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CubとSRと

ただの日記

雄叫びを上げる代わりに

2020年01月22日 | 神社
2017.08/16 (Wed)

         (略)

 もう一度書く。保守議員は靖國問題から離れよ!

 これは常識の問題である。仮に実弾飛び交う戦闘状態だとしよう。
 敵は間近まで迫ってきている。その時、彼等は「靖國神社を護れ!」と叫びながら、靖國神社に立て籠もるつもりなのか。 
 靖國を弾避けにして、自らはそこから応戦するつもりなのか。
 そんなことをしたら神社は格好の標的になって、焼け落ちてしまうではないか。

 本気で靖國を護りたいのなら、出来る限りそこから離れて「俺はここに居るぞ!」と敵前で踊ってみせるべきである。
 陽動作戦を取り、自らを囮として敵を靖國から遠ざけるべきなのである。
 これは全く常識の問題ではないか。

 実弾飛ばぬ言論戦、ネットを使った空中戦においても状況は全く同じである。  靖國を護りたければ、沈黙すればよい。左翼の得意技である「話題逸らし」をやって、敵を別件に誘導すればよい。
 そうして静かに参拝出来る環境を護るのだ。

 我々も同様である。大声で参拝を論じる必要は無い。シュプレヒコールは必要無いのである。
 雄叫びを上げる代わりに、静かに友人知人を誘えばよい。手紙を認め、「久しぶりに会わないか、待ち合わせ場所は、そうだ靖國の前にしよう」と誘えばよいのである。
 言論空間にどれほどの言説が流れているかではない、九段の駅にどれほどの人が溢れているかが問題なのである。
 それこそが敵の心臓を射貫く最終兵器なのである。


 靖國問題における対応においても、麻生太郎は一つの模範を示した。参拝云々を無力化させることに尽力した。
 これは安倍晋三の「曖昧戦法」と同様の効果があった。
 麻生の靖國に対する思いは、その著作に存分に書かれている。そして、その任期中にマスコミに対して最も激しい怒りを示したのは、靖國参拝を云々したぶら下がり取材であったことも忘れてはならない。
 その時に吐き捨てるように言った言葉が、全てを表している。
 「靖國は静かに祈る場所であり、政治から最も遠くにあるべき場所である」と。


  2011.07.28 「保守議員は『靖国参拝』を口にするな!」

         ~夕刻の備忘録より再転載~
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過程に着目する

2020年01月21日 | 神社
2017.09/07 (Thu)

 「分け登る 麓の道は多けれど 同じ高嶺の 月を見るかな」
 やり方、取り組み方は無数にある。
 けれど「高嶺に登りきる」という目標を達成すれば、そこに見える月(目的)は同じく美しい。

 こんな意味だろうことは、すぐに感じ取れる道歌だ。
 あんまり直截過ぎて、一時期、
「いやいや。みんなが高嶺に登りきることができるわけではない。けど、実際のところ、途上でも美しい月を見ることはできる。」
 とか
「高嶺から見る月も、途上で見る月も同じく美しい。それどころか登らなくたって(麓にいたって)月は美しい。それぞれに良さがあるじゃないか。登らなくたっていい。ありのままが一番だ」
 なんて。まるで世界に一つだけの花。「一つひとつは~違っても~同じようにきれいだね~♪」
 みたいな解釈(というか、違った切り口というか)が流行ったこともある。

 ただ、これ、敗戦後民主主義の得意な論点ずらし(やすらかに眠ってください あやまちはくりかえしませぬから)に見えて仕方がない。早い話、欺瞞性を感じてきた。

 本当に「同じ高嶺の月を見るかな」、なんだろうか。
 淡々と、舗装路を車で頂上(高嶺)まで行く。
 ロードバイクで息も絶え絶えに上る。
 はたまたのんびりゆっくり歩いていく。
 滑落の懼れのある険しい修験の山道を、真言唱えながら登る。

 事実は一つ、「同じ月」だ。
 けど、「それぞれの、頂上で見る月」は「同じ」なんだろうか。
 その過程で得るもの(体得、体感するもの)は決して同じではないだろう。
 同じなら、修験の行者も、歌でも歌いながら車で楽しく行けば良い。
 ここで育つ心(認識力の向上)に目を向けないで、「同じ月を見るかな」という「目的」だけ認めることにどれだけの意味があるんだろう。過程があってこその「月を見る」、じゃないんだろうか。

 「学校で教えないから」敗戦の日を知らない。だから「学校で現代史から教えよう」。
 教えなければならないのは、「歴史」という刻まれたものから、文化・精神の形成発展の流れ(過程)を読み解こうとする姿勢を持たせることではないか。
 

 今日、社報「靖國」9月号が届いた。
 その巻頭言「靖濤」を拝読して思いついたのが、今回の日記です。

 というわけで、9月号の巻頭言「靖濤」を次回に転載しようと思います。
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再び護国神社へ

2020年01月21日 | 神社
2015.02/03 (Tue)

 思いの外、天気が良かったので、改めて濱田の護国神社に参ることにした。時間は十分にある。

 勿論聞いておきたいことがあったからだ。
 前回の日記に書いた通り、一つは木口小平のこと。もう一つは、亀山神社から旧名の護国神社に戻した理由、或いは何故亀山神社としていたのか、ということ。
 聞き方次第で「亀山にあるからです」と言われたら、それまでなんだけど。

 今回は社務所に中年の女性と神職が二人、の三人の姿があった。入って伺いたいことが、というと、若い方の神職さんが応対してくれた。

 日清戦争の当時、二十一連隊は広島に在って、それが出征するのは浜田港からだったということだ。
 木口小平の像が浜田の護国神社に移されたのは、それが理由だという。
 後、浜田が二十一連隊となるのだから、それで良いようなものの、銅像は岡山出身の木口小平。ならば、連隊が浜田に移されたにしても、出身の岡山か、連隊のもと在った広島に在っても良かろう。連隊が移動したにしても、広島の連隊や兵営がなくなるわけではなし、何も銅像まで引っ越すことはなかろう。どうも分かったような分からぬような・・・・・。

 亀山神社と名称を変更した理由も、正式には残されていないらしい。
 とはいえ、こちらも神道指令が絡んでいることは間違いないらしい。

 いずれにしても、これを自分なりにはっきりさせようと思っていったのだから、これだけは日記にしなければ、と、さきほど例によってネットで調べていて、やっと気が付いた。流し読みをしていたネット情報をもう一度見直して、歩兵二十一連隊の沿革を見たら、ごく当たり前のことを見落としていた。

 広島に歩兵二十一連隊の前身が作られたのは明治十年代のこと。それから十数年後、二十一連隊は浜田に移転している。
 つまり、岡山出身の木口小平は、広島の二十一連隊に入営し、日清戦争に出征、戦死した。
 後、二十一連隊は浜田に移り、大規模な兵営を設けた。何しろ雨天練兵場まで持っている。今の自衛隊誘致の大規模なもの、と言えば良いか。その故、浜田は突然「軍都」の様相を呈したらしい。
 その連隊が軍人勅諭下賜50周年の記念事業として、「軍神」木口小平の銅像を作った。となると、設置場所は当然兵営内ということになる。
 だから「岡山に居られなくなって~」というのは私の浅墓な邪推で、銅像は広島ではなく、勿論岡山でもなく、初めっから浜田に移った二十一連隊の兵営に建立されていた、ということだ。
 岡山の人の感情を、「ちょっと冷たいのでは?」と疑ってしまったことは恥ずかしいことだ。それに加えて、兵営の在った地から、同じ浜田の護国神社に敗戦後、それもまだ独立も叶わなかった昭和25年に移されたということには、何だか浜田の人々の木口小平の像への気持ちも関わっているのではないか?という気もし始めた。

 この時は、まだ「亀山神社」。調べてみると、全国的に「護国神社」の名は伏されている。
 「何故、亀山神社から護国神社に戻ったんでしょう」
 と神職さんに聞いてみた。
 「神社本庁ができたからだと思います」
 といったような答えが返ってきた。

 ところが、これも帰ってきてからネットでもう一度調べると、神社本庁は苦闘の末、というより、淡々と神祇院の事務を継承する形で、それこそ「信教の自由」の下、設けられたらしい。
 神社本庁設立は何と敗戦の翌年、昭和二十一年。しかし、各神社が旧名に復したのは、昭和二十七年以降。サンフランシスコ講和条約締結後だ。
 占領統治法の一つである神道指令は、この独立の時まで日本の首枷になっていたわけだ。
 物事が変わる時には、何らかのきっかけがある。その時、みんなが声を揃えるか、それともバラバラに改変を求めるか、で、結果には雲泥の差ができる。
 神道指令により護国神社が潰されぬよう、各社はそれぞれに名称を変更したけれど、戻る時は一斉だったと思われる。それは神社の神職のみならず、遺族会、県民の思いも同じだったからではなかろうか。
 
 今回こうやって護国神社に参拝してみて、自分がいかに薄っぺらな見方、捉え方しかしていなかったか、を考えさせられた。安易な決めつけをしていたな、と恥ずかしく思ったのは先述の通りだ。
 しかしおかげで分かったことも多々ある。子供の頃、おかしいな、何でそうなるんだろうと思ったことが、意外に的を射ていたらしいことにも気づかされた。

 「連隊のある町」の人々は兵隊に対してどんな感情を抱いていたのか。どんな目で兵隊を見ていたのか。その感情は町の歴史をどんなふうに形成していったのだろうか。そんなことも思わされた。
 「国を守るための習練をしている兵隊さん」
 を見る人々の生活と、
 「『国』のために決まりを守らぬ者はすぐさま処刑し、公園に遺体を放置する原理主義者」
 を見る人々の生活と。
 そこでは、それぞれ、どんな社会が展開されていくのだろう。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 補記、
 ネットで知ったのですが、
 「木口小平が喇叭を離さなかったのは単なる死後硬直なのであって、あれは英雄でも何でもない」
 、みたいなことを言ったのは、木崎国嘉という医師で、昔、深夜の人気テレビ番組であった「11PM」に出演していた時のことだったそうです。
 それが今でも「死後硬直説」の根となっているのですが、何でも、死後硬直というのは、死後二時間くらいから起こるのだそうで、木口が「喇叭を口から離さなかった二時間」、がなければあり得ないことなのだそうです。
 そうでなければ、木口に限ってはそれが異常に早かったということになる。
 そんなことはあり得ませんよね?
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当然のこと (後)

2020年01月21日 | 神社
2015.02/01 (Sun)

 そんなことをずっと思っていながら、事情あって、今に至るまで靖國神社に参拝したことがありませんでした。
 今は時間の制約はあるけれど、一人で気儘に行動することができる。
 では、靖國神社ではなく、地元の護国神社に参拝することは?と考えました。
 ここ数年、地元の一宮である物部神社に参拝している。今住んでいる地域の産土神の神社は近辺では一番古く、由緒正しい神社なのだが、神職がいない。そのため、神札を返納したり、いただいたりすることが適わない。
 ならば、国の一宮に参れば、と思ったからなのだが、考えてみれば護国神社だって同じじゃないか。

 各地にある護国神社の総社が靖國神社なのだから、個々には、地元の英霊達を祀る護国神社に参るのは普通のこと。なのに何となし、「ええかっこ」、みたいな気がしていました。それを前回の「備忘録」氏に繰り返し諭されて、少しずつ気持ちが変わってきていた。

 地元の護国神社は浜田にある。旧浜田城址に、石見の国の護国神社として
在るのだが、敗戦後、しばらくは「亀山神社」と称していたらしい。亀山にあるから亀山神社、なのだが、「護国」、という名称を出さなかった理由は、言うまでもないでしょう。出せなかったのです。神道指令のせいで。

 昼過ぎだったからか、参拝者は一人もいません。他の参拝者の少ない神社と同様、手水舎は水が止められていて、手水も遣えない。
 神職は一人いるだけ。他に人の気配がありません。
 小さいながら立派な拝殿と神殿がある。参道脇には傷痍軍人の母の会(妻の会?)が建てた平和祈念の碑と銅像がありました。
 銅像は日清戦争で戦死した木口小平という喇叭手のものでした。
 戦前の小学校の教科書に載っていた、 
 「キグチコヘイハ シンデモラッパヲ ハナシマセンデシタ」
 という一文を、母が何度か聞かせてくれたことを思い出しました。
 敵の銃弾に倒れても突撃喇叭を吹き続けようとし、息絶えても喇叭を口から離さなかったということを、「軍神だ」、「美談だ」として伝えようとした軍部の脚色が大きいと言われ、敗戦後、きれいさっぱりと忘れ去られた話です。

 初めは別の人の英雄譚だったのだが、本当は木口のことと分かり、或る時から急に木口小平の名に変えられたことだとか、息絶えても喇叭を離そうとしなかったのは単に死後硬直のためだ、とか。
 そんな風な説明を聞くうちに、軍というのは姑息なことをする、人間を道具としか見てない、となり、「軍国主義は良くない」、と誘導されていきます。
 アサヒ新聞が、体に爆弾を巻きつけたテロリストと、敵に身体ごとぶつかっていく肉弾攻撃(特攻)を、同列に断罪したことを産経新聞が猛批判していたけれど、私の子供の頃は、世間は全てがアサヒ新聞的思考だったのだな、と今にして思います。
 軍人と便衣兵の違い、テロと戦闘の違いを全く区別できない(考えようとしない)人が、一般国民は言うまでもなく、テレビなどのコメンテーターにはあまりにも多過ぎる。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「国民が国を支える」のだから、侵攻に対し、それを阻むものは「国民」である「軍人」。だから、「軍人」とは国民の一つの「役割」と考えると、国民でありながら一般国民には絶対にさせられない仕事を行うために「軍服」を着用しなければならない。相手国側も同じです。

 「一般国民には絶対にさせられない仕事」
 というのは、
 国を護るために「他人を殺傷し」
 国を護るために「他人に殺傷される」
 ことです。
 自分のために、ではない。飽く迄も、「他(国・国民)」のため、です。
 だから、軍服を着る。
 だから「便衣兵」というのは決して許されない。
 それは国と国、人と人、社会と社会の対立ではなく、全面的に相手を否定するやり方だからです。相手の社会を否定する、その存在を全く認めないやり方だからです。

 戦争は相手を人と認めるからこそのものです。その究極が「軍服」の着用です。
 しかし相手を人と認めない、だから「殲滅」させる、そのためには手段を選ばない、便衣兵だって条約破棄だって何だって使う。そういう国が新しく立てる世界秩序とはどんなものか。ここから見えてきます。
 
 社会主義革命はそれまでの社会を否定し、便衣兵は相手を人と認めない。

                   2013年11月12日の日記より

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「それにしても、木口小平、浜田の人だったのか!」
 そんなことを思いながら帰ってきました。ところがネットで調べてみると、浜田の人ではない。岡山の人だ。何故、岡山の英雄が浜田に居る??
 どうも浜田護国神社が「亀山神社」と名乗らざるを得なかったのと同じ理由に思える。岡山の人にとって、その当時「軍神」はもう忌むべき存在となっていたのではないか。「移転は昭和25年」とあった。

 天候のせいもあったのだろうけれど、護国神社の空気は重かった。
 当然だろう、英霊が祭られているのだ。参拝者は全くと言っていいほど居ないのだ。だからこそ、感謝と誓いを表しに参拝し、境内を明るく直き場にすることが大事だろう。

 木口小平のことを調べてちょっと考え込んでしまったけれど、一つ思い出した明るい記憶は拝殿にあった記帳用の冊子だった。
 参拝した時は誰もいなかったけれど、毎日必ず参拝者は、ある。続くこと、続けることで、何かがきっと変わっていく筈だ。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 補追 1
 靖國神社と全国の護国神社とは、現在、統括社と傘下の神社、といったような、直接の繋がりはないそうです。
 その理由は、本来が同じ「招魂社」であることと、靖國神社は神社本庁に属さない、単独の宗教法人となっているからなのだ、とか。
 しかし、大東亜戦争で命を捧げられた方々が祀られているということが多く知られている前に、靖國神社もまた東京「招魂社」だったわけで、同じく国難に殉じた、国のために命を捧げられた人々ということで、重複して祀られている場合も多く、連携した活動が行われているのが現実のようです。
  ご存知の通り、「いわゆるA級戦犯」の問題で、靖國神社が矢面に立たされて居る状態が続いているということに主因がある、といえましょう。

 
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当然のこと (前)

2020年01月21日 | 神社
2015.01/31 (Sat)

 もうなくなってしまったけれど、教えられることの多かったブログに「夕刻の備忘録」というのがありました。
 話題性のある諸事の論評もさることながら、いつも物の考え方を教えられ、蒙を啓かれることが多いブログだったと思います。

 その中に「靖國神社奉賛会への入会の勧め」みたいな記事がありました。
 成程、氏子のない神社は参拝者からの賽銭、寄付がなければ運営はできません。戦死者の遺族も段々と減り、全国の多くの遺族会が次々と解散。靖國神社への寄付も目に見えて減ってきている。これでは神社は潰れてしまいます。

 国家神道をGHQの神道指令によって廃絶させられ、信教の自由という美名の下に靖國神社は自然消滅、いや、それどころか、焼かれ、跡地はGHQの素案であるドッグレース場になる寸前、にまでなっていたのです。
 焼かれることは免れたものの、神道指令の発令により、国の予算はつけられなくなっていたから、遺族会と篤志者の寄付で運営するしかない。
 ところが先述のように寄付は目に見えて減っていく。

 国のために命を捧げられた人々を国が祀る。
 それは当然のことなのに、神道指令を出されたことにより、敗戦国日本ではそれが許されませんでした。そして、靖國神社運営の支えは遺族会と篤志者だけ。

 「それはおかしいではないか」
 と備忘録氏は説かれ、
 「『国のことだから国の代表である総理大臣が参るべき』、との論が喧伝されるが、これは国のことである前に、まずは国民のことではないか。代表ではなく、赤誠を以て表すべきなのは、まずは我々国民の『感謝と、誓い』ではないのか」
 と繰り返し述べられていました。

 成程、と思わされたのは「国民が」ということと同じく、「国の代表云々」ということについても、でした。
 「安倍総理に参拝を」との主張は、確かに一理あります。「国の代表たる者が(参拝しないとは)」という理屈で、一昨年末には賛否の声が渦巻いていました。 

 けれど「国の代表なんだから」、といって、その前のH総理や、K総理が、
 「参りますよ。当然のことだ」
 と言ってたら、どうなったでしょうか。
 ほとんどの人々は首を傾げるのではないか。
 言うまでもなく、
 「赤誠を以て『感謝と誓い』を、なんて彼らがする筈はない」
 と直感するだろうからです。K総理なんかは「君が代は辛気臭いから嫌だ」とはっきり言ったこともあります。

 「だから一人でも多くの国民が祭りの有無に関係なく、三百六十五日、参拝をしよう。全国民が参拝するのに一体誰が、どこの国が文句をつけることができるのか。」
 「夕刻の備忘録」氏はこう説きました。
 当時の或る知事は、参拝の意志の有無について聞かれ、
 「祖母(母?)に『おじいさんの墓参りもせん者が、ええかっこするな』と叱られた」
 と応え、暗に自分は靖国参拝はしないと表明した。
 では戦没者の遺族、一族でなければ、参拝してはならないのでしょうか。
 参拝することは「ええかっこ」、なのか?
 戦没者は誰のために命を捧げられたのでしょうか。
 「国のため」、ということは「今、在る国民のため」ということではないのでしょうか。
 つまり、我々全国民が、英霊達から未来を託された遺族、ということではないのでしょうか。
 一族に、ましてや肉親に戦没者がなければ、それこそ英霊達は縁もゆかりもない、ただ「同じ日本人」だというだけの我々のために、命を捧げて下さったということではないのか。
 だのに、英霊達に「戦死者は勝手に死んだのだ。我々には縁もゆかりもないのだから、参拝に行くのはただのええかっこしぃなんだ」と自治体の長がうそぶく。

 それはどう考えてもおかしいでしょう。親族に戦没者がなければ尚更のこと、我々は参拝に行くべきではないのでしょうか。

        (後半へ)
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