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やまだみつるの似顔絵

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「お母さん」とは太陽だった

2007-11-30 11:50:49 | バカ記録
若い頃はイケイケ!GO!GO!で、まずは突っ走れ!って勢いだったけど、40歳代になったら、それまで面倒くせぇって思っていたことに耳を傾けられるようになってきた。そういう変化を感じられて、40代って面白くなりそうだって思える。

「今日は」と「さようなら」の意味は?これを会う人会う人に言う。とにかく言う。煙たがれる場合が多々だが、それでも人に会うたびに言い続けた。インターネットで「さようなら」と検索してくれて、そこに出てきた内容を読んで「これが答え」と結論付ける人も多かった。それでは何となく意味の「意」は分かっても「味」が無い。そんな気がして、これじゃ理解にならない。

そんなこんなしていたら、それこそ僕の誕生日に、2つ上の床屋さんが「オレ、その意味が書かれた本を持っている」と教えてくれた。「日本のこころの教育」と題した境野勝悟さんの本だ。本も出会い。読んだら僕が見落としていた「日本」が書かれている。著者の為に本の内容は紹介しない。ぜひ買って読んで欲しい。

誕生日に最高の品を手にして嬉しくなった。これからの人生の扉を開いてくれたようにも思える。

日本のこころの教育
http://www.chichi-book.com/book/lifestyle/0746.html

古畑任三郎

2007-11-28 17:15:49 | バカ記録
ちょっと前に、日本人はブーイングが似合わないってブログのネタにしたら炎上したことがある。数々のコメントを読んで僕は胸がときめいた。面白くて。

基本的に僕はテレビやネットに向かって不快感が無い。笑う事や知る事はあっても本当の事は伝わりっこないと思っているから、怒る必要がない。

だだ、無記名だとしても火をつけたのは僕なわけだから、ちゃんと読んでその奥にあるものは何か探ってみようって思ったら面白くなった。

何が面白いって、どのコメントにも「わたし」がいない。無記名やハンドルネームの「わたし」を指すんじゃなくて、文章に「わたし」がいない。ややこしいとかワケわかんないってシャッターを下ろしたら駄目。その先を踏み込んでみると面白いが分かってくる。

決して上から見下ろしているってつもりもないので、その考えも捨てて、一度分解してまた繋げてみる作業をすると想定してほしい。
文章に「わたし」がいないのは何もネットだけのものじゃない。そもそも普通の生活や会社や学校にもある。例えば学校に「挨拶運動」ってのが実施されている。僕はこの言葉が理解できなくて、理解できないものを子どもに伝えられないので、まずはカミさんに「挨拶運動って何だ?」って聞いたら「教育の一つ」と答えた。まだ理解できないので今度は子どもに聞いたら「当番」と答えた。答えが違ってる。

次に、たまたま飲み会で女性の先生数名と同席だったので「挨拶運動って何ですか?」って聞いたら「躾です」と一人の先生が答えた。もう一人の先生は、明らかに僕へ不満の表情を見せ「大事な事です」と怒られた。

悪い空気になり僕は嫌な奴ってレッテルを貼られ、先生らは帰ってしまった。何だ、誰も分からないでやってるんだ。聞いても答えられないと怒るんだ。それが分かった。って事は「挨拶運動って何?」って誰も説明できなくて、しかも疑問に思わないまま「教育」「当番」「躾」と言っている。

僕を屁理屈と言う前に、知らないでやらせてる大人はむしろ無責任じゃないか?僕も大人なんで考えてみるべきだ。そもそも頭が悪いから特に考えてみることにした。

挨拶とは何だ?行為は大事だ。でもその言葉の意味は何だ?「今日は」と「さようなら」って意味は何だ?疑問を頭にインプットして日々過ごしていた。そうしている間に、日本語の使い方も気になってくる。どんどん日本って国に意識が行くようになった。

何だ?ってのが僕の好奇心に繋がり、探すって作業が楽しめるようになってきた。アンテナ立てて電波をキャッチしようって周波数を変えたら、耳に届くのが会話に「わたし」がいない人が多いって事。

どうでもいい内容ではあるが、一度チョイスするネタにして、僕なりに探してみたら話しは意外な展開へと続いた。

讀賣、桑田真澄、投手、PL学園

2007-11-27 12:16:32 | バカ記録
実は10年前に漫画を描いている。BSN新潟放送のラジオ「ハロージャンボサタデー」という番組で、新潟県弁護士会のコーナーを放送していて、今でいえば日テレの人気番組「行列ができる法律相談」の先駆けといえる内容だ。それを本にすることになり、法律問題になるさまざまなドキュメントを挿絵の漫画にするということで、予算的な理由もあり駆け出しの僕が指名された。

お金なんかどうでもいい。まるでプロ野球のドラフトで、最後の最後に巨人から指名されたように嬉しかった。何となくだが、電話をくれた番組ディレクターの声が、昭和の野球ファンにはドラフト会議でお馴染のパンチョ伊東さんの声にも聞こえたくらいだ。

番組のパーソナリティがキャラクターになり、いろんなトラブルを演じるシーンが台本になっている。4コマ漫画が基本で、複雑な展開はコマ数を少し増やすが、なるべく単純な構図にするのが条件だった。いきなり僕のペンはピタっと止まる。言葉が多すぎて吹き出しがどうしても大きくなる。絵が収まらないのである。漫画の難しさにいきなりぶつかった。

絵も情景や場面、人の仕草なんかも描くとなると資料がないと分からないもので、木一本でさえもいざとなるとどんな形だったっけ?って迷い、資料探しに図書館と本屋を何度も通った。こんな状況で4コマを描くのに丸一日かかってしまってた。

とにかく必死だった。親父が経営する板金屋の後継ぎとしてこのまま人生を送るのは絶対嫌だ。後継ぎなのに親への反逆行為を夢中になって頑張った。昼間は車の板金塗装の仕事をしていた。お客さんの大事な車はきちんと直さなけれいけない。漫画は夜と日曜日に描いていた。

車を修理する仕事は嫌いじゃなかった。むしろ好きだった。ただ親父と歯車が合わない。愛想が悪い親父で僕の繋がりがあるお客さんが来店すると、仕事中だと言って帰してしまう。どうしてもそれが耐えられなくて何度も衝突した。後継ぎとしての将来性を失いだし、心も腐りかけていた。

誰に相談しても「お前はまだ若い」と同じ結論で閉められる。やり場の無い苛立ちは似顔絵という好きな事へのエネルギーになった。「板金屋のセガレ」と呼ばれるより「似顔絵のやまだ」と称されるのが、やたら心地良かった。

ところだが当時の地元の目は親父の見方ばっかりだった。バブル後半で景気も良く、田舎町っていうのは後継ぎは長男の宿命でもあり使命であるという風潮が強かった。絵を描くのは趣味にしとけ!って周囲からも忠告されるありさま。それでも個展をやったり週刊朝日似顔絵塾に投稿したりして、僕は悪い事をしている息子とレッテルを貼られた。

今度は親父だけじゃなく、世間の風潮と戦わなければならなくなった。つい10年くらい前の事だが、そんな時代があった。何の保証も無い似顔絵を、僕は何でこんなに必死になっているのか自分でも分からない。かっこいい言葉になるが、何かに夢中になれない自分が一番許せないのかも。

ジョン・レノンの記憶

2007-11-26 21:04:04 | バカ記録
いざ漫画を描こうと思っても、キャラクターが決まらない。似顔絵を描いているので漫画になるような人はいっぱい絵にしてきたけど、漫画にしようとすると、それぞれが個性豊かでどれを主人公にしたらいいかチョイスするのが困難になってしまった。キャラクターが豊かってのは本来産み出す苦労がないから楽なんだけど、巨人のように四番バッターばかりが揃っても勝てない野球みたいなもので、長嶋監督のような采配は僕には未熟すぎて出来ない。

とりあえず女の子を主人公にしたいとは思っているが、いかんせん僕は女心が鈍いほど分からない。子どもの頃、星飛雄馬や矢吹ジョーといったハングリーなスポ根漫画や、ドカベンとか男どアホウ甲子園などの水島漫画に夢中になり、それ以外ならハレンチ学園やコルゴ13のオッパイが出てるのが好きだった。今になって、ベル薔薇やキャンディキャンディに興味がなかった事を後悔している。

僕の青春時代といえば、クラスのみんなはベイシティローラーズやアバにアラベスク、レッド・ツェッペリンやTOTOなんかの洋楽を聞いたり、フォーク全盛で、ギターを弾いて放課後や文化祭でライブを披露していた。アイドルはキャンディーズやピンクレディが大人気だったけど、僕だけ欽ちゃんがカッコイと思っていたし、笑点を見るのが好きだった。みんなが得る情報は僕だけ遅れて知るという状況で、ジョン・レノンが死んでみんなが悲しんでるのを見て、誰?その人ってのが僕の記憶だ。むしろ僕には笑点の司会をしていた三波伸介が死んだ方がショックが大きかった。

みんなとはズレていたが、以外な場面で出番がやってきた。高校三年の最後の文化祭で、当時はまだホームビデオが家庭に入ってはきたが、映像を撮るというのは電気屋さんがやる仕事のような時代に、クラスみんなで自作映画を撮って上映しようって発案し、その発想は面白いってクラスの人気者のトシヤが乗っかり採用された。

トシヤはイタズラ好きで、常識に捕われないタイプの男で、僕と同じく勉強嫌いだったが、面白い事には直ぐ反応し行動に移してよく先生に叱られていた。そのトシヤが演出に、僕が監督とカメラと脚本の三役をやって「3年4組殺人事件」というサスペンス&ラブロマンス&アクション&コメディ映画を撮った。三年間で一番目立たなかった奴を主役の殺人犯にしようってアイデアは、トシヤも即同意した。ハチャメチャな男だったが、こういう優しい心をしっかり持っていた。

電気屋さんから「頼むから絶対に壊すなよ」と念を押され、当時は肩で担ぐような大きさのビデオカメラを借りて、撮影は放課後に約一ヶ月近くは行った。おおよその台本は作ってあるが、現場の雰囲気でどんどん変更した。「ここは、こうしよう」ってトシヤは直感でアイデアを出す。僕も「ここは、これを使おう」って言うとトシヤは反対しなかった。

素人の割にはカメラアングルもストーリーの複雑な展開も上手く仕上がり、もちろん所々に笑い満載な約20分の映画が出来て、文化祭での上映は試写会も含め二日間で毎回満席。入場料一人50円で売り上げは5万円になった。

その頃からどうやら僕は一人じゃ力を発揮できない。今でもそう。何かやるって時は力強いパートナーがいないと駄目だ。今まで記憶に残るような出来事は、パートナーになってくれた人が偶然にも蟹座のB型の人ばかり。不思議な相性なのかも。おそらくパートナーになってくれた蟹座のB型さんも普通じゃないキャラだ。これは誉め言葉である。

僕が新潟で似顔絵をやり始めた時、同じ年の江口さんが新潟でお笑いをやるとNAMARAを立ち上げた。彼は常識を打ち破りどんどん開拓し進んでいる。僕も刺激になり頑張れた。彼の存在なくして僕はいない。

さて、漫画だ。あぁ考えると頭ん中はグチャグチャだ。こんなんで出来るんだろうか?ただなんとなく、いつもの根拠が無い発想だが、いつか水道の蛇口が捻られ、溢れるほどの水がドバ~って出る気はしている。アイデアという水が。

予定は順調に遅れてる

2007-11-25 14:34:29 | バカ記録
雨の日も風の日も、たまに熱出してフラフラしてる時もあったけど、デッキィ401での似顔絵を描き続け、通算7000人まであと100人を切った。今年中に達成するかしないかってとこまで来た。こういう数学は目標でも何でも無い。継続できている嬉しさと、感謝の気持ちを伝えられるものと捉えている。

今年3月で6000人を達成してから、周りから「目指せ10000人」って声が上がるようになった。それはそれで評価と期待を頂いているのでありがたく思うが、次の一人が来店するのかどうか毎回心配になっている身としては、4000人も飛び越えられると、しんどくなってしまう。

僕は継続できている事、現役でいられている事を一番大切にしている。似顔絵というジャンルで生きて行くには、技術力と経営力も大事だが、社会的に信用が無いと全て成り立たない。それには毎週定期的に同じ場所で営業することで「こいつなら大丈夫」と認めてもらわなければならなかった。

石の上にも三年と言うが、まだまだとジタバタしているうちにデッキィ401で五年になってしまった感はある。似顔絵を30歳から始めて数えたら十三年…。なかなか石から降りられないでいる。

全国に知られる漫画家になりたい。その夢は似顔絵になって引き継がれた。僕は今、どの辺まで来てるんだろう?後どれくらいでグラウンドに立てるんだろう?
数字が増え続ける度に、僕の心は具体化しよう具体化しようって作用が働く。これはもうオプションだ。オプションってやつは、いらないって断ると「もったいない」って言われる。そうなんだ、もったいないんだ。だったら具体化したらいい。急にポジティブになるのが僕だ。

娘のモモコに「おとう、漫画も描いてみようと思う」って言ったら、「簡単じゃん!似顔絵と漫画の両方やればいい」 って普通に言うので「そ、そうたよなぁ、そりゃそうだ」なんて納得してしまった。娘の言うと通り、やればいいんだ。「有名になれ!おとう」って、貧乏家族だけど夢は大きかった。

どうやら一番信用してくれてたのは娘のモモコだった。

こんなにたくさん

2007-11-24 20:47:25 | バカ記録
毎日お葉書が送られてくる。手書きで、心に届くいろんな感想が綴られている。僕の心が迷ったりくじけそうになった時、お葉書が勇気を与えてくれる。

新潟市内から送ってくれる方が大多数だけど、遠くは糸魚川や佐渡、山形県、福島県、千葉県からも。

わざわざ僕の似顔絵を求めて来てくれていると、綴られてある文章を読んで知ると、何をやってもズボラな僕が、心を込めて描こうって気にさせてもらえてる。
明日もデッキィ401で似顔絵描きが頑張れます。