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CubとSRと

ただの日記

単一民族

2020年01月16日 | 神社
2010.02/01 (Mon)

 「日本は単一民族の国」と発言したら、
「アイヌ人は日本人じゃない!事実誤認だ!」とやられ、さらに
「沖縄だって、ずっと琉球王国だったのを薩摩が武力統治したんじゃないか!」というのまで入って、えらい目に合わされた国会議員がいましたね。

 「旧土人法」というのがあって風俗、習慣の違うこれらの人々を普通の日本文化になじませようとの努力がなされました。
 もっとも、これは朝鮮人にやったことと同じくアイヌ人にとっては大きなお世話だったと思います。
 保護(事実、保護といえば、保護です。感じ方は別にして)の内容は、生活習慣を日本人と同じにする。狩猟採集、移動の生活をやめ、定住する。日本風に名前をつけ、定職を持つ。文字を持たないから、日本語を教える。などです。

 名前が変り、生活習慣を根本から変え、文字を読み書きするうちに、アイヌ語は忘れ去られていきます。生活習慣を変え定住することによって、アイヌ人のアイデンティティ-がぼやけていきます。
 「我々はアイヌ民族だ。日本人ではない」との主張がやっと認められ、「北海道旧土人法」が廃止になったのは、1997年のことです。明治からの法律がやっと十数年前、アイヌ人の血を持つ国会議員の奔走でやっとなくなったのです。

 ところで、富士山を祭る神社の名前を御存知ですか?
 「富士浅間神社(ふじせんげんじんじゃ)」ですね。同じ名前の山が長野県にあります。
 「浅間山」。「浅間神社」の「せんげん」は音読みですが本来訓読みで「浅間」と表記したのです。だから、本当は「あさま神社」。けれど、富士山と浅間山は同じものではありません。
 伊勢神宮の御神領地に「朝熊山」があります。「あさまやま」と読みます。「あさま」というのはアイヌ語で「むこうのやま」という意味なのだそうです。(ついでながら神戸から西ノ宮にかけて広がる「むこうのやま」に字をあてて、「六甲山」。これは紛れもなく日本語です。武庫も「向こう」の当て字。兵庫と武庫は関係ない。)
 つまり、我々の知るアイヌ人は「千島アイヌ」「樺太アイヌ」と北海道の蝦夷と呼ばれた人々なんですが、古代は富士山、浅間山どころか伊勢神宮の辺り(三重県)にも居住していたことになります。
 それが、我々の先祖、大和民族が段々に勢力を伸ばして来たため、対立はしなかったものの、アイヌ人は移動して遂には海を越え、北海道に渡った。ということなんだそうです。

 「追いやられたちょっと気の毒な民族」という感じで、長い間捉えていましたが、どうもそんなものではないらしい、と思い始めたのは北海道ツーリングで網走に行き、私立の先住民博物館を見てからでした。
 ここには、昔オロッコ(オロチョン)族が居住していた。そこへアイヌ民族がやって来たため、彼らは列島沿いに大陸へ渡り、遂にはロシア(モスクワ)に程近い土地に住むことになったそうです。
 オロッコ族が居て、アイヌ人が来て、和人が来た。この小さな島国の中でも、これだけの変化がある。これが、単一民族と言われてもさほど不自然でない、由緒正しい、と言えば世界最古と言ってもいい日本です。(最近の研究では、北海道アイヌ以前から和人がいた形跡もある、とか。)

 隣の半島国なんかは、戦さがないのが不思議なくらい。占領されてない時期のあることが不思議なくらい。さらに隣の人口十数億と言われる超大国は、殷の昔は小さな国ですよ。とても今みたいに尊大に「大中華」なんて言えませんよ。
 それが、周となると大きくなり、大きくなると分裂し、戦国時代に入って、また統一される。
 戦いに敗れた人々は南の方に逃れ少数民族となる。大きくなった国は国防に金をかけ過ぎ、貧しさから叛乱が起り、滅びる。今度は近隣の国が隙ありっとばかりに侵入、まとめあげる。
 纏め上げたら政治が腐敗し、また内乱が起り、ドサクサにまぎれてまた、攻め込まれる。この国の怖いところは内乱が起き、滅びる度に周囲を侵食するということ。今、チベットとウィグルです。
 ということは、次は間違いなし、日本と台湾ですよ。
 脱線したまま終わります。


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久々のツーリング(日帰りだけど)考

2020年01月09日 | 神社
 これでおしまいにします。長々と世間話ばかりで、ちっともツーリングではなかったけれど、お付き合いいただき、有難うございました。

 ・・・・・なんて、この日記自体が終わりそうな書き出しでしたが、そういうわけではありませんので。
 ツーリングの色々は書きません。一つ二つ印象に残ったことだけ、書きます。

 今回は目的地であった出雲大社から。
 一つ目は、改修中の出雲大社本殿のこと。
 前にも少し書きましたが、大社本殿は桧皮葺(ひわだぶき)です。
 檜の皮を均等に切り揃え、一枚一枚竹釘で留めて行きます。多くの古い神社は瓦ではなく桧皮で葺かれています。それが、また社殿を立派に見せてくれます。
 この檜皮の葺き替えが専門家でも大変難しいのだそうで、大概は、一度葺いたら、上から銅板を被せてしまい、檜皮が傷まないようにする。
 けれど、本来の形を守ろうとする出雲大社のような神社は、そういうことはしない。元の形に戻そうとする。出雲はそれが60年という周期(式年)で行われます。
 
 対して伊勢は、というと、二十年に一度の式年遷宮。出雲大社の三倍の速さで、(それも、全て)造り替えられます。改修ではなく、新しく造営されます。
 伊勢神宮は桧皮葺ではありません。茅葺きです。棟持柱も台石の上ではなく「掘立て柱」。
 だから屋根も柱も傷みが激しい。二十年に一度が妥当でしょう。

 今回、改修のほぼ終わった出雲大社本殿を遠くから見て、その桧皮葺の屋根と、破風の金具、その塗装等から伝わってきたのは、(まだ、鉄骨の覆屋に半分以上隠れていたけれど)おそらくは室町時代の、この神域の気配でした。
 その色合い。本殿の後ろ、かつては、御神体そのものであったろう若葉で萌え上がるような小山と合わさって、ここは大国主の陵なんだなと実感しました。
 
 四十年近い昔、遷宮間近の伊勢神宮の新御正殿を見たことがあります。
 白木の建物と茅葺きの屋根、要所に遣われてある金色の金具以外に全く装飾のない御正殿は鎮座されてからほとんど変わらないのだそうです。
 でも、千数百年前の景色が、伝わって来ない。いや、伝わって来ないのではない。今と同じなんです。逆に言えば今の景色が千数百年前と同じものなんです。

 「伊勢神宮を見れば、昔の日本の景色(心の景色)が分かる」
 と聞いたことがありますが、出雲大社の、この本殿改修の景色を見て初めてその言葉とつながったようです。出雲大社を見なければ、太古の日本と今をつなぐ筋が見えなかった。
 「日本の景色」というのはあまりにも古く、同時にあまりにも新しい。何も変わっていないように見える。
 だから、その道筋がつい忘れ去られてしまう。

 二つ目は神楽殿入り口の注連縄。
 注連縄に、「刺されば縁起が好い」などと、占いのつもりでお金を投げる人が多いからか、網が掛けてありました。
 「無粋だなあ」、と思いました。神社に、ではない。参拝客に、です。
 神社の方としては何かの拍子に刺さっている硬貨が落ちて、歩いている人に当たったら危険だから、と、そうせざるを得なかったのです。

 折角お参りに行ったのに、怪我をしたら、意味がないだろう。怪我をしなくても、身も心も穢れを祓って帰るつもりだったのに、注連縄に刺さった硬貨を見たら嫌な気分になるだろう。
 人の我欲を見せ付けられたようで、嫌悪を感じました。

 その時です。
 ふっと枯れた藁の匂いが漂い、一遍に気持ちが変わりました。
 勿論、この頭上の太い注連縄からでしょう。

 硬貨を投げて突き刺してやろうとするのも我欲。
 そんなのを見て嫌な気分になるのも、同じ、我欲。
 それを、注連縄の匂いが、一瞬に消し去ってくれました。

  今回は割子(わりご)蕎麦をたらふく食べ、美味しいコーヒーを飲んで帰りました。


2012.05/12


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皇国(すめぐに)

2019年12月31日 | 神社
 「皇学」とは国学のこと。「皇典」とは日本の古典籍のこと。
 では「皇国」とはどういう意味だろう、と考えているうちに、訓読みにしたら意味が見えてきた。
 それが日本という国の在り方から成り立ちまでを説いているのではないか、と書きました。
 以前に「皇」という一字姓があることを知り、
 「何て読むんだろう。何だか畏れ多いような名前だけど」
 と思っていたら、これ、「すめらぎ」と読むんだそうですね。

 同じく「皇国」を訓読みで読むと「すめぐに」です。
 「すめらぎ」は「すめらぐ」の連用形で、名詞と思われます。
 ところが「すめら」という言葉も又、名詞。
 となると、「すめ」という言葉があって、「すめる」という動詞が成ったとも考えられる。(元を辿れば、「すめ」と動詞の「住む」は同じだったのかもしれません)

 「皇国」と書いて、「すめらみくに」と読むこともありますが、これ、「天照大神」と書いて「あまてらすおおみかみ」と読むのと一緒で、書かれてない敬語を入れた読み方ですから、普通に読めば「すめぐに」、です。

 では「すめ」、又は「すめる」なんですが、何故、「皇」という字が当てられるのか。
 それで、似た感じの語(勿論、和語)はないか、と思ったら、ありましたよ。
 「すべ」、「すべる」という言葉が。
 「滑る」、じゃないですよ、「統(す)べる」、です。

 「統べ」、「統べる」は、「まとめ」、「まとめる」。そのための方策も意味しますから、「術(すべ)」も根は同じでしょう。

 「『すめ』と『すべ』、同じかぁ~?」
 と思われるかもしれませんが、「さむらい」は、本来「さぶらい」が正しい発音です。貴人の傍らに「さぶらう」者。「さぶらひ」、「さぶらふ(侍る)」から「さむらい」、です。
 日本語は元々、マ行とバ行に明確な違いはありませんでした。
 だから、今でも「寒い」、を、処によっては「さぶい」と発音するでしょう?

 「すめぐに」は「すべぐに」と考えたら、「皇国」と書かれる理由が見えてくるでしょう。
 天皇が国を「統べる」。それが日本の在り方だ、と。
 皇学は国の学問。皇典は国の古典。そして「皇国」は日本のこと。
 それは「天皇が統べる国」という意味で、決して「支配する」という対立関係ではない。
 「統べる」とはみんなをまとめあげる、ということで、「布(し)く」、「支配する」というような意味はありません。
 「統一」とすれば、強引な印象が出てきますが、「統べる」、にはそのような強硬なイメージはありません。
 「みんな一緒。天皇を先頭に国民が一体となって生きる」というのが「皇国」の意味と考えられます。

 「天壌無窮の神勅」には「ゆきてしらせ(行って治めよ)」という文言がありますが、そこに居る人々は支配されるのではなく、天皇と共に「在」り、天皇と共に天壌無窮であることを命ぜられている(神勅を同じく受けている)、とみるべきでしょう。
 皇孫だけが「天壤(あめつち)と窮(きわま)り無かるべし」、となったんじゃあ国民は存在できませんからね。 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 天壌無窮の神勅

 豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の國は、是(こ)れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)也。宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)、寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壤(あめつち)と窮(きわま)り無かるべし。



2012.11/19
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皇学 皇典

2019年12月30日 | 神社
 神道系の大学ってのは仏教系のそれと違って、数校しかありません。
 伊勢にある皇学館、東京にある国学院。そして奈良にある天理大学。
 そんなところでしょうか。

 皇学館は伊勢神宮の神職養成のためにつくられたと思われ、国学院は伊勢を頂点とする国家神道に対し、教派神道と言われるところが集まってつくり、天理はその中の一つである天理教がつくった大学、みたいな解釈が為されていますが、どうも本当のところはそういったことではないようです。
 
 明治の初め、例の文明開化の嵐が吹き荒れた時です。
 神仏分離令(正式には神仏判然令と言うんだそうです)により、政府の意図するところではなかった廃仏毀釈が全国各地で起こったことは御存じのことと思いますが、実はもっと国として憂慮すべきことが起こり始めます。
 それは全ての事柄に於ける西欧化です。

 何しろ「和魂洋才」の言葉をじっくり見れば実感できるように、日本の近代化は「西欧の才」に、つまり、精神以外は全て西欧に倣わざるを得なかった。
 当然学問なんかはその最前線。
 「新しく西欧の学問を採り入れなければ欧米列強についていけない。まずは学校をつくろう」
 ということで、学制が布かれ、日本全国に学校がつくられました。
 勿論、全くのゼロからではない。各地にあった藩校や塾を学校として改めて定め、そこで近代教育を始める。
 元藩校、塾の建物ですが、学習内容はこれまでの儒学中心のものだったり、手習いというわけにはいかないので、全て欧米のものを参考にします。

 そして、数年後には、「小学」に対して「大学」がつくられます。
 国立の大学を、各分野別に作る。それまでに作られていた各種専門学校が大学になります。医学校、工科学校、美術学校、などというのが、それぞれ医大、工業(工科)大、美大になる。
 森鴎外などは飛び級で医学校(後の東大医学部)に14歳(本当は12歳だったそうです)で入学しています(ハイスクールフリートの衛生長、みなみさんみたい。)
 欧米式の学問を学び、優秀な者は当然政府の要職に就きます。
 そんな中、日本の文化・学問は幕末の頃とはうってかわって全く省みられなくなってしまった。文化・学問、それに基づく物事の考え方から、一般的な常識と言われるもの、果ては生活様式までが、軽視されるようになります。

 それは大学を出たエリート達も同じこと。優秀ではあっても、日本のこれまでの物事や歴史に敬意すら持たなくなってしまった。そんなエリートが役所の主導権を握るのです。

 新しい組織だから、とは言ってもここは日本。全てが欧米式になるだけでなく、考え方や行動までが日本人らしからぬものになっていくのを憂えられた明治天皇が、 
 「洋学を盛んに行うのは必要なことではあるが、我が国本来の在り方を学ぶ場はどうなっているのか」
 と、国学を学ぶ場所の設置を考えるように命じられたのだそうです。
 「和魂洋才」の「洋才」は、大変な勢いで展開しているのに、「和魂」の方は研究する場所すらない。

 それで伊勢の地に、かねてより要望のあった神職の養成や、国学の研究のための場、として、「皇学館」がつくられます。
 東京では同じく研究所がつくられ、「皇典講究所」と名付けられます。
 
 wikiで見ると、久邇宮朝彦(くにのみやともよし)親王の令旨により建学されたのが皇学館。国学院は有栖川宮幟仁(ありすがわのみやたかひと)親王の令旨で開かれた、とありました。それぞれ、明治天皇の命を受けてのことです。

 皇学館は大東亜戦争中、長年にわたる許可申請の末に官立の神宮皇学館大学となり、敗戦時、神道指令により、廃校。 
 皇典講究所は国学院を併設、後に閉所。国学院は独立して大学となります。
 (天理大は研究機関ではなく、純粋に布教活動のためにつくられたものだそうです)

 さて、「皇学館」と「皇典講究所」という名称についてです。
 「皇学館」の「館」とか、「皇典講究所」の「講究所」の意味はすぐ分かります。
 「館」は図書館の館。「林崎文庫」に設置されたからでしょう。
 「講究所」は「講義研究所」と思われます。

 しかし、「皇学」とか「皇典」というのは一体どういう意味でしょうか。
 「調べたことはないけど、何となく了解している」
 、という人がほとんどではないでしょうか。
 もしかしたら「軍国主義の学問」とか「右翼のプロパガンダ書籍」なんて思っている人もいるかも。

 でも、念のために調べてみると。
 「皇学とは皇国の学問=国学」
 「皇典とは皇国の古典籍=古典」
 だそうです。

 ならば、「皇学」「皇典」の「皇」というのは「国」という意味になる。
 ということになると、「皇国」とはどういう意味になるのでしょうか。
 「くにくに」?まさか。

 「こうこく」と読まないで、大和言葉、訓で読んでみる。
 訓読みにすれば「すめぐに」、或いは「すめら(み)くに」。

 すると、「皇国」の語から、日本の在り方、日本の成り立ちが見えてきました。



 ということで、次回は「皇国」という語について書いてみます。


2012.11/19
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神嘗祭のこと

2019年12月30日 | 神社
日本の祭祀と言えば、農業に係わるものが一番大事。
 春分の日や秋分の日は、一年の農業の始めと終わりに、先祖祀りをすることで豊作を願い、豊作を祝う、ということから来ています。
 
 春秋の「彼岸」というと、仏教からのようですが、以前にも書いたように、「彼岸」というのは、実は「日願」のことで、昼夜の時間が半ばする春分の「日」に豊作の「願」をする。同じく秋分の「日」に感謝の祀り、というより、お「祝」いをする。
 仏教よりも、農事ということで、これやっぱり神様に、ということから行われ続けてきた、と考える方が自然でしょう。

 元旦の祀りとして、宮中で天皇によって行われる四方拝は、何でも北斗七星の星の形に云々、というのがあるんだそうですが、本来は文字通り、四方を拝することで八百万の神達に
 「今年もよろしくお願いします。皇祖神の勅命のままに、日本が弥栄に栄えますように」
 と、宣(の)るものだった。

 何で、正月一日か、というと、旧暦ではその日から昼が長くなるから。
 つまり、それが一年の始まりなのだ、と。
 筋通ってるし、分かりやすいですよね、これ。
 今の暦はキリスト教暦なものだから、日本とはずれてしまって、その辺が何だかピンと来ません。

 で、神嘗祭と言えば、伊勢神宮のそれを思い出すのだけれど、それぞれの神社でそれぞれにあっても、別におかしいことはない。
 考えてみれば古くからの神社で、神嘗祭をやらない方が少数派なんじゃないでしょうか。

 これまた何度も書いてきたことですが、何で「神嘗祭(かんなめさい)」というか。
 それは「神」様が「新穀(収穫物)」を「嘗(な)める」、つまり、召し上がる祀りだから。
 収穫の奉告と感謝をする祭りなので、神嘗祭と言います。

 字面だけ見て、
 「ああ、神社に収穫物を奉献するんだな」
 と見るのが一般ですよね。

 しかしこれ、気をつけて欲しいところです。
 日本の祭祀は世界中にある感謝祭とはよほど様子が違っている。
 どこが、そして何が違うか分かりました?

 「収穫の奉告と感謝」、と書いているでしょう?
 「感謝」だけの祭りなら、世界中どこでもあるけれど、「奉告」するってことになると、意外とやらないんです。
 大体「感謝祭」というのは、そこらのスーパーだってやってることで、それは「お客様に感謝します!」だから、安売りしたり増量したりすればそれでよし。

 けれども、神嘗祭に限らず、「祭祀」というのは感謝の態度を表せば良いだろう、新穀を奉献すれば良いだろう、ではない。
 「言わなくたって分かってるじゃないか」、ではなくて、口に出して言ってこそ、「奉告」してこそ、「奉献」の意味があるんです。

 ちゃんと「奉告」という名前の「口上」を述べて、然る後に、或いは同時に「奉献」する。
 未分化の状態で「感謝」、とやっているのとは違って厳格な形式があるわけです。
 ①祝詞を奏上して、②新穀等を奉献する。これが決まりです。これが祀りです。

 まあ、そんなに大袈裟なことではない。
 身近な例で言えば、食事の際、箸を手に持ち、目の前の御馳走を見て、何から食べようかな、と品定めしながら「いっただっきまぁ~~す」と言ったと同時に料理に箸を伸ばす。こりゃあいかん。
 手を打つか合わせるかして、「いただきます」と言い、それからおもむろに箸を取る。こっちには間違いなく感謝の念があるでしょう。

 「あ~っ!そうか。あのことか!」
 と言われる方があればうれしいのですが。
 実はこれ、「祭政一致」の原基形態です。
 まず「奉告」し、それから「執り行う」。
 祭祀(奉告)の後、政事(執行)に移る。

 この「まず奉告」してから、「そのままに実行する」という形が成立したのが、神武創業の時、ということになります。
 大陸から律令制を採り入れ、神祇官と太政官を置き、神祇官を、比較すれば低位に置いたのですが、それでも必ず「奉告」という祭祀を先に行い、その後、政事。太政官は奉告されたことを実行する者という形が厳格に守られました。

 その在り方が神嘗祭にも端的に表されていると言えるでしょう。

 地位が上の者が下の者に命ずる。上意下達がスムーズに行われてこそ社会は治まるもの。だから、社会に於ける権力構造というのはピラミッド型であるのが普通です。
 しかし、既述のように、日本の場合は違っていた。
 この「奉告」、そして「執り行う」という形は、日本の歴史を読み解く鍵になると思います。



2012.11/18
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