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新川二朗「東京の灯よいつまでも」(1964年) 誕生秘話
81歳の大ベテラン・新川二朗、デビュー60周年記念曲誕生のきっかけは「亡き母の声」!? | radiko news(ラジコニュース)
東海ラジオ『歌謡スクエア』(日20:30~21:00)6月27日のゲストは新川二朗。「東京の灯よいつまでも」(1964年)の大ヒットで知られる新川は、今年デビュー60周年を迎え、7月7日に記念曲「天・地・人」を発売。81歳になった今も至って健康。番組では記念曲についての裏話などを披露した。
「まさか60年も歌っているときは思わなかった」という新川だが「病気しない男として有名で、病院にはほとんど行ったことがない」として「病院に行ったのは、高校2年のときに肺炎になったときだけ。3年前に血液検査に行ったのが数十年ぶり。検査も異常なしだった」と話した。
その元気の源を聞かれると「若いときは運動。朝、縄跳びを1000回ぐらい。高校時代はボクシングをやっていたので、70代半ばまで家でシャドーボクシングをやっていた」と答えた。そして「母親が健康で長寿だったので母親のDNAを受け継いだのかなあ」と付け加えた。
新曲のタイトルは「天・地・人」30年以上前にできていた曲で、当時、母親にもきかせたことがあった。そのときに母親が「いい曲だ」と盛んに褒めたという。しかし、新川ではなく弟子が歌うことになったという曲だった。実は、昨年秋、母親が夢枕に立ち「この歌を歌え」と言ったというのだ。
その後、新川が歌謡ショーでこの歌を歌ったところ大変好評で、そこでデビュー60周年記念曲にという話になった。新川は「お袋は、あの世に行ってまで、助言してくれた。運命的だ。この歌が自分の集大成だと思って頑張る」と力を込めた。
また、大ヒット曲「東京の灯よいつまでも」がカップリングで収録されている。1964年に発売されたこの曲にまつわる秘話について、新川は「最初は『哀愁山脈』というタイトルだった。レコーディングもすべて終わってから『メロディはいいが、詩がちょっと古いんだよね』と言ったら、作詞の先生にひどく怒られた」
「でも、作詞の先生が、怒りながらも『(歌詞を)変えればいいんだろう!』と言って、返ってきた歌詞が、東京オリンピックを意識した内容だった。曲はバイオリンだけの寂しい曲でテンポも遅かったが、歌詞が変わったことで、作曲の先生がテンポを上げた。明るい曲調に代わりヒットに結びついた」と明かした。
「東京の灯よいつまでも」の発売が1964年7月、3か月後のオリンピック開幕のころには、この歌が巷にあふれていたそうだ。当時まだ若かった新川が、ベテランの作家先生に物申したことで、時代とマッチしたヒット曲が生まれることになったということだ。
注
昭和の 歌謡界で 佐伯 と 言えば
作詞家は 佐伯孝夫
作曲家は 佐伯としを
星の流れに あん時ゃ どしゃ降り
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