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ただの日記

神道のこと(神仏習合)

2019年12月30日 | 神社
 「あれ?仏教が入って来たから、神道はレベルアップした、みたいなこと、言ってなかった?」
 「半島の原始宗教は、仏教の前に潰滅したのに、日本だけレベルアップ、なんておかしくないか?」

 大陸も半島も、仏教が伝わることによって既存の宗教は滅びていったのに、日本だけ、何故滅びなかったのか。滅びなかったどころか、却って仏教までも理解し、我がものとしている。
 それが証拠に神道は日本文明の元になっている。

 他のアジアの諸地域と同じく、日本の原始宗教(というより自然崇拝でしかなかった)、「神道」は大陸から(半島経由で)次々と波のように押し寄せて来る神々の流入をその都度、受け止めて(受け入れて)来ました。
 戦ったら打ち破られるかも、といったような強大な渡来神ではなく、常に新しい考え方と新しい技術とそれを支える人々とに奉じられた神々でした。
 日本人はそれを受け入れて来ました。
 そうやって「自然崇拝の精華」とも言える神道が成立した。

 前回、
 「聖地」を奪われた半島の人々は、新天地を求めて、或いは部族の全滅を回避するため、この原始宗教である祖先神を奉じて海を渡った。」
 と、書いたのですが、読み直してみるとどうも
 「優れた文化を持つ渡来人により、日本文明はつくられた」
 と誤解されそうですので、ちょっと付け足しておきます。

 キリスト教が日本に入って来た時と同様、宗教(物の考え方)というのは、どうやって入って来たのか、あまり考えることはありません。
 だから意外に「或る日突然、坊さんがやって来て布教を始めた」みたいなこと、漠然と思ってませんか?

 実際は武力・財力の裏付けがある渡来の一団の中に、何かその、通訳のような形で彼ら異邦人がやって来た理由を簡潔に要領よく説き明かし、納得させるための教養人がどうしても必要になる。それが僧である確率は高い。

 全く違った考え方の社会に、今から「入植」しようとするわけですから、こっち(渡来した人々)の考えを説きつつも原住の人々の考えを知り、折り合いをつけなければならない。
 日本人が彼らに敵対する気持ちを持っていたならば、その都度、渡来人は皆殺しになっていても不思議ではない。
 それを日本人は、「良いものは取り入れよう」という「謙虚さ」と、難を逃れてきた、言ってみれば避難民に対し、「思い遣り」を以って接した。だからこそ異国の神々も受け入れ、神道を高めることができた。

 いきなり強大な敵に出くわし、一撃で弾き飛ばされるのではなく、時間をかけて少しずつ考え方を深めて行った挙句に、天孫族に国譲りを迫られる。
 しかし、それを了承した結果、「神武創業」という大業はみんなで成し遂げることができた。
 そんな日本だからこそ、仏教と対した時、力づくで衝突するのではなく、これまでと同様に「良いものは学ぶ」という姿勢を貫くことができたようです。

 仏教と敵対するのではない。仏教から自らの在り方を整序させる物差しを見つけ出し、結果、日本独自の「神道」を完成させることができた、と言えるでしょう。
 他の地域や国々はみんな陸続きです。何事に関しても突然、ということはない代わりに、日本のような冷却機関、緩衝帯としての「海」を持たない分、ウェイト差は初めから勝敗を決定してしまいます。

 日本は違う。島国として、何でも流入して来るのを闇雲に受け入れていたら身の破滅となることを承知しているからこそ、真正面から正直に習おうとし、理解しようとして来た。「沽券」とか「面子」、以前に
 「良いものは取り入れよう」
 「取捨選択の判断は分かってからにしよう」
 という本来の意味での島国根性を以って対した。

 神々が渡来して来るのを少しずつ受け入れ、理解し、世界に存在していた自然崇拝の中でも一番の「考え方(感じ方)」を手に入れた日本人は、仏教という圧倒的な力を持つ「考え方」と対することになった時、いきなり「法論」を戦わせるのではなく、まず仏教を理解しようとした。

 そこで聖徳太子の活躍があるわけです。聖武天皇を初めとする仏法への倣いがあるわけです。
 そして、「神仏習合」という考え方が案出され、日本の神々は仏の化身とされたり、逆に、仏が神々の化身とされたりする。

 元々の原始的な、「宗教の芽生え」辺りの神道ではあの仏教と論戦をやって勝てるわけもありません。
 けれど、半島に在った人々が、大陸から押し寄せて来る大勢力に居住地を奪い取られ、為す術もなく命からがら海に逃れる。たかだか数百人の人々が我が国目指してやって来る。
 たったそれだけの人数で日本を支配しようなどということは毛頭考えていないでしょう。せめて一族の者と、この地で穏やかな終焉を迎えたい。
 ところが日本人は、そんな彼らを喜んで迎え入れ彼らの知るところを学ぼうとさえ、した。

 そうやって力をつけて来た日本人が、仏教をも受け入れようとする。これまでのあり方からすれば当然のことでしょう。
 他の国(支那・朝鮮)は、原始宗教の状態の時に仏教、だったわけだから、ひとたまりもなかった。
 日本は長い時間かけて力をつけて来ていた上に、「衝突」、でなく、向かい合い、そこから学ぼうとした。仏教を理解しようとし、そうやって更に高められた目で神道を見つめ直した。


 これは奇跡と言ってもよい事なのかもしれません。



2012.05/18
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神道のこと(仏教が伝わらなければ②)

2019年12月29日 | 神社
 先回、 
 「仏教が伝来していなければ、成立していた神道は今頃跡形もなく消え去っていたかもしれません。そして、キリスト教、もしかしたらイスラム教の国になっていたかもしれません。」
 などと些か刺激的な書き方で終わってしまいました。
 でも、何故、そんなことが言えるのか。
 そのことを書いて、今回の一連の日記を終わるつもりです。

 いつだったか、正確には覚えていないのですが、場所もこれまた同じで、タイだったかカンボジアだったのか、はたまた大陸の南部、少数民族の土地だったのか。ともかく、辺鄙な地域での話です。
 その土地に行くと、それぞれの村々の入り口に門がある。
 門と言うよりも、柱を二本立てて、その上に同じような丸太が渡してある。そうです、ちょうど鳥居のような形になっている。
 そして、ご丁寧なことに、その、横に渡された丸太の上には木彫りの鶏が載せてある。それこそ正真正銘の「鳥居」になっている。

 その名を「鳥居」・・・・・とは、まさか言わないんでしょうが、やっぱり村の入り口というのは「そこから世界が違う」という印としてそうやっていたらしい。
 「守り」とか「見張り」のための櫓ではない。ただ、「鳥」がいるから、「見張り」のまじないにはなっていたかもしれません。でも、別に門扉があるわけではないんだそうですよ。

 その話を知った時、数十年前、学生だった頃に聞いた(と思う)ことを思い出しました。
 日本の神道というのは、世界中にある(又は、あった)自然崇拝の形でありながら、自然崇拝ではない。かと言って偶像崇拝の側面を持ちながらも偶像崇拝でもない。
 原始的な宗教のように見えるけれども、原始的なりの「教義」のようなものもない。
 敢えて言えば、「清明正直」、「清く、明(あか)く、直き」心持ちで毎日を生きよ、と言うだけ。

 そんな不思議な宗教(当時は宗教と思っていた)が、何故「日本にだけ」あるんだろう。
 そんなことが疑問だった時に、こう教えられたんです。
 「神社は支那にも朝鮮にもあった」
 、と。
 もっと言えば、アジアには神社があった。
 別に大東亜共栄圏を提唱して、それで神社をアジア中につくらせた、というんじゃない。神社があったのは数千年昔の話ですから。
 それがみんな滅びて、神社は日本だけに残った。

 この話を、鳥居の村の話を知った時に思い出した。

 こんな風に書けば、神社って絶滅危惧種みたいですが、まず、「神社」と言う言葉の意味をもう一度書きます。
 神社とは建造物のことではなく、「場」のことです。「神々が集う場」。それが神社です。
 神様は、本来は建物に鎮座されるのではなく、「磐座(いわくら)」などの神の「依り代(よりしろ)」に坐(いま)すもの。
 そういう場所、どこにでもあるでしょう。「聖地」という名で。
 アボリジニーの聖地として有名なのがエアーズロックですが、最近なら「パワースポット」と言われるところがあるでしょう。あれです。あの「場」が神社です。

 それが、日本以外は全てなくなってしまった。どうしてか。

 大陸も半島も、そこに新しい考え方(宗教)が入って来る(或いは新しい考え方が生まれる)と、既存の考え方(原始宗教と言っても良いでしょう)と衝突します。
 そして、既存の考え方は為す術もなく打ち破られていきます。
 そこに残された神社(パワースポット)は、新しい考え方(宗教)の流布のための拠点となる。早い話が神社が敗れ、その「聖地」に「寺」が造られるわけです。

 その時、「宗教論争」が行われたのか。いや、そんな立派なものはなかったでしょう。でも、「新しい神様の方が立派だ」という意見が勝ち、論争では既存の宗教が簡単にやり込められたのは確かです。
 そして既存の宗教は、新しくやって来た神様のきらびやかさ、賢さの軍門に降るしかなかった。

 勿論、この新しい神様とは「仏」のことです。
 仏教はこうやって、土着の宗教(原始宗教)を次々と打ち破り、その「考え方(宗教)」を大陸全土に広めていきます。半島も同じことです。
 そのため、「聖地」を奪われた半島の人々は、新天地を求めて、或いは部族の全滅を回避するため、この原始宗教である祖先神を奉じて海を渡った。
 目指すは東方の海に浮かぶ蓬莱島。(日本、のことですね)

 前後しますが、大陸では仏教の伝来、その勢力の拡大に対して、在来の原始宗教が「巻き返し」を図ります。不老長生を主とする「道教」です。道教はあのパワースポットを、仏教から取り戻し、そこに道教の「観」と呼ばれる寺院を建てます。あの仙人の修行に必要な仙丹を作り服したり、現在は「気功」と名を変えて共産主義体制下でも認められている、「導引吐納術」などの内丹も、また身体を鍛え上げる外丹も、全て仏教との宗教戦争の手段である、と言えます。


                               (続く)


2012.05/16
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神道のこと(仏教が伝わらなければ)

2019年12月29日 | 神社
 先の回は「渡来した神様もある」ということでした。
 大陸(実際は半島)と往来した神様もある、と書き、スサノヲ神やその子、五十猛(イソタケ、イタケル、イソタケル)命、更には大国主神もそうであったらしい、と書きました。
 これらは神様の力(神威)が、今、我々の考える「國」を越えたものであることを示しています。

 と言っても、最近よく耳にする「グローバル」などといったものではなく、ちょうどギリシャの神々が、人格化された森羅万象の簡単な括りとして人間に把握される(理解される)ようなものでしょう。

 却ってややこしい言い方になりましたが、日本の場合はそれらの森羅万象を畏れ、そして敬い、「畏敬」の念にまで発展させ、「崇敬」という更に一段高い境地にまで進めて、「惟神ゆいしん(神ながら)」という神道の元を創りました。

 ギリシャの神々は、その森羅万象を大まかに纏め上げて「神」とする。
 「完全なるものである神」の子である人間だから、「神」と同じ形をしている。ならば、「神」は人間と同じ形である。
 こういう論法で「神」を見る。
 「太郎君はお母さんにそっくりね」と言うところ、「太郎君のお母さんは太郎君にそっくりなんでしょうね」というような感じでしょうか。

 「神」に対しての、「崇敬」はおろか、「畏敬」の念、なんてない。
 だから、当然、「「惟神」「見てござる」というような、また、「何事にも感謝の心を」なんてのも、ない。
 言い方を換えると、ギリシャの神々は、人間と対等です。だから、神様が人間の娘に手を出したりも、する。

 大脱線しました。
 日本の神々は同じ「森羅万象」を、「畏れる」ところから見詰められる(感じられる、の方がいいでしょうか)ようになったけれども、その見方(感じ方)は、「畏れ」→「敬い」→「畏敬」→「崇敬」と発展していく。
 ギリシャと違って、決して神様と人間は対等にはならない。「なれない」のではなく、「ならない」。
 「神は自然を支配するもの。人間は神を写したもの」とするギリシャの神々と「神は自然の全て。人間はその子」として、飽く迄も「神と人」「カミとシモ」とする日本の神々の見方。

 ここで、初めは同様の出発ながら、その道を辿る際の「心の持ち様」で物事というものは百八十度違ったものになるのだな、ということが感じられます。
 「ギリシャも日本も多神教」、と言う人がいますが、その内容はよほど違ったものになっている。
 古事記を表面的に見ただけなら、ギリシャ神話との類似点はいくらでも見つかるでしょう。
 しかし、結局は物語に終始するギリシャ神話と、国の成り立ちから国の在り方、そして人の「あるべき生き方」までを読み取ることの出来る古事記とは似て非なる物です。

 
 さて、そこに仏教が入って来ます。
 当然に「異国の神」と「日本が生んだ神」との対立が「日本人の中で」起こります。
 それは或る意味では今も続いているけれど、この対立は激しく火花を散らすような形ではなく、前に書いた「惟神(ゆいしん)」の元である、「崇敬」という心での「向かい合い」が主となっています。
 であるからこそ、「神仏習合」とか「本地垂迹」とか「逆本地垂迹」という考え方が生まれて来る。
 原初の「畏敬」の念の創出から「崇敬」の心を、まずは創ってきたからこそ、仏教との対峙によって日本独自の「神道」が成立していくことになります。

 仏教が伝来しなくても神道は成り立っていたでしょう。
 しかし、同時に、仏教が伝来していなければ、成立していた神道は今頃跡形もなく消え去っていたかもしれません。そして、キリスト教、もしかしたらイスラム教の国になっていたかもしれません。

 仏教と向かい合うことにより、神道は世界でも類を見ない高い境地の日本人をつくり、この「日本文明」を発現させたと言えるでしょう。


 次回、仏教の影響力(ちから)について少し書いて、この項はひとまず終わります。(・・・予定ですけどね) 



2012.05/14
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神道の始まり(渡来した神もある)

2019年12月28日 | 神社
 実はみんな薄々は気づいているんだけど、口には出さない、似たような言い方で「暗黙の了解」、みたいなこと、結構身の回りにありますよね。
 で、そういうことって「暗黙の了解」なんだから、みんな知ってるんだ(知ってる筈だ)、と思って話をしている。知らなかったりしたら「ええ~?信じられな~い」なんて言われるから、知ってるふりをしている場合だってある。
 それが実は大問題。特に日本のような島国では。

 というわけで、「外国から来てる神様だってあるんだから」という話を。

 私の生まれ育った島根県は「四十七番目に有名な県」で、「鳥取の左側」で、「それで、島根県って、出雲のどの辺にあるの?」、なんて言われる、およそ脚光を浴びる事など考えられない県です。
 
 だが!
 県名より有名な「出雲大社」は、間違いなく島根県「の中」にあります。
 なのに「地味なこと、この上ない」と言われる・・・・。
 更に中国地方ながら、「山陽」ではなく、「山陰」と言われる。
 これまたいかにも地味です。
 でも、言っときますけど、「山陰」だってちゃんと陽は射してるんです。
 だから、昼間は明るいんです。

 これ、はっきり言いましょう。
  地味だとか、四十七番目だとか、暗い、だとか思ってる人!!それはあなたが物知らずなだけですぞ。
 「島根県」という県名は、「出雲県」でも「石見県(いしみ、ではありません。いわみ、です)」でもありません。これは「大和島根」という語から来てるんです。

 「大和」は天孫族が入って、日本を創めた地。肇国(ちょうこく)の地。
 「島根」は根の国の支配者大国主神と、子の事代主神を祀る地。
 「天と地」、「初めと終わり」は、この二国で支えている。
 加えて、大国主の子の建御名方神は、諏訪の地で日本の背骨を守る。

 この島根県には「韓神(韓国)新羅神社」という神社があります。スサノヲ神や、五十猛(いそたけ)神が新羅から戻って来られた時、しばらくこの地に居られたので、そう言うのだそうですが、確実に言えることは、この親子二柱の神様は半島と日本の間を往来しておられた、ということです。
 つまり、朝鮮半島と日本には神代の昔から往来があったということになります。
 また、大国主神も韓より戻って来られた時、島根中央部の(現在の大田市)仁摩町大国の大国主神社(八千矛神社)に居られたといいます。
 同じ仁摩町宅野(たくの)にはスサノヲ神を祀る韓島神社もあります。
 ついでに、出雲大社では大国主神は半島の方を向いて(神殿内で左向き)鎮座されています。

 日本全国に新羅神社はいくつもあります。
 社名は漢字を当てているだけですから、全国の白石神社や、白髭神社の元を辿ると、それぞれにつながりはないようでも、韓・新羅の古史が垣間見えます。

 兵庫県の北部、但馬国に出石(いずし)という土地があります。
 皿蕎麦とお家騒動(仙石騒動)が有名ですが、但馬国の一宮である出石神社の祭神天日矛(あめのひぼこ)は、新羅の王子だったのが家来を連れて渡来し、出石を拓いた、とされています。当然、産土神となります。

 韓や新羅等、渡来の神々は結構あって、当然のように神々が引き連れて来た人々は、日本に住み着き土地を拓いて「日本人」となっています。
 神戸市の北部一帯には、百済からやって来たという伝承を持つ人々があり、中には今でも百済姓を名乗る人もいます。
 勿論最近の帰化ではなく、遅くとも平安期以前には居住していたようです。

 それらの人々を端から否定したり、拒絶したりするのではなく、彼らが元々の日本人と共に、日本をつくる力となったこと、又、それを従来の日本人は快く受け入れ、「悪いことはすぐ習ってしまう」筈のところを、努力で良いものばかりにしていったという事をこそ、見るべきではないかと思います。


 補)
 ここに書いた韓・新羅の人々は、現在の南北朝鮮人と同一の民族ではないそうです。 


2012.05/03
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「あしひきの」

2019年12月27日 | 神社
 神道(しんとう)の、いや、もっと前の「あの世」の話です。

 例によって以前に書いた日記から、です。

 「地獄」「極楽」という佛教の「方便(たとえ)」。
 一般に「方便品(ほうべんぼん)」と言われる仏典(経品、お経です)に見られるたとえ話の世界では、地獄、極楽も、実は「あの世」ではない。
 あれらは、あくまでも心の在り方を六道(重層する六つの世界)で説明しているだけです。

 死後の世界、というのを「あちら側(彼岸)」と「こちら側(此岸)」という風に分け、普段は往来ができないもの、程度に観念(分別)して、そんなことより、「それを忌避するより、あるがままを認めなさい」というのが佛教で、でも、認めなさいと言われたって、はい、そうですか、とならないのが人の心。腑に落ちるまでに時間がかかるし、それなりの考え方の変革をしなければならない。
 佛教だって、やっぱり「仏も押し退けつつ抱きしめる」のです。
 (物の考え方を身に着けることで、世界を新たに捉え直すことをする。聖書の「神は押し退けつつ抱きしめる」、「これまでのすべてを排除しながら貴方の全てを受け入れる」、というのと同じ論理)

 ほら、また脱線した。
 日本の「死後の世界」、です。
 だから、地獄、極楽の対立が死後の世界、ではない。三途の川があって、向こうが彼岸(ひがん)、こっちが此岸(しがん)。六道銭を渡し賃として持って行かなきゃ、渡してさえくれない。あの世に行けない。「地獄の沙汰も金次第」は、この六道銭の話もあるんでしょう。
 「六道」、から、「あ、これは佛教の方便(たとえ)だよ」、とわかります。

 真田の旗印が六文銭なのは、六道銭なのでしょう、「死ぬ覚悟はできている」と。
 三途の川も、だから、日本の「死後の世界」ではない。

 では、ということで、お待ちかね(?)「黄泉(よみ)の国」、なんですが。
 これ、黄泉津比良坂(よもつひらさか)という坂が、この世とあの世をつないでいて、イザナギの命が、失ったイザナミの命を連れ戻しに黄泉の国へ行き、「待っているように」、という約束を破って、様子を見に戻ったため、黄泉津醜女(よもつしこめ)に追い掛けられ、必死で逃げ帰った坂である、と。

 黄泉の国、黄泉津醜女、黄泉津比良坂、などから、「黄泉の国があった」となるわけですが、どうも、これ、もう一つピンときません。
 ただ、何となく、イザナミの命が支配する死後の世界、というのは墳墓の中の話、みたいな感じがします。
 玄室と羨道の間の話を、人気漫画の一つの戦いみたいに延々と描く。

 実際、神道で「あの世」というのはこれだけで、どうも重苦しく、陰気な気分が拭えない。
 それだけでなく、あまりに中身がおどろおどろしく、そのくせ、内容に乏しく貧相だ。どうも、神道では「死後の世界」は、現世と表裏といった風ではないみたいです。

 古事記から(八百万の神々のことが書かれているのですから)死後の世界をさがすと、こうなってしまい、黄泉の国で行き止まりです。
 対して、「死」に対する心だけ読むならば、こんなのがあります。
 古事記の中に我が子を失った二柱の夫婦神が、その子の友達だった神が弔意をあらわしに来たのに、我が子が生き返ったと、抱きつかんばかりに狂喜したものだから、その神が大変に怒り狂い、祭壇も何もかもぶち壊して引き上げた、という話。

 死。不浄なものを、怒り狂うことによって祓った、ということになります。勿論、これは「死生観」で、死を忌むべきもの、穢れたもの、と見ていたことは分かるものの、「死後の世界」そのもの、ではありません。

 こうなるともうお手上げなんですが、実は古事記よりまだ古いかもしれない資料がある。
 
 それが万葉集です。
 天皇の命によって編まれた世界最古の歌集は、その時に詠まれた歌のみならず、過去の歌も入るわけですから、その歌の中に、物の見方、文化、も見える。
 そうした中から、死後の世界を考えることができるもの。
 
 それが枕詞の一つ、「あしひきの」という言葉です。「の」を取ってしまえば、「あしひき」。
 「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜を一人かも寝む」
 「あしひきの山のしづくに妹待つと我が立ち濡れし山のしづくに」

 何故「山」という言葉の枕詞として、「あしひき」という言葉が用いられるのか。
 「足引きの」、です。「足を引っ張る」。
 つまり、こうです。山は足を引っ張られるところ。足を引っ張られて迷ってしまうところ。迷ってしまうと帰れない。

 死んだ人は、みんな山の中に居て、現世に帰って来られずさまよっている。
 だから、人を見ると、人恋しくて、足を引っ張って戻れないようにする。
 一人で山に入ると、そういうことになるから、決して山には入らないように、ということになるのですが、初めの段階、というのは、そうやって、何となくうすぼんやりと、死後の世界を思う。

 なんだか怖い、という気持ちはあるものの、随分と、淋しく、切ない思いがします。
 これが、一番古い、日本人の心象です。何とも純朴で穢れのない思いではあります。
 しかしここには、虐殺の恐怖に怯えて暮らした歴史は、存在しないのが、直感されます。

 「山」は、そういった場所。神聖でもあるし、おそろしくもある場所。
 でも、見方を変えれば、死者が住む場所を変えたわけだから、そこは尊重して踏み入らない。

 日本の神は基本としては山にあって、神社も本来は山そのものが御神体であるから、と、本殿はなく、拝殿だけだった、というのも、この辺りの、「畏敬」の念を感じます。

 初めは「恐れ」だったのでしょうが、「畏れ」に変わる。
 この辺りから、「神」への思いも明らかになってきたのかもしれません。
 
 「敬して見詰める」のと「畏れて頭を上げられない」のとでは、心の発達にも大きな違いが出て来ます。
 信仰も、「畏れる」と「畏敬の念を持つ」、とは違ってくるでしょうね。 
 「敬する」、だけなら「仰」はないから、信仰とは言わないのかも。

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