みのおの森の小さな物語     

明治の森・箕面国定公園の散策日記から創作した、森と人と自然に関わる短編創作物語集 頑爺<肇&K>

*生きがいに生きる(1)

2020-11-01 | 第9話(生きがいに生きる)

箕面の森の小さな物語(NO-9)

<生きがいに生きる>(1)

 「・・もう二度と ここへ 来る事はないんだな・・」 嶋 哲也は、色づき始めたモミジの葉が初秋の風に吹かれ、舞い落ちるさまをじっと眺めていた。 「来年 この枝につける新しい葉をもう見ることはできない・・ いままで ありがとう・・」 こらえていた涙がポロポロと流れ落ちた。

  やがて哲也は立ち上がると、この箕面の森の中で共に過ごした小さな山小屋の鍵を閉めた。 その隣にはあの日に植えた梅の木の葉が色づき、一枚一枚と葉を落としている・・「春になったらまたしっかりと花を咲かせ実をつけてくれよ・・ 今まで生きる希望を与えてくれてありがとう」

  哲也は振り返り振り返りながら歩きなれた山道を一歩一歩とかみしめるように山を歩いた。 途中 天上ヶ岳の役行者昇天の地でその像に手を合わせ、今まで守られてきたことに感謝した。 やがて箕面自然歩道(旧修験道)を下りつつ、周囲の景色を心に留めると一つ一つにありがとう ありがとう! とつぶやきながら山を下った。 

 明治の森 箕面国定公園の森の中にある箕面ビジターセンター前には、車を停めた妻の紀子がGPSを見つめながら夫がゆっくりと山を下ってくるのを待っていた。

 

  七年前のこと・・ 哲也は65歳を機に妻の紀子と共に、経営していた小さな会社を後継者に引継ぎ引退した。 その時すでに独立している子供たちから「二人の引退記念に・・」と、プレゼントされたのが<一泊二日の人間ドック券>だった。 それまで病気一つしたこともなく健康そのものだった哲也は「有難いけどそんなものはまだまだ必要ないよ・・」と言ったが、「もうお母さんと二人分予約済みだし、これから二人であちこち旅行したりするとか言ってたから、その前に先ず健康チェックも必要だからね・・」と説得され、二人で渋々出かけたのだった。

  その結果がでた時・・ 紀子は健康そのもので何も問題は無かったが、哲也に問題が発見され、それから何度か再検査が行われた。 そしてある日、哲也は妻と共に病院に呼ばれ、医師から精密なデータに画像などを前に詳しい説明がなされた。 そして最後に医師から伝えられたのは・・ 「ご主人はガンで余命六ヶ月ほどで・・」との余りにもダイレクトな死の宣告だった。

  「まさか!? オレが? ウソでしょ! 冗談でしょ!? こんなに元気だし 今まで病気一つしなかったし、TVドラマじゃあるまし、そんなことがあるわけないよ 何かの間違いだ!」 哲也は声を荒げて一気にまくし立てたものの、医師の冷静沈着な説明と真摯な態度、それに横で妻の流す涙と嗚咽に、哲也はそれが現実の話しなのだと我に返った。

  家にどうやってたどり着いたか分からなかったが、哲也はそれでも「間違いだ 何かの手違いだ そうだそうに決まってるオレの オレの命が後半年だなんて・・・そんなバカなことがあってたまるか!」と心の中で叫び続けた。 しかし 妻の紀子がそれぞれに家庭を持っている遠くに住む子供たちに電話している手が大きく震えているのを、哲也はボーと眺めていた。 

 主因は肺ガンだが、もう各所に転移している・・ とのこと。 若い頃からヘビースモーカーで、家族や医師からはいつも注意されていた。 しかし 仕事上のストレスもあり、つい最近までやめられなかった。 しかし 子供たちがそれぞれ結婚し、やがて孫たちをつれてやってくるようになり、その都度 哲也は甘いジイジぶりを発揮して抱っこし頬づりして喜んでいたものの「ジイジは臭い・・ イヤ!」敬遠されるようになり、あれだけ周りから言われても禁煙できなかったのに、きっぱりとやめたところだった。 「遅かったのか・・」

  それから数日後 哲也はガクン と急激な体調の変化に見舞われた。  初めて体験する吐き気、だるさ、鈍痛、食欲もなくどうしようもない体の辛さ、息苦しさに・・ 「なんだろ? これがそうなのか? やっぱりそうなのか?」

  あの宣告の日から僅か10日余りで哲也の体は別人のように衰え、否応なしに自分の病気を認識せざるを得なくなっていた。哲也は医師の治療方針を他人事のように放心状態で聞いていた。 「このまま死ぬのは嫌だ やりたいことがいっぱいあるんだ 何でオレが・・オレなんだよ!」 リタイアする一年ほど前から、哲也は紀子と共にあれこれ旅の計画を立てたり、あれしたい これしたいと、夢や希望で若者のように満ち溢れていたのに、それは一転絶望へと変わってしまった。 「それまで命がもたない・・」 哲也は恐怖と不安、怒りと焦り、絶望感からパニックになるのを必死でこらえていた。

  やがてそのストレスは身も心も激しく蝕み始め、全く精気を失い、ベットの上でまるで生きる屍のような姿に変わり果てていった。 紀子は急激に変わりゆく夫の姿に、表面では明るく元気に振舞い励ましながらも、裏では為す術もなくただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 

  二人の出会いはもう40年ほど前のこと・・ 哲也の勤務する精密機械メーカーに事務社員として入社してきた紀子に哲也が一目ぼれし、猛烈にアタックして結婚したのだった。 しかし、二人の持って生まれた性分、性格、それに生活環境から趣味、趣向、人生の目標なども全てが180度正反対でよく喧嘩もしてきた。  

 時折り 箕面の山を一緒に歩いても、紀子は遠くの山々や海を眺めて「すごくきれいね・・」と感動しているのに、哲也は足元に咲いた小さなタチツボスミレの花に「きれいだな・・」と感動してたりして、同時に同じところに立っても見る視点、感動する場面が上とした、右と左、白と黒・・ と、全て違うのが常だった。 それだけに一つ屋根の下での生活はトラブルも多かったが、それでもお互いのそれを利点として補完しあう時はすごい力を発揮してきた。

 それは哲也がサラリーマンから独立し、小さな精密加工の会社を創業した頃から存分に発揮され、哲也の夢みたいな発想やアィデア、企画アドバルーンを紀子がしっかり受け止め、その行動力から現実化し、着実に具現化していくという二人のコンビはついに20数年を経て、それなりに業界での地位を築きてきた。 その育て上げてきた会社を後継者にバトンタッチし、二人ともあっさりと引退し、夢見た黄金のリタイア生活に入ったところでの哲也の余命宣告だったのだ。 それに紀子も若い頃から健康の為と始めたヨガもすでにインストラクターの資格を得、教室をもって多くの人に教え始めているところだった。

  朽ちていく森の古木のように生きる望みを失い、日毎見るたびにやつれ、気力を失っていく哲也に紀子は何とか生きがいを見つけてあげたい・・ 一日でも長く一緒にいたい・・ と必死だった。  

 夫は自分と違い,いつも危なっかしい子供のような計画ばかり立て、周りをハラハラさせてきたので、紀子はある時期からそれらを全て封印し、やめなければ離婚します・・ と宣言し、力づくでやめさせてきたし、それによる大喧嘩を何度もしてきた。 その哲也のエネルギーを抑えるのは並大抵の事ではなかったが、紀子もそれ以上のパワーを全開し、家庭や家族を、それに会社を守る為と信じ抑え込んで生活してきた。 でも・・ でも・・ 

 紀子は1日考えた末、ここにきてその抑え込んできた哲也のエネルギーの封印を解き、残された僅かな時間でも希望を持って前向きに生きてもらいたい・・ と心に決めた。 ベットでうつろな目をして天井を見つめている夫に、紀子は朝食を運びながら自分の考えを話し始めた。

 「貴方は今までよく頑張ってきたわね。 私ね 最近友達の悩み事なんかよく聞くんだけど、ご主人の浮気とか女性問題、それにパワハラとかDVとかもね。 それにご主人のギャンブルや借金問題、酒癖の悪さやおかしな趣味で悩んでいる人多いのよ。 でも貴方はそんな心配は一切なくて仕事一筋だったわね。 しかしね 今まで貴方が個人的にやりたいと言う事の全てを私は許してこなかったわね。 不安だったのよ 一度やりだすと突っ走るほうだから、何をしでかすか分からないという恐怖もあったわ。 でも その分 貴方の夢や希望を抑えてきたから不満もたまり、ストレスいっぱいだったようだわね。 ごめんね・・

こんな事になったから言うのも変なんだけど、もう貴方のやりたいこと何をやってもいいのよ  何でもよ・・ 私ね 貴方が仕事していた時のように生き生きと生きがいを持って明るく元気に最後まで生きて欲しいの・・ 一日でも長く一緒にいたいから前を向いて生きて・・」 紀子はそう言うともうそれ以上 涙で話すことができなかった。

  一日が過ぎ、夕食を持っていった紀子は少し驚いた。 あれ程ぐったりしていた哲也が起き上がり、古いノートをめくっている。「それな~に・・」「これはボクの夢ノートさ  学生時代からのね・・」 紀子はそのノートの存在は知っていたが、今までいつも何か夢を書き込んでいる哲也の姿が別人のように見え嫌悪感さえ覚えていた。 「何か これからやりたいことは見つかったの・・?」 その時、紀子は哲也の体に少し精気が戻っているのを感じた。 それは消えかけの暖炉に、小さな種火が ぽ~ と輝き、かすかな灯りが部屋に広がったかのようだった。

(2)へ続く


生きがいに生きる(2)

2020-11-01 | 第9話(生きがいに生きる)

箕面の森の小さな物語

<生きがいに生きる>(2)

  哲也は3日間 何冊もある学生時代からの「夢ノート」をめくりながら想いを巡らせていた。 若い頃は冒険、探検の旅、アウトドアなどアクティブな計画が多かったが、歳と共にそれは変化し、近年はリタイアしたら「チベット仏教を国教とする<幸せの国 ブータン王国>を歩き、日本仏教 空海・真言密教の聖地、<四国八十八ヶ所霊場>を歩き、その比較研究」をしてみたいとか。

 また高校生の時<尊敬する人 発表会>で1位になったことがある「賀川豊彦 その人の歩んだ神戸の貧民窟での救済活動、その後の ノーベル平和賞候補や「死線を越えて」の本でノーベル文学賞候補にもなったその稀有な日本人牧師の足跡を辿りつつ、箕面の森に隣接する能勢・高山を生誕地とするキリシタン大名・高山右近の足跡を辿りつつ、その愛と真理の比較研究」をしてみたい・・ と言ったような可笑しなことを考えたりしていたが、その歴史散歩に似た計画にもそれなりに相当の資料を集めたりもしていた。

 そしてリタイア前には、豪華客船で二人して世界一周もいいな・・ ゆっくりと日本の温泉地巡りもいいな・・ とか話し合っていたし、かねてより憧れていた空を飛ぶスカイダイビングなどもあった。 いろいろ若い頃のやりのこし症候群から現実的な計画までそれは多岐にわたっていた。

 「・・でも これは体力的にムリだ・・ 時間が無い・・」 次々とバッテンをつけながら哲也は現実的にできそうな事を探っていた。

  その頃 紀子は友人に紹介してもらったホスピスの医師に夫のことを相談していた。 一通り話しを聞き、紀子の意見も聴いたその医師は、次のように話し始めた。

 「生きる目標や生きがいを持ったガン患者の80%が末期でも5年以上生存しています。 これに対し、絶望感を持った患者は20%しか生存していません。 人間の体内でガン細胞と闘うのはリンパ球ですが、そのリンパ球の働きをコントロールしている間脳と呼ばれるその中枢の働きを活性化させるのがファイティングスピリット つまり闘争心、生きがい、ユーモアなどといったプラスの心理状態なのです。

 生きる目的を持って病と闘う、つまりチャレンジ精神こそ闘病の特効薬と言えるのです。 だから生きている間にぜびご主人がしたいことを実行するチャンスを与えてあげて下さい。 「生きがい」を持つ事は大脳生理学的なガンの治療法の一つとして証明されています。 つまり「精神神経免疫学治療法」として確立されていて生きがいを持った患者さんの生存率が優れていると言う事実が注目されているのです。 いくら放射線や化学療法でガンを破壊しても、免疫力が低下していればそれを免れ残ったガン細胞が再び大きくなり、何度も苦しい辛い化学療法を繰り返す事になります。 だから免疫力が高いことが大変重要なのです」と。

 紀子は数日前 夫に何かやりたいことを何でもやっていいわよ・・ と伝えたことに医師は大いに賛同し、自分が決心した事に安堵した。 そして これからケアする紀子を励ますように医師は言葉を続けた。

 「死の恐怖は人間の本能だからいくら努力してもそれを無くすことはできません。 死の恐怖を振り払おうと努力すればするほどそのことに心が集中し強まるばかりです。 だから死の恐怖はそのままにしておいて、それよりも人生を有意義に過ごそうと生きる欲望の方へ心を向け、それに懸命に取り組む。  恐怖心をそのままにして現実の生き方を変えるようにしていけば死の恐怖と共存できるようになるのです。 逃げてはダメ  怖いのは人間の本能だから否定できない  当たり前のことで仕方ないと死の不安や恐怖を認めることが大切です。 

 大切な事は、それを認めつつ現実の取り組み、つまり奥様ならご主人が生きている間にしたいこと、今日しなければならない事に一生懸命に取り組み、その行動によって不安をコントロールしていき、心と行動を分けて考え、不安と共存するのです。 怖ければビクビク、ハラハラすればいいのです。 人間の本能だからそれは当たり前で自分の意思で変えられるものでなく、絶対になくなりません。 それよりそれを無くそうと無駄な努力をやめる事・・ ありのままでいいのです。 今日必要な事を一つ一つしっかりやる すると人間の心というのは同時に二つのことを同じ強さで考えることはできないので和らぐのです。

「病気になっても病人にならない」ことが大切です。 「苦しい時ほど行動を!」ですよ。 それにガンは安静にしたから治るというものではありません。 特に大脳の働きが自律神経の中枢を通じて体の免疫系に作用して効果を挙げるので、常に心の構え方、プラスの心がガンの抵抗力を大幅に高めるのです。 人間の感情というのは心の自然現象で、それには自分の意思が通じません。 だからいくらコントロールしようとしてもムダです。 しかし 感情は環境の変化と行動に伴って変化できるのです。 家でウツウツしていた人が山歩きなどに出かけると感情が変化する  つまり行動には意思の自由があります。  だから懸命に打ち込むような毎日が続けば免疫中枢の活発化につながり、当人はもとよりケアする奥様も楽になります・・」と。

 

  紀子は医師の話し一つ一つに乾いたスポンジが一気に水を吸い込むように吸収し心に響いていった。  そして今やっている自分のヨガの教室も今まで通り運営していくことにした。

  四日目の朝、哲也が 「やりたいこと・・」と口に出したのが紀子には予想外の事柄だった。 

「最後に・・ 箕面の森の中に小さな山小屋を建てて住んでみたい・・ それと 体力がある内に東海自然歩道を歩いてみたい・・」と。

  今までなら勿論一笑にふし「何を子供みたいなバカなことを言ってうんですか 何を考えてんの?」と怒るような内容だけど、じっと堪えると共に哲也の話しを聴いてみることにした。 「なぜ 最後となるかもしれない望みが山の中なの?」 紀子はいぶかしげに思いながらも哲也が真剣な眼差しなのでもしそれが本気で生きがいにつながり、一日でも元気に生きてくれるのであれば・・ と前向きにとらえるようにした。

  それから哲也は紀子と何日も話しあい、検査漬けでチューブに繋がれたスパゲティー体となり、薬の後遺症に苦しんで亡くなりたくない・・ と、当初の医師が勧めた放射線治療や化学療法といった治療方針を一切やめにして自然体でガンに望むこととした。 そうと決まるとあれだけ生きる屍化していた哲也がベットから起き上がった。 

 そして周りの人には自分の症状は伏せ、自力で歩けるうちにと外へ出かけるようになった。 「近くに来たので・・」と用事にかこつけ親しい友人やお世話になった人たち・・ 少し遠い所の大切な人々とも会い、自分なりに最後の別れをしてきた。

 紀子は哲也の最後の望みを遠くに暮らす子供たち家族に話し、各々が共有することにした。 そして毎日のように電話で相談できたので心強かった。 そして紀子は山小屋より先に歩けるうちにと哲也が望んだ<東海自然歩道>とやらを歩きたいという望みをかなえるために情報を集めた。 しかし これが調べるほどにとんでもない事だと分かってきた。

 「明治百年」を記念して昭和42年に指定され誕生した「箕面国定公園」と、東京・八王子の「高尾国定公園」とを結ぶ一都二府八県を結ぶ全長1.697kmの山岳歩道なのだからビックリした。 「まさかここを・・? 大変な事を言い出したものだわね・・」 哲也は・・「いろんな夢があったけど、これならゆっくりマイペースで休み休みしながらでも歩けるかな? と思ってね」 と事もなげに言うのだった。 でも最後の望みとあらば・・ と家族は渋々納得したものの心配は尽きなかった。

  スタートは東京の高尾山の基点地から、箕面のビジターセンターにある基点地へ向けて歩くようにした。 紀子も子供たち家族も「どうせ2~3日歩いたら自分の体力の限界を知ってすぐに諦めるわよ・・」と信じていた。  しかし 山の中のコースなのでいざという時の為に山岳用GPSやスマホ、ミニPCなど最新の近代機器を持たせ、緊急時のサポート対応もセキュリティー会社と契約し、常に位置を把握し連絡を欠かさないようにした。 更に 近くの山里の病院や救急対応も調べた。 紀子は哲也と共にこの準備に忙殺され、少し前のあの恐怖や不安から逃れられた。

  5月の始め・・ 事情を知っている子供たち一家も各々東京まで足を延ばし、八王子の高尾山頂に集合した。 哲也はみんなに見送られながら、ゆっくりゆっくりとスタートした。いよいよ哲也の念願だった<東海自然歩道>の歩き旅が始まった。

  紀子は不思議な事に夫と二人でいるときは今まで余り会話もしなかったのに、哲也が旅に出て別々に過ごすようになると、毎日よくここまで話すことがあるかと思うぐらいケータイやメールで話し合った。 哲也も山を歩きながら、夜テントの中から、朝のおはよう! から 夜のおやすみ! まで何度となく連絡をとった。 そして 2日に一回毎 更新される哲也の山ブログは、遠くで心配する子供たち一家にもそれぞれ安心感を与え、家族それぞれが見守る事ができて当初の不安を拭い去っていった。

 更に 紀子はアクセスのよい所まで新幹線や在来線を乗り継ぎ、山里に下りてくる哲也と出会い、時には一緒に歩いたり、里の宿をとることもあったが、何度かは哲也の野宿するテントで一緒に夜空を見上げ、満天の星を眺めながら朝までいろんな話しをしたりもした。 二人にとってこんなに夢中で話し、笑い、楽しい一時をすごしたのはあの若き恋人時代の時以来だった。

  哲也はそうして静岡、愛知から岐阜、京都を経て大阪府内に入ったのは出発して100日を過ぎていた。 やがて歩きなれた茨木の泉原から箕面・勝尾寺裏山の<開成皇子の墓>に着いた。

 実はいろんなアクシデントがあり、病院に救急搬送されたこともあったが大事には至らなかったこともあり、何とか無事に箕面の山までたどり着くことができた。 哲也はとうとう1.700kmほどの東海自然歩道を、予想以上の時間もかかったものの、118日をかけて歩破した。 

 終点の箕面ビジターセンター前にはあの高尾山で見送ってくれた家族全員が再び集まり、近くの「箕面山荘 風の杜」でささやかなお祝いが開かれた。 日焼けした精悍な顔と活気溢れた体をみて全員の安堵感は計り知れないものがあった。 そして哲也の達成感、満足感はいっぱいで幸せだった。 哲也は一人一人に心から感謝した。

  しかし 現実にはあの余命宣告からすれば、哲也の命は後 50日に迫っていた。

 NO-3 へ続く


生きがいに生きる(3)

2020-11-01 | 第9話(生きがいに生きる)

箕面の森の小さな物語 

<生きがいに生きる>(3)

  長距離の山旅を無事終えた哲也は、あの余命宣告から自分の命が後50日もないのでは・・ と内心焦っていた。  家の中で1週間ほど体を休め、この山旅の体験をまとめる・・ と意欲を燃やしていたが、徐々に顔つきが暗くなっていく事に紀子は気付いていた。 「もうあと何日生きられるのかな・・ 間に合わない・・ 後はもう紀子さんとこの家でゆっくり最後を迎えたい・・」

  紀子は一つの目的を達成し弱弱しく話す哲也の顔をしっかりと見ながら・・ 「貴方はこの4ヶ月間、一般の健康な人でもなかなかできないことを諦めずに頑張ってやり遂げたわね すごい事だわ 貴方の最後の夢と言っていた「箕面の森の山小屋に住む」という夢 それ実現させましょ」 そういうと紀子は元気に立ち上がった。

「このままでは惰性に流され、残された日々を無為に過ごしてしまいそうで怖い・・」 「もう時間がないよ・・」と言う哲也を励ましながら・・ 「まだ50日もあるじゃないの・・」と哲也の胸をたたいた。  かつて事業の夢を語る哲也に紀子はそれを現実的に実現させてきた実績があった。「二人は最強のコンビだ! って貴方はいつも言ってたわねきっと この夢も実現できるわよ やってみましょ!」 紀子の行動は早かった。

 哲也の夢ノートには7年前 箕面の堂屋敷山を歩いていた時、その近くで見つけた<売り土地>の看板からだった。 そこから夢を広げた事が何頁にもわたり細かく記されていた。 紀子はそこに書かれたメモを頼りに早速売主に電話をしてみた。 「・・ああ もうとっくに忘れてましたわ」とのこと。 紀子が事情を話すと年契約で、しかも格安で土地を貸してもらえることになった。 「半年も使わないかも知れないけど・・ でも・・ よかったわ」 ノートには山小屋のイメージ図も書いてあった。 「これ なにかの模型?」 同じようなものが京都にある・・ と記されている。 そこで紀子は哲也を共にその京都を訪れた。

 それは下鴨神社の境内にあった。 今から800年以上の昔 「方丈記」を書いた鴨長明が日野山で暮らした方丈(4.5畳)ほどの小さな庵だった。 今もその「方丈記」とソローの「森の生活」を愛読する哲也にとってそれは夢の庵だった。 800年前の鴨長明と180年ほど前のソローにはその人生観に類似する所も多くあった。 それに地元の箕面川ダム湖畔にはその鴨長明が箕面を詠んだ歌碑があった。 みのおやま雲影つくる峰の庵は松のひびきも手枕のもと」と。

 哲也の目に再び精気がよみがえってきた事を紀子は感じていた。 「最後の望みが叶うかも知れない・・」 失いかけた希望の灯りが再び光り始めていた。 紀子は京都から帰ると早速具体的な行動を開始し、僅か3週間ほどで森の中に簡易なあの「方丈庵」を建ててしまった。  規制や規則上 電気も水道も無いけれど、屋根にはソーラーパネルを張り電源とし、雨水の貯水槽を設けて哲也が望む菜園の水遣りはそれで賄えるようにし、飲料水はまとめて特別に業者に運んでもらい、下水道は浸透式として簡易トイレも備えた。

 あの「まだ50数日もあるじゃないの・・」と言った日から20日後哲也は正に夢に見た箕面の森の方丈庵へ引っ越した。 と言っても、寝泊りするのは週末だけとし、平日は体調を見て朝、紀子がヨガの教室に教えに出る時間に併せ、市道・箕面五月山線を上り、近くの山裾まで車で送り、夕暮れ時は近くの箕面ビジターセンター前まで迎えに来る事にしていた。 あの余命宣告の日は後僅かに迫っていた。

  哲也の森の生活が始まった。 哲也が若い頃から愛読し憧れていた鴨長明著の「方丈記」とヘンリーDソロー著の「森の生活」の一端が現実にできることとなったので、その喜びに毎日興奮した。  哲也は来る日も来る日も箕面の森の中を歩いた。 山小屋の横には小さな畑を作り、種をまき、水をやり手入れを日課とした。 あのマルチンルターが「・・今日 地球が滅びるという最後の日にも、私はリンゴの木を植える・・」の言葉を想いつつ、好きな梅の木も植えた。

 頭上を飛び交う野鳥や森の昆虫を飽きることなく観察し、こもれびの下でハンモックに転がり本を読んだり、お昼にはキノコや山菜採りをしてそれでスパゲティを作ってみたり・・ キャンバスを立て、好きな絵を描いてみたり・・ そんな日々の事をブログに書いてみたり・・ と、毎日を思う存分に楽しんだ。  毎日飽きることなくすることしたいことが山ほどあって、哲也は退屈する暇もなく生き生きとした生活に顔は見違えるほど明るく精気に溢れていた。 本当に後余命何日の人なのかしら・・? と、紀子は夫の元気ぶりに驚き喜んだ。

  そしてとうとう6ヶ月の余命宣告の日がやってきた。 その夜、昼間どれだけ山を歩き回ったのか分からないけど、横でグッスリとイビキをたてて眠る夫の姿に紀子は心底安堵した。

  それから週末 紀子は山小屋に泊まる哲也とともに何度も一緒に泊まり、寝袋の中で夜明けまで昔話しをしたり、哲也の箕面の山の話しを聞いたり、いままで全くしなかった世間話しにと話題は尽きなかった。 哲也に死を連想させる兆候は何も見当たらなかった。 このまま穏やかな日々が続いて欲しいわ・・

 

  やがて哲也は体調を見ながら箕面の森で活動する団体のいくつかの催しやイベントにも参加するようになった。 箕面で活動する団体は沢山あり、その中でも里山や森の自然に関する活動も多く、参加することに事欠かなかった。 なにしろ明治の森・箕面国定公園は大阪の都市近郊にあり、963ヘクタールと小さくとも、約1100種の植物と約3500種の昆虫が確認されている日本有数の自然の宝庫なのだ。

  哲也は最初に「みのおの山パトロール隊」のクリーンキャンペーンに参加し、山のゴミを拾いながら山地美化活動を始めた。 「箕面ナチュラリストクラブ」や 「箕面自然観察会」 「箕面の自然と遊ぶ会」 などでは自然を愛する人々からいろいろと学び教えてもらった。

みのお里山ふれあいプラットホーム」では六箇山での間伐作業に汗を流した。 「箕面観光ボランティアガイド」の講習を受け、時には一緒になって一般の方々のハイキングガイドをしたりした。 「箕面ホタルの会」「勝尾寺川ほたるの会」でホタルを楽しみ、「しおんじ山の会」では如意谷で、「外院の杜クラブ」ではあたごの森での作業に汗を流した。 「みのお森の学校」では里山を学んだ。「NPO法人 みのお山麓保全委員会」のイベントにもいろいろと参加させてもらい多くの山の友をえた。 「箕面の森の音楽会」を楽しみ、「箕面市の美術展」では山小屋で描いた箕面の森の絵を出品したりして楽しんだ。

 そして紀子は生徒が増えて忙しくなった自分のヨガ教室だが、それ以上に大切な哲也の為に時間をつくり、二人で小旅行にでかけたり、音楽コンサートや観劇などを楽しみ、たまにはホテルで二人してお洒落しディナーを楽しんだ。

 7年以上の歳月があっという間に過ぎていった・・

  定期的に受診するたびに医師は首をひねりながらその体調ぶりに驚いた。 「このままいけば健康になってガンが消えるかもしれないわね」と、紀子は心の中で喜んだ。 しかし お互いにそれを忘れかけていた頃・・ ある日 突然恐れていたその日がやってきた。 哲也はいつもの山歩きの途中 山の中で突然大量の吐血をし、今まで感じたことの無い激痛に見舞われた。 それは契約しているセキュリティ会社が哲也の異変、異常に気付き、山岳GPSで山中を特定し、救急隊がその山道を上り、意識を失いかけ苦しんでいた哲也を発見し、救急搬送された。 紀子は医師から静かに・・「もうそろそろですね・・」と告げられた。

  モルヒネによるペインコントロールにより生気を取り戻した哲也も、いよいよ天国からのお迎えが来た事を悟り、最後のお願いと一日だけ一人山小屋で静かに最後の時を過ごした。 そしてお世話になった家族や友人、山の友など一人ひとりにお礼の手紙を書き、描きためた小さな油絵を感謝を込めて添えた。 箕面ビジターセンターの駐車場で哲也のGPSモニターを見つめていた紀子は旧修験道から箕面自然歩道を下ってくるいつもの哲也を待っていた。

「もうここで待つことも今日で最後になるのね・・」 そう思うととめどなく涙が流れ落ちた。

 車の後部座席にはこの朝出版社から届いた本が積まれていた。 その一部は箕面市立図書館に収蔵されることになっている・・ この一年ほどの間、哲也はベットに入る前に少しずつ箕面の森での出来事などを綴っていた。 その姿が生き生きとしていたことも思い出される。 「貴方のノートパソコンは生きた証しでいっぱいだわね・・」

  やがて満ち足りたようにいつもの明るい笑顔で哲也がゆっくりと山を下ってきた。 四方の山々に向かって深々と頭を下げている。 「ありがとう ありがとう この生きとし生ける自然界の全てにありがとう・・ 私も千の風になり、この箕面の森を吹き渡れますように・・」

 

 車の助手席に乗った哲也は「紀子さん 貴方のお陰であの余命6ヶ月の宣告の日からこんなにも命永らえ生き生きと過ごす事ができました。 本当に心から有難うございました。 私の人生は貴方のお陰で最高に幸せでした。 ありがとうご・・」 哲也は紀子の顔をしっかりと見つめ両手をしっかりと握りながら、妻への心からの感謝を伝えたが、最後は涙で言葉にならなかった。

  二人の乗った車はゆっくりと森を離れ、箕面ドライブウエィを下り、しばし哲也の終の住処となるYCHホスピスへと向かった。

  10日後、哲也は家族に見守られながら自分が望んだホスピスのチャペル礼拝堂で好きな賛美歌に包まれながら昇天していった・・ 主よみ許に近づかん 昇る道は十字架に・・ その幸せに満ち足りた顔には天使の微笑みが残されていた。

  医師は・・ 「人は早かれ遅かれ100%死ぬんです。 そこで心から人生を満足して死んだ人がやっぱり一番幸せなんです。 そしてそんな人を看取れた家族もまた悔いを持たず、幸せに生きていけるんですよ・・」と語った。

  年が明け 箕面の森に美しいウグイスの初鳴きが響き渡る頃、 あの日 哲也が初めて箕面の山小屋に入った日に植えた一本の梅の木に今年も沢山の花が咲いた。 久しぶりに思い出の山小屋を訪れた紀子は両手を広げ、箕面の森の上空に吹く穏やかな初春の千の風を受けながら一言 笑顔でつぶやいた・・ あなた! 

(完)