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城跡めぐり【三軒家砲台】

2013-08-25 08:10:30 | 城跡を巡る

神奈川県横須賀市

平成25年8月16日登城。

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東京湾の入口に面する三浦半島の観音崎、対岸の房総半島富津岬との距離は約7km。 

首都東京を目指して進撃してくる敵艦隊を食い止めるべく、幕末から明治・大正期にかけ、この辺りには幾多の砲台が築かれた。

そのひとつが【三軒家砲台】。

横須賀美術館の裏山にあたる地域にその跡がある。

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樹木が鬱蒼と茂った坂をを上ると、当時の砲台跡が現れる。

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明治29年に竣工し、昭和9年まで東京湾防衛の任に当たっていた。

装備は、27センチカノン砲4門、12センチカノン砲2門。

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現在は、砲座や弾薬庫の跡、観測所、井戸などかなりの遺跡を見ることができる。

また、砲台跡から東京湾を望むと、遥かに第二海保跡も。

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幸いにして、これらの防備は実戦を迎えずに廃棄されたが、連合艦隊がバルチック艦隊に敗れていたら・・・

ゾッとしてしまう。


城跡めぐり【戸田城(元蕨城・左衛門屋敷)】

2013-08-11 08:09:48 | 城跡を巡る

埼玉県戸田市

平成25年8月10日登城。

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南北朝時代、足利氏の支族桃井直常の居館があったと伝わる。

あるいは、ここが渋川氏の蕨城跡とも。

この辺りは平坦な地形で、豪族や武将の居館あるいは城砦の類があったのであれば、微高地があったものと思われる。

大慈山光明寺の辺りがその場所と推定されているが、それらしき遺構は残っていない。

Img_20130810_103026_2 大慈山光明寺

Img_20130810_104156 光明寺の北側にかけて緩やかに土地は高くなっているが

Img_20130810_105431 光明寺北側の公園、微高地?

Img_20130810_103225 近くの「ふれあい広場」、ここも縄張内と伝わる

猛暑の真っ昼間、周辺を歩き廻るが・・・

いい運動にはなった。


城跡めぐり【Fort Pitt(ピット砦)】

2013-06-17 23:06:19 | 城跡を巡る

アメリカ合衆国ペンシルバニア州

平成25年6月14日登城。

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アレゲニー川とモノンガヒラ川が合流し、オハイオ川となる三角形状の土地の先端部にあり、後の大都市ピッツバーグ発祥の地。

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地勢上の要地であったことから、フランス、イギリス、アメリカン・ネイティブ、独立後の合衆国と数々の戦乱の舞台となり、この砦を取り巻く変遷は目まぐるしい。

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1749年、カナダ植民地とルイジアナ植民地を、河川で結ぶことを考えたフランスが、この地へ軍隊を派遣。

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慌てたイギリスは、1753年、この地に【プリンス・ジョージ砦】を建設し抵抗を試みるが、1754年 その砦をフランスが攻略し【デュケイン砦】を建設。

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1758年、アメリカン・ネイティブも味方に付けたイギリスが再度進攻し、これを攻略、新たに砦を建設し、英首相ウィリアム・ピットに因み【ピット砦】で名付ける。

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この時付けられた砦の名が後のピッツバーグ市の名となる。

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1763年、先のフランス駆逐時、イギリスに味方をしたものの、その際の約定を反故にされたデラウェア族・ショーニー族を主力とするアメリカン・ネイティブの軍勢が二ヵ月間にわたって包囲するも、イギリス軍により敗退。

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付近のアメリカン・ネイティブの民族浄化終了後、この砦は放棄されるが、1770年代、バージニア植民地とペンシルベニア植民地の白人勢力同士の対立が生じ、【ダンモア砦】として、再整備される。

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かつての要衝も、現在はポイント州立公園として市民の憩いの場となっている。

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1764年建造のフォートピットブロックハウスと呼ばれる煉瓦造りの建物が残る他、保塁の一部が再建され、歴史的な面影を僅かに見せている。


城跡めぐり【Battery Hooper(フーパー砲台)】

2013-06-10 17:57:17 | 城跡を巡る

アメリカ合衆国ケンタッキー州

平成25年6月9日登城。

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南北戦争開戦間もない1861年、連邦政府(北軍)は、重要拠点であるシンシナティ地域とオハイオ川の水運を確保すべく、その周辺に防衛線の構築を開始。

命を受けたホイットルセー大佐の指揮の下、オハイオ川を両岸から挟むように砲台(Battery)を建設。

南岸(ケンタッキー州)には、丘陵の尾根に沿って18の砲台を設置、【Battery Hooper】はそのひとつ。

海抜250m程の丘陵にある。

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前面の南方方面は鬱蒼とした樹木に覆われているが、当時は見晴らしも効いたのであろう。

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また、東に2~3kmの地点には、オハイオ川支流のリッキング川が流れており、この川伝いに南軍が進撃して来れば、迎撃する(設置されていたカノン砲の射程は約5km)には絶好の位置である。

この砲台跡は、いまは【JAMES A.RAMAGE CIVIL WAR MUSEUM】となっており、入口に置かれたレプリカのカノン砲に僅かに往時が偲ばれる。

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地元の南北戦争遺跡の保存と、この博物館開設に尽力したノーザンケンタッキー大学の教授の名に因んで命名された由。


城跡めぐり【Fort Boone(ブーン砦)】及び【The New Redoubt(新要塞)】

2013-06-09 15:41:04 | 城跡を巡る

アメリカ合衆国ケンタッキー州

平成25年6月8日登城。

【Old Fort Harrod State Park】を後にして、次に向かったのが、フランクフォートにある【Leslie Morris Park on Fort Hill】。

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【Fort Hill】 無理に訳せば【城山】?

南北戦争期に造られた二つの要塞が、フランクフォート市街地を見下ろす山の頂きにあるらしい。

テネシー州は、南北戦争開戦時、両勢力に二分され、同州北部の州都フランクフォートは北軍地域にあった。

1863年、南軍の進攻からケンタッキー州政府とフランクフォート橋を護るため、第103オハイオ義勇軍によって、この丘(”Blanton's Hill”と当時は呼ばれていた)の頂きに【Fort Boone】という保塁が、築かれる。

さらに、1864年、【Fort Boone】の北150m程のところに、逃亡奴隷や南軍捕虜も動員し【The New Redoubt】と呼ばれる六角形の保塁を築城。

Img_0495 要塞見取り図

遺跡の保存状態は、百数十年前のものとしては、あまりよくないが、土塁などの往時の面影は充分偲ばれる。

見取り図「1」付近の石組の壁、後年、この場所が農場になった際に築かれた。

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「1」付近から南進すると【Fort Boone】の北面保(土)塁が見えてくる。

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フランクフォート市街地の眺めと、保塁に囲まれた要塞内部。

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この要塞には2門の大砲が設置されていた。

Img_0450 崖下に向かって、20インチパロット砲が設置されていた。図「5」

Img_0454b 敵の侵攻時には前面になる北側にはカノン砲を配置。図「7」

【Fort Boone】の虎口(図「8」)とその北側の保塁。

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【Fort Boone】の虎口を抜けると、北に向かって【The New Redoubt】へ通じる道がある。図「10」

この両要塞の間には、平時、兵士たちが生活していた小屋が復元されている。図「11」

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さらに進むと【The New Redoubt】が見えてくる。

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六角形の保塁は、空堀の底から保塁頂上部までの高低差が約270cm程あった由。

現在は、その後の農地化などによりなだらかになってしまったが、山城特有の雰囲気は残っている。

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往時には、19門ものカノン砲が備えられていた。

Img_0476 六角形の一角、ここにカノン砲が。図「18」

要塞の中央には弾倉が備えられていた。図「16」

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要塞と市街地を結ぶ道。図「13」

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一部の保塁は、完全な土塁ではなく、石組みの上に土を覆ったものも。

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両要塞のある山頂には、ビジターハウスがあり、資料などを展示している。

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18世紀中頃の南北戦争時に、現役の山城があったなんて言うのは意外。

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勉強になった。