空に問う。

空に問うても果てがない

連想ゲーム

2017-08-12 10:42:27 | 日記
「一億」と訊くとまず「一億玉砕」を思い出す。「革命」と訊くと「明治維新」をつい浮かべてしまう。

革命とは左翼的な思想なのだと云うが、極右を気取るファシズム総理がまた「革命」などという政治に用いることは極力さけた方が良い言葉を使う。

終戦記念日も近いから、今日は静岡の写真家の番組をやってる。そこでも「玉砕」という言葉が使われてる。たくさんの人の死をまとめた言葉や、当時の国民に課せられた使命こそ「玉砕」なのである。

安倍さんが嫌いなのはところどころに誰かに合図を送るような戦前回帰ともとれる言葉を多様するところ。そしてそれを格好いいと思っているところだ。

考えると”忖度”も戦後の日本で多用された言葉である。本当に陰湿で不気味な総理だと思う。

文民統制の代表は防衛大臣であるが、最高指揮官や責任は総理大臣が負うことになっている。しかしこの人は一切の責任を負う気はない。潔い人柄ではないからだ。恋々と地位にしがみつくと女房役は言ったけど、まさに恋々と権力に固執してる。

おそらく普通の人は一億と訊けば一億円とか、革命と言えばフランス革命とかを連想するんだろうね。

戦争とはお国のために他国のものを殺すことだ。自らがお国のために戦死することではない。極右はそこに武士道や美化したがるけど、そんなものが美しく映る目などおいらは持っていない。

240万人が240万人を殺したとする。唯一、人殺しをしても罪に問われないのが戦争であるが、昭和になると戦争にも国際的なルールが持ちいられた。でも日本は国際連盟を脱退し、ルールを無視した。それが良いとか悪いとか一概には言えないけど・・・とりあえず「一億玉砕」の名のもとにそこを目指してひた走った。

それのどこに美学があると云うんだろうか。竹やりでB29を駆逐できるはずもないのに、その真実を告げると非国民と呼ばれ蔑まれた。そんな時代のどこに美しさを感じるんだろう。おいらには理解が出来ない。

戦後レジュームからの脱却を訴える奴らがいちばん戦後レジュームに囚われている気がするんだ。

一度神としたモノは取り消せないと云うが、神とは人が忘れると消えるものだと思う。氏子がいなくなり廃村となり忘れられた神は無数にいるし、氏子がいても廃神社になることも珍しくない。人は神を必要としながらも神をないがしろにして生きている。

神道に教義や救いがない以上、宗教としてはなくなる可能性は高い。宗教儀礼の部分が多く、祝詞を唱えても祈願をしても死後の救済は約束されていない。それが神道だった。人はただ恐れ敬うだけ。祟るな触るなと祈るだけ・・・。それが神仏習合して仏の霊験が付加されてしまい、願いを叶える存在になったけど・・・。いまの神社神道は原始の頃の信仰体系に似ているのかも知れないけど、人は神社に行き願いを伝えてしまう。

神を怖がらないのであるから、もれなく祟られる。

あんなに身近に感じていたモノが、今ではおいらにとってとても怖い存在になっている。知らないことは知らなくてもいいと思う。知ってしまうともう知らない頃には戻れない。

戦って死ぬことを祈願する場所こそかつての神社神道である。国家神道と言えば国教に思われるかも知れないが、それは社会的な規範であって、神道を宗教ととらえるようなことはなかったらしい。言い換えると黄泉への入り口なのかなぁ・・・。別にそういう風にその時の政府が神道を政治利用したわけで、別に神道自体が罰せられることではないが、今もってしてもその結びつきを乖離するには至っていない。

神も仏もないと云うが、神と仏の役割は違う。仏には死後の救済があるが、神には現世の救済すらないことになる。

それまで上手く行っていたことが突然何をやってもダメになることがあるが、実は騙し騙しやっているだけでとうに上手く行っていないことは多々ある。

家の中がごたつき、会社の中がごたつき八方ふさがりになった時においらは真剣に神の力を借りそうと祈念した。たぶん今まで以上に異常なほどに。まあ家もダメだし会社もダメとなるとどこにも救いはなないけど、どうしてかその頃は自分の信心が足りぬせいだとか、まだ祈りが足りないとか、自分の不足を責めたてて自分ばかりを責めた。

まあたぶんおいらを呪ってる者が神社を継ぐ神主であって、相当にもう手の打ちようがないほど会社や社員や環境が呪われている現状に気が付いていたが、おいらには何も手立てがなかった。

おいらはこれ以上深く関わると「死ぬ」と言われた。だから縁を切り逃げろと忠告された。社会的な責任が多少あるのに、その責任を投げ出して逃げることが出来なかった。どんどん状況が悪化し、取り返しのつかない状態に陥る頃には精魂も尽き果てていた。神道というか、なんだろう?人を呪う人間の怖さを知ってしまった。そしてその恐怖に飲み込まれてしまった。

その神主の祀る神社は戦後たくさんの人死にがあったそうだ。帰還兵の自死だ。生きて日本に戻ることを多くの兵士が恥じた。亡くなった戦友に申し訳ないと命を絶った。今でいうならPTSDなのだが、当時の世界で心を救う技術や薬は開発されていない。

忌み嫌う「死の概念」は寺に付随しているようで、実際は神道に属する考え方である。仏教=魂や幽霊を想像しがちだが、多くの仏教は人間の霊性を否定している。密教である真言宗のみ長い年月の間に分離せずにいるが、真言宗は人間の霊性を認めているが、それは死後に極楽に行くという概念とも違うんだよね。魂や魂魄は認めているが、霊性は認めていない。

魂も霊も同じではないかと言われそうだが、上手く説明できないがこれは別ものである。魂は死ぬと生まれ変わるが、霊性は死ぬことがない。仏に寿命があっても神は普遍で死ぬことは定義されていない。

日本で唯一、霊性を認める宗教観があるのは神道であり、普遍で消滅することがないから、死後の救済もないわけである。戒名があるが、死後の人間の魂は己がどこの誰であるのか分からなくなる。だから死後に名前を与えるのである。それが戒名だ。祖父ちゃん祖母ちゃんと嘆いたところで、理屈的には戒名で呼ばない限り、故人に思いは届かない。

まあそういう決まりになっている。けど自身が何者か覚えていない霊の方が多いか。兵隊さんの霊の話をよく訊くけど、兵隊さんは神となり霊性を持ち普遍であるからこそ、死して直軍服を羽織り、行進をするのだと思う。霊性は人が忘れると消えることがあるが、なくなってしまうわけではないんだな。

まあキリスト教も殺生を禁じているが唯一免罪符があれば死後に天国に行ける約束がされている。果たしてそれで天国に行けるかどうかわからないけど、生きてる間は救済される。死後の救済を約束した思想を人は宗教と呼ぶ。

まあ人は死後異なる世界へ赴くわけだけど、神道では死を忌み嫌う。死なない神は寿命を持つ存在の死を嫌う。死という概念を取っ払うと人は死んでいないことになる。仏教が伝来するまで人は肉体を捨てるが、意志のようなモノは存在し続けると考えられていた。だから遺骸は依り代であって、神体であった。腐りはてたとしても、それは形を変えて存在すると思われていた。

日本に死生観を与えたのが仏教である。それがほんじ垂迹という考えに沿って神仏が習合してしまったので、魂と霊性がごちゃ混ぜになった。戦国武将が寺で勝利祈願をするが、もちろん仏性は殺生を禁じているから、属性である神に祈念したんだな。だから戦で死んだ武士が落ち武者の形態をして現れるのは、必勝祈願により霊性を与えられてしまったからではないんだろうか。死後も現世を纏い続けてしまう。

霊性を持つもののみ幽霊となり、魂魄であるものは人の形を形成しないと考えるべきなのかもね。まあ日本の場合は一神教に見られるような免罪符や聖戦で殉死という概念は存在しないが、神仏習合の仏性が免罪符の役割を負っていたんだと思う。

神道にある不滅しない霊性ばかりがいるとなると日本は死者が支配する国をなってしまう。転生は起こらず股」それぞれの生命を終えた者が形を変え存在し続けることになる。

天皇を中心とした新しい社会を築くためにそういう施行をしたのかは不明だけど、明治新政府は神仏分離令の下に神から仏性を悉く分離しようと試みたが、同じく八百万の神々も神話の神から分離させようとした。日本全国に同じ神が複数存在するのは、記紀神話の神と天皇の臣下であった神しか「神」とは認めなかったからである。だからご神体を捨て今までと違う神を祀ることを国民は強要された。だから神社神道はかつて寺にあった神宮で祀られた神や、そのご神体でないものをお祀りしてる場合が多い。例祭という慣習は残されても、捧げる神は違うのである。

たぶん進んで調べないと、神仏分離令がどういう法令であったのか分からない。おいらもずっと神仏習合されたものから仏教要素や仏像を取り除き排斥したイメージしかなかったのだが、西洋に習い、一神教を真似た統治スタイルを基盤に据えようとしたらしい。大戦中に日本兵の「玉砕」を他国の兵隊を恐れたらしいが、その性質が自分たちの信じる宗教の"殉死的"な思想信条に基づくものだと理解出来なかったらしい。まあ天照大御神を一神に据えた形態にするべきであったが、天孫の子孫である天皇家の裏付けが古事記や日本書記による神話性に担保されていたから、一神にすることが出来なかったんだと思う。

それゆえに歪んでしまった日本の霊性。

人は千年も同じ神を信じんしてきたことを神社で思うだろう。しかし150年前に日本では宗教改革が起こり、それ以前とそれ以降異なる元としてしまった。お寺には仏も神さまもいて、神社にも仏さまも神さまもいた。たぶん現世の守護的な考え方も仏性が齎したものなのだろう。

考えるとね。願いを叶えるはずのない存在に人は願をかけていることになる。だから願いなど叶うはずがないのが正しいのである。現世での守護も死後の救済もそれはすべて仏法が齎したことであるからだ。神に奇跡や霊験の所業を期待する方が間違っている。

日本の代表的な呪詛の儀式である「丑の刻参り」が有名のは寺ではなく、神社でしょう。人間に霊性があるから藁人形を使い、その霊性に呪いをかけることが出来るんだよね。あれは儀式であり祈願であるが、法要や祈祷ではない。

まあ長々書くとまた禍いが来そうだから端折るけど、おいらたちが英霊と呼ぶ存在は元々「忠魂」「忠霊」と呼ばれていた。英霊とは才能に秀でた人にも使われるが、他者のために命を投げうって他者の命を救い亡くなった人に対する敬称である。

まあ神道を社会基盤にし、天皇を中心とした軍事国家をひた走る中で、ふと神道に天国に該当する救済がないことに思い至ったのかと。高天の原は神の住まいで、幽世と言えど人は死者となれば地上と地続きの黄泉へ下る。そこでは人は腐り果てる。

死んでも何にも救済されないのであれば人は天皇や国のためだろうが戦わない。最終的には家族と云う捕虜を取られて半ば死に抜くことが義務化されてしまうけど、神のために死ぬ国でなければ軍事国家として侵略は出来なかったはずだ。だから植民地に日本軍は神社を作り続けたんだし。

神が見張っていたんだよね。常に悉く。

靖国とは神道による極楽浄土や天国のような場所である。そこに行くためには天皇のために国のために死ぬことでしか約束されない場所である。

英霊は神とはならない霊性だと思っていたけど、靖国神社のご祀神が「英霊」である以上は240万柱の神が日露戦争以降誕生したことになる。明治維新から数十年は280柱に満たない神しか日本には存在し得なかったのに・・・。

一神教の殉死が果ては玉砕となった。最悪な結果である。「八紘一宇」という現代日本人は神道の神髄と思ってるような熟語があるが、これは記紀神話に残る神武天皇の詔を日蓮宗の方がアレンジした仏教的な解釈なのだが、今では神道のそれとなっている。

きっとそういう経緯も知らずに国会議員になって保守に感化された政治家がいる。三〇さんなんかがいい例だと思う。こういう人はザラッとした表面をなぞり、それが保守だとカン違いしてる。そこには鬩ぎ合う宗教のカオスしか存在していないんだけど。ああいう人をみると無知さが痛々しいし、お国ために戦った英霊を神とも思わずに尊い存在だと思うんだろう。

そういうジレンマと矛盾を抱えながら戦後まで国家神道は歪んだまま形成され、連合軍に危険思想とされた国家神道はGHQにより解体され、宗教の一つとして神社神道として残った。だから神社神道は72年の歴史しか持たないのだ。それを国民は理解していない。日本は近代史を学校では教えないから、だからこそ自虐史観しか持たない人間が増えたんだ。

自分で考えない(政治的な部分)ことがヨシとされる平和な時代が続いたのだ。

負けた悔しさは分かる。占領とは惨めなことだっただろう。しかし多くの国民は戦争に負けたことで自由と人権を手に入れた。

それは支配層からみれば屈辱的なことだったろう。思いのままに操れた便利な国民がいなくなるのだから。戦後いちばんに苦虫を噛んだのは権力者層の人間だろう。自分たちの意に沿わない人権を持った人間が誕生したのだから・・・。

まあその屈辱と受けたと思うバカどものが、今も保守や右派を操ってる幻想なんだけど、日本人の歴史に見ると下克上も美化されているし、根本的が好戦的だし、不戦の憲法を持っている方が安全なんだと思うけどね。自国防衛とためと言いながら交戦できる状態に戻したら、またもや日本は同じ過ちを犯すと思う。

世の中が完璧に右傾化すれば、今も日本に散らばる極右団体の人間も権力者になれるかも知れないが結局はさ、てっぺんを取ることはないんだとわかっているのかなぁ。

例えば北方領土の返還の最大の問題が在日米軍の存在であることや、竹島の占有権にしても在韓在日米軍が微妙に絡んでいるからこそ解決にしたらないのだし、自国防衛が正しいとは思うんだけど憲法を変えたくらいで戦前の自治権は取り戻せない気がするなぁ。

今はすごく分かり易い北朝鮮と云う驚異の敵国が隣国にあるけど、元々は中露に対する抑止力と日本の戦意を監視するために在日米軍が置かれてるんだし。アメリカの保守は日本にも戦争参加を呼び掛けているけど、日本が正式に軍隊を持つことは心の底では反対なのだと思う。在日米軍は中露北に対する抑止ではなくて、日本を抑止してるんだと理解してるけど・・・。

現実にいま、北の脅威が取り除かれたから、東アジアには表立った争い事はなくなってしまう。そしたら在日米軍が撤退する理由になり、自国防衛を推奨してもいいけれど、米軍が日韓を去ることはないんじゃないのかなぁ???

総理ちゃんは日本の核武装とか集会じゃ云ってるけど、それでもアメリカの監視下に置いて核を保有してる状態にしかならないんじゃないのかと。事実上、日本を実効支配してるのはアメリカだからね。鈴はつけておくんじゃないのかと。飼い猫の居場所を把握してないと安心はできないから。

まずは自国防衛と同様にアメリカ軍の退去を考えないと、こんなムラがある思想信条で改憲論など歌われても困る。元自民党の法務大臣は極右団体の集まりで、平和主義、国民主権、基本的人権を国民から取り上げるべきだと叫んでる。YouTubeでその映像は観れるから探すといい。

昔の自民党はリベラルと保守のタカ派とハト派がうまく共存していたけど、今は保守を飛び越えて極右にまっしぐらな政治家の集団になっている。それでも国民の多くは自民党の多様性が持つ公平さを信じているようだが、自分の頭で考えない国民ばかりなので、まだ篤く支持してる人がいる。ああいう人は今の政権や内閣や官邸の失態と権力の私物化を見て、ある程度の権力の行使や不公平な特区制度などを政治家に与えられた特権だと思ったんだろうね。おいらは不正がある政治家を監視する目を国民が持つのは当然だと思う。

年金減らすんだよ。死んだ人から死亡消費税を取るとか話あってんだよ。国民の財産を根こそぎ奪おうとしながら、国民にも痛みを分かちて欲しいと訴えるんだよ。そういう連中が不戦の誓いを守り恒久的に損戦争しないと思う。今の日本は列記とした武器輸出国だよ。

核軍縮を求めたって一方では核には及ばないが殺傷力の高い武器兵器は日夜作られ続けてる。それは何故かと言えば戦争が国家にとって一番儲かるビジネスだからである。知らずに作るネジ一本が戦争の道具に使われることを日本人は考えたりしない。ネジはネジの事だけを考えて、あとは知らん顔をする。確かに科学的な開発に武器の開発は絡んでいて、一概に科学を抜刀したりはしないけど。

それと同じで徴兵制度がない日本では有事になれば自衛隊という国民がまずは出向くから、民間には決して兵役が及ばないと考えているが、かつての戦前の日本もそんな感じだったんだよ。しかし日本は独特な暴走をした。それが負けた原因とは言わないが、敵国民も自国民も不当に扱ったのは事実だし、残虐であったこともある程度は認めないといけないんではないのかなぁ?戦争だから仕方がない。いや、仕方がない部分を超えていたからあんな風な結果になり、最終的に何十万の人間が原子力爆弾の犠牲になった。たぶん認めることが日本人は下手なんだ。受け入れることはしても最終的に咀嚼して飲み込まない。

そう思うと、自国防衛のために憲法改正を主張してる奴らって何がやりたいんだろうと思う。日本国内での日米決戦なのか。この支配層の残党みたいな奴らは日本国憲法が国民に与えた自由や人権を取り上げて、社会主義的な資本社会を目指してる風にしか見えないんだよね。

だから今の右傾しかした社会と、右傾化した政治家が乱立する状態での憲法改正には反対する。法を厳守しなければならない者らが法の抜け道を作り、はたまた法を捻じ曲げて宰相に都合がいい制度を作り上げて、法的に問題のない合法化というインチキを作りあげる。その構図が見え隠れしても憶することなく「違法ではない」と言い放つ。そして憲法改正を歌うが、その現行法に護られてるという、愚かな宰相が未だに日本のトップにいる。

森友学園や加計学園が問題なのは、その合法性に隠された既遂の違法性にあるんだよ。地方から国へ申請をあげる制度である「経済再生特区」では(言い訳として鳩山政権で重要性をアップしたと嘯くが結果的に民主党政権でも不認可とされたのが事実)不認可され続けたが、申請内容を議長である総理大臣が精査して、国から特定の地方自治を特区に指名する制度の中で、加計学園は獣医学部新設を許されている。これを特区制度を悪用化しを合法化したことと言えなくないのか。

だから今も今治市との面談を拒否しているんだよ。国民はたんに安倍さんが友だちに特権を与えたと思っているが、いろんな自治体に新しい既得権益を作り出しているに過ぎないんだよね。そんで税金のプール。だって今治市が学園都市構想を掲げて15年も費やす結果になったのは獣医学部新設に拘ったからである。100億円も補助するなら加計学園以外に手をあげる法人はあったんじゃないのかなぁ?実際に獣医学部は申請さえも拒否されていたんだから約12年間は無駄な施策に税金を動かしていたことになる。だから加戸さんのいう四国に獣医学部がないために水際で動物の疫病対策ができない旨の趣旨は通じないんだよね。加計学園でもいいけど獣医学部以外の新設を求めていれば、もう大学は出来ていて都市構想も進んでいたんじゃないのかと。

事実上不可能な学部の新設に市が動いていたなど今治市民は寝耳に水だったんではないのかなぁ。出来もしない構想のために時間を割き無駄な予算を立てる。岩盤規制が悪いんだ、既得権益が悪いと騒いでも、この学園都市構造自体が加計学園の思惑のみで動いていたのは事実だし、何故にたかが地方自治体が岩盤規制を打破する既成を持たなければならなかったのか、不思議でならない。

獣医学部、岩盤規制、既得権益・・・・そういう言葉だけを並べられると安倍さんは日本の中にある「敵」と対峙し、正義をもぎ取ったかのように主張するけど、これは考えられたストーリーであるとしか思えない。

何故ならば今治市は経済学部など比較的人数の集まりやすく就職にも有効で新設があまり難しくない学部を選ばずに、どうしてこんなに無駄な時間を費やしたか。それが金になったからじゃないのかと思うけど。だから今治市民はもっと怒るべきだし、国民はそういう視点だけでも一時的に民進党を支持するべきだと思うけど。

不正そのものを曖昧にしているのも国民なんだよね。みながどこかで補助金に頼り、既得権益のお陰で飯を食ってるから、そういう恩恵にあずからせてくれるかもしれない自民党や安倍政権を支持してるんだと思う。ちゃんと考えたら分かりそうなことを考えない国民が多いからこそ、安倍さんは未だにてっぺんにいるんだよ。櫻井よしこ女史が「安倍おろしはマスコミが悪い」というけれど、あんな明晰な人が、特区制度を利用した総理大臣の特権の独占化が理解できないはずはない。パーパスである憲法改正を行ってくれるなら多少は不正があったも目を瞑ろうとする盲目さや正義の道が狭いことが厭なのだ。

目的のためなら手段を選ばないことも、目的のために手段を作りかえて合法化することも同じにしか思えない。そういう矛盾と思想信条しかない連中がひねり出すプランがロクなものではないことも国民は分からないんだ。

政治が劣化したから社会が劣化するのか、政治家が劣化したから国民が劣化したのか。マクロがミクロを内包するのは当たり前だが、ミクロがマクロを内包してるからこんな荒唐無稽な茶番が法の下で恥も外聞もなくさらされてる。

まずは国民が政治に関心を持って、政治を学ぶ。国民が賢くなれば政治が腐敗することはない。

それが真実だろうし、正義ではないのかなぁ。

いまいる右翼団体の支持者は特権が寄与されると思っているが、それは無理だろう。おそらくそういう時代に逆行すればいちばん最初に権力者がパージするのは特権を求める協力者なんだよね。時として協力者は権力者の弱みを握る脅迫者となり、常に厄介な存在になると歴史が証明してる。

そういうこと分かってて、国為に犠牲になるとかいってんならばいいけれど、自己権力の保持や誇示しか考えてなさそうな連中しかいないから、なんともはや地方こそ病んでるとしか言えない。

っていうか、まあここまで憲法改正に前向きな総理大臣もいないけど、ここまで改憲に相応しくない総理大臣も珍しい。ちょっとだけ見てくれは良かったけど、見てくれだけなら他にもいるし、小泉政権下での拉致被害者の奪還はあくまで小泉さんのしたことであって、安倍さんの功績ではないと思うんだけど・・・。なんとなく事実がすり替えられていて、悪い夢なら醒めて欲しいもんだ。

まっ、すごく話が飛んだけど、英霊信仰の歴史は靖国神社の歴史であるから、そんなに長い信仰ではないし、古来からある神道に属した考え方でもない。

天皇や国為のために戦地に赴くだけでは軍事国家にはならない。例えば特権や階級や金銭を与えることも必要になるが、コストダウンを考えたんだろう。戦争へ駆り立てて、戦地に赴き敵国民を倒し、日本に勝利をもたらすために死ぬ気で挑む兵隊を作り出すために「靖国」という戦死したものしか行けないパラダイスを作りあげた。最初はそれこそ戦死した国民の慰霊が目的だったのだろうが、何故か深く軍部が関わってしまったために、慰霊施設が戦争に利用された。

そして次々と新しい神が生まれた。おそらく名もなき神が生まれ続けた。

八百万とは単に”たくさん”という意味で、無限とは千以上の数を言う。だから千切れるのは千からであり、999は有限となる。

天津祝詞の中に「英霊」は登場しない。天津神、国津神(神話の神)と八百万の神(土着神)・・・。八百万の神は記紀神話の神と統合してしまい事実上は不在だけど、英霊は出てこないし、加筆されることはないが、たぶん八百万の神々よりも多く存在すると思う。まあ概念上の話だけど。

そんなに人の神が存在することを国民は知っていたりするんだろうか。英霊神とか英神とか呼んでいたら、たぶん神の多さに気づくけど、おそらく神でなくて英霊だと思い込んでる。

英霊とはないにか?端的に言えば、皇族と日本のために戦死した神々である。

しかしその存在すら日本人の多くは感じたり察することもないし、まず神であることを望んでいない人の方が多いような気がする。

曖昧にし過ぎて本質がどこにあるのか分からない。

戦国武将のころから武将が英雄として神のように祀られるようになる。まあ当時は寺だから正確には仏神だけどね。

今は坂本龍馬神社もあって、坂本龍馬命という神さまの一員になっている。神とは人が願えば生まれるモノなのである。

まあ明治新政府の考えた西洋的な国づくりは薩長の思想だけど、多くは長州藩で考えられてきた思想や考え方である。まず神仏分離とモデルとされたのは島根県西部だし、そのフォーマットを後に全国展開したと言える。まあ伊勢神宮のように何百年の前に神社から仏法要素を取り除いた神社は別にして、人民自らが仏教を排斥し、霊的なバランスを崩した最初の場所は島根県に存在すると云ってもいい。津和野藩でやんまりと行われた仏教排除はその後、幕臣側であった浜田藩で実験実行されている。

おいらたちの先祖はしっかりと一度は仏教を排除して廃仏毀釈のモデルケースとなった。まあ現在の浜田市ではそこまでの排除は行われなかったと思うけど・・・。そういう話はきかないし、家の宗教が神道である家庭はほとんどないからそう思う。

まあ飛鳥時代になんとなく神仏習合が始まり、ゆうに千年以上、そういう霊的なバランスの上に倭国はあった訳である。必ずしも朝廷が中心となっていない時代はあれど、時の為政者は皇族を滅ぼすことなく江戸末期を迎える。

日本の皇族のスゴイところは本質が祟り神であることだと思う。天皇家に反旗を振りかざせばもれなく呪われるという性質があった。まあ神事は天皇家が行う極めて重要な祭祀であったし、怨霊信仰も相まってそういう特別な一族であったことは事実だろう。

数百年年ぶりに復活した錦の御旗の力は絶大であったが、そうした古来からの天皇の経緯をプロガバンダに利用した長州藩の念密さには恐れ入る。

京都の町民や武家は天子様の存在は知っていたが、ほとんどの国民は天子様の存在すらもはや知る由もなかった。武家が実権を握る社会だったからこそ、天皇家は恐れやれたのだと思う。

皇室も王室も同じようなものだけど、元々、王族とは民を食べさせるのが主な仕事だった。でも日本の場合の皇室はそういう点では違うのかも。天皇制のような継続した王位がない中国から律令制だけを取り込んで、まあ国民から富を徴収する支配者として君臨した。別に他国の王のように国民を養ってなどいない。国民が養う制度を作り出したと言うべきだろうね。

実行支配が終わってもその制度や基盤は武家が引きついだ。国民が為政者を養う制度は延々と続けられる。けど江戸時代はとても自由な世の中だったというし、ちゃんと法も機能はしていた。

大政奉還で政は朝廷に戻るわけだが、新政府の名のもとに日本を実効支配したのは長州藩であり、その思想はイギリスのものであるがゆえに王族を中心とした国家の礎が出来た。モデルはイギリスで法律はドイツに習った。

明治維新とはオリジナルの革命ではない。背後には西洋列強の姿が見え隠れしてる。だからおいらは明治維新に幻想は抱いたことがないし、勤王の志士に尊敬する人物もいない。

まあ国民が王室を養う制度が更に強化されたのが明治時代かも知れない。昭和天皇の「人間宣言」は有名だが、別に古来の天皇も、例えば明治天皇も一度も「現人神宣言」をしていないんだ。あくまで軍事主権国家を目指す長州藩は天皇制を政治利用したに過ぎない。今も何一つ天皇の権限で決めらることはない。

安倍さんを快く思わない一因の中に長州藩出身であるという差別的な部分がないとは言わない。けど、安倍さんが総理大臣である現在に、強く反応し支持する体制にあるのは山口県がまったく無縁であるとは言い切れない。戦後の続きと云うよりも、明治維新の続きでしか今の日本はない証拠でもある。

とにかく現代国家の礎は明治時代に作られて、それは長州藩の意向に沿ったものであったと云っても過言ではないだろう。だから大日本帝国主義を安倍さんが持ち得ていても当然といえば当然なのである。だから極右が持ち上げる神輿として安倍さんが相応しいのは単に出自が山口県であるということだけかもしれない。

まあ個人的な解釈だから信憑性はないけど笑。

で、長州藩の中心と言えば今の萩市のことだよね。おそらく政治的にはすごく意味を持つ場所であるし、未だに島根県は萩市の動向が気になる市町村が西部にはある。人間はいちどひれ伏すと癖になるのかも知れない。頭が上がらないんだ。

最近知ったのだが、萩市の松陰神社(世界遺産だよ笑)では新たに明治維新の長州藩の英雄を神に加えたらしい。英霊以降途絶えていた神の新設を始めたわけだ。

その神々は英雄神とも英霊とも違う神なんだろう。しかし神に列せるほどのことなんだろうかと思った。吉田松陰は怨霊信仰の条件も英雄神の条件も満たしているから神として認めてるけど、その他多くの松下村塾門下生を「神」とする、「神」とした理由がおいらにはよくわからない。その背景には英霊信仰が絡んでいるように思えてしまう。

鳥羽伏見の戦いで戦死した長州藩士を慰霊する目的で作られた招魂社と呼ばれる施設があった。その招魂社こそ、靖国神社のモデルである。

カン違いしていたが、天皇家の伝家の宝刀である『錦の御旗』は天皇家に代々受け継がれてきたものだと思っていた。過去にその御旗が持ち出せれたのは一度しかない。

だけど最近テレビで観たけど、幕末に用いられた『錦の御旗』は長州藩で作られたものであって、天皇家が代々受け継いできたものではない。

そして、天皇家の錦の御旗と言われてもその存在や本物を見た武士はひとりもいないのだ。岩倉具視でさえ現物を見ていない。すでに消失していたからである。まさにフェイクを本物と信じたわけだ。当然錦の御旗の持つ重要性は天皇自らが大将となり戦場に赴くことを本来は意味するものなのだが、錦の御旗だけがシンボル化されて、キリスト教施政者が求めたロンギヌスの槍のような聖遺物化していた訳だ。

まあ幕臣側を騙した訳だよね。しかし御旗をこしらえた先祖をもつ人たちは偽物を作り出すことに誇りを感じてる。なんかそういう種明かしはせずに内々で語り継げばいいのにと思った。アホな芸能人は喜んでいたけど、本来は喜ぶべき素性のものではない。御旗を再デザインしたのは岩倉具視だっけ?

まあ軍国主義と国家神道は表裏一体の関係なんだなぁとしみじみと思った。そんな比較的新しい神が座す場所には行きたくないので、どんなに頼まれても萩市に行くことはないと思う。一国一城なのに長州藩には二つも城があった。なんかルール無視なんだよね。その上差別も酷かったというし・・・。

今の萩市民や山口県民を福島県民並みには憎んではいないけど、浜田市も恨みを抱いてもいい感じではある笑。

どうしても歴史の闇の部分に、島根県西部や山口県東部はリンクしてんだよね・・・。きっとそれは全国の霊的バランスに影響するように広がっていく・・・・。

殺人犯を神とするところだったおいらも、門下生を神とする愚かさも同じなんだと思うけど、おいらは別に人神を祀る気は毛頭なかった。母方の先祖が奉じていた森神と呼ばれる祖霊信仰の一つである自然崇拝の神を名付けて祀るつもりだったんだ。霊能者の見立てと同じように元神であったモノが母方の子孫を祟っていることを知っていたからだ。もちろん母方の子孫の中にはおいらも含まれる。

もしそれが人に由来する神であれば再度祀ろうとは思わなかった。人を神にするのは実に簡単なのだ。極めて厳密なルールも条件もない。信じる者が一人でもあれば神は神となり得る。時間や歴史は関係がないのだ。

でも思う。

門下生は神になりたかったんだろうかと。それは現代人のエゴではないのかと。他の神道が追随しないのであれば別に靖国神社を国立慰霊施設とて考えてもいいと思う。どこの神社とも本当は成り立ちも仕組みも違うからだ。そしてそれを許してしまうと神社界が我も我もと続いてしまうから反対する。

神が神として鎮魂化するには時間が掛かると思う。ただ許容は持って欲しいと思う。多宗教のものが名乗り出たら、神から人間に戻してやるとか、朝敵や逆賊とされる英雄を合祀するのを辞めるとか、戦場や戦地で亡くなられていない御魂は分祀し、民間事業として別に慰霊する。

政治家が責任を取るのは当たり前のことだ。だから国の代表なのである。責任を取ったことに異論があったりするのは分かるが、責任を問われ後に異論を捉えるのであれば最初から政治家になるなと言いたい。「責任はすべて私にある」という現在の総理が責任をとっているかい。

こんなに政治を混乱させてもまだ責任を取らないんだよ。たぶん責任を取ることはないと思うけど。一度あんな無様な辞任をした者が再度総理にあるなど恥にもほどがある。思想信条がどんなでもいいよ。でもこの人に筋が一本通っていないのは明白な事実だ。

だから担いでる連中もバカだよね。利用されてるだけなのに利用してるつもりで神輿を担いでる。

だから日本の右の思想はたんに気持ちが悪い。あの当時はまだ武士道精神があり、忠義心があった時代の主義である。いままさに戦争も知らない子供である、年寄りから赤子までの国民はあの時代を美化する権利などないと思う。ましてや世間の苦労も知らず平々凡々と育った世襲議員の総理に偉そうなことは言われたくない。

この人はちっともちゃんと騙してくれない。騙すのも政治家の重要な才能だと思うけど、バレてしまうと開き直る。この人には色がない。語るべき物語がない。

明治維新から150周年。ぜんぜん良いことがない年だ。

だいたい15っていう節目は悪いから周年祝いはしないものなんだけど。

本当なら籠池さんが作る小学校には明治維新150周年を記念する意味もあった。しかしそれは善良な市議会議員の手により公の場に引き出され国会でさらし者になり無残に潰えた。

たぶん今の日本の正しい国なら、思想教育を夫婦そろって支援する総理大臣は、この時点で辞任してる。辞任させない社会の空気感が本当に気持ち悪かったし、今もそれがいちばんに気持ち悪い。教育勅語がどんな風に政治利用されて、その結末がどうなったか思慮深い人間なら、その思想信条は表に出すべきではないと思うだろう。

しかしこの腐った内閣は「勅語を教材として用いることまでは否定されることではない」と閣議決定してしまった。教育勅語の否定を批准したのはわが国の国会なのに、肯定した。普通あり得ないことだ。

日本が崩壊に向かう瞬間に思えた。

だって教育勅語をヨシとする総理大臣を支持する人がいっこうに減らないから・・・。だからアホな安倍ちゃんはここからカン違いを始める。森友学園のときにしなければいけなかったのは説明責任の放棄ではなくて、衆議院解散だった。そうしていたら改憲も夢ではなかったかも知れないが、自民党がいくら支持しても国民はこの人の人間性を信用しない。

だから発議して国民投票しても無駄。それこそ投票にインチキがなければ話だけど、独裁政権下なら、どんな細工も忖度される。

まあ霊的な部分だけで話させてもらうと、英霊と呼ばれる人は神になりきれていないし、成仏していない御魂が多い。

条件を付けて形だけ整えてもダメなんだよね。伝統になるには時間が掛かるし、日本人の多くは戦死者を英霊と呼ぶと思ってるだけで、神とは別物と規定してる。神なら神だと思われないと神は神にはなりようがない。

英霊一人一人は神さまです。

そうんな風にいう宗教家もしない。

今のおいらは罰当たりと言われようが、早いとこ宮型を処分して、昔みたいに好きな神社のお札だけ飾りたい。

今は神道神社というよりは神道マニアかな。どちらと言えば元祭祀場跡とか考古学的なアプローチでなら接することは出来るけど、奥が深すぎて怖すぎておいらには立ち入る隙もないジャンルになった。

いるという人はそれでいいし、いないという人もそれでいい。おいらはいてもいいし、いなくてもいいのでプラマイゼロだ。

たぶん20年余も神道に寄り道したことを今はとても後悔してる。

人間はね、どんなときでも最終的に救いを求めてる。しかしどんなに探しても神道に救われる道はなかったし、助けられたることもなかった。最終的に残ったのは怖さではないんだ。

申し訳なさ。

応えることが出来ない愚かな自分の神に対する申し訳なさ。

これじゃ寂しすぎるよね。

まあ何が言いたいか言うと、今年の盆はこれまでにないほど戦前戦後の亡霊がうじゃうじゃ出てくるから気をつけようねという事。不気味な場所へ近づかず、肝試しや霊スポットは断固拒否して、心強く過ごしましょう。

軽犯罪と云うか、お盆時期はエロ事件が多発するような気がします。

自重しましょう。

という事でお盆は引きこもります。祖父ちゃん祖母ちゃんごめんなさい。墓参りもせずに罰当たりで。





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