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ただの日記

分祀、遥拝所

2019年12月27日 | 神社
 神様の鎮座されているところまで、参拝に行きたいのだけれど、それぞれ日常の生活があるため、参ることが適わない。
 どうしよう。
 
 お金があれば、そのお金を持って神社に参り、何とか我が村へ神様にお出でいただけないか、と神官に頼む。
 神官は他の神官と相談して、神意に適うとなれば「立派な社を造営するように」と返答する。
 神様が「あんな所へは行きたくない」などと言われる筈はないので、立派な社ができた時点で、神様の御魂を分ける。これが分霊、そして分祀、です。
 御魂を分けた宮だから、「分宮」、ということですが、あんまり「分ける」という言葉は遣いません。

 大体、何でも分けたら減るものなんですが、分けても分けても減らないのが御魂です。
 だから「分ける」、でなく「分かつ」、と言うべきでしょうか。
 (ますむらひろしのアニメーション映画「銀河鉄道の夜」の中で、リンゴをいくつにも分ける場面がありましたが、イメージとしては似ているんじゃないでしょうか。キリスト教の、パンをみんなに分け与えたらみんな十分に食べ、満足できたという話がもとになっているんでしょう。御魂を食べちゃいけませんが。)

 そうすることによって御魂はどんどん増えて大きくなっていく。最後には空に満ちてしまう。枕詞で「空に満つ」というのがあります。「大和」の枕詞です。

 「分ける」でなく、「分かつ」と捉えたら、「分宮」を「わけみや」でなく「わかみや」とも読めるでしょう。
 「若宮」というのが、御子神の場合もあれば分祀された神社の場合もあることを知ると、少し見方が変わるかもしれません。

 分祀をというわけにはいかないけれど、参拝はしたい。
 ならば元々の形通りに、富士講なら富士山に向かい、戸隠講なら戸隠の山々の方に、伊勢講なら伊勢の方へ向かって、「遥拝(離れた処から拝する)」すればいいではないか。

 というわけで拝殿だけ作る。それも無理なら「遥拝所」を設置する。その拝殿、或いは遥拝の場に立てば、その遥か彼方にお参りしたい神社がある。

 それが「遥拝所」或いは「遥拝殿」です。
 だから、本来は神様の依り代はありません。
 と言っても、目前に高い山や建物があったりして年中全く遥拝することができない場合は、目印として御幣を、また、鏡を依り代のつもりで奉ずる場合も出て来ます。

 歴史のある事柄はいつでも、こんな風に遠すぎてしまうとぼやけて来る。
 と言って、眼前のことだけを見詰めていると思いもよらぬ見間違いをしてしまいます。



2012.05/02
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神社のこと(御祭神その②)

2019年12月26日 | 神社
 「八幡神社」というのは、全国各地にあります。
 「諏訪神社」もそうです。「天満宮」もそうです。
 沖縄の「普天間」という地名を知らぬ人は、今の日本人にはないでしょうが、普天間の「普」は「普(あまね)く」ですから、「全て」の、という意味合いから後付けの文字で、本来は天満宮だったようです。
 それを「天間」と書くと何だか別の神社のようですが。
 もっとも、天満宮と言っても祀られてあるのは熊野権現なんだそうです。
 
 脱線せぬうちに。
 八幡宮の御祭神は、応神天皇。天満宮の御祭神は菅原道真公。諏訪神社は建御名方神。
 人が祀られている場合もあれば、元々の神様の場合もある。でも、みんな神様。
 初めは人だったけど、長年月を経て、神様になるのが日本です。建御名方神だって、初めは人だったんでしょう。でも、何だか、どこまでが人で、どこからが神様なのかよく分からない。

 また、「祟り神」という言葉がありますが、人でも、没後、間を置かずに人の世に大きな影響を与えると思われた場合は、すぐさま「神」と「崇め」られる。「崇める」と「祟る」の字がよく似ているのは、「祝詞」の「祝(の)る」と「呪う」が「言挙げ」の両面ということとよく似ています。
 人から神へ、という変化は今や日本だけ、です。

 さて。
 八幡宮の御祭神は応神天皇と書きましたが、摂社とか末社となると、それぞれの土地の神社ごとに御祭神名が違って居たりします。前回、「親神様や、兄弟神、親戚(?)の神々」と書いたのに、全くつながりのない神様が祀られていたりする。多くは、それぞれの土地の産土神ですが。

 これは一体どういうことか。
 実は元々「やしろ」のあったところに、更に尊い神様にお出でいただいたので、その尊い神様のために元々鎮座されていた神様には、そばの「やしろ」に引っ越していただいた、ということです。

 元々鎮座されていた神様が腹を立てて出て行かれるとか、追い出された神様が放浪の旅に出る、なんてことはありません。ここ、重要ポイントです(以降の話の伏線)。

 神社というのは神様の集う場、ですから、神様が神様同士恨んだり祟ったり、なんてことはありません。 



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神社のこと(御祭神)

2019年12月26日 | 神社

 神社に参拝に行くと、由緒書があります。大方は長い年月、風雨に曝されて何が書いてあるかさっぱり分からなくなっている。
 だから最近はよっぽど金銭的に余裕のある神社でなければきれいに書かれた物が見当たらず、参拝する方も御祭神は?と立ち止まってじっと見ることもない。
 で、つい、見過ごしてしまいます。

 神社の御祭神というと、一柱の神様のことしか考えないんじゃないでしょうか、普通。
 ところが、そんな神社はない。一つの神社(境内、神域)に一柱の神様だけ祀られていることはなく、全てといって良いくらい数柱から数十柱以上祀られています。
 なのにお参りする時は、めざす(?)神様を参拝することだけ、考えている。
 
 でも、それが当たり前の姿です。

 多くの神様が一緒に祀られてあるのが、神社本来の姿(厳密には違いますが)です。尊崇する神様はそれこそ八百万、です。参拝するのは大変です。全部参拝していたら、生身の人間、疲れもするし、気持ちも薄まってしまう。

 でも、だからと言って一柱の神様に絞り込む、なんてマネはできない。
 それで、親神様や兄弟神、親戚(?)の神々、と、まあ大雑把に分けて参拝する。

 だから「神社」と言います。
 「神(の)社」、つまり神様が集まっているところ、というのが「神社」という語句の意味です。
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ちょっと早いけど、初詣の話

2019年12月26日 | 神社
初詣、というのは、テレビのニュースで必ずやるように、すっかり年初めの一大イベントになってしまいました。神社だけでなくお寺にも初詣、として行く、というのを、テレビで知った時は不思議な気がしたけれど、考えてみれば、私も行ってたんでした。

それにしても、何でこんなに多くの人が行かれるんでしょうか。それも三が日に集中して。まあ、既に答えは以前のところに書いてあるので、端折ります。うそです。

バレンタインデーは、チョコレート会社の陰謀、冬至の恵方巻き(太巻きのすし)の丸かじりは寿司屋の陰謀。初詣は鉄道会社の陰謀なんだそうですね。(正月休みで通勤客が乗らないと、電車は大赤字になってしまう)
でも、だからと言って、今でもチョコレートだけかというと、そんなことはありません。いつの間にか恵方巻きは全国に知られるようになり、首都圏だけだった初詣の混雑は、地方でも当たり前になりました。
地方は、鉄道会社は関係ないのに何故なのか。
それは、これまでに書いてきたことが大いに関係しています。
もともと、参拝は、自分の赤心を神前に詣でて明かすのが目的です。そして、そういうことに悪いことなんてあるわけがない。つまり「善は急げ」です。取るものもとりあえず、誠心(赤心)を誰よりも早く神前で明かしたい。
この気持は、神道の心である「清、明、正、直」のほとんどにあてはまるものです。
新しい年を迎え、一瞬でも早く誠心で生きることを誓いたい。初詣が全国的な風潮になったのは、とうぜんといえば当然の理由があったわけです。

さて、ということは、誠心(赤心)を明かしに行くのなら、早いに越したことはないけれど、遅くなったからといって誠心がない、ということじゃない。
要は、きちんとした作法どおりに、無私無欲になって神前に詣で、頭を下げるということです。
間違っても、通勤ラッシュのような人混みの中、もみくちゃになりながら、オーバースローで賽銭を投げ私利私欲の固まりになって、山のようなお願いをしちゃいけません。自分ひとり、参拝の仕方が間違ってるんじゃない、そこにいるみんなが間違っているんだから、下手すると強欲の渦に呑み込まれて、「何しに行ったかわからない」、てなことになりますよ。

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和魂 荒魂 幸魂 奇魂

2019年12月25日 | 神社
 もう十年も前に書いた日記なんですが、やっぱりこれ、書き直してでももう一回挙げといたほうが良いんじゃないか、と思ったものですから。

 十年前の正月に、ビートたけしが伊勢神宮を参拝するといったTV番組がありました。
 そこで出てきたんだけれど、意外に普段聞くことのない「和魂 荒魂 幸魂 奇魂」の話です。
 日本人の自然に対する感じ方、考え方が、これを知識として持つだけで、明らかになっていくんじゃないかな、と思います。

 神宮には御正殿と同様に重要視されている神殿があります。「荒祭宮(あらまつりのみや)」です。この荒祭宮は正殿と同じ、場合によっては御正殿以上に重要とされる宮です。祀られているのは天照大神の「荒魂(あらみたま)」です。
名前の通り「荒々しい神威の発動」を祀る宮です。
 「荒」は繰り返して「荒々しい」ですが、同時に「新(あら)たし」。生き生きとして生々し続ける、エネルギーに満ち溢れた様子も表します。だから、「荒祭宮」「は「新祭宮」という意味も含んでいる。
 (「新(あたら)しい」、は誤読で「新(あらた)しい」が、本来の読み方)

 御正殿の御魂は平時、平常の「穏やかな神威の発動」で、あまりにも穏やかなので、それを神威が発動されているとは気がつかない。この御魂を「和魂(にぎみたま)」と言います。
ただ、「穏やかなので気がつかない」けれども、さすがにビートたけし、「圧倒されて、願い事なんかできなかった」と言ってました。それが、「和魂」の発動です。
穏やか、平穏なんだけど、何とも言いようのない張りつめた感じ。
「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」
と詠まれたのは西行法師でしたか?
「何故なのか理由は分からないのだけれど何とも説明のしようのないありがたさに、涙がこぼれてしまう」
というのは、穢れを祓って無私無欲で参った者には当然の神威への感応なのでしょう。

元に戻って、「荒々しい神威の発動」というのは、たとえば、強風、大雨、かみなり、地震等、ひどければ、一からげに自然災害といわれるものです。ほどほどならば、豊作をもたらしてくれますが、神威の発動には人間の考える「ほどほど」という良し悪しの物差しがあてはまりません。
 大体「自然災害」というのは、「人間にとって」、という但し書きつきのもの。神威の発動で自然の景色が一変しても、それは本来「一変した」だけのことで「破壊された」ということではないでしょう。新たな景色が創造されたのだ、とも言えます。
 また、この「荒祭宮」は、他国と戦争をはじめる時に宮中の賢所と同時刻に宣戦布告の上奏をしなければならない宮なのだそうです。

「和魂(にぎみたま)」「荒魂(あらみたま)」「幸魂(さきみたま)」「奇魂(くしみたま)」、いずれも天照大神の御魂です。我々が、それぞれの発動されたものをそれぞれに拝するのは、天照大神の4面を拝する、というより、我々の心と身体の穢れを祓って我々の、その時の思いを、そのままに見ていただく、真心(赤心)で正対する、ということです。
時には荒祭宮だけ参拝したって、良いということですね。
勿論、「荒祭の宮を参拝しなかったら片手落ち」、「それじゃ参拝したことにならない」なんていうのも妙な原理主義。



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