美里町の探検日記GP

津市美里町(旧美里村)に住んでいるコレクターです。コレクション自慢(?)のほか、津のこと、美里のことも書いていきます。

今峯城(美里町足坂)と外山城(美里町五百野)

2022-03-16 09:15:16 | 津のこと

(高宮小学校の運動会/現在は閉校)

上の画像は、私が通っていた旧高宮小学校です。
小学校が統合されて、現在は閉校となっています。
今から40年以上も前のことになりますが、
この校舎の2階の教室であった出来事からお話しします。

私たちは3年生だったと思うのですが、
先生がこんな宿題を出しました。
「自分たちの地域の昔のことを家で聞いてきてください」
現在でもこのような学習はあるようですが、
あの当時もこれが行われていたのですね。
で、翌日、五百野の外山(とやま)という集落から来ている子が、
「外山の山にお城があって、お殿さんが住んどったんやて」
と教室で発表すると、
足坂から来ている子も
「小学校の裏山にお城があって、お殿さんが住んどったんやて」
と発表しました。
このふたつの場所は2kmくらい離れていますが、
私は子どもながらに、小学校区内にふたつもお城があって
お殿様がいたとは信じられませんでした。

以下の記述は、彼らの発表が本当だったこと、
鎌倉時代から室町時代にかけてこの地を支配した長野工藤一族とは
別の一族の城があったことを「太平記」の記述よりご紹介するものです。

1338年、光厳上皇の車(牛車)が御所に戻る途中、
美濃国の武家・土岐頼遠の一団に路上で出会う。
本来なら武士は馬から降りて跪き、車が通りすぎるのを
待たねばならないが、頼遠は馬から降りもせず
「何だお前は」と怒鳴る始末。
頼遠らは酒に酔っていた。さらにこの時代に「婆娑羅」と呼ばれた者達は
天皇や公家を軽んじる傾向があった。
「院のお車であるぞ、無礼者」と言われて
「院とは何だ、犬か、犬なら射てしまえ」と
家来に命じ、上皇の車に向かって弓を射させた。
逃げまどう上皇の車は、車輪が壊れ横転しまったのを見て、
頼遠らは笑いながら去っていったという。
前代未聞の狼藉である。
この事件に激怒したのが、将軍足利尊氏の弟直義だった。
頼遠は尊氏ら足利勢とともに戦い、多くの敵を打ち破って
後醍醐天皇を追放し、室町幕府成立に導いた功労者である。
だから美濃国守護職を命じられるなど、幕府内の地位も高い。
しかし、上皇もまた、尊氏が将軍となるのを応援してくれた恩人であるので、
頼遠を軽い処罰で済ますわけにもいかない。
悩んだ末に、頼遠は死罪、ただし頼遠の子らには刑は及ばず、
所領も引き継いでよいとの沙汰であった。
頼遠は打ち首にされ、美濃国守護職は甥の土岐頼康に命じられた。


(土岐氏系図:丸数字は美濃国守護職の就任順)

1358年、将軍足利尊氏が死去、尊氏に重用されていた
伊勢国守護・仁木義長の立場が微妙になる。
義長の権勢を妬んでいた畠山、細川らの有力大名が
義長を追放しようと企んだ。これに多くの大名が同調する。
1360年、畠山、細川らが結集し、義長追討に挙兵すると、
義長も伊勢伊賀の兵を近江国に集め、京に進駐しようとしたが失敗(注記あり)、
敗軍となって伊勢国に落ちていく。
目指すのは長野工藤氏の城・長野城(津市美里町)であった。
これが、これから3年の長きに渡り、籠城戦が行われた
長野城の戦いである。

籠城する仁木軍には、土岐頼遠の息子3人がいた。
父が処刑されてから20年余り、
彼らがどこで何をしていたのかは分からない。
美濃の領地で大人しくしていても、
守護職の土岐頼康(は従兄弟にあたる)には頭が上がらないから、
仁木義長の呼び掛けに参じて、名を上げようとしたのかもしれない。
一方、幕府も長野城の義長の追討を命じる。
幕府軍の大将は土岐頼康であった。
要害堅固な長野城を力づくで攻めるより、
城兵に降伏を促して、仁木軍の戦力を削いでいく作戦である。
「投降してきた者を罪に問わない、所領も安堵する」
と呼びかけると、伊勢伊賀から集められた兵が次々に降りてくる。
土岐の兄弟も、弟の光明、光政がまず頼康に投降した。
城に残った兄土岐右馬頭氏光の身を案じ、早く降りてくるようにと、
密かに人を遣わして兄に手紙を送る。
氏光はその手紙を読もうとはせず、
「連りし枝の木葉の散々にさそふ嵐の音さへぞうき」と
歌を書いて使者を帰らせる。
連なっていた枝(一族)も嵐のような強い風には散り散りになるものだ、
という兄の覚悟を知って、弟たちは涙を流したという。

この弟2人が、兄氏光を待つ間に居城としたのが
足坂の今峯城と五百野の外山城である。
弟はそれぞれ、外山光明、今峯光政、と名乗るようになった。


(外山城址)

冒頭の画像の、小学校校舎の裏山にあったのが今峯城、
五百野のコメリ美里店東の山の上にあったが外山城です。

3年の籠城の後、義長は幕府軍の包囲から脱出して
奈良吉野へと逃げて行きます。
土岐兄弟も吉野へ向かったのか、それとも美濃へ帰ったのか
消息はわかりませんが、
このふたつの城にいた期間は、そう長いものでは無かったようです。

「太平記」のこの場面を読み解いた記述のなかには、
「ふたつの城はやがて北畠領となり、2人は北畠氏に属した」とか
「織田の伊勢侵攻によりふたつの城は滅亡した」と
書かれているものもありますが、確実な史料は無いようです。

(注記)近江国に進出した仁木軍は、葛木山にて佐々木道誉の軍と交戦する。
仁木軍に加わっていた「長野ケ蠅払一揆」が進み出て、
敵の大将である佐々木道誉に襲いかかった、とある。
これは長野工藤氏の軍勢のことである。
おそらく五代当主・豊藤が率いた軍勢と思われる。
また、この交戦で、仁木軍の矢野下野守、工藤判官らが討たれ、
仁木軍に大きな損害が出たことが記されている。
この矢野下野守は、矢野城(津市香良洲町)の城主であった矢野氏である。
もう一人の工藤判官については、長野工藤一族の誰かである可能性があるが、
桑名の伊藤氏である可能性もあり、判然としない。

外山城跡に登ってみました(美里町五百野)

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