2011.07/10 (Sun)
「テレビは不要だ!PCだけあればいい」
その通り!でも、もう遅い。テレビは「ある」。
「原発、『絶対安全』が確認されるまで、稼動しない方が良い」
その通り!でも、もう遅い。日本だけの問題ではないんでしょう?
世界中に放射性物質は撒き散らされてしまった。
何より、原発、きれいに処理ができたとして、ですよ、隣の大国の原発はどうなんでしょう。或いは半島国のはどうなんでしょうか。
日本の場合でこれだけ処理に手間取っている。
英雄視されるべき多くの技術者の、命懸けの、必死の、努力があれ以来続けられている。世界の賞賛を浴びている。
それに比べたら、「隣の大国の技術者は日本より優秀だ!」と言い切れる根拠はありますか?
原発事故が、多く人災であることを考えると、隣の大国、或いは半島の国は「日本以上に対応できる!」ホントですか?
気候は西から変わるでしょう?黄砂だって通年で大陸からやって来る。
「況や放射性物質に於いてをや」、ですよ。
わたしの子供の頃は、知らず、相当な放射性物質を浴びていたと考えられます。内部被曝こそ、「直ちに問題はない」僅かなものだったでしょうけれど、ウィグル辺りの核実験で相当な人が被曝し、死んでいったと言われています。
脱線しますけれど、「観見」二つの目付(めつけ)は必要です。
原発は既に、日本だけがやめたらどうこうという問題ではない。それよりも更に技術を追求することの方が大事です。
切れない包丁を遣って怪我をする確率と、どきどきするくらいにまで研ぎ上げたのを遣って怪我をする確率、どちらが高いか。
元に戻って。
「テレビは不要だ!PCだけあれば良い」
に対して、何故
「その通り!でももう遅い」
と書いたか、です。
「何で?捨てたら良い。そこまでしなくても点けなきゃ良い」
いえ、そういう問題じゃない。
「あなたの生まれた時、或いは物心がついた時(三つくらい、としましょうか)、家にテレビはありませんでしたか?」ということなんです。
「我々はどのようにして育って来たか」ということなんです。
ヒトは「社会」という環境の中に人間として生まれ、人間として育てられ、自らも自らを育て、人間としてその「社会」という環境に参加し、運営し、変化させていきます。
だからこそ人間は歴史を持つ、といえます。
まずは生まれた時から周囲との関わりの中で育てられる。
その時、愛されて育つ(愛情を以って干渉される)のと、愛情のない中で育つのとでは人格形成にどれだけの違いがあるか。考えるまでもないことでしょう。
絵本があるとします。乳児、幼児にとって、そのままではおもちゃにもならない。(働きかけて『遊ぶ』対象ではない)
それ(絵本)は周辺の大人、或いは小学校の高学年くらい以上の子供が乳幼児に読み聞かせて、初めて「絵本」という価値を持つ。
まだ意図的に物事に関わっていくことの何たるかを知らない乳幼児は、「遊び」という行動を通して、人間の特徴である「意図的行動(意図的な働きかけ)をする存在」として自らを作って行きます。
その過程で、絵本の読み聞かせをされることで、「遊びの形」が、おもちゃだけではなく「絵を(意図的に)見る」「文字と絵の違いを学び、文字という(人間)社会の約束事の一つを学ぶ」という「遊び」方も入手する。
「遊び」というのは、「学び」の一種だということです。それは常に能動的です。人間が「意図的存在」であると言われる所以です。
その点から「乳幼児とテレビ」を考えたらどうなるでしょう。
「乳幼児の学びの対象としてのテレビとは」、です。
「魔法の箱」の本家本元であるテレビ。スイッチを入れたら、後は切るまで情報が溢れ出て来る。PCと違って、スイッチを入れるだけ、です。
自分が働きかけずとも、一方的に働きかけてくる存在。
双方向の働きかけの中で、人間は学んでいくわけですから、これは間違いなく歪な関係です。
物心もつかないうちから、一方的な情報を赤ちゃんに流し続けるテレビ。
初めは面白がって(不思議がって、でも良いですが)テレビを見ていた赤ちゃんにはどんな神経が育っていくのか。
この一番大事な時期に、愛情を以って接して来ない存在、又、何ら反応することのない存在、というものがこの世の中にはあるのだ、という事を学ぶことになる。
そういう乳幼児の時期を過ごした人が、今、
「テレビは不要だ!」
と言ったとしても、彼の中には
「一方的に干渉して来るだけの、愛情がなくとも存在するもの(世界)がある」
という不動の思いがある、と考えたら、
「はたして、それで解決するのですか?」
という、一見、からかっているような言葉が大きな問題として浮かび上がってくるとは思いませんか。
「不要だ!」ではなく、「これから、どうすべきか」だ、と。
「テレビは不要だ!PCだけあればいい」
その通り!でも、もう遅い。テレビは「ある」。
「原発、『絶対安全』が確認されるまで、稼動しない方が良い」
その通り!でも、もう遅い。日本だけの問題ではないんでしょう?
世界中に放射性物質は撒き散らされてしまった。
何より、原発、きれいに処理ができたとして、ですよ、隣の大国の原発はどうなんでしょう。或いは半島国のはどうなんでしょうか。
日本の場合でこれだけ処理に手間取っている。
英雄視されるべき多くの技術者の、命懸けの、必死の、努力があれ以来続けられている。世界の賞賛を浴びている。
それに比べたら、「隣の大国の技術者は日本より優秀だ!」と言い切れる根拠はありますか?
原発事故が、多く人災であることを考えると、隣の大国、或いは半島の国は「日本以上に対応できる!」ホントですか?
気候は西から変わるでしょう?黄砂だって通年で大陸からやって来る。
「況や放射性物質に於いてをや」、ですよ。
わたしの子供の頃は、知らず、相当な放射性物質を浴びていたと考えられます。内部被曝こそ、「直ちに問題はない」僅かなものだったでしょうけれど、ウィグル辺りの核実験で相当な人が被曝し、死んでいったと言われています。
脱線しますけれど、「観見」二つの目付(めつけ)は必要です。
原発は既に、日本だけがやめたらどうこうという問題ではない。それよりも更に技術を追求することの方が大事です。
切れない包丁を遣って怪我をする確率と、どきどきするくらいにまで研ぎ上げたのを遣って怪我をする確率、どちらが高いか。
元に戻って。
「テレビは不要だ!PCだけあれば良い」
に対して、何故
「その通り!でももう遅い」
と書いたか、です。
「何で?捨てたら良い。そこまでしなくても点けなきゃ良い」
いえ、そういう問題じゃない。
「あなたの生まれた時、或いは物心がついた時(三つくらい、としましょうか)、家にテレビはありませんでしたか?」ということなんです。
「我々はどのようにして育って来たか」ということなんです。
ヒトは「社会」という環境の中に人間として生まれ、人間として育てられ、自らも自らを育て、人間としてその「社会」という環境に参加し、運営し、変化させていきます。
だからこそ人間は歴史を持つ、といえます。
まずは生まれた時から周囲との関わりの中で育てられる。
その時、愛されて育つ(愛情を以って干渉される)のと、愛情のない中で育つのとでは人格形成にどれだけの違いがあるか。考えるまでもないことでしょう。
絵本があるとします。乳児、幼児にとって、そのままではおもちゃにもならない。(働きかけて『遊ぶ』対象ではない)
それ(絵本)は周辺の大人、或いは小学校の高学年くらい以上の子供が乳幼児に読み聞かせて、初めて「絵本」という価値を持つ。
まだ意図的に物事に関わっていくことの何たるかを知らない乳幼児は、「遊び」という行動を通して、人間の特徴である「意図的行動(意図的な働きかけ)をする存在」として自らを作って行きます。
その過程で、絵本の読み聞かせをされることで、「遊びの形」が、おもちゃだけではなく「絵を(意図的に)見る」「文字と絵の違いを学び、文字という(人間)社会の約束事の一つを学ぶ」という「遊び」方も入手する。
「遊び」というのは、「学び」の一種だということです。それは常に能動的です。人間が「意図的存在」であると言われる所以です。
その点から「乳幼児とテレビ」を考えたらどうなるでしょう。
「乳幼児の学びの対象としてのテレビとは」、です。
「魔法の箱」の本家本元であるテレビ。スイッチを入れたら、後は切るまで情報が溢れ出て来る。PCと違って、スイッチを入れるだけ、です。
自分が働きかけずとも、一方的に働きかけてくる存在。
双方向の働きかけの中で、人間は学んでいくわけですから、これは間違いなく歪な関係です。
物心もつかないうちから、一方的な情報を赤ちゃんに流し続けるテレビ。
初めは面白がって(不思議がって、でも良いですが)テレビを見ていた赤ちゃんにはどんな神経が育っていくのか。
この一番大事な時期に、愛情を以って接して来ない存在、又、何ら反応することのない存在、というものがこの世の中にはあるのだ、という事を学ぶことになる。
そういう乳幼児の時期を過ごした人が、今、
「テレビは不要だ!」
と言ったとしても、彼の中には
「一方的に干渉して来るだけの、愛情がなくとも存在するもの(世界)がある」
という不動の思いがある、と考えたら、
「はたして、それで解決するのですか?」
という、一見、からかっているような言葉が大きな問題として浮かび上がってくるとは思いませんか。
「不要だ!」ではなく、「これから、どうすべきか」だ、と。
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