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CubとSRと

ただの日記

それぞれの神嘗祭

2020年06月17日 | 日々の暮らし
2014.10/15 (Wed)

 神宮(伊勢神宮)の神嘗祭は、10月17日だけれど、全国にある神社だって、同じような祭りがある。ない方がおかしい。
 日程は違っても、大方の神社ではその年の稔りの豊穣であったことを神前に奉告し、感謝の祭りをする。それが秋祭りという形で行なわれているのが普通なんじゃないでしょうか。

 大体が稲を刈って「稲木(はで、と言ってました)」に掛けて、干す。干す期間は結構長いみたいです。
 本来は刈り入れが九月半ば以降だから、「はで干し」を終えて新穀(だから、主になるのは米、です)を奉献する、となると、十月半ばに神嘗祭を、というのは、まあ、妥当なところでしょう。

 けれども、南の方はもっと早く刈り入れていた筈です。そうすると秋のお祭りはもっと早くやったっておかしくはない。
 逆に北の方はもっと遅くなってもおかしくはないし、さらに北に行ったら米ができないところが増えるわけで、そうなるとお祭り自体が出来なくなって、なんてことになる。
 それでも、秋のお祭りは行われていた。稲穂かどうか、は知りませんけど、とにかく収穫に関する祭りのない神社はない筈です。

一説によると、天照大神は稲穂の神様で、全国を回って稲作を教えていたのだとか。だから神嘗祭の中心は稲穂の奉献なのだ、と。
本当のところは分かりません。

 少なくとも皇室の祖先神である天照大神は、同時に日本国民の祖先神でもあって、その祀られる伊勢の神宮で行なわれる神嘗祭の主たる献上物は稲穂であること。それだけは確かなようです。
 そして神宮の神嘗祭が全国にある神社の秋のお祭りの基準になっているらしいことも同じです。

 ところで、昔読んだ、金井南龍という人の「神々の黙示録」という本に、
 「天照大神は最上の神ではなく、実は二番手の神なのである」
 と言ったようなことが書かれていました。
 最高の神は別にいる、ということなのですがそれは置いといて。
 では、何故二番手の神が日本では「祖先神」として祀られ、我々日本人は最高の神、と思っているのか。

 「それは皇室の祖先神だからだ。皇室が一番偉い、ということにするためにそうしたのだ」
 そう考えるのが普通でしょうね、きっと。
 「そうやって皇室に支配されてきたのだ、対立関係なのだ、革命を起こして皇室を潰さなきゃ新しい『人民のための国』はつくれないのだ!」
 そこまで言う人は最近ではいないでしょうけどね。でも、今でも「反天連」、なんて団体がありますからね。ニュースなんかでも、「天皇ご夫妻」なんて言ったりするのはまだ少ないけど、「皇后(陛下)」って言わないで「美智子さま」、ってのが多くなりました。脱線しました。

 いずれにしても「皇室が一番偉いということにするために~」というのは、余りにも安直な回答です。それは「八百万の神々」という言葉、それに対する我々国民の思いを無視した答えでしょう。
 日本では神々に厳密な上下関係はない。
 だから、何かと言うと 「神集ひに集ひ給ひ、神議(はか)りに議り給ふ」。「寄り合い」ですね。「神様が集まって、神様が会議を開いて」、物事を決める。合議制が日本の昔からのやり方。

 「神無月」に神々が出雲に集って「神議り」をされる。大国主神が議長だけれど、独裁制じゃないし、特権があるわけでもない。議長だから尊敬はされているかもしれないけど、名誉職でしかないですよね。利権も、なしです。
 それどころか、毎年毎年全国の神々の宿舎の準備はしなきゃならないし、一ヶ月も饗応しなきゃならないし、だから大変です。「偉い」、どころか持ち出しばかりでホントに大変(かどうかは知りませんが)。

 だから「相対的に見れば」、程度のことですね、上下の位置って。
 「豊葦原の水穂(瑞穂)の国」。瑞々しい稲穂の稔る豊かな土地を我々は、天照大神を祖先神として祀り、暮らしている。みんなで守り、暮らしているんであって、支配されたり命令されたり、虐げられたりしているのではない。みんな同じ民草です。

 そうやって見てみると、確かに神宮では十月十七日だけれど、それぞれの神社でそれぞれに行われる神嘗祭と同じ趣旨の秋祭りは、別にそれより早くたって遅くたって、さほど問題はない、ということになりそうです。
 大事なのはとにかく神嘗祭を「(それぞれの神社が)行う」、ということだけなんじゃないでしょうか。
 もっと言えば伊勢の、或いは地元の氏神を祀る個々人の家の神棚に新米を献じて、二拝二拍手一拝。
 その後で我々が新米をいただく。それだっていいんじゃないか。

 そうすれば新嘗祭より先になったって、神嘗祭より先になったって、天皇陛下に叱られは、せんでしょう。

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神嘗祭 (奉告と感謝)

2020年06月17日 | 日々の暮らし
2014.10/13 (Mon)

 ともかく、まずは日本の祭祀と言えば、農業に係わるものが一番大事。
 春分の日や秋分の日は、一年の農業の始めと終わりに、先祖祀りをすることで豊作を願い、豊作を祝う、ということから来ています。
 
 春秋の「彼岸」というと、仏教からのようですが、以前にも書いたように、「彼岸」というのは、実は「日願」のことで、昼夜の時間が半ばする春分の「日」に豊作の「願」をする。同じく秋分の「日」に感謝の祀り、というより、お「祝」いをする。
 仏教よりも、農事ということで、これやっぱり神様に、ということから行われ続けてきた、と考える方が自然でしょう。

 元旦の祀りとして、宮中で天皇によって行われる四方拝は、何でも北斗七星の星の形に云々、というのがあるんだそうですが、本来は文字通り、四方を拝することで八百万の神達に
 「今年もよろしくお願いします。皇祖神の勅命のままに、日本が弥栄に栄えますように」
 と、宣(の)るものだった。

 何で、正月一日か、というと、旧暦ではその日から昼が長くなるから。
 つまり、それが一年の始まりなのだ、と。
 筋通ってるし、分かりやすいですよね、これ。
 今の暦はキリスト教暦なものだから、日本とはずれてしまって、その辺が何だかピンと来ません。

 で、神嘗祭と言えば、伊勢神宮のそれを思い出すのだけれど、それぞれの神社でそれぞれにあっても、別におかしいことはない。
 考えてみれば古くからの神社で、神嘗祭をやらない方が少数派なんじゃないでしょうか。

 何で「神嘗祭(かんなめさい)」というか。
 それは「神」様が「新穀(収穫物)」を「嘗(な)める」、つまり、召し上がる祀りだから。
 収穫の奉告と感謝をする祭りなので、神嘗祭と言います。

 字面だけ見て、
 「ああ、神社に収穫物を奉献するんだな」
 と見るのが一般ですよね。

 しかしこれ、気をつけて欲しいところです。
 日本の祭祀は世界中にある感謝祭とはよほど様子が違っている。
 どこが、そして何が違うか分かりました?

 「収穫の奉告と感謝」、と書いているでしょう?
 「感謝」だけの祭りなら、世界中どこでもあるけれど、「奉告」するってことになると、意外とやらないんです。
 大体「感謝祭」というのは、そこらのスーパーだってやってることで、それは「お客様に感謝します!」だから、安売りしたり増量したりすればそれでよし。

 けれども、神嘗祭に限らず、「祭祀」というのは感謝の態度を表せば良いだろう、新穀を奉献すれば良いだろう、ではない。
 「言わなくたって分かってるじゃないか」、ではなくて、口に出して言ってこそ、「奉告」してこそ、「奉献」の意味があるんです。

 ちゃんと「奉告」という名前の「口上」を述べて、然る後に、或いは同時に「奉献」する。
 未分化の状態で「感謝」、とやっているのとは違って厳格な形式があるわけです。
 ①祝詞を奏上して、②新穀等を奉献する。これが決まりです。これが祀りです。
 (実際には、奉献する物はみんな神前に並べておいて、おもむろに「奉告」するんですけど。あたりまえ、ですか)
 まあ、そんなに大袈裟なことではない。
 身近な例で言えば、食事の際、箸を手に持ち、目の前の御馳走を見て、何から食べようかな、と品定めしながら「いっただっきまぁ~~す」と言ったと同時に料理に箸を伸ばす。こりゃあいかん。
 手を拍つか合わせるかして、「いただきます」と言い、それからおもむろに箸を取る。こっちには間違いなく感謝の念があるでしょう。(間違っても合わせた手の親指と人差し指に箸を挟んで「いただきます」なんてやっちゃいけないんですよ。あれは箸に失礼。勿論料理にも)

 「あ~っ!そうか。あのことか!」と言われる方があればうれしいのですが。
 実はこれ、「祭政一致」の原基形態です。まず「奉告」し、それから「執り行う」。
 祭祀(奉告)の後、政事(執行)に移る。
 この「まず奉告」してから、「そのままに実行する」という形が成立したのが、神武創業の時、ということになります。
 大陸から律令制を採り入れ、神祇官と太政官を置き、神祇官を、比較すれば低位に置いたのですが、それでも必ず「奉告」という祭祀を先に行い、その後、政事。太政官は奉告されたことを実行する者という形が厳格に守られました。

 その在り方が神嘗祭にも端的に表されていると言えるでしょう。

 地位が上の者が下の者に命ずる。上意下達がスムーズに行われてこそ社会は治まるもの。だから、社会に於ける権力構造というのはピラミッド型であるのが普通です。
 しかし、既述のように、日本の場合は違っていた。
 この「奉告」、そして「執り行う」という形は、日本の歴史を読み解く鍵になると思います。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 この日記は2年前、11月半ばに書いたものです。
 続けて二回、転載ですが、決して手抜きではありません。

 世に感謝祭は色々あれど、ちゃんと奉告して、改めて感謝の気持ちを表現する、という本当に丁寧な祭りをやる国、ってないでしょう。
 何しろ、ちゃんと降神の儀を行ない、祭りの終わりには昇神の儀を行なうわけです。昔の、アイヌの祭りは同じようにやっていたようですけどね。

 「今、目の前にある様々な事件で、神嘗祭どころじゃないだろ!」って、思われる人も多いかと思います。
 けれど、世の中を動かすのはやっぱり、我々個人個人です。総理大臣だって、米韓露等の大統領だって、一人では何もできない。
 いくら巨大な権力を持っていると言ったって、自分勝手な事を言えば権力は簡単に剥奪されます。

 個々人の声が挙がれば総理大臣だって大統領だって、いや、政府だって動かざるを得ない。例のアサヒの「天声人語」、です。「天の声は人の口を介して聞こえてくる」。
 決して、天声人語子が善導をするのではない。名もなき一人の国民の小さな声が、聞こえるか聞こえないかの小さなつぶやきが、寄り合わさって地を揺るがす声になる。

 考えもしない個々人の声が寄り合わさって大きな声になるのと、熟考する個々人が発した声が合わさって一つになるのと、大きさは一緒だろうけれど中身には雲泥の差があるでしょう。

 普段の生活だって、「今からこうする」、と自分自身が口にして実行に移すよう気を付けるようにしたら、行動に無駄がなくなってくるだろうし、何より意志を以て物事に取り組むんです、自分なりの確固とした考えができ始めるんじゃないでしょうか。

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10月17日と11月23日

2020年06月17日 | 日々の暮らし
2014.10/12 (Sun)

 以前の日記を再掲(部分転載)することにします。
 神宮(伊勢神宮)の神嘗祭のことです。
 4年前の10月16日に書いた日記です。(ここに載せたのは10月26日。ところどころ修正していますが、御寛恕下さい)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

              (略)

 さて、今日は10月16日。神宮の神嘗祭(かんなめさい)が始まるのは、今日だったか、明日だったか。
 「嘗(なめ)る」というのは、「召し上がる」。神様が今年の新穀(本当の初穂、ですね)を召し上がる祭りです。

 これから一ヶ月。11月23日が「新嘗祭(にいなめさい)」。天皇陛下が同じく「今年の稔りを感謝され、神とともに召し上がる」という祭りです。
 これには「新嘗」という形で「神様への感謝の気持ちを、国民の代表(祭主)として表わす」意味があります。
 正に、祭祀国家の面目躍如、といった祭りです。

 ところが、皆さん御存知のように11月23日は「勤労感謝の日」とされています。
 何故、11月23日が「働く人々全てに感謝を」となったのか。
 「日本人が知ってはならない歴史」の著者である若狭和朋氏の表現によれば、GHQによる「追撃戦」の一つの形であることに、間違いないようです。

 戦前の日本人は、何かにつけて、暦を頼りにしてきました。正月三が日の過ごし方から始まり、更衣から年末の大掃除に至るまで、本当に全国民、申し合わせたかのように、何でも暦のとおりに行なって来ています。
 それが、最近は休日ならば何でも同じ、みたいなところがあって、現に、「祝祭日」と一口に言うのは良いけれど、祝日と祭日の区別がついていることを、知らない人の方が多くなりました。

 祭日は皇室を中心にした、国家の祭りの日であり、祝日は記念日を含む、「祭り」ではない日。
 それに加えて、今回、民主党政府はもっと極端なこと、言ってましたね。日本を地域に分け、各地域ごとに休日として、祝祭日をまとめてしまう、とか。
 これは、休みを取りにくいからとか何とか、まことしやかな説明をしていますが、間違いなく、結果として日本から「祝日、祭日」を取り上げよう、そして、「休日」という意識だけ残そう、という発想です。
 「祭日」をなくすことによって、皇室廃絶の準備をすることにつなげているのは、自明の理、です。
 つまり、「新嘗祭」を「勤労感謝の日」とするのは、「追撃戦」の延長線上の計画だ、ということです。

 「GHQがなくなって、何年経ったと思ってるんだ?陰謀論も大概にしろよ」と思っている人、多いでしょうね。
 でも、「陰謀」はコミンテルンの専売特許みたいなものです。

 歴史的事実をつなぎ合わせて、筋道を見出し、それから筋の通った考え方を発見し、実生活での思考の役に立てる。当たり前のことです。
 そうやって手に入れた思考の形で、我々は日々の生活を成り立たせています。
 歴史とは教科書に載る載らないではない。GHQが始めたから、といって、GHQがなくなった今も、それがそれなりの筋道を持っていたとすれば、それは必ず後世に伝播します。
 正しいとか、間違っている、とかは全く関係がありません。「従軍慰安婦」や「南京大虐殺」を思い出せば、簡単にうなずけることです。
 その事実に、捏造された部分があれば、抽出される考え方は、全く違った結論を導き出すことも出来ます。
 更には、考え方の根は、「理」であるべきですが、孔子でさえ「心の欲するところに従ひて矩をこゑず」となったのは、七十を過ぎてからだったでしょう?

 つまり、一般的には考え方の根が、「理」、でなく「情」になっているのです。
 どんなに立派なことを、日頃言っていても、些細なことで怒ったり笑ったり、悲しんだりするのが普通の人間。哲学科で、熱心に勉強している大学生だからといって、殺人なんか絶対にしない、とは言い切れない。
 GHQが始めたことは、GHQがなくなっても、それを支える(手足となった)人々が継承、発展させて行きます。
 捏造した部分が明らかになれば、結論は百八十度違った方向に行きますが、それをさせないように、更に堅く口をとざす。或いは恥の上塗りならぬ「嘘の上塗り」をすることによって確固としたものにしていきます。
 (南京大虐殺は初め数万、次に十数万になり、二十万、三十万、ときて、今は四十万以上になっています)

 イメージからすれば木型の上に紙を貼り重ね、木型を外した、といったようなものでしょうか。
 本体はないのに、嘘の形が、さも本物のような顔をしている。「嘘も百回つけば真実に」です。
 
 GHQの中身(構成員)がマッカーサーの思いとは全く違った、コミンテルンそのものであったことを考えれば、容易に「理解は」、できることです。
 そして、それは、大学の、「社会主義思想学者による席捲」と、師範学校の廃止、普通大学卒の社会主義思想教師の激増により、悪名高き日教組教育へ、とつながっていきます。

 けれど、忘れてはならないこと。
 広がるのは教育界だけではない。法曹界もそうでしょう。裁判所、弁護士で、社会主義思想の持ち主はどれだけの比率なのか、想像できますか?そして、報道の世界では。だったら、経済界も?と思うのが普通でしょう?

 「新嘗祭」を「勤労感謝の日」としたことは、「天皇が、農民に感謝をする日、から、全ての労働者に感謝をする日に改めよう」との理由からということになっています。
 一瞥しただけでは、成程、と見えます。でも、ここには、巧妙に仕組まれたトリックがあります。
 「天皇が国民に感謝する」という言葉です。
 これ、最初に私が書いた「神への感謝」が入ってないでしょう?
 「天皇とは支配者のこと」、と、まるでサブリミナル効果のように思い込まされる。それによって、「農民だけでなく~」という展開につながる。

 支配者と、被支配者の意識を持たせ、敗戦後は「国民の総意で天皇が存在する」と、国民を天皇の上位に置き、国民の意志を変えることで、天皇廃止、皇室の廃絶につなげていく。

 道理を辿ったら、「勤労感謝の日」という言葉だけで、ここまで来てしまいました。
 常に「そんな程度のことで」と、看過してしまいがちなことの中に、「ジパノフォビア(日本嫌い)は、確かに隠れています。

 「あと5年以内に、とんでもないことになる」
 若狭氏の言です。
 それをくい止められるか否か。それには、我々の一人ひとりが、ちゃんと勉強するしかないのです。
 どんなことでも、一割がその気になれば、確実に方向を変えることが出来ます。
 一割の武士が、日本人の見事さを世界に知らしめたことを思い出せば納得できます。

 それからすれば、革命はその半分。3~5%の指導者と90%以上の愚民が居れば成功します。
 日本。愚民の準備は既に出来ています。

              (略)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「あと5年以内に、とんでもないことになる」

 日記を書いてから4年が経ちました。
 また、自民党に政権が戻ったから、一安心?もう大丈夫?
 そんなことありませんよね。

 「とんでもないこと」というのは消費税8%から10%へ、というようなことではないでしょう。若狭氏が予見されたのは日本を取り巻く世界の動静と、日本の対応について、だったと思います。
 そして、それをどうするかは日本人個々人の心持ちに掛かっている、と言われている。
 だから「日本人が知ってはならない」という米国をはじめとする戦勝国の意図を書名にして、歴史に対する日本人の気付きを、熟考を求められたのではないでしょうか。

 軍事侵攻されるかもしれない、仮想敵国があるのだという意識を持て、というような具体的なこともあります。
 しかしそれ以前に、まずは我々は
 「勤労感謝と新嘗祭はイコールじゃないのか?」
 、とか
 「神嘗祭、ってどんな意味があるんだろう」 
 というような、本来なら当たり前に考えておくべきことをしてきたか、と振り返ってみることから始めるべきなんじゃないかな、と思います。

 国への思いがバラバラでは力を合わせることはできない。
 力を合わせることが出来なければ、国のことは何もできませんから。
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未練はあるけど潔く!(何か違うぞ?)

2020年06月17日 | 重箱の隅
2013.10/27 (Sun)

 この標題は皮肉です。
 私は全くそんなことは思ってない。


 みのもんた氏が、月~土の朝のニュースショーの司会を降りました。
 理由は、「息子の不始末の責任を取って」。
 テレビでやっていたところは、みんな前日の降板会見のシーンで、「申し訳ありません」、と「妻だったら息子と刺し違えているかもしれない」を何回か流してました。

 「いくつになっても、息子は息子。その責任は取らねばならない」
 カッコいい!(だから、皮肉です、って。)

 初めは
 「三十も過ぎたら、本人の問題だろう、と世間も言っていた」
 が、段々に
 「辞めざるを得ない方向になってきた」
 そして
 「それが今の風潮じゃないんですか?」
 最後に 
 「息子さんに一言、言われるとしたら?」
 「バカヤロウ!」
 で、丁寧に礼をして退場。

 最後の一言は、息子にかこつけて、記者とその場の報道陣全員に投げつけた罵声だと思う。

 本当はそういうことじゃない、と、みの氏も、報道陣も百も承知での記者会見だったのではないか。

 視聴率が落ちている。6、7%しかない。
 それも月から土、の帯番組だ、局の「顔」、だ。出演料も法外だ。
 やめてほしいと言いたいけれど、誰が代わりにいるのだ。
 下手なことをすれば首が飛ぶぞ。

 そして、本人はやめる気なんかさらさらない。
 視聴率は取れない、出演料は高い、セクハラは日常的だ。
 けど、何か大きな失敗がなければやめさせることはできない。

 大体、このニュースショーの対象設定は基本的に低い。朝の早い時間に、分かり易く、できるだけ簡単に、でも、ちょっと「知ってるよ」的な雰囲気で職場の話題にできるようにしてある。

 以下のような雰囲気です。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   「天下国家を論ずる」     2011年7月08日
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

              (略)

 売り物は、みのもんたの「お姉様方」対象目線での、景気のよいコメント。それを後押しするコメンテーターのチームプレー。

 けど、この番組をバカにしてはいけないと思います。
 この番組の、程度の低さを嗤ってはならないと思う。
 この番組は「お姉様方」の目線(目の高さ)でつくられている。

 つまり、これがみのもんたを看板とするチームのレベルなのではなく、これが日本の「お姉様方」のレベルなんだ、ということなんです。
 昼の番組でやっていた時の「お嬢様方」を、「お姉様方」に言葉を置き換えているだけで、スタンスは何ら変わってはいない。

 そして、ここからが本当の問題なのですが、実際には、この番組は仕事に出る前のサラリーマンが大慌てで朝食を摂りながら見る、という時間設定だから、ニュースと論評(というより、寸評)は、早い時間に集中する。
 しかし、当然これも「お姉様方」対象の解説であることは、何回か見ていれば分かる。

 つまり、朝早くにこの番組を見て仕事に出かける人は、みんな「お姉様方」の目の高さで世間を見たものを、情報として仕入れ、出掛け、世事を判断する毎日を送っているわけです。

 「お姉様方」対象が、なぜいけないのか。一昔前(いや、二昔?)なら、非難轟々となる言い草を、私は、しています。
 みの氏言うところの「お姉様方」は、家計を握り(護り、ですね)亭主の尻を叩き、子供を育て上げて来た「逞しい日本の主婦」です。

 「社会のことを考えて来たか」。
 「理想の国家とは」、或いは「国家とは何か」、「人間とは何か」。
 「政治はいかにあるべきか」「我が国の進むべき道は」等々、考えて来たか。

 「生活が大変で、それどころじゃなかった。主婦をやってみなけりゃ、この大変さは分からないわよ!」
 これが大多数の意見である筈です。
 そして、それは全面的にその通り。異論はありません。

 「だから」、ということなんです。
 今になって、いきなり
 「テレビを見ただけで得た知識で、天下国家のことを語る」
 ことになるんですよ?

 「お姉様方」の目の高さで番組をつくる。その目の高さで天下国家を分析し、批評するということは、そういうことなんです。

 そうなると、その目の高さでつくられた番組を見て、出勤する人々はどうなりますか?
 毎日、本を読み、天下国家について考え続け、半ば論文のような日記を毎日欠かさず数十頁も書く何の変哲もないサラリーマン、が居たとしましょう。(まあ、滅多に居ないでしょうけどね)
 そんなサラリーマンが、この番組を見て影響されるでしょうか。

 そんな「みのもんたの朝ズバッ!」
 今朝、
 「ストレステスト」
 「玄海原発番組に関するやらせメール」
 「海江田氏、辞任に言及」
 の三つを一括りにして、論評していました。
 
 「海江田氏も辞めると言ってる。この内閣はどうなってるんだ。今はそれどころではないだろう」
 「ストレステストをやることは良いことだ」
 「あんな大事故を起こしても、電力会社の体質はちっとも変わってない」
 そして与良氏が
 「この対応、これまで何もして来なかった自民党ならどうするか聞いて見たい」
 だって。

 そんなもん、聞いてどうすんだ!

 ・・・・「だからテレビなんか要らないんだ。PCだけあればいい」
 という結論でいいんでしょうか?

 「お姉様方と大半のサラリーマン」
 は、放って置けばいい??

天下国家を論ずる


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 あれから二年と数か月。
 何かあるごとに
 「年金はどうなるのか」「この無駄遣い、結局は我々の税金なんでしょう?」
 「ネンキンガー」「ゼイキンガー」
 と叫び、「ほっとけない!」で括る。

 昼、やってた「サンデースクランブル」でしたか、誰かが言ってました。
 「報道に関して毎日なんですから、大きな影響力があります。だから私人ではない。公人です。普通の父親なら『お前何やってんだ!』、で終わるだろうと言ってたけれど、とんでもない。普通の父親が罪を犯した者を『お前何やってんだ!』、で終わらせるわけないでしょう?」

 お姉さま目線で報道をする。それもちっとも進歩しない。十年一日の如く、全く学ばない視線のままの上からの「やれやれ」と呆れてみせる見方。

 「サンデーモーニング」と合わせ、これがTBSの姿勢です。
 それに視聴者はうんざりしている。本当はそうだったんじゃないかな?

 視聴率が絶対。しかしそれが取れなくなった。で、ここは一つ刷新を。制作側はその好機と見た。
 お姉さま目線で社会を斬ることの安易さから、視聴者が離れ始めた。
 「いつも代わり映えのしないことをエラそうに」
 、と。

 ・・・・・なぁんて思ったんですが、まだまだ、擁護者は多いみたいですね。
 みんなテレビ見てるんですかね?
 その上で擁護しているのならば、日本の将来は、まだ暗雲が立ち込めている。
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「愚民国家へ」(下書きに拘っていた理由)

2020年06月17日 | 重箱の隅
2013.10/25 (Fri)

 日記用に、と用意した八十頁のノート。
 いつから使ってるんだろう、と思って表紙を見ると「5月18日」となっている。
 ということは、五か月もかかって、それもあと六頁だから一ヶ月平均十五頁しか日記を書いてない、ということになる。
 一ヶ月に十五頁。一日に半頁。

 勿論、そんなわけはない。相当量、直接キーボードに向かって、転載した他ブログの記事に触発されて苦心惨憺、怪しい文を打ち込んでいるのだから、それなりの分量は残している。(今、数えてみたら百近くありました)
 対して、ちゃんと書いている下書きとしての日記は、ああでもないこうでもない、と矢印をそこら中に付けたり、番号付けて文を前後させる、という思いっきりアナログなやり方。
 ぐちゃぐちゃな文字と相俟って何が何だか分からない「文章と格闘している」、みたいな日記、「書く」というより「作る」みたいな日記は、一ヶ月で十五頁平均しかつけてない、ということです。
 で、前回書いたのは「是非を決する己の頭」。
 もう三週間も前です。

 直接打ち込んだものの方が文字も見易い(当たり前ですが)、移動・差し替えも簡単にできる。文章のまとまりということになると、手書きにひけをとらないどころか慣れると直接打ち込んだ方が圧倒的に有利だ。
 それなのに、やっぱり手書きでノートに、というのが一番良い、と思う。何故なんだろう。直接打ち込む方が能くまとまっている。でも何かが違う。ただの思い込みか?

 それが今日になってやっと分かりました。

 その理由は、この自分でも読めない時のあるぐちゃぐちゃな文字にあったのです。
 差し替えをする。前後の辻褄を合わせるために、ただでさえぐちゃぐちゃな文字なのに、更にそれに輪をかけた、蚯蚓ののたくったような走り書きを追加する。
 それを後で、順を逐って読もうとする。当然のように読めない。
 で、どういうつもりで書いたんだったろうか、と自分の書いた蚯蚓文字相手に古文書の読解みたいなことをしなきゃならない。いい加減うんざりする。毎回そうです。けど、これが重要な鍵でした。
 
 大事なことは考えのトレース、でした。蚯蚓ののたくったような字を判読することで、何を書いたか詳細に思い出すことが、私には一番大切なことなのでした。

 一度考えたことを、もう一度丁寧に振り返ってみる。
 意外にやってないんですよね、普段。私だけかもしれないけど。
 でも、大方の人だって実は、言いっ放し、やりっぱなしなんじゃないでしょうか。
 日常生活で起こる個々の問題って、さほどに重要な問題でないこと多いですからね、だから「まっ、いっか」って。「いつまで過ぎたことをグジグジ言ってんだ。そんな暇があったら先を見ろ!我々は未来に生きるんだ」、なぁんて。
 人間って(特に日本人は?)忘れっぽいというか、万事折り合いをつけて生きてるもんだから、細かいことねちねちと考え直すことをしない。

 ところが、考えることを進める場合は辿って来た道をしっかりと、それこそ古轍を踏むように繰り返して見なきゃならない。そうでないと確実な前進は望めない。

 何だ。結局は時々書いている習い事と同じではないか。
 同じことを繰り返し、繰り返し、寸分違わぬようになぞっていく。その繰り返しの果てに、真っ白な紙の上に思い通りの線が引ける。

 先日、或る尊敬する方からこれと同じようなことを教示されました。
 「何事も、今十回できたなら次は十一回にしよう、十一回できたら十二回できる筈だ、と取り組んで行く。その先にこそ百回、千回できる現実がある」
 といったような話でした。
 以前に日記に書いた書家の話も同じ理屈です。「千里之立行起一歩」、です。
 それを毎回繰り返す。

 書家の話だって、この「十回できたら~」の教示だって、知っただけではしょうがない。例の弁証法の三大法則だって暗誦できるだけではしょうがない。
 それを繰り返し繰り返し適用しようとしてみる。見事適用できたら終わり、じゃなくって、それからも繰り返し繰り返し適用し続ける。
 全く同じ考え方で(算数の加減乗除だってそうでしょう)、とにかく繰り返し繰り返し、「丁寧に」やってみる。

 「丁寧に」文字を書き続ければ字が上手になるんですから、
 「丁寧に」考えれば考えも上手(?)になるでしょう。

 それをやらないで、次から次へと出てくる知識(情報)を次から次へと捌いて(裁いて)行くのが、世間でいう「是々非々」です。
 「是か非か」、裁くのが忙しくって、上手になる努力、できないでしょう?

 それは「愚民への一里塚」。
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