神様の鎮座されているところまで、参拝に行きたいのだけれど、それぞれ日常の生活があるため、参ることが適わない。
どうしよう。
お金があれば、そのお金を持って神社に参り、何とか我が村へ神様にお出でいただけないか、と神官に頼む。
神官は他の神官と相談して、神意に適うとなれば「立派な社を造営するように」と返答する。
神様が「あんな所へは行きたくない」などと言われる筈はないので、立派な社ができた時点で、神様の御魂を分ける。これが分霊、そして分祀、です。
御魂を分けた宮だから、「分宮」、ということですが、あんまり「分ける」という言葉は遣いません。
大体、何でも分けたら減るものなんですが、分けても分けても減らないのが御魂です。
だから「分ける」、でなく「分かつ」、と言うべきでしょうか。
どうしよう。
お金があれば、そのお金を持って神社に参り、何とか我が村へ神様にお出でいただけないか、と神官に頼む。
神官は他の神官と相談して、神意に適うとなれば「立派な社を造営するように」と返答する。
神様が「あんな所へは行きたくない」などと言われる筈はないので、立派な社ができた時点で、神様の御魂を分ける。これが分霊、そして分祀、です。
御魂を分けた宮だから、「分宮」、ということですが、あんまり「分ける」という言葉は遣いません。
大体、何でも分けたら減るものなんですが、分けても分けても減らないのが御魂です。
だから「分ける」、でなく「分かつ」、と言うべきでしょうか。
(ますむらひろしのアニメーション映画「銀河鉄道の夜」の中で、リンゴをいくつにも分ける場面がありましたが、イメージとしては似ているんじゃないでしょうか。キリスト教の、パンをみんなに分け与えたらみんな十分に食べ、満足できたという話がもとになっているんでしょう。御魂を食べちゃいけませんが。)
そうすることによって御魂はどんどん増えて大きくなっていく。最後には空に満ちてしまう。枕詞で「空に満つ」というのがあります。「大和」の枕詞です。
「分ける」でなく、「分かつ」と捉えたら、「分宮」を「わけみや」でなく「わかみや」とも読めるでしょう。
「若宮」というのが、御子神の場合もあれば分祀された神社の場合もあることを知ると、少し見方が変わるかもしれません。
分祀をというわけにはいかないけれど、参拝はしたい。
ならば元々の形通りに、富士講なら富士山に向かい、戸隠講なら戸隠の山々の方に、伊勢講なら伊勢の方へ向かって、「遥拝(離れた処から拝する)」すればいいではないか。
というわけで拝殿だけ作る。それも無理なら「遥拝所」を設置する。その拝殿、或いは遥拝の場に立てば、その遥か彼方にお参りしたい神社がある。
それが「遥拝所」或いは「遥拝殿」です。
だから、本来は神様の依り代はありません。
と言っても、目前に高い山や建物があったりして年中全く遥拝することができない場合は、目印として御幣を、また、鏡を依り代のつもりで奉ずる場合も出て来ます。
歴史のある事柄はいつでも、こんな風に遠すぎてしまうとぼやけて来る。
と言って、眼前のことだけを見詰めていると思いもよらぬ見間違いをしてしまいます。
そうすることによって御魂はどんどん増えて大きくなっていく。最後には空に満ちてしまう。枕詞で「空に満つ」というのがあります。「大和」の枕詞です。
「分ける」でなく、「分かつ」と捉えたら、「分宮」を「わけみや」でなく「わかみや」とも読めるでしょう。
「若宮」というのが、御子神の場合もあれば分祀された神社の場合もあることを知ると、少し見方が変わるかもしれません。
分祀をというわけにはいかないけれど、参拝はしたい。
ならば元々の形通りに、富士講なら富士山に向かい、戸隠講なら戸隠の山々の方に、伊勢講なら伊勢の方へ向かって、「遥拝(離れた処から拝する)」すればいいではないか。
というわけで拝殿だけ作る。それも無理なら「遥拝所」を設置する。その拝殿、或いは遥拝の場に立てば、その遥か彼方にお参りしたい神社がある。
それが「遥拝所」或いは「遥拝殿」です。
だから、本来は神様の依り代はありません。
と言っても、目前に高い山や建物があったりして年中全く遥拝することができない場合は、目印として御幣を、また、鏡を依り代のつもりで奉ずる場合も出て来ます。
歴史のある事柄はいつでも、こんな風に遠すぎてしまうとぼやけて来る。
と言って、眼前のことだけを見詰めていると思いもよらぬ見間違いをしてしまいます。
2012.05/02