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CubとSRと

ただの日記

先祖祀りもしない者が

2020年01月19日 | 神社
2015.12/04 (Fri)

 父の一周忌にお経をあげてもらうため、先月下旬から田舎に帰っていた。
 本当なら十一月半ばなのだが、遅くなった。

 一年。あっという間だ。父の法事より、自分の病気入院などを優先した。親不孝者である。

 自分の入院加療は二度に分かれたとはいえ、病院からすれば内視鏡を使った簡単なもので、現に今は以前と変わりなくこうやってお気楽な日記を書いている。が、父は戻っては来ない。「私に今、何かできるのか」、なんて言うまでもなく、何もできはしない。

 「親不孝者」と書いたけど、じゃあ孝行していたら親はいつまでも生きていられるかというと、そんなわけはない。
 残された者にできることって一体何だろう。立派な法要を行うことか。
 繰り返すけれど、死んだ者は生き返っては来ない。
 
 「残った者」、とか「残された者」という言い方に、なにか引っ掛かる。
 他界したものは「成仏」したのだ。「仏に成った」のだ。
 だったら、斯界(此岸)に居る我々はまだ仏に成ってないのだ。やらねばならないことがあるのだ。
 つまりは、「まだ宿題が残っているのだ、だからこの世は修行の場なのだ。酷く言えば刑務所なのだ」ということか?
 いや、我々は修行僧ではない。ましてや囚人ではない。
 ということは、我々は「残された者」「残った者」ではなく、この世を「継ぐ者」「継承者」であり、次代に「繋ぐ者」である筈だ。

 そうするとやっぱりできることは、それぞれの事を、それぞれの意志で取り組み続けるということ、しかなかろう。
 で、それは去った者のために、ではなく当人のために、ということになる。そしてそれは周囲のために、ということにもなる。
 更にそれはめぐり巡って世のため人のため、となっていく。

 そんなことを考えたら、以前、妙に違和感を持ったことが、同じ理屈からだったことに気付いた。
 大阪府知事だったか、大阪市長だったか、祖母に叱られたという話だ。ニュースで何度か目にした。
 「靖国神社に参拝する、と言ったら『おじいさんの墓参りもしない者がええカッコするな!』と叱られた」
 、と。

 「先祖祀りもしない者が、一族に戦死者もいないのに何故靖国神社に参るのか。自分の家の墓参りが先だろう?」
 何となく、つい
 「そうだそうだ。先に墓参りしろ。ええカッコするなよ」
 と思ってしまいそうになる。

 でも、
 「先に先祖祀り、しろよ」?
 靖国神社の英霊達は彼が参拝したらそんな風に思うのだろうか。
 いや、既に神となった英霊達にそんな感情はあるまい。そう言うのは生きている者同士が言い合うことだ。神の気持ちを忖度したって意味はない。

 それよりも我々は「英霊達は自身の身近な人々を守るために命を捧げた」ということをもっと直視すべきだろう。
 「身近な人を守るために」
 これは家族を養うために額に汗して働くことと同じ道理だ。
 我が身を捨てて家族を守る、身近な人を守るということは、継承者に後を託すということだから、国を守るということになる。
 だったら、我々は血のつながりはなくとも、国民として彼らに守られたのだ。そして彼らに後を託された「継承者」なのだ。
 そう考えたら参拝するのは当然のことではないか。参拝ができなければ遥拝すればいいではないか。
 「墓参りしてないから、縁もゆかりもない靖国神社に参拝するな」、はあまりにも身勝手な暴論だ。

 南方に出征していた父は勝ち戦の中で敗戦を知り、帰国した。そして地道に生き、子を育て、昨秋他界した。
 先日亡くなった水木しげる氏。ラバウルで死線を越え、片腕を失って帰国、日本人の心に大きな影響を残した氏より一つ年上だった。
 有名無名の違いはあるけれど、どちらもやっぱり働くことで家族を守り、戦争賛美などはせず、結果としてその先にある「国」を守ることをしてきたのだ。戦後も、そうやって国を守り続けてきたのだ。

 勿論、「国があって家族がある」のではない。けれど「家族があって国がある」のでもない。
 我々民草が熱源となって国は成り立つ。

 私は私の意志で私にできることに取り組むこと。そうやって熱を発すること。
 せめて受け売りの「右から左へ受け流す」ようなことだけはせぬよう努めることにしよう。

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波上宮(なみのうえぐう)と沖縄  (下)

2020年01月19日 | 神社
2015.11/17 (Tue)

 「沖縄のこころ」
 ~県民憧れの宮・沖縄総鎮守 波上宮を通して見た沖縄~

 < 沖縄の言葉は日本語 >
 また、使っている言葉は日本語。例えば御伊勢の宮の事を昔は「ウイシノミヤ」(ウイシヌミヤ?)と呼んでいた。
 沖縄の方言は、母音のエ( e )の音がイ( i )の音に、オ( o )の音がウ( u )の音に変化する。即ち、「オイセノミヤ」のオ( o )は、ウ( u )に、セ ( se )が、シ( si )に変化して、「ウイシノミヤ」となる。
 発音だけを聞くと、最初はなかなか分かり難いが、意味を教えて貰い、何度も繰り返し発音すると、読書百遍ではないが、意、自ずから通ずるものがある。これは、母国語・日本語だからである。沖縄の言葉は、平安期前後に都の言葉が流入し、積み重なった古層の言葉が今に伝わるもので、発音は現代人には分かり難いが、文法等、正に日本語以外の何物でもない。西洋や中国とは文章の並び方が完全に違うのである。

 さて、言葉は日本語、王様は日本人、国の一大事業に際し祀る神も、皇祖神・天照大御神となれば、もう、この島は、琉球王朝の昔より日本の心、魂の息づく地であったと筆者には思えてならない。

                    (以下略)
                          
                                      転載了


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 場所柄、台湾と同じように、大陸南部の福建省辺りから多くのシナ人が早くから移り住んでいたことは間違いないし、実際、前知事の仲井真氏も、自身、先祖は中国人と言っています。
 これは逆に見ると、それを誇りにしている、ということで、比較的新しい移入だから、色々な文化を持って渡来し、歓迎されたということでしょう。同時にそれが、沖縄は元来、シナ人の土地ではなかった、ということの証明にもなっています。
 そして、その具体的な証拠が、聞き取り難いけれども、紛れもなく日本語を話しているということ。
 沖縄の宮廷舞踊が室町期に完成された能楽の舞をもとにしてつくられていることなども日本である証明になるでしょう。

 また、以前にも書きましたが、大方は室町期の日本語が沖縄風に発音されるため、言葉も意味も違って見えることがある。
 それに加えて、その古い言葉を今の言葉に直そうとして、今の「意味合い」から漢字を当てようとする。そのため、全く違う感じの語句になってしまう。
 挙句に、こともあろうに県知事が国連で少数民族宣言のようなことを発表し、若い学生にその間違いを指摘され、大恥をかくなんてことも起こる。

 「ちゅら」は「清(ちゅ)ら」であって「美ら」ではない。
 「うみんちゅ」は「海の衆」であって「海人」ではない。(「海人」は「あま」です。)
 同じく「しまんちゅ」は「島(陸おか)の衆」。
 「めんそーれ」は「参り候え」。だから「お出で下さい」
 「ウタキ」は「おたけ」だから、御嵩(おんたけ)→御岳(おんたけ)→御嶽(おんたけ・みたけ)=おたけ・うたき
 「サバニ」はおそらく「小舟(さぶね)」で「丸木舟」ではない。
 「ハイフニ」は「早舟」もしくは「速舟」。
 ついでながら、「エイサーの原型は江戸初期に伝わった念仏踊り」という一文がありました。成る程、念仏踊りは田楽がもとにある筈だから、鉦や太鼓を身に着けて踊るのは基本の形。それが段々に勇壮な踊りになっていくのはどこでも、祭りの常態です。
 見た目には、小さな太鼓を持って(身に着けて)、シナ風の服装に脚絆までつけて、という風のものが多いので、何となく大陸渡りのもののような印象を持ちますが、古い伝承を守っているところでは服装も振りも地味なものです。時代が下るにつれて派手になる。念仏踊りがもとになっている、と言われて腑に落ちました。

 もう一つ、ついでのついでですが。
 ネットで見ると「尚」王の「尚」というのは、訓読みにすると「なお」。これは南北朝期以後、南朝方だった鳥取の名和氏が沖縄に行き、尚氏を名乗った、という説もあるのだとか。
 名和氏の家紋に能く似たものがある、とも。
 いずれにしても沖縄の人々が、昔々、シナに強い憧れを抱いていたということは事実でしょう。
 しかし、だからと言ってシナ風の名字や名前にはしていない、というところも見詰めるべきじゃないでしょうか。
 半島の隣国は「唐」に支配されたときは漢風に一字姓、「元」に支配された時はモンゴル風に、とその時々で名前はおろか名字まで変えています。
 強制されたからではない。願って変えている。(日韓併合時の創氏改名もそうでした。だから
両班の多くは改名をしていません)

 沖縄の名前の付け方は奈良時代のままです。

 
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波上宮(なみのうえぐう)と沖縄  (中)

2020年01月18日 | 神社
2015.11/16 (Mon)

 社報「靖國」11月号からの部分転載、後半です。
 「左翼的な県民性だ、と思っていたがそうではなかった。それどころか敬神の念に篤く、剛毅・純朴な人々だった」
  こんな人々が、あれだけ猛烈な基地反対運動などするだろうか、と私の疑念を書いたのは、先祖祀りと、社会批判・革命運動とはつながらないからです。
 革命はこれまでのすべてを否定する。先祖を祀ることさえ否定する。当然でしょう、これまでの社会を支えてきた人々なのですから。社会を否定する、ということは支えるという行動をも否定するということです。ということはその社会の人々の先祖もみんな否定することになる。先祖否定=先祖祀りの否定です。
 先祖は否定するのに、先祖祀りはする、というのは変でしょう。社会を否定するということは、先祖祀りも肯定「してはならない」。
 だから孔子の墓だって暴かれたんだし、そんなことをされたらたまらん、ということで周恩来は墓を作らせなかった。
 脱線しました。


 「基地反対運動は革命ではない。大和と琉球は国が違うのだから当然のことだ」
 という人もいるかもしれない。でも、それはまやかしだ、基地反対運動は革命(独立)運動のために利用されているし、沖縄県は間違いなく日本だということを、今回、改めて思わされました。

 明治の「琉球処分」を批判する人があるけれど、先述した通り、「処分」に冷たい意味はありません。
 江戸時代、沖縄は「琉球国」と名乗って島津藩の支配下にありました。日本>島津藩>琉球国です。
 それが新しい国家体制を作るために、明治政府は琉球も同じく一つの県、とした。鹿児島に支配されていたのに、鹿児島と同列に置いた。だから明治天皇を恨んではいない。恨んでいないからこそその明治期の琉球処分を思い、敗戦後の一日も早い本土復帰を願うために明治天皇の顕彰を、と銅像を建立した。そう思うのが妥当ではないでしょうか。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「沖縄のこころ」
 ~県民憧れの宮・沖縄総鎮守 波上宮を通して見た沖縄~

 <天照大御神を祀る浮島神社>
 さて、昔の那覇は、海に面し、国場川・安里川・久茂地川と三方を川に囲まれた謂わば浮島のようなものであった。そこで、明国の冊封使が那覇の港に到着し、首里に向かうまでには、どうしても、川を渡る必要があった。
 時に琉球国第一王朝・金福王の時代、那覇に石の橋、堤を築いて冊封使をお通しするようにとの王命が国相の懐機に下った。
 川底は深く、両岸は離れており、どのようにして石堤を築けばよいかと、懐機は途方にくれた。そこで、彼は、福州の人であったが、大和で最も尊い「天照大御神」を祀り、二夜三昼の間、祈り続けた。
 すると、徐々に潮がひき始め、七日の間、再び満ちてくる事が無かったという。懐機は多くの部下を使い石堤を造り上げた。
 それが、のちに琉球八景の一つに称えられる長虹堤である。懐機は、この石堤築造の大工事が無事完了したのは天照大御神の御蔭であるとし、自らの邸宅をこの神に捧げ、そこに「長寿宮」(ウイシノミヤ=御伊勢の宮)を建てた。
 一昨年、伊勢神宮の御遷宮が行われた事は記憶に新しいが、まさに、琉球王朝の最盛期に、伊勢の皇祖神・天照大御神がこの地に祀られた事は特筆大書すべきであろう。
 (大和であればごく自然のことであろうが、当時は「琉球国」だったのである。)

 現在、このお宮は土地問題の為に波上宮の境内に「浮島神社」として祀られているが、今も那覇市松山一丁目五番地には、その石碑が残っている。浮島神社には土地問題、経済的問題もあるが、早く元のお姿に御復興申し上げる事が私共の悲願である。

 <琉球の王様は日本人>
 さて、一四五二年、今の那覇市松山から崇元寺迄の石堤「長虹堤」が完成し、大和の皇祖神・天照大御神が祀られた。しかもそれを祀ったのは、国相・懐機である。当然、王家の許しなくそのような事はできないし、必ずや王家の理解あっての事であろう。
 そこで、尚王家に就いては、「尚」という姓から、中国大陸系統か朝鮮半島系統かと思われがちだが尚姓は明国から第一尚王家の祖「尚巴志」が戴いた外交上の姓である。
 そして元を辿れば「尚巴志」の祖父は鮫川大主、その親は屋蔵大主であって、日本人なのである。 


  (やや長くなりましたので、ここまでを中として、次回を最後にします)
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波上宮(なみのうえぐう)と沖縄  (上)

2020年01月18日 | 神社
2015.11/14 (Sat)

 先日、社報「靖國」11月号が届いていたのを、開封したまま置きっ放しにしていた。
 思い出して、綴じる前に目を通しておこうと開いてみたら、これは大事なことが書いてある。
 今日は何が何でもこれを転載しておかねば。
 でも、部分転載ではありますが、上下二回になりそうです。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「沖縄のこころ」
 ~県民憧れの宮・沖縄総鎮守 波上宮を通して見た沖縄~
              大山晋吾(波上宮禰宜)

  < 敬神・崇神の島、沖縄 >
  間もなく、筆者が靖国神社から波上宮に転任して五年となる。東京でいた頃は全く沖縄のことを知らず、テレビで米軍基地反対の市民集会の様子を見て、何と左翼的な県民性かと思っていたが、全くそれは誤解であった。
 人々は皆々、先祖を大切にし、神々を深く信仰している。実に一般の県民は、敬神・崇祖の念篤く、剛毅にして純朴なる気性に満ちていた。

 さて、沖縄総鎮守・波上宮の参拝者数、今年の正月三箇日は三十万八千人を数えたが、当宮は年間を通して参拝者が非常に多く、また崇敬者の参拝時間の長さにも驚かされる。若い方でも五分、十分と祈ってゆかれる。高齢者に至っては二十分、三十分とお座りになって「お拝み」をされるのである。
 また、祖先を敬う県民性は、墓所・墓石の多いことに象徴されよう。丘や山に登れば、必ず墓所がある。それも膨大な数で、その内に生きた人の住む所が無くなって仕舞うのではないかと危ぶまれる程である。
 人々は清明祭やお彼岸等になると一族で先祖伝来の器にお供え物を盛って墓参に行く。そこで、子孫は親たちの拝む姿を見て、自然に崇祖の心を養うのであろう。

         (略)

 < 明治天皇の御尊像 >
 さて、境内に建つ明治天皇の御銅像の建立は、昭和四十五年であり、沖縄が日本への祖国復帰を果たす以前のことであった。
その御銅像の台座には、明治天皇の御宸筆「國家」の文字が刻まれている。そこには戦いに敗れて米国に占領され、祖国から切り離された当時沖縄県民の悲しみが、そして一日も早く日本国に復帰したいという県民の悲願が籠っているように思えてならない。
 波上宮は戦いに敗れ、打ちひしがれた沖縄の人々にとり、祖国日本を偲ぶ唯一の心の故郷、魂の拠り所であった。まさに、その境内地に御銅像は建てられ、それから二年後、沖縄は見事に祖国復帰を果たしたのである。


                   転載終わり

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「~テレビで米軍基地反対の市民集会の様子を見て、何と左翼的な県民性かと思っていた~」
 しかし、
 「実に一般の県民は、敬神・崇祖の念篤く、剛毅にして純朴なる気性に満ちていた。」

 これ、どう思われますか。大山禰宜が間違ってるんでしょうか。それとも、報道がおかしいのでしょうか。
 いやいや、波上宮に参拝する人々だけが別なんでしょうか。
 それとも参拝している時だけが敬神の念が篤くなるんでしょうか。
 少なくとも、辺野古を初めとして反対運動をしている人々と、参拝者の表情は決して重ならないのではないか。
 今朝も関西のテレビでは「正義のミカタ」という朝の情報ショーで、沖縄国際大の前泊教授が
 「沖縄の民意は基地反対。反対意見が強まれば助成金が増える。飴と鞭だ。助成金は地元には四割しか落ちない」
 などと説明していましたが、これまた
 「敬神・崇祖の念篤く、剛毅にして純朴なる気性の沖縄県民」
 と全く重ならない。


 「境内に建つ明治天皇の御銅像の建立は、昭和四十五年であり、~」

 戦争に敗れたのが昭和二十年。講和条約が二十七年。
 銅像の建立されたのが四十五年。本土復帰が四十七年。
 敗戦から二十五年もたって明治天皇の銅像を建立する。
 何故、明治天皇なんでしょうか?「琉球国」独立を支持する人々は、明治天皇を「『琉球処分を命じた酷い天皇」だと思っているのではないのでしょうか。

 菅官房長官が「粛々と行う」と発言したのを「上から目線だ」と文句をつけたことがありました。言いがかりに近いものです。「粛々」というのは決して「上から見下す」ような傲慢な表現でないことは、普通に学校に行っていれば分かること。
 それと同じく、「処分」という言葉には「冷たく切り捨てる」といったような意味はありません。
 「適材適所」と同じで、「それぞれの処に分類して収める」ということでしょう?「処分」の文字にはそれだけの意味しかない。
 「切り捨てる」、というのなら鹿児島の支配下から「沖縄県」へ、という鹿児島と同等の立場にする施政は成り立ちません。己の勉強不足を棚に上げて批判ならぬ非難ばかり・・・、いやいや、今日はこの辺でやめときましょう。


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恥ずかしながら

2020年01月16日 | 神社
2017.08/22 (Tue)

 僅か七年前、靖國神社・護国神社に参拝することにためらいがありました。

 勿論「靖國神社にはA級戦犯が合祀されているから」、などというふざけた理由からではありません。そんなものは存在しない。
 しかし、「家族・一族に戦死者がいないのに参拝する、というのは見ず知らずの他人が葬式や法事に行くようなもので、それは遺族に対して失礼なのではないか」。
 そう考えていました。五十歩百歩、ですね。
 五十も半ばを過ぎていたけれど、そんな浅墓なことしか考えてなかった。今思い出しても、冷や汗三斗、です。
 本当なら、その正反対で「家族・一族でもないのに、顔を見たこともない、まだ生まれて来てもいない我々を命を懸けて守ってくださった。そのことに感謝し、今度は我々が後生を守る、と誓い(明かし)に参拝すべきだ」、となる筈です。

 そんな時に「夕刻の備忘録」氏の文を読んで、考え違いに気づかされ、次のような短い日記を書きました。
 ↓
・・・・・・・
 「連絡事項」

 「大家と言えば親も同然」と同じではありませんが、「靖国神社崇敬奉賛会」に入会することにしました。
 譬えは適切ではないけれど、「貧者の一灯」になるかもしれないから。

         2010年01月16日

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 正直なところ、それでも半分くらいしか分かってなかったんじゃないかな、と思います。「分かる(理解)」ではなく、「感じ取れる」ようになってきたかも、となったのはもっと後です。
 おそらくは備忘録氏が、「産経抄」の文を採り上げて厳しく糾弾され、私もその産経の記事に「?」と思った時から、でしょう。
(産経の記事、転載)
 ↓
▼「菅さんの権力に対する執着心が、自身の再生エネルギーになっている」と渡辺喜美・みんなの党代表はうまいことを言うが、それほどまでに延命したいのなら抄子が知恵をお貸ししよう。
 霊験あらたかで効果抜群の妙案を。
▼最近の歴代首相は、さきの大戦で亡くなった人々を悼むため6月23日の沖縄を皮切りに広島、長崎を巡り、8月15日の全国戦没者追悼式に参列するのが常である。
 これに靖国神社参拝を加えればいいだけの話である。
▼国のために命を捧げた兵士の霊に首相が頭を垂れるのは、どの国でも当たり前の話である。
 毎年参拝した小泉純一郎首相が5年の長期政権を全うし、参拝しなかった首相が、いずれも短命に終わっているのは偶然ではない。
 ひとたび首相が参拝すれば、支持率はアップし、政権延命は間違いない。
                        (2011.6.25 02:35)

 ・・・・・・・・・・
 (ここから「夕刻の備忘録」本文)
 産経は靖國問題をオモチャにしているのだ。
 この記事を書いた人間の品性の下劣さは譬えようもない。靖國参拝が「霊験あらたかで効果抜群」の延命策だとハッキリ書いている。
 本気なら許せない、冗談ならなお許せない。この程度の認識で、自民党歴代総理の靖國参拝問題を論じ、様々な批判を書き連ねて自民党支持率の低下に貢献してきたのが、彼等の正体だということになる。
 よくもまあ、「靖國に行けば支持率アップで延命間違いない」などと書けたものである
 (中略)
 靖國問題における対応においても、麻生太郎は一つの模範を示した。参拝云々を無力化させることに尽力した。
 これは安倍晋三の「曖昧戦法」と同様の効果があった。
 麻生の靖國に対する思いは、その著作に存分に書かれている。
 そして、その任期中にマスコミに対して最も激しい怒りを示したのは、靖國参拝を云々したぶら下がり取材であったことも忘れてはならない。
 その時に吐き捨てるように言った言葉が、全てを表している。
 「靖國は静かに祈る場所であり、政治から最も遠くにあるべき場所である」と。

 次は2013.03.26の氏のブログからです。
 ↓
 「靖國参拝問題」で自称「保守派」から、政治家に向けて繰り返し発せられる言葉は、「国家を護るために命を捨てた英霊に対し、国民の代表として敬意を表し参拝するのは当然の義務である」というものである。
 そこでこちらも繰り返しになるが、靖國参拝問題は政治問題ではなく、国民の心の問題であり、これに「国民の代表」などという代理人は無用である、と強く主張したい。
 敬意を表し参拝するのが当たり前なのは、我々国民であって、政治家はその後ろに続く存在にすぎない。国民主権を声高に言うなら、これは国民がまさに先頭に立つべき大問題であり、政治家は主役ではないのである。
          (略)
 ここには、現代の批評病の影は全く無い。色々と考えて、政府の対応を批判して、是々非々に論じて、あれはダメ、これはOKと区別して、それから漸く腰を上げたのではない。
 そんなことをしていては、政権が弱くなる。国家が弱体化する。内部分裂を毛ほどでも匂わせれば、他国はより露骨に入り込んでくる。それが分かっているから、(英霊となられた諸先輩は)全てを飲み込んで行動されたのである。

 今、我が国は危機にある。この危機に際して、政府の大方針に賛成だ反対だと騒いでいる暇は無い。
 無能政府は既に倒した。これも繰り返し論じてきたことであるが、批判がしたいなら小声ですればいい。
 間違っても「国論を二分する」などと形容されるような手法を採るべきではない。それはそのまま日本の危機をより深刻化させるからである。

 また平和な時が来れば、思う存分に議論を戦わせればいいだろう。今は国民の団結心を見せる時である。
 その団結心の強さ、深さを相手に見せることが出来れば、戦争は回避出来る。もし、安物の議論に溺れて、国内が分裂していると思われれば、敵はその瞬間に攻め込んで来るだろう。
 この辺りの機微を、どれだけの国民が理解することが出来るか。それが全てを決することになるだろう。

 「秘すれば花」は芸術論ではない。
 我々日本人の生き方の指針である。
 無言が雄弁に遙かに勝ることを教えた先人の遺訓である。
 その生き方に徹することが出来れば、日本は護られる。
 それを侮れば、直ちに日本は消え失せる。

                     (以下略)
      ~夕刻の備忘録~
             靖國と「秘すれば花」より
 2013.03.26
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「秘すれば花」のもとは
 「千万の軍なりとも言揚げせず取りて来ぬべき男ぞと思ふ」
 どれだけの敵であろうとも無駄なことを言わず、全て討ち取って切り伏せてくる男。
 「葦原の水穂(瑞穂)の国は神ながら言揚げせぬ国」
 我が日本は神代の昔から、言い立てたり言い募ったりしないで、思い(言霊)のままに生きる国。
 言霊の幸合ふ国だから、言霊の霊威を尊び、軽々に言葉を多用して言い立てたり言い募ったりしない。正しい言葉のままに行動すれば思いは現実のものになる。

 最後にもう一度。
 《敬意を表し参拝するのが当たり前なのは、我々国民であって、政治家はその後ろに続く存在にすぎない。国民主権を声高に言うなら、これは国民がまさに先頭に立つべき大問題であり、政治家は主役ではないのである。》

 「議員や閣僚は参拝するな」と言っているのではありません。
 この参拝に「義務」とか「責任」とかいうことを声高に唱えることがおかしいというのです。言挙げするものではあるまい、と。
 国民として当たり前のこと、或いはやむに已まれず参拝するのが本当ではないでしょうか。

 議員や閣僚以前に「一国民として参拝する」、という至極当たり前の光景が展開されることになる。
 これ(国民各人が事由に参拝すること)は他国がとやかく言う筋合いのものではありません。
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