「知床旅情」加藤登紀子が観光船遭難事故に悲痛の声…名曲誕生の背景に1969年の海難事故

 

「知床旅情」加藤登紀子が観光船遭難事故に悲痛の声…名曲誕生の背景に1969年の海難事故|日刊ゲンダイDIGITAL

「水温は2℃か3℃、ほんとにどんなに冷たかったでしょう」

 加藤登紀子(78)は知床での観光船遭難事故について「亡くなった方へご冥福を」とSNSで取り上げ、こんな思いをつづった。知床半島はオホーツク海の南端に突出し、厳しい自然環境で知られる。

■「事故の正しい解明が必要です」

「でも海から見る知床半島は本当に素晴らしくて、この観光プランが、この事故の後、中止されてしまうようなことにならないように、と願っています。そのためにも、事故の正しい解明が必要です。知床の皆さん、頑張って下さい。遠くから見守っています」

 加藤の歌う「知床旅情」は1970年に発売され、約140万枚もの大ヒットとなった名曲。今で言うご当地ソングで、知床の知名度を全国区に押し上げた。構成作家のチャッピー加藤氏が言う。

 

「もともとは、今は亡き森繁久弥さんが戸川幸夫さんの小説『オホーツク老人』に感銘を受け、知床を舞台にした映画『地の涯に生きるもの』(1960年公開)製作を決め、その撮影で当地ロケに参加した時に作詞、作曲したものでした。当時の知床周辺は、現在のように道路も整備されていなかったので、まさに“地の涯”とも言うべき秘境だったそうです」

 名曲誕生の背景には、こんな秘話も。

撮影の前年、天候急変によって漁船が羅臼沖で沈み、89人もの犠牲者が出る海難事故があったのです。その事故も、森繁さんが森繁プロダクションの第1作として、この映画をつくる大きな動機になったのだとか。実は映画には事故も織り込まれていて、森繁さん演じる老人は息子が事故の犠牲になり、泣き叫ぶシーンがあるのです」(チャッピー加藤氏)

 エキストラとして、当地の人たち200人ほども出演。中には本当の遭難者の遺族も多数いて、撮影が終わっても泣き声がやまなかったという。長期ロケだったこともあって、撮影隊も地元の人もいつしか家族同然に。やがてロケが終わり羅臼町を発つ際、森繁は滞在していた旅館の前に張り紙し、ギターを片手に語りだした。張りだした紙には「知床旅情」の原曲となる「さらばラウスよ」という曲の歌詞。

「森繁さんは町民たちに口伝えで一節ずつ歌唱指導し、最後に大合唱して別れたそうです。曲は『オホーツクの舟歌』というタイトルで映画主題歌となり、62年の紅白でも披露。『知床旅情』として広まっていきました。加藤登紀子さんは学生運動のころ、のちに夫となる藤本敏夫さんとの初デートでこの曲を耳にします。別れの際に、藤本さんが歌ってくれたのだとか。めぐりめぐって、歌い継がれているんですね」(チャッピー加藤氏)

 自然の雄大さと猛威の前に人間は無力である。

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