sdaruの日記

日々の色色な身の回り事を書いて行きます。

余計なお世話

2010年08月31日 | 日記

今日で8月も終わります。
太陽は8月も終わる、暦では来月は秋だ、この秋を阻むように照りつけます。

台風も来ていますが、何時もと違う道を進んで行きます。
ラニーニャと言う現象が起きて居るためと言う報道もあります。

雨は局地に降り、当地では日中の雨はこの所全く有りません。
夕立がさーっと降って、後は涼しい風が吹くって言う天気の気配は全く有りません。

夕方になって陽も西に傾き少しは涼しいかなと思って出かけました。
余り家に籠っていると足がなまると思い歩いて来ました。

デジカメの写真展示を見て来ました。
写真を見た所、一眼デジのようです。

コンデジの写真らしいのは見えませんでした。
A3での展示、プリンターもA3用でしょう。

皆さん地元のアマチュアばかり、それなりに見ごたえがありました。
私見を言えば、狙って居る対象に少し不満を感じましたが。

一点だけ有りました。面白い対象を写したものが。
地方のアマチュアではこれくらい?、私にしても批評家めいたことが言える人間では有りませんからね。

写真のご婦人、背中に陽があたっています。
日傘を後ろの方へと思いましたが、余計なお世話と言われそです。

さほど歩きませんが、出ました坐骨神経痛が、右の臀部に軽い痛みです。

2010年08月30日 | 日記

地境を示す石の上に蝶がとまっていました。
この蝶、盛夏を過ぎる頃良く目にします。

蝶の名前は知りません。子供の頃この蝶を捕まえて細い草の葉をしごいて取った先に
結び付け、トンボ釣りをしました。

環境が変わり、今では町中でトンボを見ることも殆ど有りません。
トンボが群れる池も、水溜りもなくなりました。

自然を知らない子供が増えています。
昔、私の末娘が田植えを知りませんでした。

口で説明しても分かりません。
田植えの時期に田植えをして居る田圃を見せに連れて行きました。

本当にあったかどうか知りませんが、魚は切り身になって海に居ると思った子供が
居たと言う話を聞いたことが有ります。

コンクリートで作った校舎、排水の良いグラウンドで過ごす小学生、給食で
過ごす子供達にはありうる話です。

減反政策で田圃が少なくなっていく時代ですからね。
そのかわり、テレビ、ゲーム機で養う知識は豊富です。

時代の変化、と言ってしまって良いのかなと思います。

残暑

2010年08月29日 | 日記

8月も下旬、残暑の季節なのですが。
一向に盛夏の気配が消えません。

午前中に湧水を汲みに女房と行ってきました。
地元の私鉄の鉄橋がそびえて居ます。

この私鉄、伊豆地下鉄と言われる程トンネルが多い鉄道です。
鉄橋は余り有りません。

まずこの写真の鉄橋が一番高い、長い鉄橋です。
この鉄橋の下は、昔、集中豪雨があった場所です。

幾人かの犠牲者も出ました。
当時はゲリラ豪雨と言う言葉は有りませんでした。

この鉄橋は全く被害を受けませんでした。
今も健全です。

ここに電車が走ってくれば、最高の写真ですが、側に居る女房が急かせるので駄目でした。


空は秋のような空です。

2010年08月28日 | 日記

今の空は雲一つ無い澄んだ秋の空のようです。
日向は暑いのですが、日陰に入ると結構涼しい感じです。

8月も下旬小学校、早いところでは2学期が始まっています。
そう、あの時もこんな青空でした。

ただ月は10月の上旬だったように記憶しています。
日中は汗ばむ天候でした。

疎開先の大家が珍しく風呂を沸かしました。
体下半分が隠れる戸が付いている半ば露天風呂でした。

風呂からあがって火照る体を冷やす、パンツだけでしばらく外に居ました。
冷えた体に衣服を来ました。

その翌日です、39度を超える熱を出しました。
氷は無し、冷たい水もない中、冷やすすべも無く布団の中で唸っていました。

疎開先から帰ることになりました。
もちろん車などは有りません。

それほど多くない家財を馬力に積みました。
当時唯一の運搬手段は馬に引かせる4輪の台車です。

熱の有る体を、ねんねこ半纏にくるまって家財の上に乗り疎開先から元の町へ帰りました。
帰った先は、疎開前とは違う家です。

そのまま布団の中です。高熱は2日ほどで下がりましたが。
その後、微熱が何日も続きました。

当時は結核が完治できる時代では有りません。
両親は心配しました。結核では無いかと。

かかりつけの医者居ましたので、診察を受けました。
診断の結果は、栄養失調でした。

それから、両親は食料の乏しい中それ食べろ、やれ食べろで過ぎました。
極度の栄養失調では無かったのかたちまち体は回復に向かいました。

その時食べたもので、今でも記憶に残り、好きになったのは鯖の味噌煮でした。
うどんと同じ、こんな旨い魚があったの思いが残り、今でも鯖を見ると味噌煮です。

体が回復して、元の学校へ通いはじめました。
学校の授業は、同世代の人が同じ経験をしている、教科書の墨で塗りつぶしでした。

墨で本を塗りつぶす、なんとなく快感を覚えました。
生徒の1人が教師に聞きました。

何故塗りつぶすのかと?教師は言いました。
マッカーサーの命令だと。

どれほど経ってかは分かりませんが、天皇の人間宣言が出て
マッカーサーと並んだ写真が新聞に出ました。

あれほど偉い偉いと言われた天皇が、マッカーサーの肩位の背丈です。
頭一つ抜けだしたマッカーサーを見て、やっぱり偉い人と思いました。

戦争が終わって、疎開から帰った話はここで区切りを付けます。


うどん

2010年08月27日 | 日記

今日も朝から暑い真夏日です。
明け方は少し過ごし易くなったのか?何時もより1時間くらい寝坊しました。

午前中は新聞を読みパソコンで過ごして居ると昼になりました。
午後は定例の腰のリハビリの日です。

車で走っていて、讃岐うどんの看板の有る店の前を通りました。
ふと思い出しました。

疎開先で戦争の終わりを知りましたが、すぐに元の町には帰ることが出来ませんでした。
疎開先の学校で2学期を迎えました。

そろそろ稲の取り入れ時期です。爆撃を受けないこの小さなの田圃も稲刈りが始まりました。まだ働き手は復員して居ません。

小学校の上級生は農家の稲刈りの応援に出されました。
鎌を持った事の無い私も応援に行きました。

普通の鎌です。使い方が良く分からず手とり足取りで教わりました。
どれくらい刈り取ったのか覚えて居ません。僅かな量だったでしょう。

3時ころになると、、農家のおかみさんがああみんなご苦労さん、と言っておやつになりました。
出されたのは真っ白な手打ちのうどん、汁は少しショパライものでした。

やあこれが旨いの何の、世の中にこれほど旨いものが有るかと思って食べました。
何しろ、家で食べるのは、フスマの入ったうどん粉で作ったすいとんです。

醤油もない、薄い塩味の汁の中にポツポツ黄色いフスマの見えるすいとんです。
汁の出汁も入って居ません。フスマ入りうどん粉団子の塩ゆでのような物を食べていました。

今考えると、この時のうどんも農家のおかみさん手打ち、太さもまちまちでした。
でもこれがのちのち、私の麺好きになった大きな原因でした。

今でも思い出します。ああ旨かったと。



変遷

2010年08月26日 | 日記

昨日疎開先のことを書きました。
変わりように驚きました。

後で考えました、65年経つって変わっていない物はと。
自分でも驚きました、本当に良く変わっています。

私の住まいの有る場所はおよそ400メートル位の商店街です。
この通りで65年前と同じ所は一軒も有りません。

建て替えられた家、駐車場になった場所。
商店の扱い商品の変わった店などです。

今まで町中を写してきた写真を改めて調べました。
65年前の写真は有りませんが、記憶の中で多分変わっていない場所はと?

八幡神社も変わっていますが、横の空き地の忠魂碑は変わって居ません。
他に土蔵の民家は変わっていないところが多いようです。

世代の交代で建物は変わらなくても営んで居る生活は変わっているようです。
自然の営みでは65年は一瞬ですが、人間の営みでは長い年月です。

そして今でも少しつづ人間の営みは変わっています。
シャッターを閉じた店、店舗を改装すところなど。

なぜか、金融機関は改装の都度大きくいなっています。

変遷

2010年08月25日 | 日記

朝は曇って居ましたが、次第に晴れて暑くなりました。
そよと風も吹きません。

戦後65年、子供の時代の疎開先を思いだしました。
午後腰のリハビリが済んでこの地を見に行って来ました。

今は同じ市になっていますが、当時は大賀茂と言うでした。
道路は未舗装、道路脇には民家は数えるほどでした。

道は緩い登り、道の側は田圃です。今で言う棚田、ゆるい棚田は上から順番に水が流れて
居ました。

私の疎開した家は大賀茂原と言う屋号です。
これが訛って、おおがんばら、と呼ばれていました。

道路から坂を少し登った所に建って居ました。
住まった家は昔、蚕を飼った跡の建物でした。

およそ八畳ほどの部屋が一つ、使わない囲炉裏を切ったやはり八畳くらいの部屋が
有りました。ここに当時、親子6人と家財を入れて住んでいました。

井戸は有りません。トイレは大家と共同使用で屋外に有りました。
水運びは私の仕事、毎朝バケツを2個、天秤棒の両端に付けて水瓶が一杯になるまで運びました。

台所はつっかい棒のような柱を立て、古トタンを乗せていました。
男は小便は戸外です。

戦争が終わってこの家を尋ねたことは有りません。
今日その場所へ行って見ました。

まるきり様変わりして、家に登った道も無くなっていました。
道路脇には新しい住宅が建っています。

写真の車の止まって居る辺りが登り口?
ハッキリ分からなくなっていました。

この大家は家が絶えたと聞いています。

少し遅いが。

2010年08月24日 | 日記

晴れて居ると言っても空の半分近くは薄い雲があります。
それでも気温は30度を超えています。

夏祭りが済んで10日立ちますが、姪がブログに使ってと写真を送って来ました。
私の写さない夜の祭り風景です。

お道具の太鼓橋、呼び物の一つの夜の様子です。
ライトアップされ、周りには人が溢れて居ます。

この太鼓橋が祭りの最後を飾ります。
残るは宮入り、祭りのクライマックスになります。

祭りの終わりを惜しむように鳥居の前を十数回練ってお宮へ入ります。
お道具に続いて30分遅れで神輿もやって来ます。

人々は名残惜しげに、また来年の祭りを期待して三々五々と散って行きました

2010年08月23日 | 日記

私は毎日ほぼ同じ場所の空を写真に写しています。
2台のコンデジを使っています。

季節により変化が有るのですが、今年は余り変化が有りません。
居座った太平洋高気圧のためでしょうか?

抜けるような青空も少ないようです。
かと言って、形の違った雲も目立ちません。

どこまで高い、と言う入道雲も見ることが少ないような気がします。
入道雲を積乱雲と言うのは知って居ますが。

他の雲の正式な名前は殆ど知りません。
下から見上げる雲は皆同じような高さに見えます。

高い山へ登る人は、自分の足の下に雲が有る経験はしているでしょう。
私は登山では有りませんが、以前飛行機に乗った時に目の下に雲が見えた経験が1度有ります。

目の上は青空、目の下はもくもくとした、綿のように見える雲でした。
雲を自分の下に見た経験はこれ1度だけだです。

今日の写真は、進む方向には青空が見える暑い日中を歩くご婦人です。
写真集は、雲を集めて見ました。


暑さは増すばかり。

2010年08月22日 | 日記

やがて9月、少しは涼しい気配をと期待していますが。
挿し込む西日は暑さを増しているような感じです。

動いて汗はりんりんと出ます。冷房なしで扇風機、じっとした汗が出ます。
さる工場の温度の記録を見ました。

連日の真夏日、熱帯夜の連続です。
涼を誘う夕立も有りません。

ゲリラ豪雨が降って、つまらぬ被害を起こしています。
町中は舗装され、照り返しは強く暑さを増幅します。

猫の額程も無い小さな庭に、打ち水をして僅かに涼感を感じています。
感じるだけで涼はやってきません。

道行く人もご婦人は日傘日傘です。黒と白、どちらが涼しいのでしょう?
たまに日傘無しのご婦人が通ります。

暑いでしょうと声を掛けたくなります。
気温が30度を下回ると涼しく感じ、何か徳をしたように思ってしまいます。

長期予報は残暑厳しいと言って居ますが、外れるとよいですね。

夏休みも少なくなった。

2010年08月21日 | 日記

8月も下旬に入ると、学校も夏休み終わり近くになります。
7番孫がカレンダーに書きました。29日夏休み終わりと。

30日から2学期だそうです。
私たちの学校生活では考えた事も有りませんでした。

理由はなんでしょうか?分かりません。
生活の様式も変われば学校も変わるのでしょう。

サッカー漬けの6番孫は今日もサッカーの遠征に母親と出かけました。
7番は、俺行かないと1人で家に居ました。

お婆ちゃんも、お爺ちゃんもいるからと、澄ました顔で言って居ました。
長いこと見なかった高校野球ですが。

床屋へ行って半ば眠りなら聞いて居ました。
顔を剃っていますからテレビの画面を見ることは出来ません。

町中は夏を惜しむような、家族連れが時折通ります。
私は殆どの時間、6番孫のウオークマンに入力する音楽の処理にかかりきっていました。

普段余り音楽に馴染む事の無い生活です。
四苦八苦の末入力出来ました。

次回頼まれた時に果たしてうまく出来るか?自信は有りません。

プロポーション

2010年08月20日 | 日記

朝のうちは晴れた居ました。
今は曇って来ましたが、雨が降るような気配は有りません。

ブログに載せる写真、花や景色は別にして人は気を使います。
顔を出す、これはプライバシーに関係して来ます。

どうしても後ろ姿が多くなります。
今日は日本人でないご婦人の後ろ姿です。

プロポーションは違います。
日本人のご婦人も随分プロポーション良くなりましたが。

こんな事を書くと、ご婦人から怒られそうです。
しかし外人は肥満も凄いですね。

桁外れの肥満の人も居ます。
人種の違いで仕方有りません。

民族衣装の和服はやはり大和撫子が最高です。
あえて言えば日本の若い娘は駄目ですね。

浴衣の艶姿を見ることは殆ど有りません。
男も同じようなことが言えます。

書いていて。

2010年08月19日 | 日記

ブログを書いていて投稿したら、ログインの画面になりました。
ログインをして、投稿画面を見ました。

懸命に書いた画面が出てきません。
この所、このブログを見てくれる人が少し増えてきています。

大した事を書いて居ませんが。
写真を載せて、その日にあったことを中心に書いて居ます。

書き始めて何年になるのか?
記録に残るカレンダーでは6年くらいかな?

週刊、月間、違います日刊です。
新聞のように休刊日は決めて居ません。

休刊は体が休刊になる日と決めて居ます。
2年くらい前には4週間ほど休刊しました。

病院に拘束されていたからです。
写真の炎天から今は雲が空を覆っています。

忙しいの?

2010年08月18日 | 日記

昨夜は寝苦しい夜でした。
2時ころと4時ころに目を開きました。

窓は網戸にして明けて居ます。
明け方になっても涼しくなりません。

懸命に首を降って風を送る扇風機、これも余り役に立ちません。
湿度が高く、扇風機の風では汗が思うようにひきません。

それでも何時の間にか眠って居ました。
熱帯夜と言うのでしょう。

夜が明けても涼しさは有りません。
こう言う時に、ザーッとにわか雨があれば良いのでしょうが。

最近はにわか雨でなく、ゲリラ豪雨が降って水害が起きています。
日中も蒸し暑く、少し暑い物を食べると汗が吹き出します。

これに心地良い乾いた風が吹いてくると涼しくなるのですが。
吹く風も体にまつわりつくようなジメジメした風ばかり。

汗をかいて、体表の温度が下がればああ心地良いと言えるのですが。
冷房の効いた部屋から外に出ると、むううとした熱気が体に巻き付きます。

これが嫌で自宅では冷房はいれて居ません。
暑い中、おじさんが急いで歩いて行きました。

デジブック 『祭り2』

2010年08月17日 | 日記
デジブック 『祭り2』



四季の移ろいで行くと、夏祭りが過ぎると朝晩は秋の気配を感じるのですが。
今年は未だに秋の気配は全く有りません。

家の中もエアコンを入れませんから、真夏日の温度が続いています。
今叫ばれて居るエコを特別意識していません。

余りエアコンが好きでないのと、電気料節約のためです。
水分は取るようにしています。

流行病のような熱中症にはなりたく有りませんからね。
この熱中症、家の中でも起こるとも言って居ます。

昔もあったと思うのですが?
報道は発生を伝えますが、素人に分かりやすく解説することはないようです。

どのような時にどのような場所で、起きたのかと報道があっても良いのではないか?
水分を取りなさい、出来れば薄い塩水を、と言っています。

人間が自分達の利便性を追いかけた結果起きる症状に思えます。
自然に逆らわない生活を心がけると良いのでしょう。