賢治の時代にはまだ「ビーガン」という言葉はまだなかったが、小説の中では「ビジテリアン」(「ベジタリアン」のこと)の精神を「同情派」と「予防派」の二つに分けている。「同情派」というのは、食べられる動物に対する「かあいそう」という気持ちがその根底にあり、現代でいうならば「アニマルライツ派」に当たるだろう。一方、「予防派」は、動物性食品がリウマチやガンのリスクを高めるとの考えに基づいており、こちらは現代でいうなら「健康派」といったところか。

宮沢賢治の死後に出版された『』
興味深いのは、小説の中での菜食主義に対する批判や偏見が、100年近くたった現代の日本社会とほとんど変わっていないということである。そしてまた、賢治が登場人物の口を借りて展開する反駁も、今日においてもなお妥当であることに驚く。
では、実際に小説の中に出てくるいくつかの批判と反駁を取り上げてみよう。なお、引用部分は原文の言葉をなるべく取り入れつつ、読みやすいように筆者が編集している。
「植物はかわいそうじゃないのか?」
「植物はかわいそうじゃないのか?」(シカゴ畜産組合の技師らしい男による批判)
「ビジテリアンたちは、動物はかわいそうだと言う。一体どこまでが動物でどこからが植物であるか。動物には意識があって食うのは気の毒だが、植物にはないから差し支えないというのか。なるほど植物には意識がないようにも見える。けれども、ないかどうかは分からない。元来、生物界は一つの連続である。動物に考えがあれば、植物にもきっとそれがある。諸君が葉っぱに酢をかけて食べれば、その時、諸君の胃袋に入って死んでしまうバクテリアの数は百億や二百億じゃすまない。ビジテリアン諸君、植物を食べることもやめ給え。諸君は餓死する」
「植物の命なら犠牲にしてもいいのか」というのは日本人特有の問題意識で、現代でもよく聞く批判の筆頭である。これに対して、菜食主義者側から「中国人」が壇上に登り反駁演説を始める。
「生物の連続という視点は面白いので、それを色々と応用してみましょう。人間の一生は連続しており境目はない。しかし、例えば40歳になる人が代議士となるなら、生まれたばかりの赤ん坊も代議士を志願し、フロックコートを着て政治活動するのでしょうか。いくら連続していても、その両端では大分違っています。我々は植物を食べる時にそんなにひどく煩悶しません。バクテリアを殺すのと馬を殺すのは全然違います」と、植物と動物の間に一定の線引きをする。
アニマルライツを尊重するビーガンやベジタリアンが一つの判断材料にしているのは、その生物が痛み、喜び、悲しみ、興奮などを感知するのかという点である。最近の研究では、植物も虫などに葉を食べられた時に防御反応を示すことが分かっている。しかし、その「反応」を人間や動物が感じる「痛み」と同じであると結論づけるのは、いささか性急である。
飼料用の農地を転用すれば食糧危機は解消
「ベジタリアンは食糧危機を悪化させる」(もう一人のシカゴ畜産組合の技師による批判)
「地球上の人類の食物の半分は動物で、半分は植物です。そのうち動物を食べないのなら食物が半分になる。ただでさえ食物が足りなくて戦争だの色々騒動が起こってるのに、さらにそれを半分に縮減しようというのはどんなほかに立派な理屈があっても正気の沙汰とは思われない」と批判を繰り広げる。
これに対し菜食主義者側からは「大学生」が立ち上がる。
「人類の食糧が動物と植物で半々で、そのうち動物を食べなければ食料が半分に減る、というのは大分乱暴な議論です。半々というのは何が半々ですか。牛1頭を養うのには8エーカーの牧草地が要ります。そこに小麦を作るとしたら、10人分の1年の食糧が毎年とれます。牛ならどうです。1年に太る分、すなわち160㎏の牛肉で10人の人が1年生きていけますか。一人1日50g、親指3本分の大きさですよ。腹が減りはしませんか」
「それに、家畜は穀物を食べる。ごらんなさい、人間は、家畜の食べ物としても穀物や野菜を作っているのです。家畜の餌となっている穀物や野菜を人間に回し、家畜の放牧地を農作地にすれば食糧不足は解消されます。いや、減るどころか、事によると少し増えるかもしれません」。100年前にこのからくりに気付いていたとは、さすがは農業に精通していた賢治である。
国際連合食糧農業機関(FAO)の報告書によると、凍土地域を除く地球上の土地の26%は家畜の放牧地であり、農耕地の33%は家畜の飼料を育てるために使用されている。また、そのような飼料用農地の40%を人間の食糧を生産する農地に転用すれば、9億人分の食料を十分にまかなうことができるという。2019年のユニセフの報告書によると、世界中で飢えに苦しむ人の数は6億9000万人。つまり、ゆうに世界中の飢餓をゼロにすることができるというわけだ。
味覚は舌だけでなく心でも感じるもの
「植物性食品は食事の楽しみを奪う」(背の高い太ったフロックコートを着た人による批判)
「元来、食事はただ栄養をとるためのものではなく、一種の享楽である。しかし、植物性食品はどう考えても動物性食品より美味しくないため、食事の楽しみが減る」と批判する。これは「ビーガンやベジタリアンは肉を食べないと言いながら代替肉を食べているのは、やっぱり野菜より肉が好きだからじゃないか?未練がましい」という現代の批判にも通じるものがある。
これに対して、「牧師らしい黒い服装」の人が壇上に登り、次のように反駁を試みる。「肉類を食べる時、その動物の苦痛を考えるならば、到底美味しくはなくなるのであります」。味覚は単に舌で感じるだけでなく、心でも感じるものである、という考えがそこにはある。確かに、仮にいくら美味しいと感じたとしても、出された肉が実は犬の肉だったと聞かされたら、ベジタリアンや愛犬家ならずとも一気に食欲が失せるのではないだろうか?
また、「菜食を1年以上もしますと、肉類は不愉快な臭いや何かありまして好ましくないのであります」と反駁しているように、実際のところ、一定期間以上菜食主義を実践している人にとって、豚肉などはかなり臭いがきつく感じられ、動物性食品を摂取すると胃もたれするようになる。既に、体が動物性食品を受け付けなくなっているだけで、ビーガンやベジタリアンがやせ我慢して肉を食べずに代替肉を食べているわけではない。
100年近く前から変わらない誤解と偏見
「菜食は人間にとって自然ではない」(比較解剖学からの批判)
「人間には門歯と臼歯、それから犬歯がある。臼歯は植物を磨り砕くため、犬歯は肉を裂くためにあるのです。これでお分かりでしょう。臼歯は草食動物にあり、犬歯は肉食類にある。すなわち人類は混食しているのが一番自然であり適当なことが分かるのです。ですから、我々は肉食をやめるなんて考えてはいけません」
現代では、この比較解剖学に加えて、人類学的な見地から「人類は昔から肉を食べてきたのだから、ベジタリアンやビーガンは不自然である」という意見を耳にすることがある。
これに対して菜食主義者側は、「自然だからその通りでいいとうことはよく言いますが、これは実にいいことも悪いこともあります」と疑問を呈している。そして、畑を作って自然に任せておいたら雑草が生えて作物が負けてしまうし、人間は生来盗むというような考えがあると例を挙げる。しかし、それを自然なことだからといってそのまま放っておいたら作物は育たないし、社会秩序は崩壊してしまうではないか、という具合である。ちなみに、そもそも「犬歯」=「肉食」と断定するのは安易である。現代では、ゴリラやパンダのような草食動物にも犬歯があることが分かっている。
以上のように、『ビジタリアン大祭』の中で取り上げられている論点は、100年近くを経た現代にも通じるものが多い。これだけビーガニズムが世界中で拡大している一方で、100年前から変わらぬ疑問や偏見がくすぶっているのはなぜだろうか。
これは、米国の止まらない黒人差別と少し似ているように感じる。公民権運動から60年以上たち、オバマ氏が大統領に選ばれた時、多くの人が黒人差別に終止符が打たれたように感じたのではないだろうか。しかし、今でもなお白人警官による差別的な黒人射殺事件は後を絶たない。
偏見や誤解を払拭するには、残念ながら思ったよりもずっと長い年月を要するのかもしれない。欧米では市民権を得ているビーガニズムが、日本ではまだ日が浅いことも関係しているだろう。
しかも、食品産業は賢治の頃と比べてはるかに大規模になり、消費者にとってブラックボックス化している。畜産の工業化、可視化しづらい流通システム、地球の裏側から運ばれる食材の数々──。食品の製造と消費が切り離されたことで、畜産にかかる穀物消費や環境負荷を消費者が想像しにくくなった。
これらは賢治の時代にはなかった問題である。もし、賢治が現代の食品産業にまつわる諸問題を知ったら、「同情派」「予防派」に加えて「環境派」を「ビジタリアン」の区分に加えたことだろう。
近年ますます存在感を増しているビーガンやベジタリアン。そして、それゆえに沸き起こる一部の人々からの反発や批判。賢治の時代から100年の歳月経た現代、異なる立場の主張を吟味する上でも『ビジタリアン大祭』はいまだに十分読み応えのある小説である。