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ただの日記

二祖断臂(にそだんぴ)後

2020年04月29日 | 心の持ち様
2011.08/26 (Fri)

 やって来た慧可のただならぬ雰囲気を察した達磨大師は、いつもの通り、弟子入りを願う慧可に対し、初めて質問をします。禅でよく行われる「公案」というものです。口頭試問、ですね。

 「では、お前に聞こう」
 初めて、それもいきなり公案を出された。入門試験と言ってもよいでしょう。
 慧可は必死だったでしょう。この問いに首尾よく応えることができたら、弟子入りが適う!(かもしれない)
 
 大師が重ねて言葉を発します。
 「(お前の)それは何だ」
 大師の目は慧可の左腕を見ているようです。
 ならば、「左腕です」と応えれば良いようなものですが、そんな公案の応えはあるまい。言った途端、「帰れ!」と怒鳴りつけられるかもしれない。

 答えに詰まった慧可は懐の短刀を取り出し、直ちにその左腕を切り落としてしまいます。
 そして、右手でその腕を取り、大師に示して
 「これはこれ、です」
 と応じる。

 結果、慧可は弟子入りを許され、後、全てを伝えられて印可を受け、二祖となるのですが、四肢を失ってしまった大師といい、左腕を切断してまで弟子になろうとした慧可といい、何んともはや、です。
 大師は一体何を思って「それは何だ」と聞いたのでしょうか。
 本当に左腕を指したのか。それとも懐に何かを忍ばせているから、単純に聞いたのか。何かを忍ばせてまでこうやって弟子入りを望む「覚悟のほど」を知りたかったのか。

 慧可は何も応えられなかった。 しかし、この時、命は捨てる覚悟だった。
 それを思えば、腕の一本など、惜しくはない。
 「それは何だ」と問われた時、「これはこれ」としか言えなかったのだから、こうするしかなかった。

 大師も別に「腕を切り落とせ」と言いたかったわけではないでしょう。
 けれど、咄嗟に腕を切り落とした慧可の必死の気持ちは、そして「覚悟」は、公案に真正面から応えようと、言葉ではなく実行動に出たことで大師にははっきりと伝わった。

 「二祖断臂」の逸話は、「覚悟」「初誓願」「初発心」の重要なことを説いていると思われます。
 世間では、何かにつけ、「能力」とか「才能」「天分」「天才」などという言葉が使われます。しかし、それらが生まれついてのものならば、駄目なものはいくら努力したって駄目、となってしまう。それらが生来のものならば、努力の意味なんてなくなってしまう。逆に「努力をしなくたってできるものはできる」ならば、人間なんてやってられませんよ。

 特にスポーツや学問に関しては、才能、天分というものがある、と言われることが多いのですが、本当は、何事につけてもまず、必要とされるのが、この「覚悟」「初誓願」です。そして、この慧可の示した覚悟を以ってすれば至れぬものはない、のかもしれません。

 勿論、我々は慧可の真似をして左肘を切り絶やす必要はありません。
 しかし、その志を尊んで、物事にあたる際、常に謙虚且つ真剣であるべきとは思います。
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