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CubとSRと

ただの日記

手水の使い方、書いてませんでした

2019年12月24日 | 神社
 参拝する前、参拝時、最大限の努力をしますよね。
 まさか咥えタバコで参拝する人はいないでしょうけど、
「どうやってお参りしたら良いか分からないから、隣の人のやってるのをまねようと盗み見をして~」
、という人、結構いるんじゃないでしょうか。

 「神社での参拝?、大事なのは心だ。一所懸命に祈ることが第一」
と思っている人は、意外に多いようです。そりゃ、勿論、心です。懸命に祈る、というのも間違っているわけじゃない。
 でも、本来、参拝って神前に頭を下げに行くわけですから。何かを要求しに行くわけじゃない。「謝罪と賠償を!」、・・んなわきゃない。

 参拝は「穢れを祓い、無私無欲になって神前で頭を下げる」。
 これだけです。
 でも、これだけ単純なことだからこそ、「大事なのは心だ」という人に傲慢、或いは大雑把な気持が湧いてくるおそれがあるのでは、と思います。
 「要は心だから」、と思う気持ちにほんの少しの不安が混じると、一気に一挙手一投足にためらいが出てくるでしょう。
 神道は、教理を示す経典がないので、形、作法から入るしか、その境地を実感するすべがありません。
 「どうやって参拝したらいいのか分からない」、という人が
 「要は心だ、気持が大事なんだ」といくら、自分に言い聞かせて見ても、作法を知らなければ、やっぱり心のどこかに不安が残ります。
 また、「靖国神社参拝をするんだ」「要は心だ」と、二拝二拍手一拝ではなく、神前で一礼しただけで帰ってきた総理大臣がいましたが、戊辰の役以来の靖国の大神に赤心を明かしたことになるのでしょうか。
 こういう作法に外れたことをすると、そこに不安、心の揺れ、が生まれる。やっぱり穢れにつながるものです。
そんな不安や、小さな穢れと対決するより、一点も曇りのない「明(あか)い心」で参拝するほうが良い。(あかごころ。赤心とも書きます。赤子も穢れてない子の意)

 前置きが長くなりました。
 では、まず手水の遣いかた。
1、右手で柄杓を取ります
2、水を掬い、左手(主に手のひら)にかけます。(左手が主導します)
  残り半分を右手にかけます。これで、体外は祓えました(右手が体外の象徴)。
3、もう一度、水を掬い、左の掌(たなごころ)のくぼみにいれ、それを口に含みます。すぐ、吐き出します。これで、体内もきれいになりました。
4、柄杓を立て、半分残っていた水が柄杓の柄を流れ落ちるようにします。これで、柄杓もきれいになりました。

 これでやっと普通に言われる「参拝」に向かいます。
 でも、実は手水を使うところから、参拝は始まっているということになります。その「境地」に至ろうと努力し続けているわけですから。
 水によって心身を清め(祓い)て神前に詣で、拝礼で誠心を明かす。

 二礼二拍手一礼の前後に会釈を入れてみると、より、気持が集中します。
 礼は、できるだけ首を曲げず、どちらかと言えば頭を上げるくらいのつもりで腰から曲げます。
 腰も、曲げるというより、尻を突き出すくらいな気持ですると、他の人からは最敬礼のように見え、自身もあまりの窮屈さに雑念の浮ぶ間がなくなります。

 国家一族等の平和を御願いするのは、拍手の後の一礼の時だけです。


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かしわ手をうつ?

2019年12月24日 | 神社
 今頃になってこれを書くのも変なんですが、やっぱり「過ちては改むるに憚ることなかれ」、ですから。

「神社に参ってかしわ手を打って、、」と以前よく聞きました。 
「かしわで」?何で「かしわ」?
漢字で書くと「柏手」。何で木の名前?

勘の良い人は、もう気付かれたでしょう。
「柏手って、書き間違いじゃないか?ほら『柏手』じゃなくって『拍手』の。」

その通り。手を打つことを「拍」と言います。
神前で手を拍(う)つ。自身の穢(けが)れを祓(はら)い、周囲の穢れを祓う。

二礼(拝)して、より謙虚になり、二拍手して自身、周囲の穢れを祓い、最後に、無私無欲の一礼(拝)。全体の前後に会釈を付けてもよい。

とにかくいつも穢れを祓い続ける。無私無欲で頭を下げる。(手を合わせて拝んだりはしない)

「今年は、初詣に行こう!」と決心された方。この形なら、お願いなんてしていられませんよ。

その代わり、その姿は周りの神頼みの参拝者に、「何だか知らないけど清々しい気持ち」を感じさせるかもしれません。 

蛇足ながら。
「かしわ手というのは、手の形が柏の葉の形に似ているから、かしわ手というのではないか」という説もあります。
ただ、「穢れを祓う」ために手を拍(う)つということを考えたら、ここで「柏の葉に似ていること」を持ってくる必然性はないのでは?と思います。

2010.01/01
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こんな神様

2019年12月23日 | 神社
 もう十数年前のことですが。

 東名高速道のS・Aで休憩した時、S・A内に立ててあった風にはためく幟の文字が、視界の端に入り、ぎょっとした。
 そこには「アイスクリ-ム」の文字があったんだけど、何と、
 「巨乳アイスクリーム」と書いてある!!
 「え?・・・・え・え~~っ?!」

 よく見たら「巨峰アイスクリーム」だった。
 何だ!紛らわしい。

 ・・・・私がスケベ?・・・なのかな?
 巨峰は好きで、よく食べるけれど。


 古事記に「おおけつひめ」の話があります。穀物の神様です。目・鼻・口、果ては尻からも食べ物を出す。豊作、豊穣の神様です。
 その食べ物をつくるさまを覗き見してしまったスサノヲ命が、
 「そんなものをオレに食わせる気か!」
 、と腹を立てて殺してしまう。

 おおけつ姫が大きな尻から食べ物を出す・・・・って???
 「え?・・・・え・え~~っ?!」でした。
 何より尻から穀物って・・・・。きったねぇ~。

 ですが、実は「おおけつ姫」という名だからと言って、お尻が大きいと言うわけじゃない。
 「けど、『おおけつ』だから『巨尻』・・・」
 だから、違いますっ。

 この神名は「おほ」+「け」+「つ」+「姫」です。
 「おほ」は「大」。「つ」は「~の」。
 それで、「け」と言うのは「食べ物」の意味です。
 後の世に食器のことを「け」というようになったようです。こんな歌があるでしょう?
 「家にあれば笥(け)に盛る飯を 草枕旅にしあれば 椎の葉に盛る」
 ー家に居るならば笥に盛る筈の飯だけれど、旅の空の下だから、椎の葉を食器とする。ー

 伊勢神宮には御饌殿(みけでん)という建物があります。朝に夕べに天照大神に献ずる食事の用意をする場所です。
 「け」は食べ物を指すのですから、「大いなる」、「け」、「の」「姫神」という意味で、「おおけつ姫」は、「食べ物、食事全般を司る姫神様」ということです。
 「立派な(大いなる)、食物、食事全般の姫神」。
 それが大宜津比売、です。


 石見の国一宮の物部(もののべ)神社に、大田(おおだ)市駅から向かう途中、或る由緒正しい神社の名前が目に入ります。
 その名は「新倶蘇姫神社」。
 
 何て読むと思います?
 そうです。御想像の通り、「にいぐそひめ神社」。
 ・・・・・これは、どうも・・・・・・。

 意味は?と調べてみると「新しいクソの姫神」だって・・・・。
 そのまんま、じゃないか!
 しかし、何ともえぐいと言うか気の毒と言うか・・・。だって、姫神様ですよ?
 姫神様に「くそ」って・・・・。ひどい。

 そう思いながら、でも、考えました。
 資料にもあったんですが、「くそ」というのは、今のような「汚いもの」という意味ではなく、「肥料」の意味であったということです。
 でもねえ、「くそ」、ですよ、「糞」。

 しかし、これ(この感じ方)、ちょっと変です。
 日本で人糞を畑の肥料に、とするようになったのは戦国末期から。大陸から伝来した農業技術なんだそうです、人糞を畑に撒くのは。それに「肥え」とか「肥やし」と言います。良い意味です。
 江戸期になると、江戸市中の長屋などは共同便所ですから、一箇所に集められることになる糞尿は、近郷の百姓が金を出して買って行ったそうです。これもやはり金肥(きんぴ)です。見事なリサイクル。お金は大家の収入となった、とか。

 元に戻ります。
 古事記や日本書紀が書かれた頃には、人糞は肥料にされていたわけではない。「糞」という字を使ったから、人糞、みたいなイメージがあるけれど、本来の「くそ」にそんな意味はなかったと言えるんじゃないでしょうか。

 「くそ」は「く」と「そ」、です。「そ」とは「蘇」のこと。最近はテレビでも採り上げられるようになりましたが、古代の乳製品、チーズのことです。
 そして「く」は「倶」の字が当てられていますが、「具」「供」でも同じ。「供える」、です。用意、とか助ける、の意味を含んでいます。

 こう考えると、ここで使われている「倶蘇」は一番身近なところで言えば、牛糞、と見るのが妥当なところでしょう。
 牛を飼い、牛乳を用いて「蘇」をつくり、牛糞を肥料とする。そんな新しい農業技術を実践する一族が拓いた土地の産土神。それに祖先神、氏神として「新倶蘇姫」の神名を献じた。
 当時の、最先端の農業である「酪農」をやる一族がこの地に住んでいたという証拠が、この「新倶蘇姫神社」である、ということになります。

 古事記、日本書紀の書かれた頃、田畑では一体どんな作物が作られていたのでしょうか。現在、日常に我々が目にする食物のうち、穀物以外の農作物というのは当時ほとんどなかった、ということを考えたら、「肥料」というのが違って見えてくることでしょう。 
 そうなると「くそ」は「糞」や「屎」ではない、ということも見えて来ます。

 「今」の眼で、快刀乱麻を断つが如くの勢いで全ての物事を裁定するのは小気味良いことではあるけれど、それでは歴史の存在価値は皆無になってしまいます。



2012.05/19
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神様の通り道 (後)

2019年12月23日 | 神社
  「敬神」のような「経験のない感覚(境地)」のように、これまで持っていなかった心掛け、心の持ち様を体感(感得)するにはどうしたらよいのか?
  「形に表せない、形のないもの(心持ちとか境地)」を手に入れるための「習い事」、みたいなものはあるのでしょうか、と書きました。

 形(所作)のあることならば、「習い事」として真似ることを繰り返していけば、段々に身に付きます。けど、形のないものはどうなんだろう。
 これ、形のあるものを習うのだって、「形だけ」習ったって「仏作って魂いれず」と批判されます。
 「形を習うことによって、その心も習う」。そうでなければ習う意味がない。
 形という入れ物を精確に作り上げることで、中身の形を思い描く。形を繰り返し表すことで、想像した中身の形が正しいかどうか手探りで確認し続ける。
 ならば、「形がない」からと言ったって、作法みたいなものをつくって取り組めば、同じことです。

 「参道」に戻せば、初めは「神様の通り道だから」みたいな「方便(説明の仕方)」で、納得し、とにかく言われるように参道の真ん中は通らず、参拝する。
 たった一つのことだけでも、そうやって心に留めて取り組むと、人間、自分で「ちゃんとできたかな?」と反省、評価します。願い事があって参拝した筈が、参道の歩き方の方が気になったりする。
 そうやって、「所作を学ぶ」ように一つ所に心を留めて取り組んでいると、却って雑念が消えていきます。そこに残っているのは?

 初めて参拝した時、「敬」なんてこれまで経験したことのない「感覚(境地)」であるのが普通ですから、何も思わず普通に参道を歩く。それが一度でも「神様の通り道だから」と、意識して参拝してみると、西行法師じゃないけれど「何ごとのおはしますかは知らねども(何だか分からないけれど)」、と何かこれまでに体感したことのないものを感じる。
 「何だか分からないけど忝(かたじけな)い」。

 一度でもそうやって聞いて、「何か」を感じるようになると、参道の真ん中を歩くと、何か居心地が悪くなる。
 更には拝殿を真正面に見据えて歩けなくなり、自然に、やや伏し目になってくるかもしれません。「敬虔」、というべきでしょうか。
 「大手を振って参道を」というのも違う気がしてくる。「手はどこに置いたらいいだろうか、ポケットの中、なんてのは考えられないな」、なんてことも思い始める。

 あ、そういえば。先日、習主席が米大統領を紫禁城に案内してましたね。その時、あまりの寒さと退屈さからか、習主席、コートのポケットに両手を突っ込んでいました。トランプ氏はちゃんと威儀を正して(勿論、手はちゃんと出してますよ)説明を聞いていた。
 その大統領が城内を見渡した時、習主席の姿が視界に入った。それに気づいた主席、授業中に小学生が注意された時みたいに、慌ててポケットから手を出して、何食わぬ顔をして・・・。何だか昔のコントを見てるみたいで、つい噴き出してしまいました。
 数か月前に、フィリピンのドゥテルテ大統領が主席の前でポケットに手を突っ込んでいたり、ガムをかんでみたり、ということをやって、まるで悪ガキみたいだった、というニュースがありましたが、こんなところに、その人の心中(或いは境地)は確かに見えるものだと思います。

 脱線終わり。
 一度や二度の参拝で「敬神の念」を実感しろというのは、大方の人には無理でしょう。「観光目的」とか「パワーをもらいに」、なんて人になると猶更です。そんな人が大挙して「参拝」という名目で押し寄せて来る。みんな揃って参道の真ん中をやって来る。参拝者の往来は大変なことになる。
 「中央でなければどちらでも良いのですよ」なんてことを言うと、今度は道の両側でぶつかり合いが起きる。
 で、「右側を通りましょう」ということにしてみた。こうすれば行きと帰りで反対側を通るわけですから、ぶつかる心配は、ない。
 (高速道でなくとも逆走は危険、ということですね)
 結果として全て上手くおさまる。
 「真ん中は神様の通り道」。上手い説明です。方便そのもの。

 でも、これを、「神様の通り道ですから」と言われて、「はい、そうですか」とマニュアルとして受け入れ、そこから先を全く考えようとしない、というのはどうなんでしょう。「忝さ」を感じる時が来るんでしょうか。「敬神の念」は湧くのでしょうか。


 この月の初めにツーリングに行った、と書きました。その時参拝した神社でのことです。
 多くの参拝者が小さな拝殿の前で、行儀よく一列に並んで自分の番が来るのを待っていました。
 「並ばないで参拝してもいいんですよ」、と声を掛けて、拝殿の端から参拝したんですが、列が崩れることはありませんでした。
 一列に並んで順番を待つ。真ん中で鈴を鳴らす。それも「敬神の念」の表現、とは思います。
 でも、後ろに多くの人を並ばせて、真正面に立ち、長々とお祈りをしているのを見ると・・・・。




2017.11/30
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神様の通り道 (前)

2019年12月22日 | 神社
 「・・・だから、参道の中央は歩かず、左右いずれかに寄って歩く」
 、のだ、との説が最近、定説のようになっています。
 実際、神職さんも、そう説明されるようで、テレビでもそう言ってたし、本にもそう書いてある。

 でも、神様の威光は一方向ではなく四方八方に届くわけで。
 「神様が参道を高速で行き来されるわけではない」、と以前に書きました。

 ・・・・・・・・・・・・
 ~ 神様は普通、「坐(いま)す」とか「おはす」と言います。それは「じっと座っておられる」ということです。
 たまに動かれる時はどうかというと「千早振る」という枕詞が示す通り、それこそ「神速」ですから。「神速」で参道を行き来されたんじゃあ危なくってしょうがない。
 だからそういうことじゃない。
 えらい人の前に出た時、我々は真正面に、頭がぶつかるほど接近して立つでしょうか。それじゃ昔のヤンキーの喧嘩です。
 えらい人の前に立つ時は、ちゃんと間を取る。そして相手の顔をじろじろ見たりはしない。
 人だってそうなんだから、神様、となると推して知るべし、でしょう。
 「距離を取る」どころか、正面には立たない。何故って神様の威光の前には、立てるものではないからです。

 でも参拝する場合はそんなこと言ってられない。失礼を承知です。
 せめてものことは頭を上げないこと。それが「拝礼」、となる。

 となると、「参道」は「神様の通り道」なんかじゃない。どうしても、というなら「神様の威光」の道筋とでも言った方が良いかもしれない。
 尤も、「参道」って言葉からすると、これは神様の道じゃない、ということですけどね。これは我々のための道です。
 だって「参道」、でしょう?「参拝のための道」なんだから「「参拝道」或いは「参詣道」です。
 ただし、神様の威光が常に放たれているところにつくられているのだから、真ん中は自然、通れない、と「感じる」。~
 (2015.04/08 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「参道」という名の通り、「参」拝する者のための「道」だから、これは神様の高速移動のためのものではなく、我々「参拝者」のためにあるのだ、と。
 なのに「(我々のための道を)神様のために開けて置く」。これ、実は説明と違って何か本当の理由があるんじゃなかろうか。
 事実は一つでも、そこへ至るための理由、更にはその説明には、色々な方便があります。
 しかし、事実は一つ(参道という名の拝殿への道)。この場合の事実は「敬神」の念であって、それをどういう方法で実現(表現)させるか。

 剣術の伝書には「(当方の)意地、高上なれば、(敵は)頭揚げられぬものなり」(こちらの位・境地が高いと、相手は手も足も出せず、それどころか、頭を挙げてこちらを見ることもできない)、という文言がありました。
 言い方を変えれば、貴人(或いは高い人格の持ち主)の前に立つと、目を向ける(不躾にじろじろ見る)ことができない、みたいな。
 けど、赤ん坊や、人を人とも思わない傍若無人な人だったらそんなことはありません。要は、当人の心掛け、心の持ち様にかかっている。

 神様の前に、それも真正面に立つ、ということは「神様と対峙する」ということだから、それは神と己が対等である、ということになります。
 対等な存在に「敬」の形である、「頭を下げる」或いは「頭を挙げられない」状態が生れるでしょうか。
 「お互いを認め合う形で『敬』はありうる」、と横車を押す人もいますが、神と人が「お互いを認め合う」っておかしいですよね。
 それはもう、「神」ではない。
 「敬神の念」があれば正面には立てないから、参道だって「真ん中は『何となく』歩きづらい」、と、自然に思う(感じる)。

 ・・・・筈なんですが、実際はどうでしょう。
 書いたように赤ん坊はそんなことは思わない。同じく傍若無人な人だって「何となく歩きづらい」、なんて思わないでしょう。
 赤ん坊は無知の故(純真だから、なんてのはウソ)に、「敬神」なんて、・・・ね?
 傍若無人な人は、人を人とも思わないんですから、神様に対してだって「忝(かたじけな)い」なんて思うわけもない。
 じゃ、普通の人は?初めて参拝にやって来た人、または、ただ観光旅行で連れて来られただけの人は???
 初めて参拝した人、それも自分の家に神棚なんかなくて、拝礼などしたこともない人は、「敬神」、なんて「経験のない感覚(境地)」なのだから、参道の真ん中を歩いたって不思議ではないでしょう。

 その、これまで持っていなかった心掛け、心の持ち様を体感(感得)するには?

 「形のないものを手に入れる」ためにするのが「習い事」ですが、「形に表せない形のないもの(心持ちとか境地)」を手に入れるための「習い事」、みたいなものはあるのでしょうか。



2017.11/29
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