨て鉢なわけだ。
何とかしなければいけないとか考えなくなって、楽しい人生なら楽して生きてもいいような気持ちさえしてる。
何となくおいらは生真面目だから、そういのは世捨て人みたいで少し戸惑ったり気に食わなかったりしてるけど、ずいぶんと楽になった笑。
まあ人を呪うなんて正しくはないけど、神仏(宇宙の心理的な何か)から見ると人を呪う行為と云うか、ためらいもなくまっすぐな気持ちで放たれた邪念は正しい力の在り方に見えるのかも知れない。
代わりにおいらみたいな呪われたものは逡巡したり傷ついたり死にかけるから楽しそうに見えたのかも。
世界って二重構造で、水晶を覗くみたいに反転した世界が写り込んでるだけなのかも知れないね。
何にも執着せず、日々感謝すること。
あとは何も求めないことかな。
遠離一切顛倒夢想。
お釈迦様は偉いな。
見つけて欲しいとか、探して欲しいとか、信じるから救われたいとか、期待し過ぎだとか、そういうのはダメなんだよね。
結局はツンデレみたいな人が神仏や宇宙の心理に愛されるのかも知れない。
事実そうなら、おいらは無理か。あまりにも過去に囚われてて、過去の自分を殺し続けてる。
そんな過去から見た、未来の姿である今のおいらなんて、出来のよい恵まれた人間であるはずがない。昔の自分がずっと否定して、懲らしめようと、殺そうとした憐れな自分しかいないんだもん。
まあ少しくらい未来が明るいから、今は未来の自分が微笑んでる気がするから生きる気になったんだけどね。
今の自分がこんなだから、過去に影響していたのかも知れない。
タイムトラベルは出来ないけど、昔の自分には「これはヘンだな。望んじゃいない」ってこと気づいて欲しい。そういう風に優しく呼びかけてみよう。
そしたら明日のおいらは何か変わってるかも知れない。
過去の自分に、今の自分の正直な気持ちや過ちを伝えられたら、今度はもう失敗を恐れないで何でもできるのかも知れない。望む幸福だって簡単に手に入れることが出来るかもしれない。
幸福になることを拒みながら幸福にはなれないよね。
逆さまならしょうがなかったのか・・・。
悪に染まっていた頃の方が生き易かったのはそういうせいだったんだ。あの頃のおいらは迷うことなく他人を傷つけて弄んで楽しんでいた。だから真理は味方してくれたんだと思う。
だけど人として昔の自分を否定しはじめた頃から・・・坂道を転がるように人生が悪くなった。
悪い方へ自分から転がったとも言えなるのか。
般若心経暗記していたのに、灯台下暗しだった笑。
でもま、もう悪事は働けないんで、まあ執着しないことにしよう。
たぶんおいらが視ているものと真逆にそれがあること・・・それが真理だってこと、ようやくわかったかなぁ。
次の面接も落ちるんだろうなぁ・・・。たぶんその日他の楽しみにしていることがあって惰性で面接だもん。こんなしょうもないヒキコのおっさんだから何社も採用不可を受けるのが当たり前だと望んでしまったから、そういう目に合うわなぁ。自分の有様な呪われて汚れた自分じゃもうダメなんじゃないかと卑屈になってるだけだった。
もう視て欲しいと思わない。
裏の裏を掻くのは得意じゃないから、このまま一生報われないのかも知れないけど・・・。
人の本当の恐怖がそこにあって、たぶん宗教的概念や教わった道徳、性善説、性悪説にも関わりもなく、善人悪人の差がなく、人は死ねば同じ所へ運ばれる。
だとしたら信心なんて意味ないよね。そこには気づきがあったんだけど。この世で悪いことしようが善行を尽くそうが、行き着く先は同じなんだ。報われない人、苦しめられた人にこそ必要だったのが「地獄」という概念であって、そういう人は「天国」なんて望んでいなかったりする。自分の悔しさや憂さを晴らすためにこそ、憎しみ恨みこそ人間の性根であって、じゃないとこの世を生きるのが苦痛だったからの「地獄」なんだ・・・。
それを知ったから神仏なんて必要がなくなった。まあおいらを救うのは神でも仏でもないことに気づいてしまったから、特に信仰は必要なくなった・・・。だから祝詞集を燃やすことになったんだ。
でもさ、魔よけは必要だから、一般的な凡庸で評判のいいポピュラーな祝詞集をAmazonで買いました。それはおいらを守るためではなく、姉を守るためですけど。姉には理解できない境地ですからね。
おんりいっさいてんどうむそう・・・・。
今度行き詰まったら、まじないみたいに唱えてみよう。
逆さに見えるから、金持ってるいっけん幸せそうな人が実はすごく不幸せになっているんだろう。
神と云うか、宇宙の真理ってただの気まぐれなんだよね・・・。もうそういうのに逆に付き合う必要もないんだよね。おいらも昔から逆さまだもん。あべこべと云うか、全部が人の裏返しだからなぁ・・・。
もう人のために尽くそうとは思えない。幸福は自分だけで存分に味あってやる笑。
楽しんでやる。
そしてちゃんと死ぬ。
だから悪人を責めない自分になろう。正義なんて捨ててしまおう。
昔みたいに、子どもみたいに手を伸ばそう・・・。
神の逆さが、おいらの幸せなら、おいらは絶対に幸せになれるはずだ。
それだけ信じていこう。
ちなみに今は戦闘機飛んでません笑。
どうなったんだろう。
でも明日起きて、日本のどこかにミサイルが着弾したってニュースだけは訊きたくないよね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます