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CubとSRと

ただの日記

「一人なら龍ほどの力を持つ」?・・・・。なるほど一理ある

2020年03月10日 | 重箱の隅
2017.01/12 (Thu)

 前回、「もう用はない。必要なことは全て手に入れた」という姿勢では、劣化版からのコピーが出発点ということだから、量質転化があっても本物を超えることはできない」というようなことを書いた。そこに「恩(教えた者に対する肯定的な見方)」がないのだから、そうなるしかない、と。
 
 彼らの唯物(ただもの)的思考(ただの物としてのみ捉えること)の結果、作り続けられることになる劣化コピーは、何も「物」だけではない。
 形に現れない「モノ」にも、それは起こる。心持、意欲、意識、気概などと言われるものも、取り組み方次第で量質転化は起こるものだし、見えないからこそその量質転化には雲泥の差があるだろう。けど、見えないものだから、最初にそれを切り捨てて学ばなければ、ついに分かることはない。
 
 「今は存在しない新しいもの」、を作り出すのは人間だけだ。そのために手足に指令を出すのは頭(=精神)だ。頭が向上しなければ更なる新しいものは作れないということだ。
 頭を育てることなくして、技術のみでコピーを繰り返す。
 教えられたことがうまくいかなくて「いい加減なこと教えやがって」と舌打ちしながら工夫を重ねるのと、「なぜうまくいかないのだろう。あんなに容易くやって見せてくれたんだけど」と苦しみながら工夫を重ねるのとでは、同じ結果は生まれない。

 たとえて言えば、「教えてみろ。習ってやるから」という傲慢な気持ち。例えば「習うのはいいけど、教授料が高過ぎる。隙を見て機密事項を盗んでやろう」という姑息な心積もり。そういう姿勢から手に入れるものと、謙虚に習おうと自らに言い聞かせ続けるのとでは到達点が全く違う。手に入れた技術自体も違うけれど、それを今後用い続けようという時の心がけに雲泥の差ができることは想像に難くない。
 
 ・・・ということで、すっかり遅くなってしまった「中国人は一人なら龍だが~」のことなんですが。

 「中国人は1人なら龍ほどの力を持つが、3人集まると虫けらほどになってしまう」
 「日本人は1人なら虫けらだが、3人集まると龍ほどの力を持つ」
             http://news.searchina.net/id/1626190?page=1

 今回のこれまでの日記に書いたことを下敷きにすると、彼の国の人は「恩」を感じて、或いは習う際、教授方を肯定視して、「学びてこれを習う」ならぬ「信じてこれを倣う」という態度が、少なくとも社会主義国家建設以降は、教育されていないらしいことが看て取れます。
 そうなると彼らの話に引用される故事や慣用句、常識とされている語句等も、意外にいい加減にしか把握されていないのではないか、という疑念が起こってきます。それ以前に、「社会主義国」、なわけですから、「中国四千年の歴史」なんて、そのうちの三千九百三十年ほどの国の在り方は否定するわけですからね。
 だから社会主義革命を起こしたわけでしょう?それとも「批判的に接取した」のだからいい、のかな?だから墓まで暴いて否定した筈の学者の名前を冠した「孔子学院」なんてのを世界中に作ることができるということかな?

 そんな彼の国の、世界に誇る存在である「龍」、です。本意を考えたことがあるのでしょうか。ただ何となく使っているだけではないのでしょうか。
 もしかしたら日本人のほうが、よっぽど龍について大事に思っていて、考え、敬して「かくありたい」などと思っているんじゃないか、なんてことを思うんだけど、どうでしょうね。

 「龍」とは何か。勿論、架空の存在です。ただし、怪し気な魔物、ということではなく最高の霊的存在であるとされています。日本では神そのものとして祀られることもあります。那智大社の大滝は飛龍(ひろう)神社というのだそうですが、いうまでもなく「瀧」の文字の通り、「龍」の姿をそこに感じた古人が祀ったことが始まりでしょう。
 雲を呼び雷を起こし、天空を自由自在に駆け回る圧倒的な力を持つ存在。「龍虎」と並び称されることが多いけれども、地上の虎と天空の龍は明らかに扱いが違います。ついでに、黄龍は皇帝の象徴でしたっけ?

 そんな想像を絶する力を持つものが「龍」。
 そうなると「中国人は1人なら龍ほどの力を持つが~」?えっ?意味分からん。どこが龍だ?どこが龍に重なるんだ???
 しばらく考えました。そしてやっと見つけました。確かにありました、「龍」に重なるところが。
 「天空を自由自在に駆け回る」のが龍、です。この中の「自由自在」が彼らと見事に重なる。「中国人は1人なら龍の如く【自由自在に】駆け回る」。
 自由自在。自らの思った通り、欲望のままにやりたい放題の行動をする。「傍らに人無きが若し」。「傍若無人」、です。
 一人なら周囲が眉を顰める。二人目は自身が眉をひそめながら、でも自分も周囲に嫌な思いをさせていることに気が付かない。
 これが三人集まれば。みんな「自由自在」だから、協力とか団結なんて思いもしない。とにかく「自分の自由自在」の邪魔をするものはみんな敵だ、とばかりに叩き始める。元が「龍の自由自在」ならぬ、「小人の傍若無人」でしかないから、龍の力は持ってない。

 「中国人は1人なら龍ほどの力を持つが、3人集まると虫けらほどになってしまう」
 「一人なら(実力もないのに)龍だ(と思い込んでいる)」けど、(ただの傍若無人でしかないから、)「三人集まったら(力を合わせるどころかお互いを叩き合う)虫けらだ」
 本当はこういう意味のように思うんですけどね。さて、どうでしょう。


 日本人に関しては言わずもがな、なんで省略します。
 ただ、戦後教育を受けた我々には、ちょっと褒め過ぎかも、という気がしないでもない。
 
 

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技にする

2020年03月10日 | 心の持ち様
2016.02/07 (Sun)

 先日、一日の予定を立てて、その通りにできた時は充実感がある、と書いた。
 言ってみたら、くだらない、とまでは言わずとも、まあどうでも良いような、さほど効果は見えないようなことだって、充実感があるし、それは確実に自身の向上に繋がっている、と。

 そんなことの一つについて。
 毎朝、雨が降っていたり寝坊したり、でなければ散歩に出ている。その際、鍵をかける。
 ドアには鍵穴が二つある。一つは差し込んで半回転させ、そのまま抜く。もう一つは半回転させて、鍵が掛かったら元の状態に戻し、それから鍵を引き抜く。

 早朝のこと、薄暗くて手元が能く見えない中で鍵を差そうとすると、鍵穴が半回転していて、どっちを向いているのか能く分からない。指で触ってみれば、すぐわかるのだが既にしている手袋を取るのが億劫だ。
 で、大体この辺か、と見当をつけて鍵の先端を当ててみる。僅かにずれる。
 僅か、だって、鍵穴には「思い遣り」、なんてないから、いつまでたっても鍵がささらない。

 で、業を煮やして手袋を取り、指先で位置を確認して、といったことを、しょっちゅうやっている。結局、無駄に時間を費やしているわけだ。
 最初から手袋を取って、そうやれば良いのに何故しないのか。
 書いた通り、「手袋を取るのが億劫だから」という実に怠けた理由。
 歩き方の工夫をしないのと同じく、漫然と鍵を開けようとしている。工夫も集中力もない。

 で、そんなことを思って、試しにちゃんとやってみようとすると、当然、実にスムーズに色々なことができ始めることが分かる。
 指先で鍵穴に触れると同時に向きを確かめ、指先に鍵を添わせる。
 無駄な動きはないだろうが、その代わりに明るい中で見れば、おそらく随分と気障な手つきをしていることだろう。
 上手な鮨職人が踊るようにして鮨を握っているのが頭に浮かぶ。
 けれど、段々になれて自然に行うようになれば、きっとそれは茶事の作法のようにごく自然な、流れるような動作になるのではないか。美しい所作、立ち居振る舞いというのは、きっとこうやってできるのだろうと思う。

 ということは、何かについて考えてみようとする場合だって同じなのではないか。
 やたらに情報の収集に時間をかけるより、こうやって目的達成のため、それに沿った動作を無駄なく丁寧にやろう、とする。
 また、或る事柄についてきちんと関連することを把握しようと留意しながら情報を並べ直そうとする。
 最初は気障な考え方に見えるかもしれないけど、慣れてくればその方がよっぽど「自然に見える」ようになるのではないだろうか。
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「二つの遷宮(せんぐう)」から

2020年03月10日 | 重箱の隅
2014.01/25 (Sat)

 正月初めに、「二つの遷宮」と題して伊勢と出雲の遷宮について採り上げたNHKのスペシャル番組がありました。
 それがどうにもこうにも敬神の念などこれっぽっちも感じられない番組で、「何とかひとつ、この番組について日記を書いて置きたい」、と思いはするものの、とにかく俗に言う「突っ込みどころ満載」というか、書き始めたらどんどん話が長くなり、脱線しまくって支離滅裂になりそうな気配(いつもだろ?という突っ込みは、なしですよ)。
 とにかくそれだけ根本的に何かが違うんです。

 御覧になられた方も多いのでは、と思うのだけれど、不思議なくらいにブログの題材として見掛けることがなかった。もしかして、あれは優れた番組だと思われたんでしょうか。それなら讃辞に溢れたエントリーの一つや二つあっても良いのだけれど。
 反対に、「酷い!」となれば数年前の「平清盛」の時みたいにバッシングがあったでしょうし、ね。どうだったのかな?さほど注目されなかったのかな?
 「今どき、テレビなんか見ないよ」って?

 番組紹介を見て納得しました。
 二十年に一度、六十年に一度の遷宮が、奇しくも昨年初めて、それぞれの鎮座以来、同年に行われたんです。けれど最初っから、そのことを採り上げて、という番組ではなかったのですね。
 そこではなく、そこから、日本書紀に見られる皇統継承の形を、神話として絶対肯定、固定化しようとしたのではないか、という推理ドラマだったんです。

 古代シナ語の専門家が一文献として日本書紀を読んでみると、純粋な漢文で書かれている巻と、「文字も言葉もでたらめで、間違いだらけ」の巻と、がある。
 それでシナからやってきた者が書いた巻と、彼らに書き方を習って書いた巻がある、ということが分かる、と。
 前者をα群とし、後者をβ群とすると、α群のほとんどは書紀後半で、β群は第一巻、神代巻以降の、日本の創建期の部分となる。

 つまり日本書紀の大部分は、後半が先に書かれ、それ(そこに書かれた事実)を基にして前半である「神話」が書かれ、「神代以来の歴史がつくられた」、のだという事です。もっと言えば、「皇室」ではなく「天皇家」を正統とする歴史が「創話」されたのだ、ということですね。

 「あれ?ちょっと待てよ?」です、当然。彼の国では歴史書というのは当時の王朝を「正当」なものとするために書かれて来ました。初めは「正統」だったろうけれど、あれだけ長年にわたって多くの異民族を吸収し(侵掠後の定住も含む)、大きくなって来た国です。とてもじゃないけど「正統」、だなんて言えない。
 だから天の意を受けた「正当」が、人々を納得させる唯一の方法です。その分、「天意がどこにあるか」は大問題で、そこから「天意」が移ることにより、「革命」が起きる。
 「革命」により新しく成立した王朝は「正当」とされる。「天意があったから王となったのだ」、と。
 そんな国の人が日本にやってきて歴史書を言われるがままに書いた。この時点では「正当」どころか「正統」であった筈です。
 それをこともあろうに「倭人」はそれに更に輪をかけ、そこから「神代史」までつくってしまった。彼等シナ人でさえやらなかったことを、倭人はやってしまった。
 そういうことではないですか。

 「文の国」では、紙に書かれたことが事実となります。あったか、なかったか、ではない。とにかく何かに「記された」ら、「あった(事実)」となるのです。「南京大三十万人」と書かれた時点で「事実」とされます。当然、考古学は成立しません。書いた者勝ちです。そこにあるのは受容の強要、です。学問、学び問う姿勢は許されません。
 竹田恒泰先生は彼我の違いを「古事記の読み方」で端的に表現されていましたね。曰く、「古事記は事実ではなく、真実が書かれてあるんです」。
 物事の道理を、筋道を、考え方を書かれてあるのだ。だから我々はそこから学び取ることが必要なのだ、ということです。

 「受容を強要される」のでは、あるべき人の世とは言えない。「古事記は事実ではなく、真実が書かれてあるんです」
 (物事の道理を、筋道を、考え方を書かれてあるのだ。だから我々はそこから学び取ることが必要なのだ。)
 見事にこれは神道の発想です。
 八百万の神々を感じるということは、又、「見てござる」ということは、そこから多くを学び取って生きよという事でもあります。
 日本では仏教だって「山川草木悉皆仏」と教えます。
 田中卓博士は
 「天壌無窮の神勅が歴史を動かし、歴史が神勅を実証する」
 と書かれています。
 振り返り、神勅を範として歴史をつくり続け、歴史を見詰めることで範の正統を確認する、とでも言いましょうか。

 「我等シナ人でさえやらなかったことを、倭人は無謀にもやってしまった。」
 彼の国の人々ならそう感じるだろうことを、NHKはこの学者を通して「日本書紀は『天皇家』の私的偽史である」と言わせたという事になります。アサヒ的手法、とでも言いましょうか。「おれが言ったんじゃないよ。みんなが言ってるんだ」、みたいな。

 偽史ととるか。それとも建国の熱を、神話に託したととるか。
 持統天皇を天照大神と捉え、国譲りの神話を垂仁天皇の頃の実話と捉えることであっても、そこで「強引な皇位継承」「各地の王の征服譚」として、「『天皇家』はただの豪族」とすることもできるし、反対に、「国譲り」「皇統の継承の形」として、「『皇室』は唯一無二の国体(國體)そのもの」と捉えることもできます。
 いずれにしても、なくなったら、再興はできないのは確かなこと。

 神宮と出雲大社の遷宮から、NHKは皇室、国体(國體)を霧消させて日本を世界の中に溶け込ませようとしているのではないのかな、・・・なぁ~んてことを思いました。国がなくなれば、国同士の戦争はなくなりますからね。

 内乱や紛争はなくならないでしょうけどね・・・・・って、それじゃ駄目じゃん。


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取り敢えずここまで(考える準備)

2020年03月10日 | 重箱の隅
2016.01/28 (Thu)

 一回目では「コピペはあかん。筆写は考える可能性はあるけど、その方がマシ、という程度。『本当に考える』にはなかなか至らない」
 二回目は「考えるための知識はない、考え方もない。だから考えが(でき)ない。なのに、『考えを述べよ』と言われたって・・・」
 で、今回は、「とにかく『考える』とは何か」で、一応、終わろうと思います。

 「考える」というのは、「考え方」に沿って「考え」や「事柄」を整理する、「考え方」という各自の「公式」に則って「考え」「思い」「事柄」などを、隙間なく、塩梅よく、並べてみること、でしょう。
 「考え方」で以て、「考え」「事柄」を整理し直し、事の仕組み、本質を明らかにする。
 何故「考え方によって」、なのかというと、まずは筋道を立てる、或いは筋道を見出すため、です。とにかく何らかの筋道を立てなければ、整理はできません。整理してあったら、方法さえ分かっていれば、すぐに引き出せる。
 何より、整理してあれば、とにかく言葉を用いて他人に説明することができる。他人がそれを理解できるか否かは別にして、ですけどね。それは他人(受け手)の理解能力の如何に掛かっているわけですから。

 「考え方」に沿って、「考え」「事柄」を整理するためには「考え」「事柄」自体を鮮明にしなければならない。その作業が「措定」、と言えるでしょうか。早い話がはっきりとした「知識」です。

 ・・・と、まあ、【措定された「考え」「事柄」を「考え方」に沿って並べ】てみる。それが「考える」ということだ、と思っていたのですが、今回、一番初歩的で大事な部分をしっかりとは見ていなかったことに気が付きました。
 名画の修復で一番大事なことは、できるだけ簡単でできるだけ安価であること、なんだそうです。誰でもできて、いつでもできなきゃ完遂は危うい。
 「考える」ということも同じく、人間全てがそれなりにできて、いつでもできなきゃ(しなきゃ)ならない。「考え方」「考え」「事柄」等に質量の差はあっても、「考える」という作業そのものは誰でもやってるのが社会です。ならば、それらを鮮明に(しようと)するだけでも、様相は変わって来るんじゃないか。

 で、その「一番初歩的で大事な部分」とは何か。
 並べるときに「措定」された「考え」「事柄」を、鮮明にするもの。それこそが「てにをは」じゃないか、と思うんです。
 「何を大袈裟な。今更なことを。そんなこと誰だって知ってるぞ」と言われることでしょうけどね。
 
 でも、「てにをは」という言葉自体は聞いたことがあっても、それが何を意味するのか立ちどまって考えたこと、ってあまりないんじゃないでしょうか。
 藤原定家辺りから意識されるようになった「てにをは」は、英語の「for,in,to,by」などのように物事の関係をあらわしますが、英語等のそれが動的な物であるのに対して、位置関係に重きを置いた静的な、言ってみればじっくりと「見詰める」場合に、より力を発揮するのが「てにをは」のようです。日本語に動詞よりも形容詞的な言葉の方が多いことも関係しているのかもしれません。

 「てにをは」というのは、別に難しいことじゃなくてただ、実例を並べただけの単語です。
 「て」は「~で」。旧仮名遣い(歴史的仮名遣い)だから、濁点を書いてないだけのこと。「に」は「~に」。「を」は「~を」。「は」は、そのまま「~は」。
 丁寧に説明しようとすると、「形容」の必要から形容詞がつくられることになります。丁寧に説明しようとすると、物事の関わり(関係)を明確にしなければなりませんから、「てにをは(助詞)」を的確に使わなければなりません。
 シナは集合国家だから誰でも容易に理解できる動詞が中心の文化です。だから物事の仕組みが大雑把にしか捉えられない、という宿命を持っています。

 最後になって要らんことを書きましたが、「考える」ということを行う「準備」として必要なものは、明確な「知識」と「考え方」だと思います。しかし、この「てにをは」の用い方次第で「考え」の深まり方は全く違ったものになるのではないでしょうか。

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考える準備 (続き)

2020年03月10日 | 重箱の隅
2016.01/27 (Wed)

 (考える準備)から続いてます

  とにかく続きを書きます。
 「コピペはあかんやろ。筆写はまだ考える可能性があるからいいけど」、みたいなことを書いたんですが。(まとめると、こんなに短いんですね。びっくり)
 「でも、とにかく自分で考えなきゃ役には立たん。自身の向上は望めない」。
 そう書いたんですが、では、はて、『考える』、とは何ぞや。

 先日来、何度か耳にしてるんですが。
 青山繁晴氏は近畿大学で教鞭を執っておられるそうです。
 テレビや、ラジオなどで氏の肉声をご存知の方は多いと思いますが、あの通りの熱血漢、というか憂国の士という印象のままに、猛烈に熱を込めて、真正面から近大生に語りかけられるんだそうです。
 「語りかけ」、と書きましたが、おそらくは「檄を飛ばす」、みたいな口調なんでしょうね、講義の翌日は氏の声は嗄れ果てて、天竜源一郎と見紛うばかり、ということが度々(毎回?)ある。
 何故、そんなになるかというと、学生の反応が鈍いから、らしいのです。それで氏はますます熱を込めて話し掛ける。でも、反応は今一つ。
 「好きで受講に来たのではないのか!」と、熱情のかたまりである氏は、思う。
 そして当然、氏は更に声を励まして学生に語り掛ける。けれど・・・・・、の繰り返しで、氏の声は天竜源一郎になる・・・・。

 自分が学生だった時のことを思い出しました。
 「靖国神社を国の管轄にすることの是非」が問われている時でした。
 
 「日本は憲法によって『信教の自由』が保障されている。だから今は宗教法人である靖国神社に『戦没者の慰霊』を委ねるということは違法である。それ故、靖国神社を無宗教の慰霊施設として設定し直そう」。
 「国のために命を捧げられた先輩が祀られているのだから、国が管轄するのは当たり前ではないか。それなのに、今は有志や遺族会からの寄付によって辛うじて運営されている。そんなことで良いのか」。
 これが提起された問題でした。

 「そりゃそうだろうな。国の為に命を捧げられたのに、国は知らん顔、ってのは恥ずかしいことだよ」。私も単純にそう思っていました。
 ところが、阪大だったか、から客員として教えに来られていた先生は「国の管轄にしてはならない。それでは法に背くことになる以前に、『靖国神社でなくなる』のだ」、と力説されました。
 私にはその意味が全く分からなかった。だからひたすら先生の話を聞いて、先生の考え方を学ぼうとしました。講義の度に「ああ、そういうことだったのか」「そういう風に考えるのか」と思っていました。他の受講生も大半はそうだったろうと思います。

 で、困ったことは、毎回、最後に、「質問しろ」と言われること。けど、質問をするだけの知識も考えもない。
だから「先生の話から『考え方を習いたい』」止まりで、質問する頭自体が、ない。当然、質問のしようもない。
 短期間の集中講義だったので、余計に手も足も出ない。一言でいえば、まだまだ、ただの「あほ」、なわけです。「質問する気がない」、のじゃなくて、「実力がない」。
 結果、誰も質問しない。(みんなアホだったかどうかは分かりませんけどね)
 「分からないところ(こと)」が「分からない」。

 それで段々に、先生の口から、挑発的な言葉が出るようになる。発奮させるために、怒らせて、何か直截な心情を吐き出させようとされているのだということは感じていた。けど、上記の理由で何も言えない。だからどれだけカチンとくることを言われても黙っているしかなかった。
 匙を投げられたのだろうと思う。確か翌年には来られなかったのではないか。
 こちらは口惜しさ半分、憤り半分。
 先生に挑発されたことに、ではない。何の反応もできなかったことに、だ。

 青山氏の講義の受講生もそうなのだろう。凄い先生の前で、圧倒的な実力差の前で、為す術なく、ひたすら傾聴するしかない。
 「考えろ」、と、或いは大人に対しては「一緒に考えましょう」と言ったって、分別があればあるほど、まずは聞き、(青年の向こう見ず、はないのだから)ちゃんと理解しようとする。当然「聞くばかり」、になる。
 「自分で考えなきゃ」と言いながら、「『考える』とはどういうことか」をはっきりと措定しなければ、具体的な方策を案出することもできないのだ、ということをすっかり失念していたのではないか。

 で、「『考える』とはどういうことを指すのか」。


                     (また続く)

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