「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和2年(2020)9月23日(水曜日)
通巻第6649号
旧約聖書と日本の神話との類似性にスポット
前作は『ユダヤ人埴輪があった』。日本の神々と比較
田中英道『日本国史の源流──縄文精神とやまとごころ』(育鵬社)
「すべての学説は仮説である」(林房雄『神武天皇実在論』)。
本書は仮説が多いが、歴史学とはそもそもが仮説によって成立している学問である。歴史を装った政治宣伝文書は、都合の良い文献だけをつなぎ合わせ、偽書を成立させてきた。
しかし、根本的に不動のものがある。それは精神の源流がどこから来ているのか、日本人のおおらかな、寛容な精神の源流に溯る作業が重要なのである。本書は、その根源に挑んだ。
たとえば三内丸山縄文遺跡にある大建築は神社の原型ではないか、と田中氏は唱えるが、なるほど、大胆な考察で、唸った。
六本の柱からなるミステリアスな建築は、時計、暦測定、あるいは天文台、いや物見櫓などと解釈されてきたが、これが神社の原型と唱えた人はいなかったように思う。
さて、評者(宮崎)、本書を通読して、膝を叩いたのは、旧約聖書と日本神話の類似性の 箇所だった。
過日、評者は神武天皇陵から三輪山、畝傍を歴て吉野へ旅をしたのだが、樫原の宿になぜか、聖書が置いてある。神道の根源的な地域のビジネスホテルの部屋になぜ、聖書が?
それはともかく、久しぶりに聖書を開いた。
当該訳本はマタイ伝からの編集だが、アダムとイブ、誰それから誰それへと系譜が述べられる。古事記、日本書紀をみるとイザナキ・イザナミから天照大神、スサノオ、ニニギノミコト、カムヤマトイワレビコ(神武天皇)への皇統譜が述べられている。書き出しが類似していることを改めて考えた。
だから「稗田阿礼」は渡来した西洋人ではなかったのか、と田中史学の真骨頂が飛び出すのだ。評者は、稗田阿礼は職名と考えてきたので(池澤夏樹らも同意見だが)。
田中英道氏はかく言われる。
「稗田阿礼は決して縄文からの家系の人ではなく、渡来した西洋人であったと考えられます。(旧約聖書の)オルフェウスの物語を、神話の口踊者である稗田阿礼は、その西洋人としての記憶のなかに遠く伝わる夫婦の悲しみの物語として、イザナギ、イザナミのなかで語らざるを得なかったのでしょう」(136~137p)
さらに類似性をあげて、田中氏は続ける。
「ギリシア神話との相似性は、アマテラスとスサノオの関係にも見られます。この二神は、兄・妹のイザナギ、イザナミと異なって姉弟の関係にあります。この関係は、ギリシア神話ではゼウスの姉の太陽の女神デメテールと弟の海神ポセイドンの関係に似ています」。
ただしどろどろとした夫婦、近親相姦はあっても、母子の相関関係は日本神話には見られない。アダムとイブはエデンの園を追われる。イザナギとイザナミの初期の子らは蛭子だった。それは女性から誘ったからで、男から誘うとちゃんとした子が生まれる。黄泉の国へのぼった妻を夫が追うが、そこで見たものは?
酷似する物語は旧約聖書でも語られ、アルフェオスとエウルデユケーでも妻が毒蛇に噛まれて死んでしまうが地上に帰る直前に夫は妻を振り返る。
共通するのは「妻の死を冥界から連れ戻そうとして失敗するという愛の悲しみ」であり、「死というものの真実を見てはいけない」という掟を夫が破るという愚かさにある、という。
大いに愉しみながら読んだ。